とめどもないことをつらつらと

日々の雑感などを書いて行こうと思います。
草稿に近く、人に読まれる事を前提としていません。
引用OKす。

無駄な時間は無駄なのか? タイパについて

2023-08-05 21:45:11 | 雑感
と言うことで、無駄な時間は無駄なのか? タイパについて考えたい。

タイパとはタイムパフォーマンスの略で、同じアイスを買おうとして1時間並ぶのと、1分で買えるのでは、後者がタイパが良いと言える。

こうして、娯楽やエンターテイメントに困らない世界になって、タイパを重視する若者が増えたのだという。

「無駄な時間は無駄なのか? 」と言う問いにはあまり意味がない。
と言うのも人間は死ねば誰しもが白い骨になって意味がないものになるのだ。
そしてそれが今80億人分もの白い骨が120年後に出るもんだから、その一つ一つには意味がないとも言える。

ただ、その白い骨となる予定の1つである自分にとっては、それが全てであるので、白い骨になるまでの、そこで得られた経験や残したものというものが、本当に意味のあるものであると言えよう。

それではタイパの良いものをとことん選択すれば自分がより良い人間になるだろうか? 
より良い人生を送れるだろうか? 
他人よりより効率的な人生を送れるようになれるか? 

答えはイエスでノーだ。それぞれのシチュエーションで自分が判断をくだせれば良い。
今の若い人は何でもかんでもオンラインで済ませようとする。
住宅の内覧、面接、面談、会議、映画試写会・・・
いやこれは想像を言っているのではなく、実際にもうあるサービスであり、社会動態だ。

ただ、私は「両方使う」と言うのをお勧めしたい。
実際にそこへ行ってみる、実際に会ってみると言うのは全然違う。
実態はどういうところなのか、実際の人間はどういう人なのかは会ってみないと分からないのである。
それで、「パッと見るだけでいいや」だとか「情報を得るだけでいいや」と言う場合にはネットを使えば良い。
逆に実態として内蔵をすり合わせるくらいに深い関係としてやっていきたいと思うのであれば絶対に直接会っておいた方がいい。
あるいはそこの会社でずっと働いていたいだとか、引越し先はここで骨を埋めるとかの場合もそうである。

基本的に社会はコストが低減する方向で動いてきた。
音楽のムーブメントで考えれば分かりやすい。

大昔は、音楽とは、演奏会で聞くものであり、自宅などでは聞けなかった。
特定の場所のワンタイミングで、ちょっとしたお金を払って一度きりに聴くものであった。
ラジオが発明され、自宅で媒体を持たなくてもいいようになった(ただ曲は選べない)。
レコードが発明され、自宅で何回でも聞けるようになった。
テープが発明され、録音できるようになった(ただ頭出しはできない)。
CDが発明され、自分が聞きたい曲の頭出しが一瞬でできるようになった。
MDが発明され、自分が聞きたい曲の録音が出来、頭出しが一瞬でできるようになった。
MP3が登場し、媒体の場所をとらなくなった。
配信サービスが登場し、購入のために店へ移動しなくてよくなった(時間と体力の節減)。

これらは一体何が変化したのかというと、社会が持っていた潜在的コストの削減である。

アニメで言えば、映画館でしか見られなかったものを、村の金持ちの家で見るものになり、それが自宅でワンチャンスで見られるものになり(録画ができない)、ビデオの登場で録画ができるようになり(それでもテレビ放送がなければダメ)、DVDの登場で高画質・頭出しができるようになり、配信で自由に自分の見たいものが見られ、定額サービスかつ購入のための移動がなくて済むようになり、かつ2倍速で見られるようになった。

今後は10倍速+字幕+横に字幕タイプのスクロール(どういう字幕が出るか)のサービスがあればありがたいがどうだろうかとは思う(文字を読むのはまあ大丈夫なので)。
実験してみたが、2倍速は聞き取れても4倍速はもう聞き取れなかった。
だが字幕があれば問題ない。
あと10倍速であれば、アニメが1シーズン50話構成の場合、1話が22分だとすると、全体を2時間弱で見られる計算になる。これはいい。
ラスカルとハイジと若草物語と赤毛のアンとトムソーヤを見るにはこれしかないんだよおおお! あとあれだ、名探偵ホームズか。
あれか? 宮崎駿担当回だけ見ればいいのか? それがタイパいいのか? 
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「サポート」の訳について

