とめどもないことをつらつらと

日々の雑感などを書いて行こうと思います。
草稿に近く、人に読まれる事を前提としていません。
引用OKす。

日米中における技術革新の版図と歴史・社会集合的心理の許容

2024-04-30 18:58:24 | 海外・国内政治情報等
今回の話はややこしいのだが、それでも書く。

人間は技術と言うものをどう捉え、そしてそれに核心に迫るまでの研究で革新できるのか。

結論は出ていないが、ある程度までの整理はできる。それを書いていこう。

1.
知識の発明とその純然たる人間に内在する推進力、意気と意義についてはアメリカがダントツである。
ヨーロッパやその他の地域を除くが、日米欧の並びで言えばその次に日本が来る。
ドンケツは中国である。人口比当たりの論文数が〜と言う話であれば、私はそこからかの悪名高き論文工場の件を差し引いて考えていると考えて頂きたい。

これは白人社会がアジアを(中国は勿論、日本においても)見下している要因の一つになっているが、純然たる研究、純粋に学究を志した営為と根性においてそれらを為していないがために、世界をリードする研究を発表できないという認識になっている。

これもまた、中国は紙、火薬、羅針盤を開発したぞ、と言う話もあるだろうが、確かにポテンシャルはあるものの、それを活かしきれている社会をも包含して「アジアって微妙っすね」「結局人類社会をリードするような先進的な研究を発表できず猿真似ばっかじゃないすか」と言う評価になっているように思われる。

日本は日本で部品・材料系がかなり強いが、やはり知識における革命性を有していない。
これはよく言われることだが、日本人はゼロから1のものを発見することができない。代わりに見つけられた知体系の1をよく学習してそれを1.1やら2.6やらにブラッシュアップすることに特化できている民族とも言える。
だがこれはゼロを発見していなかったらそもそもそれができていないでしょう? と言う意味合いにおいて、これは絶大なる尊敬の対象としては受け容れられていない。

アメリカの観点から見れば、それができているアメリカであるからこそ、技術的な正義が存在し、そしてそれを行える社会があり、その社会を構築したアメリカ人自身が優秀であるという強力な自負への回帰へとつながっている。

この意味で中国はあらゆる意味で失敗している。
私が見る限りにおいて、海外に出ている中国人はおしなべて皆揃って優秀だった。
人材の点では問題ないどころか一廉の人物に収まる人間が多い。
が、一方において、世界を変革せしめた技術や思想や発明がない。
これは社会体制がそうさせていると言う側面の他、「あるものはパクってくればいい」と言う人間性におけるメンタリティーも尊敬を得られない理由の一つになっている。
本来ならば、そこにある技術的な革新の知識について、謙虚に学んで誰もが為し得なかった独自の未知の領域の発明をすべきである。が、現在の中国にはそれがない。皆「あるものはパクってくればいい」と思ってしまっているため。これは一つの正解ではあるものの、世界的な尊敬を受けられない一つの要因になっている。
これは「公開情報を粛々と学び」「誰もがなしえなかった未知の領域の発明をして」「世界の幸せに貢献をする」と言うのであれば、この威厳は獲得できる。

2.
で、こうしたアメリカ型の学究的な精神面での姿勢や、あるいはそれを支援する社会体制と言うものが現在社会において至上のものとなっているが、それが正しいかどうかはまだ分からない。

大分大の院卒の密教を研究していたと言う方に話を聞いたが、密教は弟子の方が十分に得られた知識を(倫理面で)正しく使用できる、と判断されなければ教えられることはないということだった。
今で言う大学入試かもしれないが、知識の出し入れや基礎的応用の知的営為と言うよりは、人間性として正しいかどうかが問われる感じであった。

この意味で、学究発明における社会的伝承とその応用の制限とコントロールをしていない完全自由(に近い)アメリカはその最先端に行けるポテンシャルはあるし、そこに向かうための滑走路さえ用意しているが、到達後の社会の破壊を是認しつつ、かつその被害を見てみぬ振りをするという非人間性も考慮しなければいけない。

簡単に例を出せば、核の問題がそれに当たる。
核の発見と応用は、社会に劇的変化をもたらした。一方においては爆発的利益を生み出したが、もう一方においては壊滅的被害を出し、各国の軍事的ドクトリンの変更は余儀なくされ、従いパラダイムシフトも生み出した。
今では「既存の核保有国においては、その拡散を承認しない」と言う体制を言い訳として使用しているだろうが、そもそも核の発見がなければこのことには至らなかったのである。

20年くらい前だとアメリカ国内で暗号の研究が国家内部的に制限された。このため、研究者の中では「自由に研究をさせろ」と反対運動が起きたとのことである。

知識とその応用の制限で言えば日本もまあまあに厳しいものがある。
今では自由な風土があるものの、「将来的に迷惑がかかりそうな研究はやめろ」的な圧がかかる。
浮田幸吉がハンググライダーのようなものを作って滑空したら、成功したか失敗したかは分からないが、お上の
お達しとしては、社会を騒乱させたカドにおいて岡山所払い(追放)の処分としている。

これの最たる極北が、ロシア政教分離派とアメリカのアーミッシュであり、前者は神は感覚すべきものであるのに、客観的観測の知識の修得はいけない、という認識、後者は伝統を守るが故に近代社会を拒絶しているという体である。
(確か大学教育を禁止していると言う派もあったと記憶しているが忘れた)。

逆に知識習得を大事にしていた中世イスラムはイスラム黄金期を迎えた。


私なりの結論を言えば、今はアメリカ式を踏襲し、研究は自由にさせるべき、但しその後の応用的制御は行政の制限が必要、という感じになるだろう。
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