まわりで起こっていること

since2004.12「糠漬け初心者」

大晦(おおつごもり)といえば「芝浜」か

2019年12月31日 | Weblog

支払いも大掃除もすべて終え、どうだい、あんた、一杯やる?

なんていうおかみさんの声、遠くで、たぶん、増上寺かな、の除夜の鐘が鳴る。

その後のセリフが、有名な、やめとこ、夢になるといけねぇ、と言うさげ。

落語の、年の瀬も押し迫ると俎上に上る「芝浜」。

なんてことが思い浮かんだ今日、大晦日だ。

いろんなことがあったようで、なかったようで、にしても、こうして。

令和元年の最後の朝を、迎えている。

いずれにしても、「タイムライン」が変わった年だった、と感想を述べることができるか。

この「タイムライン」と言う言葉は、SNSなんかで、つまり、FacebookにしてもTwitterにしても。

早い話が、自分の見たいものだけをセレクトして、と言う流れで。

例えば、僕のタイムラインに流れてきたニュース、みたいな使い方、するよね。

そんな意味で、変わったな、と言う気がしている。

何がどう言う具合に、とは、うまく書けないけれど、そんな雰囲気です、とだけ書いておこう。

たぶん、それは、アイヌ文様と文字、みたいなところへも繋がるような変容。

なんて、勝手に思っている。

年末に来て、ロシア人が植民してくるずっと前からサハリンにいた先住民、の。

ギリヤーク人、と言う存在を知り、アイヌやネイティブ・アメリカンのように、文字を持たなかった。

なんてことね。

そんなことを、文字で綴っているわけだ。

なんておセンチなことは置いといて、言葉以前のことごとについての関心の向き、だな。

言葉が発せられる、そのずっと奥の方、のことか。

奥があり、言葉が発せられ、文字に定着される、と言う順番の、一番初めの、源の領域。

そこなんだろうな、と言う予感ね。

なんてこと書きつつ、一年間、このブログにやってきていただき、ありがとうございました。

折々に、リアルコメントをいただき、刺激にもなり、嬉しくもあり、なんて一年。

皆々様方、佳いお年をお迎えくださいませ。

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お勉強が嫌いで、と言う話です。

2019年12月30日 | Weblog

嫌で嫌でたまらず、ので、お姉ちゃんが、鉛筆を強制的に持たせ。

それやれこらやれ、みたいな風情のお勉強のありさまで。

しまいに、鉛筆持つ手先に力が入らず、震えてる。

の間に、鉛筆に限らず、常に、指先が震え、と言う症状になり。

お医者さんへ行った、と言うわけだ。

令和最後の呑み会の席、目の前の相方がそう言う。

だから、根底に、嫌い、嫌だ、の気分を隠した、お勉強、ってことで。

ずっと、劣等生であった、と言うんだね。

哀しい出来事を、よくぞ話してくれました、くらいの話でもあるね。

話せばわかる、離せばわかる、って、226事件を想起させる、ちょっとひねったCMあったけど、メガネの。

それはともかく、ことほどさように、「メイド・イン・社会」ってのは、手強い。

もちろん、お姉ちゃんだって、可愛い弟が社会へ出ても、後ろ指さされないように、と言う意識のもと。

って具合だったんだろうし、しかも、父上は、若くして他界している、と言う状況で。

跡取り息子たる弟への、教育、だったんだよね。

よく人物像を描くのに、お金を残す、とか、地位を残す、とかの最上位に、人を残す、みたいな言い方。

あるでしょ。

薫陶とか、切磋琢磨とか、もっといろいろある、言葉によっての枠付け、ってのは。

ほんと、たまらない状況を現出させ、みたいなこと、ありがちだよね。

目の前の人、年少だろうと年長だろうと、そこをみるより、自分の中の物語の登場人物としての役割を負わされた。

そんな人、って次第で。

かくかくしかじか、かくあらねば、みたいな。

もっとも、それが「社会」を構成し、共同体を維持管理するために、なんて理由で。

許容され、容認され、推奨され、ってわけだ。

くだんの劣等意識を逆手にとって、エネルギーに換え、立身出世の道を歩む。

なんて方も時折、見かけもするけど、少ないよね。

だって、そんな無駄なこと、生命としてはしたくないもの、ってことで。