2023-08-05 21:13:43 | 文章・日本語・言葉
英語文章から日本語文章に和訳するに当たって、たまに違和感のあるものがある。

Mastering Bitcoin アンドレアス・M・アントノプロス P197

coinbase dataフィールドの最後の部分(2f503253482f)は/PS2H/のASCIIコードで、このブロックをマイニングしたマイニングビットコインノードが、BIP0016で定義されているpay-to-script-hash(P2SH)をサポートしていることを示しています。


と言うことでこれは日本語文章における「サポート」のニュアンスで使用されているのではない。

英語原文では恐らくこのままsupportとなっていたと思うが、この文意におけるSupportは、日本語文章における「その運動主体における運動の援助について、周辺環境の整備や周辺の運動支援を行う」(=その運動の成功可否を見守るだけで、結果が出た時に、結果が出た集団にはやや関わりはするが、完全なる互恵関係や依存関係、強力な関係になったりはしない)と言う意味ではない。

これは選挙運動などでの「支持」、あるいは投票前の意思表明を示している。
あのアメリカの大統領選挙での後ろにいる支持基盤の人たちを想像してもらえれば話が早い。
あの人たちは”Support Our Leader !” と唱えていて、あれは我らがリーダーを支持せよ! と言うことを言っているのである。

ここでは、BIP0016とBIP0017が戦っているが、このブロック形成でのトランザクションでのgenaration transaction でのcoinbase dataにおいて、BIP0016とBIP0017の方式のどちらを使いますか? (=支持しますか? )と言うところで、BIP0016を支持します(=supportします)と言う話であって、助力のための周辺環境を整備する、と言う意味合いではない。投票の前の意思表明をここでしている、と言う文章になる。
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ワンパンマンのキングの扱いについて

2023-08-05 13:08:18 | 雑感
少し哲学チックに考えてみる。
漫画・ワンパンマンのキングの扱いについてである。

ワンパンマンにおいては、そのキングのラッキーボーイぶりから、あれやこれやとそれを元にいじったりするのが恒例だが、しかし私独自の考えを書いておきたい。

恐らくキングの弱さと言うのは、世の中の隠れた真理であり、それを明かさないように宇宙のような絶対的潮流が守っているのだ。

弱いキング→真理
キングが弱いのではないか? と思ってその真理の到達にチャレンジしたが運命によって防がれた→アトミック侍
あっさり真理に到達した→サイタマ
真理を疑っている→ジェノス
通常営業どおり真理に到達できず、潮流にはばまれている→タツマキ以下
自分から真理を暴露しようとしたが潮流に阻まれ、それが叶わなかった→キング

見えないものは存在する。そしてそれに手は届くだろう。

Do the impossible
See the invisible
Raw! raw!
Fight the power!

Touch the untoucheable
Break the unbreakable
Raw! raw!
Fight the power!
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ウォーレン・バフェット伝記 スノーボール色々

2023-08-05 00:30:49 | 雑感
ウォーレン・バフェット伝記 スノーボールから。

スノーボール アリス・シュローダー 改訂版 上
P459

 証券取引所のトレーダーの大半は、マンガーのことを黙殺したが、そのなかでJ・パトリック・ゲリンだけが目を留めた。ゲリンは、ホイラーのパートナーシップのトレーディング部門を買収していた。ゲリンは身を立てるためにがむしゃらに這いまわっている荒くれで、セールスマンとしてIBMで働き、それから、二度ほど小さな証券会社で株式ブローカーの仕事をした。その証券会社は三流株を売っていた。それは株式ブローカーの手法のなかでもバフェットが嫌っていた部類に属するものだったし、ゲリンも、〝薬剤師〟の生活から抜け出せたらせいせいすると思っていた。
 マンガーと知り合ったころには、瘦身で端正な顔立ちのゲリンは、糊のきいたシャツの袖を、刺青が見えないように日に焼けた前腕まできちんと下ろすようになっていた。トレーダーとしてホイラー・マンガーの仕事をしているうちに、たちまちマンガーが金儲けに敏いことに気づいた、とゲリンはいう。そして自前の投資パートナーシップを立ちあげるために、マンガーとバフェットを手本にしはじめた。

