まわりで起こっていること

since2004.12「糠漬け初心者」

転けちゃったんだよと声をかけたら笑顔が返ってきた。

2020年09月30日 | Weblog

右肘を指し示しながら、くだんの御仁に声かけをした。

朝一番の走りの時にね。

そう、復活の朝、ってやつだ。

水曜日。

久々の走りをしてきた。

先々週の土曜日が転けちゃった記念日なので、30マイナス19となると、約10日ぶり、ってわけだ。

この時間をもって久々という言葉が浮かぶのも、走りが日常化している、ということになるね。

なんてことはともかく、上記、くだんの、という御仁は、いつも走るたびに同じ場所ですれ違う。

そんな方なんだけどね。

最初は、知らん顔してのすれ違いが、だんだん、おはようございます、に代わり。

今朝は、転けちゃった繰り言をシェアする仲間になっている。

おもしろいね、この展開。

いつだったか、岐阜の明治村での喫煙スペース、そこで出会ったお掃除の御婦人、別れ際。

さようなら、と。

この言葉、そうですか、帰るんですか、さようならば仕方ありませんね、寂しいですけど。

くらいの言葉らしいね、わが列島の、わかれの言葉、さようなら、って。

そんな瞬間に味わう感興、感慨、似たもの、感じるよね、転けちゃったよへの返礼の笑顔。

スピリチュアル業界では、そうですよ、元は一つですから、なんて物言い、あるけれど。

微妙に、そことは違うような、同じような、という瞬間だな。

そういうわけで、めでたく走り復活、って朝。

もちろん、注意深く、視線を5〜10m先へ向け、とね。

学習するんだよね、なんにせよ。

この学習、ってのが、また、孔子さんの「論語」に戻るけど、おもしろい仕組みで。

会社と呼ばれる組織、あるよね。

商売するとなると、マーケティングが必要で、これって、一つの組織が外界とのコミュニケーションをとる。

と解釈でき、それは、外界を知る、ってことで。

知ったら、今度は、組織内へフィードバックして、自らを精査し、改めるところは改める。

これが、イノベーションだ、という論があるんだよね。

この仕組み、そう言えば、そうだな、とここ二三日、わが関心事でもあって。

ノートへ絵など描いて、ああだこうだと試行錯誤。

これ、一筆書きすれば、「学習」のプロセスなんだよね。

学ぶ、知ったことを自らの身で体現する、そしてまた学ぶ、ってやつね。

会社組織も自らの日常も同じなんだよな、というね。

これ、使えそうだな、マーケティングとイノベーションとマネージメント、というカタカナ語を。

なんとか和語に言い換えて、おもしろい絵を描きたいな、と思っている。

あとひとつ、現在の目論見があって、先週末のエネルギーワーク、それを。

わかりやすく絵にするか、説明するのにシンプルにしたい、という意図がね。

たぶん、そのうち、出来上がると思うけど、こちらもパワフルだと思う。

秋の深まりに向かって、あれやこれやと勝手に向こうからやってくるんだよね。

そんなことを楽しんでいる今をご紹介して、今朝のブログは御開きとさせていただきます。

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今朝はタンザニアからの薫りが届きましたか?

