とめどもないことをつらつらと

日々の雑感などを書いて行こうと思います。
草稿に近く、人に読まれる事を前提としていません。
引用OKす。

スペインの外国侵略史

2017-03-20 21:13:54 | 海外・国内政治情報等
キング・オブ・クズ。

ちなみにキング・オブ・クズ中のクズと言えばご存知○○○○。

侵略する性質を西側諸国は備え、そしてそれを反省していない。

サピエンス全史 下 ユヴァル・ノア・ハラリ P109

 一五一七年ごろ、カリブ諸島のスペイン人入植者は、メキシコ本土の中央のどこかにある強力な帝国についての漠然とした噂を耳にし始めた。わずか四年後、アステカ帝国の首都は焼き尽くされて荒廃し、この帝国は過去のもとになり、エルナン・コルテスがメキシコにできたスペイン傘下の広大な新帝国を統治していた。
 スペイン人たちは現状に満足することなく、一休みさえしなかった。すぐに四方八方へと向かい、探検と征服を始めた。アステカ族やトルテカ族、マヤ族といった中央アメリカのそれまでの支配者は、二〇〇〇年にわたって、南アメリカが存在することをほとんど知らず、したがって、それを支配しようとすることもなかった。ところが、スペインによるメキシコ征服からわずか一〇年余りのうちに、フランシスコ・ピサロは南アメリカでインカ帝国を発見し、一五三二年にそれを征服した。
 アステカ族やインカ族は、周りの世界にもう少し興味を示していたら、そして、自分たちの周りの国々にスペイン人が何をしたかと知っていたら、スペイン人が征服しようとする際にもっと激しく、もっとうまく抵抗できていたかもしれない。コロンブスによる最初のアメリカへの旅(一四九二年)からコルテスによるメキシコ上陸(一五一九年)までの間に、スペイン人はカリブ諸島のほとんどを征服し、一連の新しい植民地を築いた。支配下に置かれた先住民にとって、このような植民地はこの世の地獄だった。強欲で悪徳な入植者によって圧政を敷かれたのだ。入植者たちは先住民を奴隷にし、鉱山やプランテーションで働かせ、少しでも抵抗する者は誰でも殺した。先住民のほとんどはすぐに亡くなった。過酷な労働条件、または征服者の船でアメリカへ運ばれた病原菌が原因だった。二〇年のうちに、カリブ海の先住民のほぼ全員が命を落とした。スペイン人入植者はその穴を埋めるために、アフリカの奴隷を輸入し始めた。
 大虐殺はまさにアステカ帝国の玄関先で起こったのだが、コルテスがこの東海岸に上陸したとき、アステカ族はそれについて何も知らなかった。スペイン人の到来は、宇宙からのエイリアンの侵略に等しかった。アステカ族は自分たちが全世界を知っていて、そのほとんどを支配していると確信していた。自分たちの領土の外にスペイン人などというものが存在するとは想像できなかった。現在のベラクルスに当たる、陽光降り注ぐ海岸にコルテスらが上陸したとき、アステカ族はまったく知らない人々に初めて出会ったのだった。
 アステカ族はどう対処していいかわからなかった。この見知らぬ人々は何者なのか判断しかねた。自分たちの知っている人の誰とも違い、この「エイリアン」たちは白い肌を持っていた。顔にたくさん毛が生えていた。太陽のような色の髪をした者もいた。彼らはひどい臭いがした(衛生状態は、スペイン人よりも先住民のほうが大幅に整っていた。初めてスペイン人がメキシコに着いたとき、香炉を持った先住民が、スペイン人がどこへ行くにも同行するように命じられた。スペイン人はそれを、自らが神のように尊ばれている証だと思っていた。だが先住民の資料から、アステカ族が新来者の臭いを耐え難く思っていたことがわかる)。
「エイリアン」の物質文化はいっそう不可解だった。彼らは巨大な船に乗ってきた。アステカ族が想像したこともなかった類のものだ。見たことがなかったのは言うまでもない。彼らは非常に大きな恐ろしい動物の背中に乗り、風のように疾駆した。艶やかな金属の棒から稲妻と雷鳴を生み出せた。光り輝く長い剣や、何をもっても突き通せない鎧を持っており、先住民の木剣や燧石の穂のついた槍では歯が立たなかった。