刺青入りのトレーダー・ゲリン。

P460

マンガーは、シケモクを買い、裁定取引をし、小さな会社を買収することもあった──大部分がバフェットとおなじやり方のようでいて、バフェットとは若干異なる方向へ進んでいた。たびたび、アンダーソンに、「とにかく優れた会社が好きだ」と話した。コンタクトレンズ液のメーカーであるアラーガンなどの会社について、詳細な情報を書いてまとめるよう、アンダーソンに指示した。アンダーソンは意図を読み違え、貸借対照表を重視したグレアム式のレポートを書いた。マンガーはそのことで叱りつけた。マンガーが知りたかったのは、経営の力強さ、ブランドの永続性、どこが競合するかなど、アラーガンの無形資産の特質だった。

解説は先日記載した通り。

続き:

マンガーは、キャタピラー社のトラクターの販売代理店をクライアントにしたことがあった。そのビジネスでは、成長するためにトラクターを仕入れる必要があり、金がどんどん飲み込まれていった。マンガーは、持続的な投資を必要とせず、使うよりも多くの金を吐き出す会社を所有したいと思った。では、そういう会社が持ちうる特質とはどういうものか? なにが、そうした会社にとって、永続的な競争力となるのか? マンガーはよく人に、「これまで話を聞いたなかで最良の会社はどこか?」とたずねた。しかし、マンガーはあまり辛抱強いほうではなく、相手に自分の考えを読んでもらいたがる傾向があった。


続き。マンガーのディールの重要な要素。

 マンガーの性急さは、彼の頭から生まれる理論より際立っていた。一刻も早く押しも押されもせぬ金持ちになりたいと思っていた。マンガーとロイ・トールズは、どちらのポートフォリオが一年に一〇〇パーセント以上増えるかという賭けをしていた。また、バフェットが一度も巨額の借り入れをしたことがないのに対し、マンガーは大儲けをするためなら借金をしてもいいと考えていた。通いつめていたユニオン・バンク・オブ・カリフォルニアで、あるとき、「三〇〇万ドル借りたい」といった。「ここに署名してください」と銀行側は応じた。マンガーは途方もなく大きな取引に乗り出した。一九ドル前後で売られていて、カナダ政府に二二ドル強で買い取られる予定のブリティッシュ・コロンビア電力の株があった。マンガーは、パートナーシップの全資産のみならず、自分の有り金すべてと、借りられるだけ借りた金すべてを、このたった一種類の株の裁定取引に注ぎ込んだ──失敗する可能性がほとんどない取引だというだけで。売買は滞りなく進み、このディールでたっぷりと儲けることができた。


P462

バフェットは自身の理念を説明する際、「人に便乗するべし」といった。しかし、友人が自分に便乗するのは気に入らず、便乗されると倫理に反する行為と見なした。


同然P462

 マンガーが思うに、グレアムの欠点は、未来が「好機に富んでいるのではなく危険に満ちている」と考えるところだった。マンガーは、腰をかがめてシケモクを拾って最後のひと吸いをする単純作業に潜むグレアムの暗い悲観論から、バフェットを引き離そうとした。

 バフェットは、アメリカ企業の長期的な見通しについては、上昇機運にあると楽観的に見ていた。だからこそ、父親とグレアムの助言に反して、株式市場に投資することができたのだ。ただ、投資手法ではいまだに、清算価値にもとづいて企業を観察するというグレアムの不吉きわまりない習慣を踏襲していた。マンガーは、バフェットに安全マージンの定義を見直し、数値データ以外も考慮に入れるよう仕向けようとした。バフェットは問題の解決を理論的に考えるとき、しばしば破滅的な予想に陥りがちだが、マンガーはそれを改めさせようとした。父親のハワードは、つねにあたかも一刻の猶予もないとでもいうように、ドルが無価値になる日に備えていた。それに比べれば、バフェットははるかに現実的だった。そうはいっても、確率的に長い目で見たときに、悪化する可能性のあるものはいずれ悪化するという結論に達する傾向があった(また、それがしばしば的中した)。こうした考え方は諸刃の剣だった。おかげでバフェットは、最後の審判の日を想定に入れた先見の明のある経営者になった。複雑にもつれた問題をときほぐすのに、ときにはかなりおおっぴらに、この剣を振るうことが増えてゆく。
 その数年前のことだが、店頭銘柄専門のトレーディング会社ニューヨーク・ハンゼアティックに勤務するバフェットの友人ハーブ・ウォルフが、金儲けの妨げとなっているバフェットのもうひとつの性格上の弱点を矯正するのに一役買った。公益事業を請け負うアメリカン・ウォーター・ワークスに投資していたウォルフは、一九五〇年代はじめに《コマーシャル&ファイナンシャル・クロニクル》に載ったIDSコーポレーションについての記事を読んで、バフェットの存在を知った。