2020年09月29日 | Weblog

なんて、ちょっと少女漫画っぽい表題だったかな。

キリマンジャロ、です。

サブタイトルにスノートップと銘打ってある珈琲。

西欧主体のパンデミックの中、例の、大統領のまします邦、タンザニア。

彼、科学者なんだってね。

パパイヤが陽性だぞ、ってやつね。

僕の通う珈琲屋さんには、ブルンジからのもあって。

いつものモカだって、エチオピアか。

西欧の歴史書には、暗黒の大陸、なんて書かれるアフリカの雄たちだ。

リビアのカダフィ大佐は、西欧の権力者たちに暗殺されちゃったけどね。

そんなこんなの裏の歴史、あるいは、西欧由来の教科書では語られないできごとなどなどを。

つらつらと思い浮かべながらの、珈琲談義となっているな。

もともと、人類って、黒人がデフォだった、なんて話もあるよね。

白人が虐げられて北の方へ駆逐されて、というのね。

エジプトに残る王たちの中に、明らかに黒人種の御仁も残されている、なんて話ね。

歴史は繰り返す、とでもいうのか、「弱肉強食」とタグの付けられた文明、ってわけだ。

魚座から水瓶座の時代へ、ってのは、そこらあたりも改変せざるを得ず、と。

盛んに、女性活躍とか、女性が女性が、男性社会から女性社会へ、なんてのも、性差による。

社会の、文明の造り込みが終焉を迎えつつあるのかも、なんて仮説も成り立つな。

外へ向かう男性とうちへ向かう女性と、とでも略してみるか。

それらの融合の上に成り立つ社会、文明がやってくる、ってね。

けれど、そのためには、それぞれのトラウマから解放される必要もあり、で、まだまだ続くぬかるみぞ。

みたいな時間も流れるのかも、だな。

文明なんてのは、そもそも、不自然さの極地とも言えて。

なんて書き始めると、終わりがやってきそうもないので、閑話休題。

ところで、一週間のご無沙汰でした、と今朝は、骨ストレッチを再開。

こともなく終了し、タンザニアからの薫りを楽しむことができている。

さらに、ところで、なんだけど、ハナからあらゆる存在は完璧である、ってことを。

心底から信じ、目の前の、行路病者を観察することができれば、瞬時に。

ヒーリングが起こる、ってことらしいんだな。

すごくワクワクする感覚ですね。

と書き残しつつ、火曜日に向かうことにするよ。

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エネルギーワークとは何か

2020年09月28日 | Weblog

今朝は、少々、肩肘を張っての表題だったな。

なのだけれど、一筆書きにはかけません。

昨日の日曜日、午後から藤枝にてのワークだったんだけどね。

おもしろきことこの上なし、ではあるけれど、説明するのは骨が折れる。

早い話が、人間はエネルギーだ、くらいか。

あるいは、さまざまなエネルギーに囲まれ、見守られ、利活用してこの世を生きている。

かな。

ただ一つ言えることは、エネルギッシュになっている我がこの朝を迎えてる、ってことか。

今日はこれから、ほぼ最終の、いや、まだか、病院へ向かう。

そろそろ、走りができるタイミング、ってわけだ。

昨日も、藤枝駅から会場までの2キロくらいを、金哲彦さんのメソッドをなぞりながらの歩き。

骨ストレッチの松村さん曰くの、しなやかに動けるからだへ、って標語もなぞりつつ、だな。

ずっと前にもご紹介したけど、動かなくなるとリクツ過多になるという弊害ね。

