今朝の表題は、めちゃくちゃ、だけど。
そもそも、筋肉じゃないし、つまり、薫香と書けば、かっこい。
いや、かおりを聞く、だったか、香道ね。
鍛える、なんてのは、おこがましいんで、嗅覚を呼び覚ます。
とでも言えるか。
早い話が、珈琲豆を挽き、その香りを楽しむ、というだけのことなんだけど。
それ、毎朝、原産地の違う豆を楽しむと、表題のような。
よくありがちな、例えば、大腰筋を鍛える、なんてことにも似ているかな、と。
ただそれだけなんだけど。
いつだったか、新聞の健康欄に、足が早くなるマシンを開発した御仁の記事があって。
膝と同時に腰も出す、という動きをサポートするマシンのようで、インナーのマッスルを動かす。
というコンセプトらしい。
という記事に触発された表題でもあるんだけど。
日頃、うかうか過ごしていると使わずにほっとかれている機能に注目、とでも書けるか。
大腰筋も、使わずにいると、だんだん、収縮し、なんて言葉にピクピクというわけだ。
せっかくの機能だから、それこそ、神からの授かり物だとしたら、大事に使わせていただこう、というね。
黙っていると、声の大きな方へ傾斜しがちだし。
目とか耳とかに押されちゃうでしょ。
しかも、目とか耳ってのは、頭に近いから、頭優位な、理屈優位な。
なので、音楽なんてのは、おもしろい道具だろうな、と思う。
昨日アップしたOSHOの、聴く、ってのとほぼ、同じこと、だからね。
聴くだけが、そこにある、という状態、思考も入らず、何も入らず、と。
触覚もそうだし、味覚もそうだし、とつながる。
禅僧が食事を作るそのことが修行だし、食べる、そのことが修行、というね。
すると、外界で起こっていること、あるいは、もともとそこにあったものたちに。
出会う。
日々は豊穣へと様変わりする。
そんな仕組みだね、きっと、たぶん。
心してみれば、という例の、誰が言ったのか、僕は、「宮本武蔵」の吉川英治に教わったのだけれど。
万物、ものみな、わが師なり、という時の、心して、と書いちゃうんで、誤解が生じもする。
心、は、意志の力でなんとかする、できるものじゃなく、まんま、そこに置いとく。
そんな感じなんだろうけどね。
ところで、このところ、ネガティブであること、それを味わい尽くす、そんな能力がある。
なんて言い方にであい、英語で書くと、negative capabilityかな、ネガティブ・ケイパビリティ。
これについては、to be continuedということにしておいて、そうだ、志ん生がお亡くなりになったんだった。
もちろん、結城昌治さんの伝記のような小説の中でのことだけど。
娘さんに、医者から止められていた酒を、おい、酒が飲みたい、飲ませなけりゃ、死んだ後後悔するぞ。
と脅して、水差しに注いでもらって、その晩、そのまま、眠るように黄泉へ旅立った。
という臨終の顛末だった。
それにしても、凄まじい、芸というものへの、なんていうのか、生き様と落語が一体化した。
とでもいうのか。
耳に思考が入らない聴く、と、生きることと落語の間に、夾雑物が入らない、噺、と。
似ているかな。
ちょっと人工的だけど、瞑想にも通じるものもあり。
古来、高僧たちが、愚をめざしたのとも似て。
愚、とは、とやかく考えない、とでもいうか。
考えはあくまでも外側にあるもので、その人そのものとは違う、とかね。
こんな話、言い出せばきりがないくらい、言いたい放題になってくるけれど。
そんなことより大事なことは、今朝の骨ストレッチ、というわけで、さて、そろそろお時間となりました。
ってことだ。