まわりで起こっていること

since2004.12「糠漬け初心者」

食べたいときに食べたいものを食べられる。

2021年06月30日 | Weblog

なんて時代は、いつ頃から始まってるのかね。

人類の歴史、なんてことを言えば、ほんの、つい最近、なんだろうな。

だから、ある意味、人類にとっての実験が始まって100年、とかの話かもね。

さまざまな齟齬、不都合が、知らずに起こってくるのも、宜なるかな、ってところだ。

感染病での死者は1万人強として、癌での死者は、桁違いなんだよね。

例えば、の話だけど。

時間当たり30人だか40人だか、だったな、たしか。

食生活なのか環境異変なのか、わからないけれど、とにかく、そんな数字だ。

それは怖いけど、とりあえずは、通常の、日常生活では、あたかも、ないことになっているような。

そんな気配濃厚だよね。

もっとも、日々の生活を恐れを元にして描くか、それとも、喜びを元にするのか。

なんてのは、大きな話ではあるね。

原罪意識も極楽地獄も、言ってみれば、幻想の一つとすれば、どうせなら、この生を喜びに包まれて、という魂胆だ。

簡単にいえば、解釈一つで如何様にもなる、ってことなんだけど。

その、簡単、ってのが、実は、とても難しい、という相反する話に展開していくんだよね。

だから、親鸞さんなんかも、愚禿親鸞、禿げてて愚かな、という境地に至り、以来。

心ある坊さんたちは、愚かを目指した、という学校教育とは異次元な世界へ、かな、ほんとかな。

かも、だけど。

今朝の当方の理解は、そんなところです。

知ってるものは言わず、だっけ、言う者は知らず、って、これまた、わけわかんない話にも進みそうだな。

いずれにしても、あほ、とか、愚か、とかってのは、実に爽快な境地なんじゃないかな。

知ってることに価値がある、と言う流れに棹さしていると、まだまだもっともっとの世界にたどり着き。

キリがないんだろうしね。

今現在だって、情報過多、と解釈すれば、どこまでも辿り着かない、なんか、ギリシャ神話にでも出てきそうな。

そんな世界の住人になっちゃいそうだしね。

コロナ禍で売れた「ペスト」を書いたカミュ、「シジフォスの神話」なんてのも書いていて。

神から罰として、シジフォスは、大きな石を山頂まで押し続け、山頂に着くとまた麓まで戻り、同じことを。

永遠に繰り返す、なんてのを与えられ、と言う話。

俺、これ、やめるわ、って言っちゃえば、それで終了、だったのに、ね。

これがまた、言い出せないんだよね、プライドやら真理の追求やら正しくあろうとしたり、あと何かな。

世間からいい人と呼ばれたい、素晴らしいの絶賛の歓声が聞きたい、とか。

ま、そんなところかね。

というわけで、何もない今日に流れていきます。

 