弊害でもなく、癖くらいの話だろうけどね。

世に、威勢よく他国との戦いがなんとか、なんて宣う御仁は、だいたい、徴兵制の年齢制限オーバー。

なんて様だよね。

あれも似ているな、動かないとリクツ過剰、過多になる、ってわけだ。

ということで、動けるカラダ、ってのは、楽しく生きるためのデフォな姿なんだな、たぶん、きっと。

砂上に楼閣を建てる、というシジフォスの神話みたいな徒労感の、ない日々、ってわけだ。

シジフォス、ってのは、なんかの罪で、山の麓から山頂まで巨石を押し上げる、という罰を言い渡される。

という御仁なんだけどね、ギリシア神話か、「ペスト」を書いたカミュが「シジフォスの神話」って書いてる。

若き時間に読んだことがあるんだけど。

さて、そろそろ、月曜日ってやつに出かけるとするか。

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iMacとiPadが画面共有された

2020年09月27日 | Weblog

だから何?、ってことだけど。

OSがcatalinaってやつになって、こないなりました、って次第。

毎日毎日、アップルのオフィスでは腕まくりした多国籍軍みたいな御仁たちが。

あれやこれやの実験を繰り返した結果なんだろうな。

中には、八ヶ岳の別荘みたいな自宅からのテレワーク、なんてこともありか。

Macに限らず、これらの業界人士たちは、今が旬だし、時代を先導せむと、なんてことすら考えもせず。

ってわけだ。

とはいえ、菅政権になってから分が悪そうな、わが中小企業といえども、そんなことの繰り返しでもあり。

日に新たに、日々に新たに、また日に新たなり、って具合に、事業は進化発展を続けている。

んだよね。

例えば、マーケティングというのは、外界とのコミュニケーション、己を知る。

イノベーションとは、外界からのフィードバックを通じた学習。

なんて、論語とドラッカーを混ぜこぜにした考え方を、昨日、再びの感心をしながらノートに整理した。

おもしろし。

学びてこれを習う、また、楽しからずや、ってわけだ。

早い話が、事業ってのは、学習過程のことだ、ってのが、ね。

昨日、誰かのYouTubeで、ますます、パーソナルになっていく、というフレーズに出会い。

得たりやおう、ってなもんで、当方の感覚に近いな、なんて膝まで打たなかったけれど。

昔、吉本隆明が、共同幻想、ま、組織と言ったり、集団と言ったり、国家でも、党派でもいいけど。

を、自己幻想、こちらは、個人の考え、思い、感じ方、などなどだろうけど、逆立ちする、っての。

今になってみると、まさに、と今更ながら状態でもあるんだけど。

集団としての事業が、学習過程を持つことが大切だ、なんてのは、まさに、集団と個人が。

真逆、ということではなく、その逆立ち現象を乗り越えていくところに、新たな機縁が生まれる。

なんて言い換えることもできそうだ。

優れて個人的な事業が、途轍もない広がりへ到るかも、という感じかな。

「途轍もない」というのが、量としての規模ではなく、深みのある広がり、とか書いておくか。

なんてことを考え始めると、そりゃ、楽しくてたまらん、って時間になる。

このところ、そんなことを考えていたので、ちょうど、くだんの話は、ビンゴ、だ。

さて、というわけで、今日はエネルギーワークへ行ってきます。

 

