まわりで起こっていること

since2004.12「糠漬け初心者」

走りが掃除になった昨日。

2020年12月31日 | Weblog

朝は、わがApple Watchによれば、にわか雨、で走りは断念。

のうちに、すこぶるつきの快晴、祓いの風のような強風だったけれど。

一度断念した後の立て直し、気分の揺り戻し、ってのは、なかなかに骨の折れるもので。

結果、表題のごとくで。

掃除の前、富士山駅伝を見入ってしまった次第。

タイムを眺め、お、俺の半分以下だ、なんてね。

早いものだ。

女子駅伝の前には、河岸の市にての買い物、マグロと蟹、お約束の、を。

そのついでに、ホームセンターにて、フォームローラーも。

円筒形のやつで、カラダの下に置き、筋膜リリースってわけだ。

これ、なかなか、いいかも、と感じている。

だいたい、10年前くらいからの流行だそうで、世の中にはいろんな方がいらっしゃるんだよね。

あるランナーは、ワインボトルで毎朝、ケアしてからの起床、なんて話もあったな。

書名も著者名も忘れてますが、ボストンマラソン24回走った、と言う医学博士。

彼が言うには、同じ姿勢、座った姿勢優位の文明では、そのことそのものがあんまり良くなくて、と。

とにかく、カラダを同じ姿勢にしておかないことだ、と言うわけだ。

たしかに、今では、圧倒的に、座った姿勢優位だな。

なので、昨日は、お掃除お掃除、ってわけでもないんだけど、しかし。

本年2月からの走りの効果覿面、動きが軽い軽い。

なんて晦日も過ぎ、本日は、大晦日。

快晴の中、後ほど、走りに行ってきます。

今年もこのブログへお越しいただき、ありがとうございました。

時にいただくリアルコメントに、書いててよかった、セブンイレブン、じゃないけど、喜びをいただき。

さて来年は、と言う言い方が、今回ほど、重い年はなく、ときばり過ぎる必要もないけれど。

いずれにしても、佳い歳をお迎えくださいませ、こころよりお祈り申し上げます。

 