何れにしても、そんなネタで飲むお酒の味も、味わい深いものがあり。

出会ったつもりでも出会っていない、と言うのか、新たな発見、と言うのは、楽しいものです。

それには、心はコロコロしている、なんて言う、ダジャレみたいなありさまを味わう。

なんてことでもあり。

さて、今日はお餅つき。

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アメスピとモカを買った

2019年12月29日 | Weblog

業務連絡みたいな表題だけど。

当方にも、お正月がやってくる、ってわけだ。

いつの間にか、アメスピも、PayPay、って応えるキャッシュレスになっており。

モカの方は、ジャズを聴きながら、イエメンだったかな、初めての珈琲を店内で。

初めて味合わせていただき。

そう、傍らには、豆の入った袋が何袋か並べられている中、ところで、店名の由来はなんですか。

と。

ご主人が、トランペットが好きで、そこからなんです、とエキゾチックな女性が答えてくれた。

この時代の便利なググりおじさんに聞いてみたら、どうやら、クリフォード・ブラウン?

と言う答えを得たけれど、その御仁の通り名が、brownieなのかな。

わかりません。

ところで、わがエバーグリーンな榊。

いつもの宮司さんにお願いして、新年を迎えるための榊を、なんて誘惑にかられるけど。

やめときました。

彼ら、と言うのは、榊くんたちですが、未だにエバーなグリーンを保っているのに、こちらが。

こちらの都合、理解、解釈で、そこへ新年用の、なんて魂胆が、あまりにも。

瑣末な、矮小化された、みたいな気分になって、もうね、お任せ状態、です。

よく、車買い替えようかな、なんて考えだすと、故障しがちになる、なんて話、あるでしょ。

あのデンです。

そうだ、わが事務所の、わが部屋のカレンダー、半月くらいになるかな、取り外したの。

いつもの場所に、目がいっちゃうけれど、ないことも、なかなか、いいもので。

わが脳内のカレンダーを検索し、なんて具合で、当分、これ、やってみようかな。

と思いついたのも、たった今で、グレゴリオ暦から自由になるぞ、ってなもんです。

なにせ、アイヌ文様への、なんて表現したらいいのか、文様は文字に勝るかも、なんて言う仮説。

ね。

いかにも、文(モン)という音の響が、動きのような、波動?エネルギー?言霊?みたいでしょ。

風の動きやら波の動き、あと、さまざまな、五感が発達するために起こってきたこと。

いや、まわりで起こってきたがゆえに、発達した五感を、ちょっと、もう一度、リスペクトしてみるか。

ってなもんです。

実は、もう少しでやってくる元旦が楽しみでもあって、ある行おこない)の終了日でね。

果たしてどないなりますやら、と。

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いいから、オレを泣かせろ!

2019年12月28日 | Weblog

と言うのが、令和元年の忘年会、最後の言葉。

だったかな。

三次会になるか、そこでのセリフで。

来年はあれをする、これをする、と言うような話を長くしていた相方に。

表題。

言葉はたくさん費やせば費やすほど、エネルギーは費消され。

結果、オレ、何をするんだっけ、みたいなことになりがちで。

簡明、簡潔が一番、ってわけだ。

相方は、あれ、オレの話、聞いてない、って具合だったんだけど、そうです、聞いてません。

だったな。

わが社の忘年会、一切、口出しせず、と言う立ち位置でのイベントだった。

のだけれど、どうしても、口に出したくなってしまう、と言うのは、仕方ないね。

おもてなし、と言う観点での、と言うことなんだけど。

なんて言い出したらキリがないし、じゃ、お前がやれよ、って話にもなり、ってわけだ。

ことほどさように、仕事を任せる、ってのは、骨の折れる仕儀で。

とね。

そうだ、昨日は、ほぼ一日中、人口が増えていることで全国的にも名を馳せている。

長泉町の現場で、と言う日だった。

労働基準監督署の、臨検、と言うのがあるんだけど、その対応だった。

帰りがけ、微妙な時間があったので、沼津港近くの珈琲屋さんにひさびさに参上。

モカとチーズケーキをいただき、当日のお昼がわりにしたんだった。

写真、あげちゃおうかな。

 