「ハーブ・ウォルフは、ニュージャージー州ハッケンサックでだれかが入浴した場合、それがアメリカン・ウォーター・ワークスの収益にあたえる影響をはじき出すことができたんだ。あるとき、ハーブは私にこういった。〝ウォーレン、きみは黄金でできた干草の山から黄金の針を見つけ出そうとしているけど、針にこだわってどうするというんだ〟。私は、見つかりにくいものほど好きだった。宝探しのように考えていたんだね。ハーブは、そんな考え方から抜け出させてくれた」
 一九六二年には、バフェットは宝探しのような考え方を捨てていた。しかし、ウォルフとおなじように細部への情熱は持ちつづけていた。それに、補佐役をもうひとり雇わなければならないほど、バフェットの事業は拡大していた。その補佐役に対しては、自分が給料を支払わなくてもすむようにうまく手配した。どんな場合でもバフェットは間接費をきりつめようとした。その手段として、必要に応じていつでも支払いを打ち切れる形をとるか、あるいは、できれば──今回のように──実質的にゼロになるような形で経費をまかなった。
 バフェットの友人で、ヘンリー・ブラントというウッド・ストラザーズ&ウィンスロップの株式ブローカーがいた。BPLのための調査をパートタイムで行なっていた。バフェットは、ウッド・ストラザーズ経由の株式売買の手数料を、ブラントの働きに対する報酬に充てていた。いずれにせよだれかしらに売買手数料を支払うのだから、ブラントには実質的に無料で調査してもらっていたわけだ。
 そのブラントが、ほぼ一〇〇パーセントの時間をバフェットの仕事に充てるようになった。バフェットは、その報酬として、ブラントにはパートナーシップの手数料を免除し、歩合を取らずにパートナーシップ外の取引にも参加させた。ふたりには、企業の細部をとことん知ろうとする共通点があった。ブラントはつっこんだ質問をすることも怖れなかった。バフェットとは違い、必要とあれば嫌われることもためらわなかった。

初期のバフェットはこの通り慎重派だった。



相手にしつこくつきまとっては質問して、細かすぎるほどの調査を大量にこなした。だが、ブラントは黄金の針を見つけるまでやめることができなかった。そこで、バフェットは、宝探しと化すことがないよう、方針を決め、舵を取った。ブラントが提出するメモや報告書の山は、三〇センチほどの厚みがあった。
 ブラントの仕事のひとつは、投資ライターのフィル・フィッシャーがいうところの〝ゴシップ〟を聞き込むことだった。フィッシャーは、売上を持続的に伸ばす力や、優れた経営陣、研究開発といった質的要素が、投資の確実な条件となると主張している。マンガーが偉大な会社に求めているのとおなじ特質である。こういった要素が株の長期的な潜在力の評価において有用だというフィッシャーの概念が、しだいにバフェットの思考に入り込み、やがて、根を下ろすことになる。
 バフェットは、マンガーが知ったら喜ぶに違いないと、ある構想についてブラントにつっこんだ調査をやらせていた。この一件はその後、バフェットのキャリアにおける輝かしい瞬間のひとつとなる。このビジネスチャンスをもたらしたのは、商品取引の大実業家で、大豆油の世界最大の業者だったアントニー・〝ティノ〟・デアンジェリスの謀略である。一九五〇年代後半、デアンジェリスは大豆油で儲ける最高の方法を見つけたと確信した。