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歳の押し迫った雨は珍しいな。

2020年12月30日 | Weblog
そこから展開するのは、今日の走り、だめか。

なんてことで。

たわいない、といえばたわいないんだよね。

平々凡々、か。

そんなことが、いのちにとって、とても大事なこと、に思えるのも。

昨日、午後、4時間のYoutubeセミナーに参加した余韻なのかもしれない。

このところ、お気にの、マドモアゼル・愛さんと藤原直哉さん、あと土橋さん。

占星術師と経済学者とお医者さんの御三方。

来年からはどんな年になるのか、と言うテーマで。

一言で言えば、いのち、大切ぞ、いのちには差がない。

外側のものに依拠するのではなく、いのちそのものをいただく。

なんてことかな。

ちょっと、まだ整理ができてないので、うまく書けないけれど。

もっとも、I know、の時代としたら、誰かが言ったことを間に受けるのではなく。

I が知ること、感じること、体感すること、なわけだ。

ところで、コロナ以降、新聞はよく読んでいたんだけど、ここへきて。

おいおい、編集が過ぎるぜ、とか、肝心なところはスルーかい?、とか。

そんな気分になっているので、ちょっと、距離を置くことにし始めた。

もちろん、多少の敬意は払い、見出しくらいは眺めることにしているんだけど。

今世界で起こっていることを、もちろん、すべてを我が物にすることは無理だし。

意味もないだろうけど、それにしても、ね、ってわけだ。

新聞に限らず、マスのメディアと謳われるものたちからの卒業、ってなもんだな。

メディアに切り取られた事件、事象を素材にしたストーリーの世界から。

ほんの少し、撤退、撤収。

昨日は、次男坊が餅をついた。

と言っても、古典的な、杵と臼を庭に置き、と言う絵柄ではなく、電化製品による。

なんだけど、お正月といえば、お餅、さらにはつきたての。

砂糖醤油、とか、きな粉、とか、あんこ、とか。

日本の風物詩、ってのを、味わった次第。

もういくつ寝るとお正月、ってなもんだ。

ことしは帰郷もママならず、なんて話題もあるけれど、そうなんだ、いつの頃からか。

僕はお正月はどこへも出かけない、と言うことになっている。

帰郷する面々からしたら、僕が故郷なんだ、と言う自覚、なんて書くと。

少々、気張っている、なんてことにもなるけれど。

故郷は、うさぎを追い、小鮒を釣った、山であり川であり、ではなく。

僕を含んだ空気、なんて気分になって久しいんだけど、ね。

最近では、そんな具合に帰郷する人たちもほぼいなくなり、なんで、宗旨替え。

ってのもありだけど、ある種の習慣です。

さて、走りがどうなるかが最大の関心事の晦日、いただいた時間を最大限利活用。

ってことにします。


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本を片付けた。

2020年12月29日 | Weblog

早い話が、棄てる、と言うことになるけど。

今だと、ブックオフがあるので、多少の救いにはなるね。

気分的に。

とはいえ、それなりに思いを込めた本を、一冊一冊手に取りつつの作業で。

思いの皮を剥がすような、そんな感じだからね。

時が、潜んでいるんだ。

その向こう側に、裏側に、あるいは、表紙そのものに。

失敗したり、関心の向きが遠くの彼方に行っちゃっていたり、のなか。

そうだ、今は過去ではない、なんて言い聞かせつつの二時間ばかりか、三時間か。

なので、今日は、ブックオフへ搬入。

なんて書き出そうとしていたら、いきなりやってきて運送屋さん。

なんとかのメーカーを言いつつのことだったんだけど、あまりの早さに、驚き。

彼の帰りがけ、少し話になって、運送屋さんの給料がいかに安いか云々、と。

これから、あそこへ行きここへいき、なんてことだったので、とにかく、がんばって。

いい年をお迎えください、とお帰りになった次第。

なにせ、6時前のことだから。

後ろ姿に祈ったよ、good job!、と。

どんな仕事だろうと、どんな給料が安かろうと、その時、その瞬間にやり遂げていることは。

素晴らしいことで、自分のいのちを注ぎ込み、最大限の力を発揮しているわけで。

世間やら社会やら道学者やらの話は聞く必要もないんだ、なんて気分もついでに投げかけておいた。

いずれにしても、来年からは、そんな気の置き方が大事になるんだろうから。

何度もくどいけど、i knowの時代だからさ。

知ってみたら、あらあら、そんなに簡単なことだったの、ってなもんだ。

そんなわけで、あの頃の「僕」をリフレッシュ?、シフティング?させむ、とブックオフへの道を辿るとするか。

 

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瞑想を一時間、した。

2020年12月28日 | Weblog

毎朝の瞑想は、30分。

なんだけど、今朝は、そう言うことで。

タイマーがApple Watchからの振動を腕に伝えてくれたはずなんだけど、それに気づかず。

早い話が、眠っていた、ってことなのか。

レアケースで、年間、365回やってるんだけど、1回はないな。

今までで2回か3回、ってところか。

夕べは、三島にての最後の呑み。

客先の御仁の、幼稚園からの付き合いのお寿司屋さんにて。

5時から7時、と言う短時間で、早い時間に終わりましょう、の約束で、だった。

帰宅途中に、メールが入り、心温まるいいお酒でした、と。

そんなこんなで今年も暮れていく。

今日は、わが社も掃除をした後、年越し蕎麦をいただき、御用納とあいなる次第。

しかし、二日連チャンの10キロ走で、節々が痛い。

この二日間は、足が重かったな。

そう、昨日もご紹介したサナート・クマラ。

もう一つの託宣が、竜巻の外へ出なさい、と言うもののようで。

多くの方が語っているように、来年の混乱の予感みたいなこと、かな。

そこへ巻き込まれないでね、くらいの話か。

まさに、i knowの面目躍如、能力発揮、ってのが、肝要だよ、ってわけだ。

付和雷同への戒め、とかね。

自分の幸せは自分で感じなさい、人様の言葉・仕草・物質によっての幸せでなくていいんだよ。

って感じか。

そもそも、幸せ、なんてのも、加山雄三の「君といつまでも」のセリフみたいに訪れるんでなく。

ぼくは幸せだ、なんていちいち自己評価しないのが幸せ、ってことで。

なんて書いてくるとキリがないので、本日のブログはこの辺で。

 

