と言うけれど。
こちら、珈琲は、どうもそれは当てはまらない。
この間、dretecと言うメーカーなのか、ブランド名なのか、早い話が。
電気湯沸かし器(瞬間)くらいのやつ、しかも、注ぎ口が、珈琲落としに最適で。
なんての、買ってきたんだけど、すかさず、喜び勇んで。
沸いた、淹れた、飲んだ。
ら、雑味、と言うのかな、味が、粗雑で、当たり前だけど、熱すぎだった。
過ぎたるは及ばざるが如し、ってわけだ。
そりゃ、静かな日常への闖入者が、熱湯、と言うことだからね。
「東山いっぷく処」でも、お姉さんが、水出し煎茶とでも言うのか、深蒸しだから別名があるのか。
いずれにしても、水から煎れてくださったお茶にひとくさりの説明。
これ、揺っちゃうと、えぐみが出てくるんです、なんてこと、思い出すな。
熱湯珈琲の顛末は、いろんな処に応用ができて、組織とかチーム、共同体。
人が集まるところでの出来事に、ね。
人肌でない、熱すぎの物言いは、瞬間芸としては、それなりの効果もあり、一同。
やるしかないか、みたいな気分にもなりがちだけど、それ、煽動、煽り、とも言えて。
老熟した社会、チームだと、なかなか、受け入れられず、湯冷ましのような。
平穏無事な、滞りのない、なんてことにもなりがちで。
真理、真実が時代をつくる、と言うより、熱量が時代をつくる、なんて表現もでき。
ま、どちらでもいいっちゃいいんだけどね。
この熱量を、もう少し、静かに鑑みますと、うるさい、五月の蝿のようなエネルギーではなく。
静かな、まるで、今朝の、ゴールデンな日々の明けた朝の雨みたいな。
こんな感じの様に、その熱量を変換するのは、たぶん、遠くまで行ける、遠くから来た。
大元、根っこ、から来たエネルギーなんだろうな、と思うのであります。
このあたりの書き方、よくわかんないかも、だけど。
少なくとも、珈琲は、湯冷ましにかぎる、って、「目黒のさんま」をもじってみるか。
昨日の新聞、実は最終面から読み始めて見た。
よく、三面から読んじゃいけない、一面から、なんてご教授賜る話、あるけれど、その真逆をやって見た。
なかなか、刺激的でよいかも、ではあるんだけど、その最終面に、柚木麻子さんと言う作家さんが書いていた。
「価値観のアップデート」と言う物言いが、面白くて、Evernoteへクリップしたんだけど。
その後、「かとうゆか」と言う方からのメルマガにも、同じ表現が出て来て。
この話、面白いんだけど、書き出すと長くなるので、ここらでよかか、だっけ。