 デアンジェリスは大豆油を、五一の銀行から金を借りるときの担保にしていた。タンクの大豆油の量はだれにもわからないのだから、数字をちょっと水増しすれば借り入れを増やせることに、彼は気づいた。
 タンクはニュージャージー州ベイヨーンの倉庫にあり、倉庫の管理は巨大なアメリカン・エキスプレス帝国のほんの片隅にあるような小さな子会社が行なっていた。倉荷証券、すなわち、タンクにどれだけの大豆油があり、どれだけの量を売買できるかを証明する書類を、この子会社が発行していた。アメリカン・エキスプレスが、その倉荷証券に裏書きされている油の在庫の保証人だった。
 タンクはすべてパイプとバルブでつながれているという仕組みだった。デアンジェリスは、タンクからタンクへと大豆油を流し込めばいいと考えた。そうすれば、一ガロンの大豆油を担保に、本来の二倍、三倍、四倍の融資を受けることができる。やがて、倉荷証券を担保として融資をとりつけるのに使われる大豆油のじっさいの量は、どんどん
減っていった。
 そのうちにデアンジェリスは、大豆油がほとんどいらない妙案を思いついた。検査担当者をごまかせる量だけあればいい。そんなわけで、タンクは海水で満たされ、検査担当者が計量棒を挿し入れるのに使う小さい管のなかにだけ大豆油がはいっていた。検査担当者たちは違いに気づかず、管以外からサンプルを採取して検査しようとも思わなかった。
 一九六三年九月、デアンジェリスは、さらに大儲けできる機会がめぐってきたと見た。ソ連でヒマワリが不作になり、油の原料を大豆に替えざるをえないだろうという風説がひろまったのだ。デアンジェリスは大豆油を買い占め、ソ連に法外に高い値段で買わせようと思い立った。彼は先物取引を始めた。先物契約では、大豆油の価格が現在の価格より高くなると見込んで、将来の所定の日を決済日として大豆油を買うことができる。大豆の先物には特に購入の上限はなく、いくらでも買うことができた。それどころか、地球上に存在するより多くの大豆油を手中に収めることも可能で、デアンジェリスはそれを実行した。その際、ブローカーから多額の借り入れをした。
 ところが、突如としてアメリカ政府がソ連の買い付けを阻む可能性が出てきた。大豆油の価格は暴落した。なんの値打ちもなくなった倉荷証券を手にしたデアンジェリスの債権者たちは、人を雇って調査させ、倉荷証券の振出人であるアメリカン・エキスプレスを相手取って一億五〇〇〇万ドルないし一億七五〇〇万ドルの損失を取り戻そうとした。やがてなんの価値もない海水だけが詰まったタンクをいくつも抱えていることが判明して、アメリカン・エキスプレスは株価急落に見舞われた。事件の内容が新聞に掲載されはじめた。
 その二日後、一九六三年一一月二二日金曜日、ジョン・F・ケネディ大統領がダラスで自動車パレードの最中に暗殺された。
 ケネディが撃たれたという知らせを聞いたとき、バフェットは、キューイット・プラザ一階のカフェテリアで昼食をとっていた。階上の事務所に戻ると、株が売りに売られてどんどん下落しているのを目にした。つづいて、大恐慌以来はじめて立会時間の最中に取引が緊急停止になった。
 全国民が茫然として、激しい悲しみと怒りと恥辱に打ちひしがれた。バフェットは、ほかのすべての国民と同様に、家に帰り、週末のあいだずっと、流れるテレビの報道を見ていた。いかにもバフェットらしく感情の高ぶりを一切見せず、むしろ超然としていた。テレビというメディアを通して、衝撃と悲しみが世界をひとつにした。しばらくのあいだ、アメリカは暗殺以外のことを考えられなかった。