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母さんは生味噌をすり込み、

2020年12月27日 | Weblog

僕はといえば、熊の脂をすり込む、って算段だ。

幼い頃は、マンキン膏と言ったかな、黒いタールみたいなのが紙に染み込ませてあって。

火に炙って指に貼り付け、なんてこと、よくしたな。

祖母のおすえさんがやってくれたのだったか。

ところで、日本の母親、って原像と言うのか原風景が、僕なりのがあって。

東北地方、なんだな、冬の寒い時期に、川で洗い仕事をしている、ってやつ。

実際に見たことがあるわけではないけど、なぜか、それが残像としてあるんだ。

藍染なんかの洗いも、その昔は、川で、なんてのがあったんだろうな。

冷たい水に、お母さんはアカギレができ、で、表題、と言うストーリーだ。

生味噌といえば、大学へ入学したての頃に知り合った女子、そんなこと言ってなかったかな。

群馬弁で、って、そうだいね、とか、そうだんべ、とかの音調に乗せて。

生味噌じゃなく、蜂蜜だったか、忘れたな。

今朝も、熊の脂を大きな瓶から小分けをしたんだけど、木曽平沢のオタク、猟師の。

思い出し。

につれて、漁師繋がりで、古今亭志ん生の「鰍沢」の噺が聞こえてきそうな気もし、さらに。

前座の志ん生が楽屋で聴いた、三遊亭円朝の同じ噺、その時に彼には、鰍沢のなんていう川なのか。

その流れの音が聞こえてきた、なんて逸話も。

そうだ、この間、ひさびさにMOMOYOさんと言う方のYouTube、見たんだった。

サナート・クマラのチャネリングをした、なんてサムネに釣られてね。

すると、彼、つまり、サナート・クマラが言ったんだ。

来年に向けての心構えとして。

「自分の頭で考えて行動する」(自分の肌で感じてしっくりする方向へ)とね。

まんま、わが社の2番目の経営理念じゃないか、小さなガッツポーズ、ってなもんだ。

おたがいに協力し、自分の頭で考え、行動し、成長します、っての。

コロナが流行り出した頃、まさに、そんなメッセージを社員さんに発信したんだった。

とにかく、自分の頭で考え、ってのの実践形だ、と。

その結果、感染しようがPCR陽性になろうが自粛警察になろうが、そりゃ、おのおのがたのおんはからいなり。

って、親鸞の言葉みたいな気分で。

ってことになるな、今、振り返ってみると。

親鸞の、おんはからいなり、ってのは、とにかく、あんたがたの自由だ、自分で決めてくれ、ってことで。

彼の場合は、浄土真宗、と言う集団を作るとか作らないとか、そこじゃなく、皆さんのおんはからいだ。

と言うわけだ。

みんなおんなじだね、一緒にやろうね、ってのじゃなく、おのおのが。

自分の頭で考え、どこかから借りてきた言葉じゃなく、と。

なんてことにもつながっちゃう、上記、鞍馬山に降臨したらしい、サナート・クマラの言葉を。

歳暮に聞くことができた、と言う僥倖のお裾分け、まさにお歳暮とさせていただきます。

 

【追伸】

大したことじゃないけど、追記したくなって。

厳密に言うと、おのおの、ではなく、面々のおんはからいなり、だった、親鸞さんの言葉。

清水港を走っている時に、思い浮かんできた。

微妙に、おのおの、と、面々と、が違うような気がして、いつになく重たい足で走っていた時に。

 

 