ここで、気に入ったコーヒーカップがあって。

ピンクのね。

今度行ったら、これ、くれない?って言ってみようかな。

今朝の当方の珈琲は、グアテマラだったけど、淹れ方、マスターの、真似してみた。

見方によっては、大雑把に淹れる、んだけど、そりゃ、お客さんを待たせない、と言うのもありだろうし。

あるいは、もともと、珈琲なんてのは、そんな具合で味わうのかもしれないな。

教則本やあれこれに書かれた、かくかくしかじか風の淹れ方は、爛熟した文化、ならぬ。

てにをはに過剰にこだわりだす、と言う、つまり、幹を見ず、の枝葉だけの世界、かもしれないな。

なんてことを感じつつの、朝の一杯なのでした。

さて、今日は、今年最後の呑み会。

夕べ、忘年会をやっといてなんだけど、最後の、と言うのが、たしかに、最後ではあるけれど。

どうも、いつもの年と違ってるな。

あんまり、年の瀬感がないし、わりと多くの方の、そんな言葉を耳にする。

食べるものを作り出す、と言う世界から遠ざかっているので、季節が変わる、時が経過する、と言うのが。

どこか、他人事、リクツ、理論、誰かの考え、借り物、みたいになっちゃってるのかな。

そんなわけで、とにかく、そう言うことです。

 

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女房や娘と一日でも長くいたい。

2019年12月27日 | Weblog

年の瀬も押し迫った昨日、新月の26日か、いや、新月は1日ずれていたか。

はどうでもいいけど、表題のフレーズがポツリと漏れてきた。

のが、今年最後の個人ミーティング。

くだんの御仁は、糖尿病が少し悪化して、やむをえずに、お医者さんにかかり始めたのが8月。

という状況なんだけどね。

そもそも、あそこが痛いここが痛いというのが嫌いなたちで、と。

しかし、の後に表題なんだよね。

なかなか、いいセリフだな、って、演技じゃないけどね。

1時間の個人ミーティングの醍醐味は、この瞬間なんだよね。

ポツリと漏れてくる、心の奥の方の、ま、言ってみれば、真実の声、と。

その後の一人、と話していて、ホウレンソウ、ってのがテーマになった。

上司に言われるそうで、報告・連絡・相談をしなさい、ってわけだ。

ビジネスシーンでは、よく聞く話だよね。

だから、って。

研修やらセミナーやらで聞かれるのが、新入社員たるもの、こうした社会の常識、フォーマットを。

しっかり身につけ、って具合に、ホウレンソウ、が一つのタグになって。

別の世界の言葉にすれば、イニシエーション、ま、通過儀礼、みたいな。

常識だよ、って。

この方向性は、部下▶︎上司、って具合なんだけど、もともと、この言葉を言い出したのが。

と言うような文章が、福島の地から届いたんだけどね。

それは、山種証券の山種社長が使い出したそうで。

それも、ホウレンソウをしなさい、と言うことではなく、彼が。

若くして後継の社長になった時、1000人の社員さんの中、やる気のある中途採用の社員さんが、突然、退職した。

仕事上の云々、と言うより、自身の住宅事情に関して、会社との不都合、不具合があったそうで。

と言うことを退職後に聞いた山種さんが、そりゃ、ぜんぜん、上司が部下のこと、わかってなかったじゃないか。

とね。

それで、上司が部下のことを、もっと気にかける、と言う発想の元に、くだんの。

ホウレンソウ、と言う言葉になった、と言うことらしい。

つまり、上司▶️部下、と言う思いの方向性なんだね。

なんて話を、くだんの若手社員、つまり、個人ミーティングの相方に伝え、ついでに。

その文章を社内で回覧した。

なんて事件もあったのでした。

宗教用語もビジネス用語も、あるいは、なんとか用語も、すべからく。

干からびていく。

手垢にまみれ、その都度都度に関わる方々の、様々な思いに、塗り替えられ、やがて。

デフォ、標準、常識、なんてことになる、ってのは、古来、あまたあったわけだ。

なんてこと、考えながら、さて、今日も新たなり。

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エウレカ!わかった!

2019年12月26日 | Weblog

と言ったんだね、アルキメデス。

の原理を発見した瞬間、らしい。

エウレカ!

