とめどもないことをつらつらと

日々の雑感などを書いて行こうと思います。
草稿に近く、人に読まれる事を前提としていません。
引用OKす。

言語と国家

2014-03-09 16:47:28 | 哲学・社会
言語が国家を規定する。そうした言説を読んだ。これは本当だろうか。

例えば国家の範囲となる領土、領海が何によって決まるかというと、普通に考えられるのは、国家同士が戦争をして、その後の講和条約に、お互いの国境ラインはココ、というのを決めることなのだが、「言語が国家を規定する」という仮定を正とするならば、例えば日本人がベトナム語を全員しゃべりだしたら日本はベトナムになる、日本人全員がハングルを喋りだしたら日本は韓国になるということなのである。これを拡大解釈すれば、韓国が行う日本におけるハングル普及工作が進み、完全に日本がハングルを話すようになった場合、日本の韓国化が進められ、日本の決定権が韓国に移ることになる。
本当にそうなのだろうか。

いろいろと仮説は多いが、ここは私の一人放談である為、今日はこれを一つずつ検証していきたい。
それでは始める。

~・~・~・~・~・~・~・~・~

かつて、プロイセン人がプロイセン語を話さなくなり、ドイツ語を話すようになった時、あっと言う間にドイツに同化したという。つまり話し言葉の使用範囲によって国家社会が規定され、その使用範囲で国家の領土が決定したということになる。

この考証について、書籍からの引用を下記に行おう。

自壊する帝国 佐藤優 P248より
「サーシャ、僕はサーシャの言うことは違うと思う。ロシア人はラトビアの地に後から来たわけだ。それならば先住民であるラトビア人に敬意を払ってラトビア語を勉強すればいい。
 僕はチェコや東欧の少数民族についてはそれなりの知識があるつもりだ。十九世紀半ばにチェコ人はドイツ人に同化しそうだった。しかし、チェコ語を常用する運動が広範囲に展開したから民族独立を果たすことができた。リトアニアの隣に住んでいたプロイセン人は十八世紀にプロイセン語を忘れたら急速にドイツ人に同化されてしまった。東ドイツのソルブ人だって、ソルブ語を忘れたらドイツ人に同化してしまうと思う。」

この後も対話相手のサーシャの反論が続くが、この続きは同書を読んで頂きたい。

さて、上記は言語が民族を規定し、その民族が独立して国家を為すという理論とその歴史的経緯であるが、若干の補足を加えたい。

歴史の素養が無かった私は、上記を見て、「チェコは言語を維持したから国家として独立したんだ、プロイセンは言語を維持できなかったからドイツに飲み込まれたんだ。」と単純に思ってしまったのだが、現在この件について資料を整理中である。

上記の論では「プロイセン人は十八世紀にプロイセン語を忘れたら」とある。
資料としてWikipediaを使用するがご容赦頂きたい。

プロシア語 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%97%E3%83%AD%E3%82%B7%E3%82%A2%E8%AA%9E
プロシア語(プロシアご)またはプルーセン語(プルーセンご)とは、かつて東プロイセン(現在のポーランド北東部とロシアカリーニングラード州)の先住民族プロシア人(プルーセン人)が話していた言語で、バルト語派に属する死語である。13世紀に始まるドイツ人の植民以降に勢力を失い、18世紀初めには使われなくなった。


であるが、その後の18世紀のドイツ統一の主役がプロイセンであり、プロイセン語が消失した時点ではプロイセンは健在している。プロイセン語を消失しながらそこまでプロイセンが健在だったとするならば、この時のプロイセンはプロイセン語を話さず、既にドイツ語を話していたことになる。

~・~・~・~・~・~・~・~・~
歴史をおおまかに書くと次のようになる。
19世紀のドイツ連邦の統一において、ドイツという地域は単一の国家ではなく、諸侯が治める国家群であった。しかし、「ドイツ地域」という概念は国家でないながらも存在していた。それをまとめたのがプロイセンである。