 彼らは神に違いないと考えたアステカ族の人々もいた。悪魔か死人の霊か強力な魔術師だという者もいた。アステカ族は持てる力を結集してスペイン人を一掃しようとせずに、協議し、ぐずぐずと長い時間をかけて交渉した。急ぐ理由は思いつかなかった。何と言っても、コルテスが率いていたスペイン人は高々五五〇人だ。何百万もの民を擁する帝国に対して五五〇人に何ができるというのか? 
 コルテスのほうもアステカ族のことは知らなかったが、彼とその部下たちは敵よりも著しく有利だった。アステカ族には、このような奇妙な風采をして悪臭を放つ「エイリアン」の出現に備えるだけの経験がなかったが、一方のスペイン人は、世界は見知らぬ人々の国だらけであることがわかっていたし、よその土地に侵入してまったく未知の状況に対処することにかけては誰よりも経験豊かだった。近代ヨーロッパの征服者にとっては、同時代のヨーロッパの科学者にとってと同様、未知の世界に飛び込むことは胸躍ることだったのだ。
 だからコルテスは、一五一九年七月、あの光あふれる海岸沖に錨を降ろしたとき、何の躊躇もなく行動を起こした。まるでサイエンス・フィクションの世界で宇宙船から姿を現したエイリアンのように、コルテスは、畏れかしこまる先住民んい向かって次のように言い放った。「我々は平和をかき乱すつもりはない。あなたがたの王に会わせてほしい」。コルテスは自らを偉大なるスペイン王からの平和の使者であると説明し、アステカ族の支配者モンテスマ二世との外交的な会見を求めた(これは厚かましい嘘だった。コルテスが率いていたのは強欲な冒険家たちが寄り集まった私設の遠征隊だ。スペイン王の耳には、コルテスのこともアステカ族のこともいっさい入っていなかった)。コルテスは、アステカ族と敵対する地元の勢力から、案内人や食糧やいくらかの軍事的支援を得た。そしてアステカ帝国の首都であるテノチティトランという大都市へ向かった。
 アステカ族は、「エイリアン」の一行がはるばる首都まで進むのを許し、さらにはその指導者を低調に迎えて皇帝モンテスマに引き合わせた。会見の最中、コルテスが合図すると、鋼で武装したスペイン人たちはモンテスマの護衛たちを斬り殺した(護衛は木製の棍棒と石の刃しか持っていなかった)。こうして、もてなされた客がもてなした主人を捕虜にした。
 今やコルテスは非常に微妙な立場に立たされた。皇帝を捕らえはしたものの、何万にも及ぶ怒り狂った敵の兵士や何百万もの敵意に満ちた民に取り囲まれており、周辺に広がる大陸については、何も知らないのに等しかった。意のままになるのはほんの数百人のスペイン人だけで、スペインの援軍を青某にも、頼れる場所と言えば、最寄のキューバでさえ一五〇〇キロメートル以上も離れていた。
 コルテスは、モンテスマを捕虜として宮殿にとどめ、あたかも皇帝は相変わらず自由の身で君臨しているかのように、そして「スペインから来た大使」は客人にすぎないかのように見せかけた。アステカ帝国は極度に中央集権的な国家だったため、この前例のない事態のせいですっかり麻痺してしまった。モンテスマは自分が帝国を支配しているかのように振る舞い続け、アステカのエリート層は彼に従い続けた。これはすなわち、コルテスの命令に従ったということだd。この状況は数カ月続いた。その間、コルテスはモンテスマとその従者たちを尋問し、通訳たちには現地のさまざまな言葉を身につけさせた。そしてスペイン人による小規模な単形態をあらゆる方面に送り込んでは、アステカ帝国や、その支配下にある多種多様な部族や民族、都市について、詳しく知るようになった。
 やがてアステカのエリート層はとうとうコルテスとモンテスマに背き、新しい皇帝を選ぶとテノチティトランからスペイン人を追い出した。だがこのときすでに、帝国の体制は亀裂だらけになっていた。コルテスは、手に入れておいた知識を利用して、亀裂をさらに広げ、内側から帝国を引き裂いた。帝国に支配されている諸民族の多くを説得して味方につけ、アステカのエリート層と敵対させたのだ。これらの諸民族は大変な見込み違いをした。彼らはアステカ族を忌み嫌っている一方で、スペインのことやカリブ海での大量虐殺のことは何も知らなかった。スペイン人の手を借りればアステカの軛から脱することができるだろうと思い込み、よもやスペイン人がアステカの後釜に座ろうとは考えもしなかった。コルテスとほんの数百人の手下がどんな問題を引き起こしても、わけなく抑え込めるものとばかり思っていたのだ。アステカに反旗を翻した諸民族は、何万もの地元の軍をコルテスに提供し、コルテスはその支援を受けてテノチティトランを包囲し、陥落させた。