お風呂に入っていて溢れたお湯がなんとか、だっけ、その発見ってのは。

それはともかく、その瞬間、人類の長い年月、時間の経過、なんてとこからいうと、まったく。

須臾なる瞬間、なわけだ。

なんてことの連続が、日々であり、人生であり、とも言えて。

瞬間バイバイ、瞬間ハロー、ってのが、このところの一つの関心ゴトでもあるんだけどね。

日に新たに、日々に新たに、また日に新たなり、とたしか、中国古代の。

湯王ね、周の時代だったかな、かの御仁が毎朝の顔を洗う時の洗面器に書いておいた、という逸話。

こちらは一日、という長い時間の経過だけど、瞬間バイバイ、ってのは、まさに瞬間なので。

しかし、その連続が日々を司っている、とも言えるから。

ところで、久々の国分浩一郎さんなんだけど、受動態と能動態、ってのね。

自ら動く、自ら何々をする、ってのが能動態、誰かに何々をされる、ってのが受動態、ざっくりね。

そんな具合に言葉はできています、しかし、いつの頃までなのか、印欧語には。

中動態、ってのがありました、という話ね。

誰、がわからない言い方、例文を書くことはできないけれど。

早い話が、なんとかの出来事が、誰によって引き起こされたのか、がわからないと、やばいでしょ、社会的には。

ということで、その言葉使い、なくなった、という当方の解釈なんだけどね。

というのも、上記の、瞬間バイバイ、ってのは、その瞬間に、すでに過ぎ去りし時は自分じゃないよ。

自分のものではないよ、くらいに翻訳できるんだけど、それじゃ、社会は困るでしょ、ってわけだ。

月に一度、帰宅する母親を眺めていると、あるいは、見守り鬼のごとくにただ、見守っている立ち位置だと。

記憶のID、というのか、自己同一性みたいなのが、かろうじて守られてはいるけれど、その連続性が。

心もとない、という脳内の思考の流れ、がね。

母親やそれにお付き合い願っている、妻や妹や娘やおばたちには悪いけど、とても、興味深い。

のです。

ところで、何日か前にお茶をした御仁のうちのお一人。

の娘さんが、発達障害、というのだったか、そんな感じの精神状態で、生きづらさを味わっているそうで。

くだんの彼、僕が、「メイド・イン・社会」という言葉を発した時に、ピクピクと。

しまいには涙を浮かべて受け取った、なんて時間が流れたんだけど。

そう、社会による、病名、症状名、区分け、みたいな話でね。

ネット通販などでは、IDが、つまり、あんたはこれこれこういう人物です、というのがはっきりしてないと。

何も買えない、なんて社会状況だけど、その、拡大版、というのか、が、「社会」から要請される。

いや、ある意味、強制されるものでもあり、と書いてきて。

一体全体、この話は何を言っていて、どこまで行くんだ、という感じになってきたね。

なので、このあたりで、to be continuedという逃げの一手、でやめときます。

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佳き一日を、と締めくくったら。

2019年12月25日 | Weblog

Merry Christmas!だった。

そう、昨日のブログの最後が、表題だったのだけれど。

札幌の女史のFacebookにこんなん、アップされていて、一気にモードが変わった。

 
ご興味のある方、おヒマな方は下記サイトへどうぞ!

https://www.facebook.com/saeki.takako.2014

って、ご本人の許可なく転載しちゃった、ってことになるかな。

ま、素敵な文章だったので、いいでしょ。

以前、浮かれ街で飲み歩いてた頃は、この時期といえば、山下達郎の。

曲名忘れたけど、きっと君は来ない、とかの歌詞から始まる曲がデフォだったな。

クリスマス、って、ケルトとかの先住民族の祝祭を、後来の民、キリスト教徒が奪い取った。

なんて認識だったので、おいおい、なんて気分でもあったんだけどね。

上記の文章に触れて、ちょっと、モードが変わったわけだ。

さらに深いわけは、現在ルーティン化している、あるワークにもあるんだけど、これ、今のところ。

言えません、まずは、身につけるまでは、って具合です。

なんてことはともかく、くだんの女史の言葉にあるように、ある視点から見たら。

クリスマス、って、ほんとにすごい装置、とも言えるか。

その昔、わが父親、昭ちゃんが、夜遅くに、生クリームでないホールケーキを携え、帰宅。

なんてこと、あったな。

たぶん、次の朝とかに、僕らはご相伴にあずかったんだったか。

さらに小さい頃には、枕元に、サンタさんのブーツにお菓子が入ってたのを朝になって喜び勇んで。

いただく、なんてこともあったか。

いずれにしても、佳き一日、という発語とmerrychristmasという発語がシンクロした。

なんて勝手に思ってもいて。

という朝です。

イスラムとか中東に詳しい、つい先日、同友会大学でお話をお聞きした宮田律さん、こんなこと、書いてたな。

キリストの生誕を祝うクリスマスの歴史はそれほど古くない。英語の「クリスマス」は本来「キリストの日のミサ」を意味するものだ。20世紀初頭になってクリスマスは欧米でも世俗的な家庭の「祭日」となった。キリスト生誕後の200年の間、キリスト教では殉教者であるキリストの誕生日を認めることをしなかった。キリストの誕生日をいつ12月25日にしたかは明らかになっておらず、新約聖書にもキリストの生誕日に関する記述はない。』