この基礎について、「近代ドイツの歴史」が詳しい。長くなるが、引用する。

近代ドイツの歴史―18世紀から現代まで
若尾 祐司 (著), 井上 茂子 (著) ¥ 3,360 ←高い

P87 より

第四章 ドイツ統一への道

1 ドイツ統一問題の構造

「ドイツ」の領域

 一八四八年革命の課題は「統一と自由」だった。革命は最終的に失敗し、「統一と自由」は実現されないまま、課題は次の時代に引き継がれることになった。「自由」については後で問題にすることにして、まずは、「ドイツ統一」について考えてみよう。
 「ドイツ統一」といえば、いまでは多くの人が、東西ドイツの統合のことを思うかもしれない。その「二〇世紀のドイツ統一」と、ここで問題にする「一九世紀のドイツ統一」とでは「ドイツ」の範囲が大きく異なっている。そもそも「ドイツ」はどこまでなのだろうか。ドイツ人は中世末から「東方植民」ということばで知られるように、東に積極的に植民を行ない、東欧各地やバルト海沿岸地域などに広く住んでいた。ドイツ人と他民族が混住している地域も多く、他民族の地域に「飛び地」でドイツ人の住んでいるところも広大な範囲にひろがっていた。だから、ドイツ人の住むところすべてを含むような統一は到底不可能だったし、「主にドイツ人の住むところ」の統一も内部での対立があってむずかしかった。そして日本のような島国とは異なり、大陸の中央部にあり、四方を多くの国で囲まれることになる「ドイツ」と他国の境界をどう決定するかは難問で、民族紛争の火種が多数あった。
 現在のドイツ国家のもとになった「ドイツ人の歌」は、ハイドン作曲の当時のオーストリア国歌の替え歌であり、一八四一年に詩人ホフマン・フォン・ファラスレーベンによって作られ、「一九世紀のドイツ統一」運動のなかで広く歌われた。その一番は、次のように始まる。

 ドイツ、すべてに冠たるドイツ
 世界に冠たるドイツ
 護るためならいつでも
 兄弟のように一つになろう、
 マース側からメーメル川まで
 エッチュ川からベルト海峡まで
 ドイツ、すべてに冠たるドイツ
 世界に冠たるドイツ

 ここに歌われている「ドイツ」、その東西南北は、東はメーメル川(現在、ロシア領)、西はマース川(現在、オランダ、ベルギー領)、南はエッチュ川(現在はイタリア領)、来たはベルト海峡(現在、デンマーク領)である。これらの地名は、現在ではすべてドイツ内ではなく、その外、外国の領土にある。「一九世紀のドイツ統一」問題を考える場合、現在あの「ドイツ」領域よりはるかに広い、このような領域についての考え方が「一九世紀のドイツ統一」の前提とされていたことをまず確認すべきであろう。


P102 より
 普墺戦争後、ビスマルクによって導かれたプロイセンは、ドイツ連邦を再編、北ドイツ連邦を成立させ、さらにフランスとの普仏戦争に南ドイツ諸国をまきこみ、オーストリア以外のドイツ諸国をまとめて、ここにドイツ帝国が成立する。帝国成立祝典は戦争中に敵国のヴェルサイユ宮殿、鏡の間で行われた。しかしそこには国民代表の姿はなかった。それは諸侯の同盟、君主連合としての帝国だった。
 その領域を確認しておこう。ドイツ関税同盟領域(A)構想に近いかたちでの一〇〇〇万人のオーストリア・ドイツ人を排除した「小ドイツ主義による統一」は、領土でも、人口でも三分の二をプロイセンが領有するという、かなりの「大プロイセン」主義、「プロイセンによるドイツの征服」だった。一方、東の東プロイセン、ボーゼンなどにはポーランド人、来たのシュレースヴィヒにはデンマーク人、さらに西に普仏戦争後獲得したエルザス=ロートリンゲン(アルザス・ロレーヌ)にはフランス人、と非ドイツ人が多く住む地域をかなり含むことになった。


よって、プロイセンは上記の私の感想とは逆に、ドイツを主導して平定したということになる。

~・~・~・~・~・~・~・~・~
まとめると、プロイセン人がドイツの入植を受け、プロイセン語を忘れた時、プロイセンという国とプロイセン人は残ったが、プロイセンという土地のお国柄に意識は消え、ドイツの一領邦という意識が残った。