 ここにきて、スペイン人の兵士や入植者が続々とメキシコに到着し始めた。キューバから来た者も、スペインからはるばるやって来た者もいた。いったい何が起こっているのか、地元の諸民族が気づいたときには手遅れだった。コルテスがベラクルスに上陸してから一〇〇年のうちに、アメリカ大陸の先住民の人口はおよそ一割にまで減少した。主に、侵入者がアメリカ大陸に持ち込んだ未知の病気のせいだった。生き延びた人々は、いつの間にか、貪欲で人種差別的な体制の支配下に置かれていた。それはアステカ帝国のものよりも格段に過酷な支配体制だった。
 コルテスがメキシコに上陸して一〇年後、ピサロがインカ帝国の海岸に到着した。このときに帯同した兵士の数はコルテスが連れて来た人数よりもはるかに少なかった。わずか一六八人だったのだ! とはいえピサロは、過去の侵略で得られた知識や経験のすべてから恩恵を受けられた。それとは対照的に、インカ帝国の人々はアステカ族に降りかかった悲運などまったく知らなかった。ピサロはコルテスのやり口をそっくり真似た。自分はスペイン王が派遣した平和の使節だと宣言し、インカの支配者アタワルパを外交の会見に招いて誘拐した。そして地元の協力者の助けを借り、無力化した帝国の征服を進めた。インカ帝国の支配下にある人たちがメキシコの先住民のたどった運命を知っていたら、侵略者に自らの命運を託すことはなかっただろう。だが、彼らはそれを知らなかったのだ。
(中略)
 二〇世紀になってようやく、非ヨーロッパ文化にも真にグローバルな視点が取り入れられた。これがヨーロッパ諸国の覇権を崩壊させる決定的な要因の一つとなった。たとえば、アルジェリアの独立戦争(一九五四~六二年)で、アルジェリア人ゲリラ兵は、数の上でも技術的・経済的にも圧倒的優位に立っていたフランス軍を打ち破った。アルジェリア人が勝利を収めたのは、反植民地主義の世界的ネットワークに支えられていたからであり、また、世界のマスメディアはもとより、フランス自体の世論を、首尾良く自らの主張に味方につけられたからだ。北ヴェトナムという小さな国がアメリカという巨人を敗北に追い込んだのも、同様の戦略による結果だ。こうしたゲリラ兵力は、限られた地域での戦いが世界的大儀になれば、超大国でさえ負けうることを立証した。モンテスマ二世がスペインの世論を巧みに操り、スペインの競争相手であるポルトガル、フランス、オスマン帝国のいずれかから援助を受けていたならどうなっていたと考えてみると興味深い。


・ちなみに「この帝国は過去のもとになり」は「この帝国は過去のものとなり」の誤植ではないかと思われます。
・「エイリアン」は、侵略者と宇宙人と外国人をかけているものと思われる。
・オランダのインドネシア植民地からの撤退も、オランダ国内の人権派の反対思想が強くなったことも一因であるという論もどこかで見た。
・アメリカがベトナムから撤退したのは、米国国内での反戦運動が高まって、意識と認識が政治決定に繋がったからである。
・大国が小国を攻める時に、撤退をしたり、あるいは侵略を諦めるパターンは、大国の国内がゴタゴタしている時である。
 南北戦争の時にはアメリカは外に出ようとしなかったし、日露戦争でロシアがごたごたしていたのは明石工作があったからである。
 またロシアと中国は草の根レベルで嫌い合っているが、露中が仮にぶつかった場合、対外的に他の手を伸ばすことができなくなるというのも必定であろう。
 尖閣問題があった時、中国が引いた時期があった。ウイグル暴動である。一箇所国内で問題が発生すれば、他に手を出しづらくなる。

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