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心静かに過ごす雨の朝。

2020年09月26日 | Weblog

なんか、今朝の表題は、いかにも取ってつけたような、だけど。

傷病を得て、走りを休憩しているわが方としては、そんな気分なわけだ。

心を酷使すると、そこにはなんらかの滞りが生じ、今の世では、さまざまな傷病の呼び名をつけられるように。

カラダも同じなのかもしれないな。

あの朝、どうしてあの場所で転けたのか、って、まるで、イエス・キリストが十字架上で。

《エロイ・エロイ・レマ・サバクタニ(わが神、わが神、どうして私を見捨てられたのですか。)》

と発した言葉みたいな気分、とも違うけれど。

起こり来る、来たイベントを、どんな具合に解釈し、定着させるのか、ってのが。

神話創造の天賦を授かったホモ・サピエンスなのだから、それを遺憾無く発揮し、ってことだな。

わが物語を創造せんと、と。

ところで、同級生同士だという、御机下と名前の末尾につけられた書状を持参した医院で。

血液検査をしていただいた。

結果、crpという数値に、Hマークが付いていた。

C反応性タンパクというものらしく、細菌やウイルスによる感染症で高くなる、と。

それが、5.5mg/dlとなっていた。

通常は、0.3mg以下だそうだ。

とても高い値、ってわけだ。

もし、右肘の傷なしでの結果ならば、今では、さしずめ、新型コロナウイルスへの感染、なんてのも。

疑われた可能性はあるね。

そりゃ、わがタニタ体重計も異変を示すわけだ。

にしても、夕べの基礎代謝の数値は、以前に戻りつつあったな。

今日も、この後、通院治療。

明日は、藤枝にてのエネルギーワーク。

なんてスケジュールを書き示すと、まるでこれが、わが人生、みたいに思えちゃうのが不思議だよね。

静かな朝だったのが、今は少し小降りになったのか、バイクの音なんかがしだした。

あの「心静か」はどこへ行ったか、なんていう当方の中だけに残されている、ってわけだ。

さて、次なるルーティンへ行くとするか。

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点滴、たぶん、その後のインターンシップ

2020年09月25日 | Weblog

表題に今日のスケジュールを羅列し、って模様だな。

転けて以降の日々、やっぱり、化膿した部位への意識が大きく。

なので、なにごともバランスを欠き、って具合だな。

ことにカラダには、数値で明白で、基礎代謝量が減り、BMIは上下を繰り返し、と言うね。

いつだかブックオフで購入した、タニタの体重計、小数点以下2桁まで表示、っての。

あれに風呂上がりに乗っかり、ふむふむ、と一人悦にいるわけだ。

抗生剤で食欲は落ち、お酒を飲むのも控え、なんて日々だったな。

ところで、いかにも秋の、と言う朝の中を、巴川沿いの道を走り去っていく姿。

天高く馬肥ゆるの秋、なんだから、そりゃ、人々のカラダも細胞も、動き出したくなるわけだ。

そんな中、こちらは一粒の抗生剤を飲み込む。

そう、二、三日前に、旧知の先輩経営者からお電話をいただき。

「ビジネスレポート」と言う冊子に、わが社の記事を載せていただき、それを読んで。

お前、いや、あんたも頑張ってるな、俺も元気もらえたよ、と。

ある時期には、喧嘩まがいの状態もあったんだけど、いいもんだね、そんなコメント。

くだんの御仁は、癌との闘いの最中で、ここで、闘い、と言っちゃうのは、当方の意には沿わないのだけどね。

ま、そんな中、元気という言葉が出てきただけでも、めでたい。

こんな小さなエピソードを、デヴィッド・アトキンソンに聞かせてあげたいよ、まったく。

今回の政権、菅さんや和歌山の下駄屋さんの息子、平蔵さんなんかの一押しの考え方なんだろうね、彼。

中小企業が多すぎるから日本の生産性が低い、だから、集約して云々、というわけだ。

なんたって、ゴールドマン・サックスを出自にもつ御仁だから、ハイハイ、としか言いようがないけど。

だからヴィジョンが大事なんだ、ということに繋がるんだけどね。

それを投影図、くらいに考えると、どれだけ壮大な、しかも、自らにフィットした、楽しくワクワクする。

そんな図、そこに勝手に向かっていくわけだ。

ここだな、テストに出るところは。

ヴィジョンの前では、現在、現時点、ってのは、あんまり関係なく、むしろ。

現在に拘泥する、ってのは、過ぎ去って存在しない過去にのめり込む、ということで。

頭の良さげなフリはできるけれど、つまり、あれやこれやの分析・解析、微分・積分、ってやつね。

そこから静かに立ち去る、涼やかに、ってわけだ。

たぶん、宇宙の法則は、そうなってるよ、いや、きっと、だ。

そうなると小さな個人、ってのは、語弊あるかも、だけど、どうでもよくなる、かも。

ま、そんなことが秋の朝に去来するブログ書き、ってことだな。

なんて言いながら、今日できることは、通院とインターンシップ、表題に帰る、ってわけだ。