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今日からお休みの会社さんもある。

2020年12月26日 | Weblog

かといえば、大晦日まで、しかも、元日も、なんてお店も。

あるらしい。

その方は、美容院だったか、そんなこと、言ってたな。

お国の方針なのか、年末年始はゆっくり休みましょう、ってウタイに、大手さんは。

すかさず反応、なんてわけだ。

妻の実家から電話があり、お年始の行き来はやめましょう、とね。

コロナの功罪、ってのは、いろいろあるだろうけど、虚礼廃止、ということになるのか。

そもそも、何が虚礼で何が実礼か、だけどね。

いずれにしても、そんなこんなで、いろんな習俗が革っていく、って感じなのかね。

働き方にしても、休みが多くなったら、日給月給、みたいな仕組み、変わらざるを得ないし。

そういえば、昨日の夕方、やけに車が多い気がしたけれど、25日が御用納め、の影響なのかな。

大晦日の晩に、お店の掃除も終わって、湯へへぇってきな、と若い衆を送り出し、なんて光景。

年末と言えば、の「芝浜」だな。

国の始まりが大和の国、年の終いは大晦日、ってわけで、仕事仕舞いが大晦日。

なんてことだったんだろうけど、サラリーマンという人種の出現で。

その辺りも変わったんだろうね、仕事とプライベートの区分け、が。

江戸時代なんかは、どうだったんだろうな。

生産性が何たらかんたら、なんて言わずもがな、だから。

のんびりしていたんだろうか。

わかりません。

そうそう、昨日は、一日、意識して神のように考え、感じ、話し、振る舞う、ってのを。

やってみたんだよね。

これ、なかなか、おもしろくて、うかうかしてると、お、そうだ、俺、神様なんだっけ、なんてね。

忘れちゃって、イケねぇイケねぇ、と。

ところで、来年の辛丑(かのとうし)ね、赤ちゃんの右手が伸びて、ってやつ。

その前は、当たり前だけど、曲がった状態で、その曲がり、ってのが、古い慣習やこだわりや思い込みや。

習俗なんかもその類だろうな。

その曲がりを、自然に伸ばせればいいんだけど、冗談じゃねぇ、それじゃ、男じゃねぇやい、なんてことになると。

かなりめんどくさいことになりそうで。

手を伸ばし、掴んで結ぶ、ってところに行きつかない。

欲しいのは、伸ばした手の先のもの、だけど、ってわけだ。

さて、今日は、後ほど、走りに出かけます、何分走ることになるか、何キロ走ることになるか。

です。

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聖夜に「最後の喫煙者」を読む。

2020年12月25日 | Weblog

メリークリスマスの雄叫びが、いや、静かな語りかけがそこここで聞かれるだろう夜。

僕は、表題のように、筒井康隆のドタバタ短編小説を賞味させていただき。

健康ファシズムが吹き荒れる中、世界中で残った最後の喫煙者たち、20名が。

東大の安田講堂みたいなところへ集まり、ひとり二人と撃ち殺され、主人公がひとり残される。

彼は、死を覚悟し、というとき、通りの向こうから拡声器からの声が聞こえてくる。

いけません、彼を残さなければ、彼は喫煙時代の遺物、天然記念物です、人間国宝になるかもしれません。

とね。

緊急に発足した喫煙者保護協会からのアジテーションだったのでした。

なんて小説だけどね。

ホーリーナイトに読むかね、ってなもんだけど、この時代、どうも一様に流れがちだから。

むしろ、心の奥の方で喜んでもいたんだけどね、実のところ。

太宰治が、明るさは滅びの始まり、みたいなこと言ってたな、たしか。

ポジティブシンキング、ってやつでもあるか。

は、ともかく、来年の干支、辛丑(かのとうし)。

恒例の、安全祈願祭の挨拶文を、昨日、書いてね。

実際には、役員だけの出席にしたんだけど、密を避けて、って。

一筆書きでは、来年は、赤ちゃんが右手を伸ばしてつかむ、結ぶ、となるかな。

伸ばす、と言うことは、曲がっている状態があって、それが今であり、そこをあえて抵抗も感じつつの。

と言うような状態、まさに、古い、拠って立ってきたポジション。

そこから身を剥がすように伸ばす、と言うので、多少のつらさも伴う。

しかし、それは種から芽が出ようとする瞬間。

ざっくり、そんな感じかな。

