とめどもないことをつらつらと

日々の雑感などを書いて行こうと思います。
草稿に近く、人に読まれる事を前提としていません。
引用OKす。

国家アイデンティティーの国民イデオロギー所与の一端メモ。

2016-10-23 22:00:32 | 哲学・社会
世界史としての日本史 半藤 一利 出口 治明 P49

江戸時代の人には、「日本人」という意識はおそらくなかったと思います。

半藤 そうでしょうね。「俺は薩摩だ」「長州だ」といった藩が、故郷を意味する”くに”であり、日本という統一された国を意識することはなかったでしょう。


その通り、人間の認識はそれ主体のみで区別擁護は作られず、共同体の概念も作られない。
飽くまで「外部にある異世界」と「同等のもの」との比較によって初めて認識が作られる。

たとえば「イヌイット」は北極付近に住む先住民族を指すが、彼らの言葉で、イヌイットとはヒトのことである。
「アイヌ」はアイヌ語で、これもヒトを指す。
つまり個別呼称として、「私は地球人です」とわざわざ地球で言わないのと同じである。

サハラ砂漠も、元々比較対象を主軸とする個別呼称がなく、サハラとは現地語の意味で砂漠のことである。
襟裳岬のエリモはアイヌ語で「岬」の意味、フラダンスのフラはハワイ語でダンスの意味、
サルサソースのサルサはスペイン語でソースの意味、
クーポン券のクーポンは券の意味、
シーア派のシーアは派閥の意味、
スキー板のスキーは薄板の意味、
トリコロールカラーのトリコロールは三色の意味、
ガンジス川、ナイル川、インダス川、メコン川、アムール川のそれぞれの固有名詞は元々川という意味


人間の認識はそれ主体のみで区別擁護は作られず、共同体の概念も作られない。
飽くまで「外部にある異世界」と「同等のもの」との比較によって初めて認識が作られ、言葉が作られる。
国家も同様であろう。外からの強烈な侵略対象を位置づけることによって、自己が何であるかを既定し、そして行動方針を決定する。
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