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「秋風ふき」と言う歌詞が浮かんできた朝。

2020年09月24日 | Weblog

夕空はれて、に続くのが、表題の歌詞。

今、ググってみたら、スコットランド民謡なんだ。

明治の21年と言うから、怒涛の、江戸末期の争闘からそんなに経ってない頃。

いかにも、明治維新の立役者、あるいは、裏の覇者が英国だった、なんてことに。

思い至るような、そんなスコットランド民謡。

と言ったら、身もふたもないか。

ついでにウイキからパクっちゃうと、もともとが「ライ麦畑で出会う時」が原題らしい。

ライ麦は背が高いので隠れてイチャイチャできる、みたいな。

それがこんな具合に訳され、文部省唱歌みたいに歌われ、広がる、って歴史。

夕空晴れて秋風吹き
 月影落ちて鈴虫鳴く
 思へば遠し故郷の空
 ああ、我が父母いかにおはす

ふるさとを離れて父母を思う、ってわけだ。

アメリカのサリンジャーだっけ、「ライ麦畑でつかまえて」なんて小説、あるよね。

読んだことないけど。

なんてこと、思いが浮かぶままに書いていると、出羽守、ってのがやってきた。

よく知識人と言われる人士方の常套句を揶揄しつつの。

守を、なぜ「かみ」と読むのかは知らないけれど、薩摩守忠度(さつまのかみただのり)。

なんてのもあるよね、キセル、無賃乗車のこと。

上記、出羽守は、アメリカでは、とか、イギリスでは、とか、が決め台詞だと思っている人士を指して。

あの出羽守は、ってわけだ。

ロシアの文豪、ドストエフスキー。

ある時期には、よく読んだものだけど、「カラマーゾフの兄弟」だったか。

その中で、フランス帰りのインテリをくさしていた表現があったな。

会話の中に、フランス語を混ぜる、ってやつ。

今でも、やたらカタカナ語を散りばめ、ケムに巻く、っての、あるよね。

変わらぬ、ホモ・サピエンスのサガなんだろうね。

村の入り口には、道祖神やら疫病を払う石が置かれていたよね。

ご利益の神と災厄をもたらす神、客人神とかいて「まろうど」の神。

他の村との物流の発達してない頃。

自閉した共同体を訪れる人々は、ありがたくもあり、恐ろしくもあり、ってわけだ。

当たり前といえば、当たり前だけど。

なにせ、テレビも新聞もない頃だから、そりゃ、未知への恐怖、って。

テレビも新聞もある現代といえども、未知への恐怖、ってのは、ハンパないよね。

新型コロナ。

さて、そんな世界から離れて、次なるルーティンへ向かうとするか。

 

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フェリーニの「カビリアの夜」を観た。

2020年09月23日 | Weblog

右肘を氷枕の上に置きながらの、そんな映画鑑賞。

1957年の製作らしい。

僕が生まれた頃だ。

ローマ郊外の、田園風景とはいえない、荒涼たる、くらいの形容詞がふさわしいかな。

それとも、かの地では、あんな風景が、戦争が終わった頃にはデフォだったのか。

そんな風景の中に、自分の家を構えて住んでいるカリビアは、夜のお仕事、娼婦だ。

幼い頃に母親と死に別れ、一人で這い上がってきた、時には、寝るところもなく、洞穴の中で。

なんてこともあったらしい。

あらすじはともかく、騙す・騙される、なんてのも一つのテーマの映画だったけれど。

あの時期の、ローマ郊外。

戦争が終わった後を描いていたのか、それとも、戦争前か、定かではないけれど。

ムッソリーニの名前に象徴される、独裁体制での戦争への直進、なんてのを。

思わず彷彿とさせる情景が流れていたような、そんな印象です。

社会は厳しいものだからね、人を騙す人があちこちにいて、みたいな。

それ、僕が母親から聞かされて育ちました、って具合で。

日独伊防共協定だっけ、三国同盟だっけ、この映画と同じ時期には、似たような風景が。

わが列島にもあったのかもな、たしかに、おこんじさん、とよく聞いたような。

乞食のことね。

今のようなセイフティーネットがなかった時代、ちょっと油断すると、落ちてしまう社会だったか。

もちろん、今だって、身内やらサポーターやらのいない人士方には、変わらぬ光景が続いているわけだ。

これについて思い出される、芭蕉の富士川のほとりでの一文がある。

3歳くらいの子、捨て子が泣いている。

その情景について書く。

《いかにぞや汝。父に悪まれたるか、母に疎まれたるか。父は汝を悪むにあらじ、母は汝を疎むにあらじ。ただこれ天にして、汝が性の拙きを泣け。》

少なくとも、芭蕉は、社会活動家ではないし、なんらかの実践家でもなく。

ただ、後世に我々のような理解者、読解者を持っているにすぎない。

このあたりは、難しい話になりそうだけど、芭蕉は、お前の運命の拙さを泣け、とだけ言うわけだ。

なんてことを書いていたら、いい時間になった。

いつものように、次なるルーティンへ向かいます。

 