ということになるだろうか。

~・~・~・~・~・~・~・~・~
文化とは思考が行動様式や造形様式に現れることを指す。
この文化単位で民族が形成され、民族が独立することによって国家が誕生する。
つまりは言語は国家を規定するとも言える。

~・~・~・~・~・~・~・~・~

国境を規定するのは様々な要素がある。
一つは戦争による規定。これはWW2でのサンフランシスコ講和条約などの資料が膨大にあるので説明は割愛する。
一つは自然的国境である。通行不可能地域が国境の役割を果たしている。南米のチリがどうして警備もなくあの細長い国境を保てているかというと、東側のアンデス山脈という通行不可能地域が自然国境の役割を果たしているからである。
もう一つが取引的な領土割譲、分譲、あるいは領有確保である。

近代ドイツの歴史―18世紀から現代まで P14
http://www.amazon.co.jp/dp/4623043592
(プロイセンのフリードリヒ二世は)一七六三年のフベルトゥスブルグの和約で、マリア・テレージアの長男ヨーゼフの公邸占拠を支持することと引き替えにシュレージエンの領有を改めて確保した(七年戦争)。


ちなみにこの本は3200円+税とクッソ高かったのですが何とかならんのか。




コメント (7)    この記事についてブログを書く
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 被害者と正義とイスラエルと歴史 | トップ | キルラキル 予想とまとめ »
最新の画像もっと見る

7 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
ネイティブ・プロイセン (ハインケルフリーク)
2017-06-08 09:43:51
はじめまして。一寸気になったので。

 我々が良く知るプロイセンというのはドイツ騎士団が征服しドイツからの移民が作った植民地国家です。
 元からそこに住んでいたプルッセン人は隷属され度々弾圧され民族言語も失いドイツ人の中に消えてしまったのですが、どれほどのネイティブ・プロイセン人が生き延びたとお考えですか?
 自分にはとても彼らがドイツ統一を主導できたとは思えないのですが。
Unknown (booter)
2017-06-09 01:17:58
はじめまして。こんばんは。

すみません、私は歴史に無知なもので、本件には深く踏み込めていないのが現状です。

一旦整理しますので回答をするまでお時間をください。
Unknown (booter)
2017-06-10 01:33:12
お待たせしました。回答します。
ご質問を細かく捉えますと、「上述の論が「プルッセン;プルーセン(ネイティブ・プロイセン人)が形を変えて生き延び、ドイツ統一を主導した」と言う主張であるのに対し、それには歴史事実を複合的に検証すると無理が出てくる点があるだろう」というご指摘で宜しいでしょうか。

まず最初にお詫びしなければならないのが、私は言語と国家にクローズアップして書いたことと、そもそも歴史素養が無いことに伴い、このご質問に真正面から答えられる学力がありません。回答らしきものは記載するのですが、議論の材料として箸にも棒にもかからないだろうと言うことについてだけ、先にお詫び致します。

さて、上述の私の論の前提が「プルッセン;プルーセン(ネイティブ・プロイセン人)が形を変えて生き延び、ドイツ統一を主導した」と言うのは私は全く意識しておりませんでした。正直なところを申し上げると、ドイツ騎士団の侵略・征服、そして殖民、あるいはドイツ騎士団そのものの存在ですら把握しておりませんでした。
この記事を乱暴に要約すると、事実や詳述においては、その歴史の検証や、あるいは考慮をせず、単純に殖民範囲と使用言語文化の人口比のみを材料として、社会政治集団たる民族の帰属意識を変化させる、というような粗略な論であったのです。
これは私の記事中の欠落した重要な観点であり、正直に私の今の心情を申告してしまえば、ハインケルフリークさんの指摘は実に鋭く、痛い指摘です。
それくらい当然なんじゃないの? と言う話かもしれないのですが、それをできていない低レベルの話が上記であることを規定せねばなりません。

ですが、今改めて調べてみると、おおよその点において誤解と説明不足、あるいは歴史的に見ると更に正しい点がこうではないか、という私なりの視座が獲得・形成できてきましたので、それを書いてみます。
Unknown (booter)
2017-06-10 01:33:28
そもそも民族というのはどういうことかと言うと、「言語・人種・文化・歴史的運命を共有し、同族意識によって結ばれた人々の集団(デジタル大辞泉)」となるのですが、これを私なりに咀嚼して言いますと、「文化、思想、宗教、血縁などによって結合した地域政治集団」と言うことになります。
つまりは、そうした心情的結合要素によって、集団がある程度の社会様式を持ち、そこに帰属意識を持ちながら一定の行動をするとなると、それを民族と呼称して良いのではないか、と言うことです。