 新聞各社は、劇的な見出しが優先される数日間は、アメリカン・エキスプレスのスキャンダルを紙面の片隅に追いやった。しかし、バフェットは目を離さずにいた。アメリカン・エキスプレスの株価は、市場が閉じた金曜日の衝撃からいっこうに回復せず、下り坂を滑り落ちていた。投資家たちは、アメリカ屈指の権威ある金融機関の株から群れをなして逃げようとしていた。アメリカン・エキスプレスが生き残れるかどうかさえ疑わしかった。
 しかしアメリカン・エキスプレスは、金融業界で台頭しつつある会社だった。同社のトラベラーズ・チェック五億ドル相当が世界中で流通していた。五年前にはじまったクレジットカード事業は大成功を収めた。同社の価値は、そのブランド名にあった。アメリカン・エキスプレスは信用を売っていたのだ。その名声についた汚れは、もはや同社の名前が信用されなくなるほど顧客の意識に染み込んでしまったのではないか?
 バフェットは、アメリカン・エキスプレスのカードとトラベラーズ・チェックを取り扱っているオマハのレストランや店を調査することにした。調査はヘンリー・ブラントに任せた。
 ブラントは、アメリカン・エキスプレスが競合他社と比較して優位にあるかどうかを判定するため、トラベラーズ・チェックの利用者、銀行の窓口係、レストラン、クレジットカードの所有者に探りを入れた。例のごとく、厚さ三〇センチほどの書類の山ができあがった。それを整理・分類してバフェットが下した判断は、顧客はアメリカン・エキスプレスというブランドの利用に問題を感じていないというものだった。ウォール街の汚れは、小都市の中産階級までひろがってはいない。 バフェットが数カ月かけてアメリカン・エキスプレスの調査を行なっているあいだに、父親の健康状態が急変した。数回の手術にもかかわらず、ハワードの癌は全身にひろがっていた。一九六四年はじめ、バフェットは実質的に一家の長としての役割を引き継いだ。間に合ううちに父に話して、遺言書から自分の名前を消し、姉ドリスと妹バーティの信託財産の持ち分が増えるようにした。相続金の一八万ドルは、バフェットとスージーの純資産から見ればごくわずかだったから、自力でたやすく稼げるのにそれを受け取るのは理に適わないと思ったからだ。それから、子供たちのために別個に信託をつくり、ドルの価値がなくなったら一家の避難先にしようと考えていた例の農場がハワードの孫たちに受け継がれるようにした。バフェットがこれら信託の受託者になる予定だった。ハワードの遺言書には、平凡な木の棺と金のかからない葬儀という記述があったが、家族が説得してその部分を削除させた。バフェットがなによりも躊躇したのは、父親に自分はもう心からの共和党員ではないと打ち明けることだった。理由は公民権だと述べている。しかし、驚くべきことに、ハワードの存命中は、共和党員としての有権者登録を変更する気にはならなかった。「そんなふうに父に恥をかかせようとは思わなかった。というより、父が生きているあいだにそんなことをしたら、私もひどくやりづらくなっただろう。表向きは、父と対立する政治的立場をとるつもりはなかった。父の友人たちに、ウォーレンもひどい仕打ちをすると思われてしまう。だから私にはどうしてもできなかった」
 家ではだれも迫りくるハワードの死を話題にしなかったが、スージーはリーラにかわってハワードの世話のおおかたを引き受けていた。子供たちを病院の窓の外に立たせ、〝おじいちゃん大好き〟というカードを掲げさせた。スージーはさらに、いかなる状況でも病気と正面から向き合うのが苦手な夫を、毎日病院に見舞いにいかせるようにした。