まさに、魚座の時代、i believe から水瓶座の時代、i knowへの扉が開いたんだな、きっと。

種には、結実するまでのプロセスのイメージがあるんだよね、静かに大声で語らないけれど。

たぶん、ここんとこ、テストに出るよ。

ということで、今日と名付けられた種は、どんなイメージを芽吹くのか。

なんて書くこと自体、自然から離れていくか、と言いつつ、〆とさせていただきます。

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今朝のプリウスからの第一声はメリークリスマス。

2020年12月24日 | Weblog

少し室外温度の高いプリウスから聞こえてきた。

全世界でこんな言葉が叫ばれ、語りかけられ、書かれ。

いい風習だな、と思う。

さまざまな異論、異説、俗説などなどのあるだろうなか、つまり、この由来に関しての、ね。

たしかに、この土地で昔から行われていた祭りが、いつのまにか、キリスト教におきかわっていたんだ。

なんて具合に、古老、とても古い古い御仁方が、暖炉の前で語り、なんて光景も浮かんでくるけれど。

表に現れる形式、儀式はともかく、その内実、心の奥の方で祝う、なんていうのかね。

そんな部分につながると、満更でもない、という気になるわけだ。

そんな朝は、マンデリンとブラジルのシャパドンのブレンド。

ちょっと、日が経ってしまったけれど、悪くない。

そうそう、今年は、おせちがすごく売れているんだってね。

みんなそろって静かなお正月、ってことなんだね。

だってどこにも行けないでしょ、ということになるんだろうけど、それが僕的には不思議で。

行くとこ、たくさんあるでしょ、ってなもんだ。

伊豆の東海岸を走るのもいいし、西伊豆のゴールデンな夕陽を眺めるのもいいし、富士五湖周遊だってさ。

外食ダメなら、おにぎりとか手製のお弁当とか、いくらでもあるからね。

おにぎりといえば、夕べ、ご一緒した御仁から、その昔、県立美術館の上の公園で、僕手作りの。

おにぎりと糠漬けで、昼食をしましたね、なんて話になり。

そうそう、たしかあれは、細木数子さんがテレビ番組で、おむすび、というのか、おにぎりを結んでいて。

手のひらに気を込めて、なんての。

それを真似してみたんだな。

加えて、お昼、って、誰でも食べるでしょ、だから、その時間、仕事から離れてモードも変えて、なんて気分。

僕の中で、仕事一色の時間を途切れもなく過ごす、ってのいうのは、むしろ、もったいないことかな。

というね。

なんてこともあった「過去」。

「過去」をどんな具合にお料理するか、ってのも、楽しいものになるわけだ。

同時に、それは、「未来」でもいいし、もちろん、「現在」でもいいけど。

いずれにしても、お料理しているのは、いつも、現に在る、それこそ、今ここ、ってやつだな。

さて、今日を料理してみるか。

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この先はどうですか?不安じゃないですか?

2020年12月23日 | Weblog

そもそも、この聞き方の中に、すでに答えがあって。

というか、その場の空気を変えてしまう力があるわけだ。

あるいは、この先の楽しみはなんですか?とかね。

と書くと、じゃ、今は楽しくないんですか、なんてツッコミが入りそうだけど。

この、不安、って言葉も、割と便利に使い倒しちゃっているんだけど、実のところ。

その内実はどういうことなのか、ってことだ。

初めて山に登る時、「不安」だった。

あるいは、小学校や中学校の運動会のリレーのスタート前、「不安」だった。

期日までにお金が工面できなくて手形が落ちそうにない時、「不安」だった。

朝来たら社員さんの態度がなんか違っていて「不安」だった。

なんて具合に使うんだよね、自分の経験に照らし合わせると。

で、今、こうしてブログを書いている自分がいる。

あれ、なんだったんだろうな、「不安」と名付けられた心持ちを味わっている瞬間、って。

この言葉を分解すると、安んじていない、とか、安心が不在である、とか。

命はこの世に生まれてくる時に、「不安」なんだろうか。

安んじていない、未知なる環境へ飛び出してくるんだからね。

だから、泣いて生まれてくる?

そもそも、泣くってことが、いけないこと、あってはならないこと、ありたくないこと?