さて、ご質問の「彼ら(生き延びたネイティブ・プロイセン人)がドイツ統一を主導できたとは思えない」と言うことですが、これは裏を返すと、「イコール、ドイツ統一を主導できたプロイセン人にネイティブ・プロイセン人は殲滅されて生き残っていなかった」という解釈が裏に隠れていると私は考えます。

これは私は支配層に関しては正解だと思います。侵略して武力支配したドイツ騎士団に隷従せず戦った武力層は殲滅を受けたのでしょう。
ただ、それでは地域社会全体における全層、すなわち武力があった支配層は殲滅か、あるいはそれに近い形になったにせよ、被支配層はどうなっていたのかと言うと、彼らは殲滅はせず、生き残り、そのまま新しい体制に新しい形(ドイツの文化)で支配されたのではないか、それがだんだんと取り込まれて、地域民族単位がプルーセンの帰属意識からドイツの帰属意識へ変化したのではないかと、今現在は、そうした作業仮説を立てて考えていますがあっていますでしょうか? 

ドイツ騎士団 【グレゴリウス講座】
http://www.gregorius.jp/presentation/page_80.html

ドイツ騎士団は、1283年にプロイセン全土を平定するまで、50年以上を費やして徐々に征服地を広げ、原住民に異教の信仰を放棄させました。さらに、征服した土地にドイツ人の農民が次々と入植し、ドイツ式の農村が建設されました。

この圧力の前に先住プロイセン人はドイツ人やポーランド人に同化し、民族語である古プロイセン語も消滅に向かいます。


農奴制全盛の12世紀ヨーロッパ封建社会では、農産物や労役などを地代で徴収しなければ地域社会と政治集団は、農奴無しには回らないシステムでありました。
かつ、キリスト教信者の数量的獲得と言うお題目と共に、武力集団の制圧と支配のもと、収奪と搾取を肯定していたのが当時の状況であったと私は想定しています。

この中、それでは被支配層のネイティブ・プロイセン人は文化的な減衰と、ドイツ文化への乗り換えを行って、帰属意識がドイツへと以降し、血縁集団としてのネイティブ・プロイセンは生き延びたが、しかし文化的帰属意識がドイツになったという見方ができるように思います。

まとめますと、ドイツ統一を主導した層にネイティブ・プロイセン人はいなかったが、被支配層にはネイティブ・プロイセン人がいた。
ただし、そのネイティブ・プロイセン人達は、ドイツ騎士団に地域社会が征服される過程において、プロイセン語ではなくドイツ語を使い始め、徐々に帰属意識が「私はドイツ民族である」というように変化していった。
ということになります。

Reネイティブプロイセン (ハインケルフリーク)
2017-06-19 23:04:55
お返事を拝見しました。

民族としての先住民プロイセン人の最後については自分の認識も貴殿の今回の説明と同じくするものです。

被支配民族と言えど自らの民族言語を失うと言う事は、度重なる弾圧と増え続ける入植者とでドイツ人との(あるいはポーランド人との)人口比が圧倒的になった結果ではないかと思うのです。

その後ドイツ騎士団はルター派に改宗し、ブランデンブルクと合邦したプロイセン王国では宗教や民族に寛容であったのは皮肉ですね。

きちんとした対応をして下さりありがとうございました。
それでは失礼します。
Unknown (booter)
2022-06-17 19:36:47
地図があったので引用。

https://livedoor.blogimg.jp/worldfusigi/imgs/f/8/f860c2e3.jpg
Unknown (booter)
2022-07-28 20:25:54
「ドイツ人は、(支配対象者を)皆殺しにしないと気がすまない民族」と言う過激な説:

亜留間次郎 のアリエナイ配信
youtu.be/IH0RKJ3Uj80?t=3683

コメントを投稿

哲学・社会」カテゴリの最新記事