 父親の容態が悪化するあいだも、バフェットはアメリカン・エキスプレスに注意を集中していた。バフェットが蓄えたパートナーシップの運用資産は、過去最高額になっていた。一九六四年の年初のBPLの資本は、一七五〇万ドル弱だった。自分の資金も爆発的に増え、バフェットは一八〇万ドルの資産を所有していた。ハワードが亡くなる前の数週間、バフェットはアメリカン・エキスプレスに投資しはじめ、作業を首尾よく進めて、できるだけ手早く取引した。株価を押しあげない範囲で、多くの株を買い集めた。ほんの五年前は、ナショナル・アメリカンを買う数万ドルを工面するために、あちこちから金をかき集めなければならなかった。これほど莫大な額をこれほどすばやく動かすのは、生まれてはじめてだった。
 ハワードの末期の数日は、スージーがひとりで何時間もぶっとおしで付き添うことが多かった。スージーには痛みがわかっていたし、そのことを気遣っていた。スージーは死を怖れず、周囲の人間がつぎつぎと参ってしまっても、ハワードを看病する気力を失わなかった。打ちのめされていたリーラからすべてを任された。死というものに間近に接して、自分と他人のあいだの境界が消えてなくなるのを感じた。「多くの人は避けようとするけれど、私にとっては自然なことだった」とスージーは語る。「大好きな人と身体的にも感情的にもあんなにぴったりと寄り添えたのは、すばらしい経験だった。相手が欲しているものが、私にははっきりとわかったんですもの。頭の向きを変えてほしいとか、小さい氷がほしいとか思っていることがわかるの。わかるの。感じるのよ。私は義父のことが大好きだった。義父がくれた贈り物は、そういう経験をさせて、それをどう感じるかを私がみずから知り、悟るようにしてくれたことなの」
 リトル・スーズ、ハウイー、ピーターが、ある晩、キッチンテーブルを囲んで座っていたとき、それまで見たこともないほど沈んだ表情をした父親が部屋にはいってきた。「おばあちゃんの家に行ってくる」とバフェットはいった。「どうして? 病院には行かないの?」と子供たちはたずねた。「今日おじいちゃんが亡くなった」とバフェットはいい、それ以上一言もいわずに裏口から出ていった。
 妻スージーが一家を代表して葬儀の手配をし、その間、バフェットは呆然と押し黙ったまま家でじっとしていた。リーラはひどく取り乱していたが、天国で夫とふたたびいっしょになれることに望みを託していた。スージーはバフェットに父親の死に対する感情を吐き出させようとしたが、バフェットは文字どおり考えることができずにいた。思いつくかぎりのほかの物事でやり過ごそうとしていた。しまいには、バフェットの根幹をなす金銭的保守主義が顔を出し、スージーが業者の口車に乗せられてハワードの棺にお金をかけすぎたと文句をいった。
 五〇〇人の人たちが父親の死を悼んだ葬儀のあいだじゅう、バフェットは口をきかなかった。ハワード・バフェットの政治観は生きているあいだはさまざまな議論を呼んだが、人々は最後には敬意を表しにやってきた。その後数日、バフェットは家から出なかった。よからぬ考えを払おうとするかのように、テレビで歴史上注目すべき公民権法が議会で討論されるのを眺めた。ふたたび事務所に通うようになると、猛烈な勢いでアメリカン・エキスプレスの株を買いつづけた。ハワードの死から二カ月たった一九六四年の六月末には、同社の株に投じた資金は三〇〇万ドル近くに達し、パートナーシップにおける過去最大の投資となった。バフェットは見た目には悲しんでいるようすをまったく見せなかったが、やがてデスクの向かい側の壁に父親の大きな肖像写真を掛けた。そして、葬儀から数週間たったころ、頭の横に禿がふたつできた。精神的打撃で髪の毛が抜け落ちたのだ。