とかね。

今朝は、なんだか、こんなことを書きたくなっているんだな。

というのも、「不安」はいけないことなのか、って問いかけなんだよね。

もし、その状態を他の言葉に置き換えたら、どうなるんだろう、ってことだ。

表題の問いかけは、つい最近の経営者の集まりでのことで。

コロナ禍で売上が落ちてませんか、その影響は出ていませんか、では、これからどうですか、どうして行きますか。

なんて感じの中での言葉なんだな。

いきなりだけど、越路吹雪は、何十年と舞台に立っていても、開演前は緊張して震えた。

なんて話、どこかで聞いたことがあったな。

震えが、やり遂げた後の大満足につながり、少しすると、振り返りがあり、あそこがこうで、ここがこうで。

という問いかけをし、次なるステージに繋がっていく。

かくいうわたしめも、走った後は、時間やピッチや心拍数をノートし、振り返り、ってことをしているんだけど。

あんまり関係ないか。

人為か自然かはともかく、コロナ由来の激変は、この先も続き、さらに。

アメリカでの状況が世界に広がる可能性もある中、その世界にどう向き合うか、がテーマだと思っていて。

それらはすべて、あなたの作り出した幻想だ、なんて言説もありつつの。

とはいえ、せっかく、この時代に立ち会っているんだから、目一杯、それを味わう、ってのが。

まさに、人生の醍醐味、ってことになるんだよね、たぶん、きっと。

ということなので、言葉の使い手になろう、妙手になろう、ってなもんだ。

昨日知った言葉に、「ボートを揺らすな!」というのがあって、しかし、今はむしろ。

ボートを揺らせ、目を覚ませ、ってなことになる、と。

それも、面白いな、というわけだ。

さて、今日と言うボートを揺らしに向かうとするか。

 

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もういくつ寝るとお正月?

2020年12月22日 | Weblog

ってな時期だね。

あの、なんとも言えない、待ち遠しい感覚、どこへ行っちゃったか。

忘れたな。

なので、今年は、チャレンジで、そんな気分を一人演出してみるか。

そうだ、知り合いの花屋さんが、玄関に飾る松飾りだっけ、売り出していたな、あれ、いただこうか。

もちは、次男坊と娘とつくか、というか、捏ねる機会だけど。

おせちは妻と娘にお任せし、あと何かな、羽つきはいいか。

どんど焼きの先陣を切って、備長炭での焼き魚か。

とかね。

演じ手にして制作者、みたいな、しかも、観客か。

一人三役ということになるな。

と考えてくると、まんま、人生そのものだね。

この世の出来事は幻想、なんて解釈の仕方あるけど、そもそも、幻想、なんて言葉を使わざるを得ない。

そんな狭苦しさの中に閉じ込められていることでもあり。

とここまで書いてきて、ふと、尾崎豊の「卒業」の歌詞が頭の中に鳴り響いてきた。

言葉はとても便利でホモ・サピエンスの手にしたツールの中では、使い勝手がいいものなんだけど。

それが故に、ある時には障害の原因にもなり、なんだけど、その障害すら次なる道筋への里程標、なんてね。

すべてのものにはひび割れがある、しかし、そこから光を手に入れることができる。

と、オードリー・タンを気取ってみるか。

光といえば、人生の途中で光を失ったのが、かのベートーベンじゃなかったっけ。

その御仁の曲を、このところのプリウスライブで聴いている、というのはご紹介したけれど。

あら、こんなにいいんだ、なんて気分だよ。

世紀の学聖に向かっての、この感想は、失礼かもだけど、モーツアルトにしても。

天からの授かり物、って感じがするよ。

15 piano variations and fugue、ってのがよくて、バッハの「ゴルトベルク変奏曲」だったか。

一つのテーマをあれやこれやと変奏する、って感じかな。

こんなのも作ってたんだ、ってわけだ。

風の時代、水瓶の時代、i knowの時代、ま、いろいろと知らないことに出会うんだよね。

そこが醍醐味。

その点が、次なる未知なる点と出会い、切り結び、知らない創造物が現れる、って算段だな。

まさに、天才性の発現だ。

というわけで、本日も天才の発揮をするか。

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