身も蓋もない記述、とも言えるけど、それほどに、自由な世界が広がっているんだよね。

各人各様の解釈のママに、この世は動いている。

面白い世界だ。

同じアホなら、この世を踊らにゃ損損、ってことだな。

さて、踊りを始めるとするか。


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妄想小屋が簡単にできそうだ

2019年12月24日 | Weblog

昨日アップした、映画オタク、の駆け出し状態。

というわが方なんだけど、個人ミーティングで飛び出したのが。

簡単に5.1チャンネルの音響設備、できますよ、ってことで。

この5というのは、左右に一個ずつ、真ん中に一個、後ろの左右に一個ずつの計5個。

.1というのは、ウーハーといったか、低音を奏でるスピーカ。

ということらしい。

すると、自宅の一室が映画館に早変わり、ってわけだ。

くだんの彼、ジョンウエインの「駅馬車」を観たいんだそうで。

画面を幌馬車が横断する様や銃撃戦が前後に展開する様をね、体感したいんだ、と。

面白いね、ついでに、スクリーンの構成比が云々、とお聞きしたけど、忘れました。

ここまでくると、妄想小屋もハイグレードだね。

ということで、夕べは、「フォースカインド」というの、観た。

んだけど、途中で寝ちゃったな。

面白くない、というわけではないんだけど、いただいた正雪の大吟醸を聞こしめした後だったので。

今晩、再チャレンジになるのかどうなのか。

ある村一帯が、たぶん、地球外からの侵入者に、精神的に侵され、みたいな話かな。

意識とはなんだ、どこにあるんだ、どこからやってくるんだ、くらいの展開なんだろうと思うけど。

わかりません、途中までだったので。

今のところ、30本くらい、リストアップしてあって、それを慎重?に吟味し、さて、どれから行くか。

ってな段取りだな。

たぶん、一本一本に感想、子供の頃みたいな感想文をつけたら、面白いんだろうな、と思っている。

言葉とか文字はエグイ、と書いといて、なんだけど、そりゃ、共有するには。

必要でもあるからね。

昨日、アップした写真ね、アイヌ文様の、あれ、気になっていて。

渦と棘と目が、文様の基本形らしいんだね、目というのはフクロウとかの目らしいけど。

それらの図形が無限に繋がっていく、らしい。

それは何との、誰との、どことの交信だったのか、なんて今風の言葉に置き換えると、なかなか。

魅力的でしょ。

当分、言葉でないコミュニケーション、とでもいうか、そんなことがわが関心の的となりそうな。

そんな予感がするのでもあります。

古文書に残されない、先史時代のメンタリティを再感、体感する、ってわけだ。

たぶん、これ、面白いと思うよ。

息苦しい、コンプラ?働き方改革?パワハラ・セクハラ?から、ちょっと、一息入れますか。

くらいの話だと思うな。

そんな壮大な、人との、自然との、地球との、星々との、太陽との、繋がり合いがあったんだ、みたいな。

気づき、ってのが、訪れるのかもしれない、と自分勝手に予感しているのでもあります。

もっとも、予感なんてのは、自分勝手なものだから、同語反復、みたいなものか。

なんか、今朝は、キーボードが弾むな、ということで、佳き一日を!

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初めからお寺じゃ嫌だよ!