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今朝は三日目の骨ストレッチ、お休み。

2020年09月22日 | Weblog

振り返ってみれば、こんな小休止なかったな。

いつも不具合、不都合なく過ごしてきたわけだ。

改めて、わがカラダに感謝申し上げ、って次第です。

骨ストレッチがルーティン化してから、何年が経つのか、飽き性と言われた僕が。

よく続いているものだ、と感心しつつ、そのネーミングそのものが。

そもそも、その時の、その処での、誰かの、ま、母親だけど、一印象にすぎない、ともいえて。

これ、月の欠損、ってやつです。

たぶん。

そのようにネーミングすると。

新しいものに関心が向き、一心不乱に、という時が。

すぐに次のものに移行する、みたいな、単なる一つの出来事なんだけど、それを。

くだんの、飽き性、という言葉に置き代わり、なかなかに、それはパワフルで。

大げさにいえば、子々孫々までの、一族の掟、みたいになっちゃうのかも、ってね。

糖尿病?親父もそうだったからね、とか、痛風?それもそんな感じで、とかさ。

それって、単に、ものの考え方、食生活、カラダの使い方などなど、様々な要素の結果かも。

と言うね。

頭悪いのも代々の遺伝で、とかもいうか。

この、頭、悪いとかいいとか、ってのも、この世的な、この社会的なものでもあり。

物事の吸収が、考えの回転が、物覚えが、とかのフレーズで表現されるけれど、思い出すのが。

エハン・デラヴィというアイルランド人、いや、スコットランドだったか。

かの御仁が、ある時、アヤワスカを飲んだ。

これ、中南米のシャーマンが常用する、幻覚剤、というのか、認識の仕方を違った仕様にする効果・効能あり。

そんな、かの地、独特な薬らしいけど、その時。

目の前に、途轍もない知性を溢れさせる、巨大なヘビが出現した、なんて話してたな。

及びもつかない知性、だと言っていた。

というわけです。

頭いい、とか、悪い、とかってのも、極めて限定された世界での出来事で、とね。

限定、と言っても、現在の地球では、70億人、とか80億人とか、って規模だけどね。

早い話が、現在の価値観での比較の話、ってわけだ。

なんてこと、思うと、いつも、織田信長のことが浮かぶんだよね。

彼、あの時代だったから、なんとかの天才、とか言われているけど、今の時代だったら。

単なる乱暴者、人の言うことを聞かない困ったチャン、とかさ。

今朝の言葉の出方からすると、肘の傷からの回復、修復作業がかなり進んだかな、と言う印象だ。

まさに、村の鍛冶屋以上の所業、ここでも感謝申し上げ、って次第で。

感謝、しっぱなしだね、ここんとこ。

四連休最後の朝は、いいお天気だけど、台風が、いきなり明日、明後日あたりやってくる。

なんてのツイートにあったな、おいおい、ってなもんですが。

ま、それはともかく、日経新聞を読みに行くか。

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静かな敬老の日の朝。

2020年09月21日 | Weblog

と書きつつ、先ほど、カラスが鳴きながら飛んで行った。

思わず、高杉晋作で有名な。

三千世界の鴉を殺し、主と朝寝をしてみたい、なんての、浮かんできた。

ちょうど、昨夜、落語談義の中、次男坊から、カラスが云々、なんて話が出てきていたんだった。

この連休は、走るぞ、なんて意気込んでいたんだけど、ままならず、さしずめ。

今日は、次なる走りのために、車にての下見にでも行ってくるか。

代替行為、なんてね。

車に乗りながらの走り目線、ってのも、なかなか、捨てたもんじゃなく。

グーグルマップには載ってない道もあったりね。

道、といえば、フェリーニの映画、あったな。

内容、忘れましたが。

実は、フェリーニの映画、何本か、リストアップしてあって、いつでも観れる状態なんだけど。

なかなか、そこに至らず、って感じだな。

このコロナ禍では、二つ、映画を観た、と、走りを始めた、ってのね。

そうだ、昨夜、藤井聡太二冠の特集番組、観たんだった。

自分の持っている感覚、それすら乗り越えていく、というようなこと、話していた。

あそこまでいくと、核心までたどり着いちゃってるみたいな、そんな感想だな。

自分を超えていく、と。

あのセリフ、深くうなづきつつ、感心しながらの時間だった。

だいたい、ここんとこ、テストに出るところなんだよね、宇宙創世の先生がいたら。

もっとも、テスト、って概念が違っているけれど。

昨日は、福島産の梨を買った。

おや、安いね、と。

福島だからなのか、と訝りつつの購入だったんだけど、311後の無残な福島駅の情景を思い出した。

かの地は実物が豊かで、桃や梨や、とにかく、そんな季節だったのに、並んでいるのは。

ご当地産ではなく、よその県からのものだったのが、強烈な印象で。

言葉にならぬものが漂い流れていた、なんてこと、ね。

過去は、字のごとくに、過ぎ去って今はないもの、ではあるんだけど、意識を向けると。

そこに現れる、というね。

複雑な人間模様だな。

そういえば、この間、長男坊と感情の話をしたな。

怒りとかの感情に翻弄されず、みたいなね。

感情ってやつは、パワフルなんで、上手に付き合えば、思いもよらぬことごとが起きてくる。

んだろうな、と思うね。

なんたって、何万年か、いやもっとか、長きにわたって、わがホモ・サピエンスと共に歩んできたんだからね。

なんて、壮大なところまで来たので、次のルーティンへ向かいます。

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