P476

第27章  愚挙
      ──一九六四年~一九六六年
      オマハとマサチューセッツ州ニューベッドフォード
 父の死の六週間後、バフェットは思いもよらない行動に出た。もはや金だけの問題ではなかった。アメリカン・エキスプレスは大豆油のスキャンダルで間違ったことをしたのだから、償いをすべきだと考えた。アメリカン・エキスプレスは、道義的な責任を感じていると述べ、銀行の要求に応じて六〇〇〇万ドルの和解金を支払うことを申し出ていた。ところが一部の株主が、会社は金を支払わず法廷で争うべきだと主張し、告訴していた。バフェットは、経営陣が選んだ和解案を擁護するために、自費で証言することを申し出た。
 しかし、アメリカン・エキスプレスは、模範になるために金を払おうとしているのではなかった。株価に悪影響を及ぼす裁判を避けたいだけだった。アメリカン・エキスプレスの顧客もまったく気にしていなかった。そもそも、大豆油のスキャンダルなど顧客はたいして憶えていなかった。
 バフェットは、同社が銀行に六〇〇〇万ドルを支払うほうが、「子会社の不始末に責任をとらない場合よりもはるかに大きな価値がある」と書いている。また、六〇〇〇万ドルの支出は、長い目で見れば、「郵送中に紛失した」配当小切手のように些細なものだと形容した。
 バフェットが、郵送中に紛失した六〇〇〇万ドル分の配当小切手を磊落に些事だと斥けたことを知ったら、かつて焼却炉に配当小切手をほうり込み、回収したもののその出来事を夫に打ち明ける勇気が湧かなかったスージーは、肝をつぶしたかもしれない。それに、なぜバフェットは、アメリカン・エキスプレスが「ふつうの営利企業よりもはるかに財務面で誠実かつ廉直で責任感が強い」ことに関心を持つようになったのだろう? 正直で信用できるという世評が、会社として「きわめて大きな価値」になるという概念は、どこから生まれたのだろう? なぜ、証言しようと思ったのだろう? バフェットはもともと父親と同様に正直であろうと努めてはいたが、いまや信条の問題について唯我独尊に説教するハワードの性向を受け継いだようにも思える。
 バフェットはつねに、投資した会社の経営陣に影響をあたえようとしていた。しかし、その会社を、献金皿をまわしながら説教する教会に変えようとしたことはなかった。
 倫理面で廉直であることには投資価値があるというバフェットの意見を裏付けるかのように、アメリカン・エキスプレスは和解金を支払い、乗り越えるべき試練を乗り越え、いっとき一株三五ドルを下回った株価は上昇して四九ドルを超えた。一九六四年一一月には、バフェットのパートナーシップは、アメリカン・エキスプレス株を四三〇万ドル以上保有していた。ほかにも、テキサス・ガルフ・プロデューシングに四六〇万ドル、ピュア・オイルに三五〇万ドルを大きく投資していた。この三社がポートフォリオの半分以上を占めた。一九六五年には、アメリカン・エキスプレスだけでパートナーシップのポートフォリオのほぼ三分の一を占めるようになった。 集中的な賭けをすることを怖れないバフェットは、一九六六年になっても買いつづけ、ついに一三〇〇万ドルをアメリカン・エキスプレスに注ぎ込んだ。そして、パートナーに新しい〝基本原則〟を知らせ、資産の四〇パーセントを一種類の株に投じることもあると告げた。
 バフェットは、師であるベン・グレアムの世界観から遠く離れたところへ果敢に足を踏み入れていた。グレアムが提唱した冷徹な〝定量的〟手法は、馬の速さに目を向けるスピード予想屋の世界、純然たる統計分析にもとづいてシケモクを拾い集める人間の世界だった。朝に出勤して『ムーディーズ・マニュアル』やスタンダード&プアーズの週報をめくり、とぼしい数値データをもとに割安銘柄を探し、トゥイーディー・ブラウン&ナップのトム・ナップに電話して株を買わせ、市場がひけたら帰宅し、夜はぐっすり眠る。これはバフェットの好みの手法で、本人がいうように「明白な定量的判断に従ったほうが確実に金が稼げる」。しかし、この手法には、欠点がふたつあった。データから見た掘り出し物はゼロにひとしいほど減っていたし、シケモクは小さい会社であることが多いので、大金を投入するときには功を奏さなかった。
 そういった手法を引きつづき駆使しながらも、バフェットはアメリカン・エキスプレスプレスについては、のちに本人が〝実現可能性の高い予見〟と呼ぶ考えを採用したが、これはベン・グレアムの発想とはかけ離れている。アメリカン・エキスプレスの主な資産は顧客の信用だった。バフェットは、パートナーの資金──家族や友人の金──をチャーリー・マンガーが〝偉大な会社〟について語るときによく触れる競争力に賭けたのだ。この手法は、フィル・フィッシャー流のクラス予想屋のやり方で、定量分析ではなく定性分析で質を見る必要がある。
 のちにバフェットはパートナーへの手紙に書いている。「適正な会社(将来性があり、業界固有の強みを持ち、優れた経営陣がいる、など)」を買えば、「株価はおのずと上がります……そういうものこそ、キャッシュレジスターを景気よく鳴らすのです。とはいえ、正しい予見というものはめったにひらめかないし、そういう好機は稀にしか訪れません。いうまでもなく、定量的なやり方のときには予見する力は不要です──数字が野球のボールみたいに頭の上をどんどん飛び越し、ヒットにはなります。でも、しっかりと定性的な判断をする投資家のほうが、大きな儲けを出しやすいのです」。
 こういった定性的な見方を重視した新手法が功を奏し、一九六五年末、バフェットはパートナーに信じがたいほどの好成績を発表することができた。パートナーへの年次報告で、この莫大な利益を、ダウ平均を年一〇ポイント上回るという以前の予測と比較し、この輝かしい成績について、こう書いた。「筆者としてはむろんこのような間違いを犯しておおっぴらに恥をかくのはごめんこうむりたい。このようなことは十中八九、二度と起こらないでしょう」むろん皮肉をこめてそう表現したのだが、バフェットはパートナーの過大な期待に予防線を張ることを忘れなかった。すばらしい運用成績がつづくにつれて、パートナーへの手紙には、成功と失敗の判定に強くこだわる表現が見られるようになる。そのパターンに読み手が気づきはじめ、バフェットが自分たちをあやつろうとしていると考えたり、謙虚なふりをしていると非難したりする人間が現われた。バフェットの心に潜んでいる自信のなさなど、知る由もなかったからだ。

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