2019年12月23日 | Weblog

母親の一つ話、あたしは結婚前の若い頃、と。

このあたりの家から、お嫁さんにどうだね、と誘われていた。

ってやつだけど。

だいたい、清水インター付近を走っていると、その話題になる、というコトなんだけど。

昨日は、ちょうど、お寺さんの前を通り過ぎた頃だったのか、今回の物語は。

お寺さんからのお誘い、ってシチュエーションで。

家にも何度か訪ねてきてくれて、という挙句の言葉が、表題のようで。

諧謔、ウィット、ユーモア満載の、という受け取り方で、車内、大笑いになった次第。

巧まずの、結果としてのユーモア、なわけだ。

年が明ければ93歳か、早い話が、終わりが近づいている、という認識の。

つまり、終わるとだいたい、お寺さんだよね、という中の、表題です。

そう、昨日のおじおば会の一コマ。

全体の時間の流れを10としたら、どうだろう、9くらいは気分良く、楽しく過ごし。

一同、胸をなでおろし、みたいな感じなんだけど、いつ、ネガティヴ感満載の態度、表情、気分。

に陥るか、というのが、各人の底流を流れてもいて。

その、残りの1のシーンでは、僕に向かって、どこへ行ってたんだね、あんたとは親でも子でもない、くらいの。

時間が流れもしたんだけどね。

そんな感情が、どこから訪れるのか、人間ウォッチャーという視点で眺めると、興味尽きないものですが。

ところで、昨日の日経新聞。

こんな記事がありました。

文字を持たないアイヌ文化、しかし、アイヌ文様を持っていた。

というわけだ。

文字を持つことで、恋文も書けるし、行政文書も残せるし、なので、人々の進化発展には。

最適です、みたいな風潮、解釈の中、しかし、実は。

文字ってのは、かなりエグイものでもあるんじゃねぇ!って解釈も成り立つわけで。

天地神明に生きる、という観点からしたら、地球や宇宙との交信、交流には文字は不似合い。

なのかもしれない。

という意味で、アイヌ文様、というのが、クローズアップ、って算段だ。

ということで、来年の「歴史の旅」のコンセプトは、自然との繋がり、とか。

感受、感得とか、をテーマにした、アイヌ、縄文、なんてのがいいんじゃない?

と提案をしてみた。

交流、交信という意味では、この列島に残るピラミッド、ってのも、テーマになるのかも、なんだけど。

飛騨の位山、とか、富山のとんがり山、とかね。

地域、広がりすぎ、という難点もあるので、そこはどうかな、って具合だな。

いずれにしても、文字を介さない、ま、言ってみれば、コミュニケーションに迫る、と。

というわけで、師走です。

今日から、今年最後の個人ミーティングが始まります。



 

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「グランド・トリノ」を観た。

2019年12月22日 | Weblog

クリント・イーストウッドだ。

そう、Netflixです。

便利だね、検索すると、今すぐ見る、とあるから、押すと、映画が始まる。

って次第で。

オーディオルームでも作り、大画面のモニターを用意し、なんてことになったら。

各人各様の妄想部屋、はい出来上がり、って具合だ。

は、ともかく。

妻の葬儀から始まる映画の中、朝鮮戦争帰りの老白人、ってのが、イーストウッドの役回り。

戦争での心の傷を心に秘めた、頑固おやじ、その隣家は、ベトナム戦争でアメリカに協力した。

ラオス山間の民族、モン族の一家。

って配置。

ベトナム戦争後には、社会主義勢力が権力を握ったので、戦争協力者たちには迫害が待っていて。

で、アメリカに亡命した、ってわけだ。

最初は、もちろん、習俗、習慣の違いからの敵愾心、バリバリ、って具合から、次第に心がつながりだす。

しかも、イーストウッドの子どもたち、孫たちとは、彼は心が繋がらず、という中。

そのうちに、隣家のパーティに呼ばれるような仲になり、とかね。

これ以上は、ネタバレなので、やめときますが、わが方、この列島でも。

介護の世界では、東南アジアからの助っ人の、長幼の序をわきまえた優しさが、たまに。

ニュースになったりするけど、観ている途中で、珍しく、これいいわ、いい映画だわ、と独り言を呟いていた。

最終、涙、って顛末で。

ところで、昨日だったか、新聞の広告欄一面に、矢沢永吉が取り上げられていて。

その中で、体と魂、だったかな、つまり、自分を鏡に映し、いいよ、矢沢、とか、あれ、ダメだね、とか。

そんな会話をするという文章があったんだけどね、面白いな、と。

自分を引きで見る、とでもいうのか、自分とべったりしない、とも言えるか。

まさに、大いなる意識の視点、神の視点、ってことで。

彼は、ビッグになった、という、世評だから、早い話が、「メイド・イン・社会」の観点ではね。

取り上げられもするけど、そこがキモではなく、たぶん。

体と魂、という言い方で彼が表現しているコト、ってのは、どこでも転がっているわけで。

百人百様の、その視点があり、ただ、どうかすると、そこを区分けせず、一緒くたになっている。

ケースがあったりするので、だな。

なんてことはさておき、本日は、おじおば会。

どちらへ参りましょうか。

 

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