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梅雨らしい雨の朝。

2021年06月29日 | Weblog

今年は空梅雨とは言わないのかな。

降るには降っている、けれど、それほどでもない、って感じか。

ジメジメ感はないけれど、朝の走りの湿度は、80%を超えている、のは、湿気多い、なのか。

気にもしてなかった、湿度、という数値を改めて見ると、だな。

巴川は流れている、と思いきや、じっとしているんだよね。

満潮を超えるほどの雨ではないよ、ってことだ。

今朝の珈琲は、エチオピア、モカ。

ディンギネッシュ。

季節によって、味が微妙に違うんだな、湯温が高いのか、たしかに。

零下の中でのさまし方とは違っているんだろうな。

温度計を使うほどには几帳面でもなく、ってことだ。

書きたいことがあるけれど書けない時は、やっぱり、言葉が出てこない。

当たり前だな、脳内をそのことが占めているんだから、アネクドットの才能があれば、ね。

その昔のソビエトやナチスの時代のドイツにはあったのか。

そうだ、日曜日には、鯛でアクアパッツアを初めて作ったんだった。

ちょっと、塩を効かせすぎたかも、だけど、鯛の身はうまかったな。

その後、娘がパスタにしてくれたのも、あれも、いけるな。

八ヶ岳でいただいた味には、叶わないけれど、イタリアの南の漁師飯、ってことらしいけどね。

ざっくり、とか、だいたい、とかの作り方なんだよね、やってみると。

なんにつけ、とりあえず、やってみる、ってのは大事だね。

体験者のみが味わえる感懐、とでも書いておくか。

この世の唯一の真実か。

なにせ、情報過多、つまり、ほんとのことがどこにあるんだ、というくらいの世情の中、体験する者。

という立ち位置に勝るものなし、ってわけだ。

それにしても、雨の朝、ってのはいいもんだな。

雨音がずっとBGMのように流れ、つまり、雑音、いらない音は消してくれているんだろうな。

雨音の調べ、なんて歌詞、なかったかな。

さて、始めるとするか。

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自家焙煎をしてみた。

2021年06月28日 | Weblog

って、3度目だけど、2回の不出来を反省し、ってわけだ。

ことのほか、うまくいき、今朝は、コロンビアからの自家焙煎だ。

なかなか、いける、悪くない。

また一つ、誕生、ってことだな。

「いるいる」と言ったか、そんな道具を使っての、で。

自宅のガスコンロだと、AIなのか、途中で火力が弱まっちゃうんだけど、なので、ずっと使わずにいた。

山での、湯沸かし器、それが復活、なんだな。

あれ、火力、かなり強いから、すごいものだね。

10分、かからずに、だったんだけど、そこはそれ、自家焙煎に突っ込んでいったら、温度が、とか、時間が。

とかのさまざまな違いが、気にもなっていくのかも、だけど、当方の気分では、そこまでいかないかな。

いずれにしても、今朝の珈琲は、自家焙煎、という言葉を書くことができるわけだ。

言葉、大切ぞよ、なんていうけれど、ね。

言葉によって、引っ張られ、引っ張り、傷つけ、傷つき、暗くなり、明るくなり、だよね。

今朝の空は、素晴らしい。

台風一過、と書きたいけれど、来たのかな、台風。

そんな空を、カワウくんが一羽、海に向かって飛んでいった。

それなりに絵になる。

なんだろうね、やっぱり、飛ぶより、漁をするのが本分なカラダ、ということかな。

そうだ、自家焙煎の豆は、密閉容器に入れたのだけど、それは、ついこの間まで、ニンニクの醤油漬け用だった。

ので、重曹を溶いた水につけて、匂いなどなどをとり、と。

毎朝、この重曹とクエン酸を飲んでいるんだけど、胃腸にいいのかな。

胃腸といえば、昨日発見したのは、足裏との連関、連動、ね。

よく言われるけど、右肩の凝りがあって、で、足裏の然るべき位置を押していたんだけど、見事。

凝りがなくなった、んだよね。

摩訶不思議、体感した以上、嘘も隠しもなく、エビデンスも要らず、って事になるな。

どうもね、当たり前だけど、知らないこと、あるある、なんだよね。

知った気になる、ってのが、一番、やばいかもね、孔子さんも「論語」で言ってるけど。

知るということは、知らなかったことを知る、ということもそうだけど、知らないことがあることを知る。

という両面だぞ、ってことね。

ソクラテスの「無知の知」ってやつにも、似ているのかも。

さて、素晴らしい空に絆されて、今日に出かけるとするか。

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ゴミを拾って歩く人は大したもんだね。

2021年06月27日 | Weblog

今朝も走り、あるいは、日常の歩きの道中、ゴミが目につく。

拾おうかな、と思いつつ、そのゴミのやり場に困って、そのまま、置き去りに。

ってことが常日頃なんだな。

ビニール袋を携帯、って感じにしようかな、と思いつつ、だ。

中には、ゴミを必ず拾う、という方もいらっしゃるようで、えらいものだね。

見上げたもんだよ、屋根屋の褌、ってなもんだ。

ゴミといえば、何年も前だな、何人かで由比の海へ釣りに行ったことがあった。

お弁当を持ってね。

漁師さんが運転してくれて。

で、彼、お弁当のカラとか、海に捨てるんだよね、おいおい、と思ったんだけど。

勝手な解釈だけど、もともと、ゴミ、という概念はなく、有機物だったんじゃないかな。

自然は自然に返す、と。

漁師の習慣で、海への栄養物を、くらいの話だったのかな、とね。

いつの間にか、石油からのさまざまなものが出回り、習慣変えなきゃね、という転換が進まず、惰性というのか。

なんてこと、思った瞬間だったのでした。

襖の下張り、なんて話、あるよね、使い古した紙、捨てずに。

落語にも登場するゴミ屋の、なんだっけ、「らくだ」に出てくる大将。

それまでおとなしくヘコヘコしていたんだけど、酒飲み始めたら、ヤクザに絡み、辟易させた、彼。

仏壇の蝋燭のカスなんかも集めたんじゃなかったかな。

リサイクル、なんてカタカナ語を使わなくても、それで足りていたわけだ。

なんだっけ、足るを知る、ってやつ。

いつかもご紹介した、アパレル業界、年間2億着、捨てる、なんて話、もちろん。

食の業界も、正確な数字知らないけど、倒れそうなくらいの廃棄なんだろうね。

使えないものを、ゴミ、と言って捨てる。

これ、やばい話で、簡単に、人間に転用できちゃうんだよね、使えないものは、と。

もちろん、表立っては言わないよね、オトナだから。

でも、心のどこかに潜ませての、同調圧力っぽい風情、だな、きっと。

だから、勉強しなきゃ、社会から落ちこぼれちゃうよ的な言説がまかり通ってきたんだろうな。

ゴミ、って、どこかに、護美箱、とか書いてなかったかな、美を護る、おいおい、ってなもんだ。

あんまり、こんなことばっかり書いてると、因業オヤジみたいになっちゃうから、やめとくか。

ちょっとだけ、ついでに、ポリコレ、ってやつ、ポリティカル・コレクトネス。

政治的な正しさ、何かといえば、正しさ競争だ。

あれね、キリスト教の、原罪、っての、人間はもともと罪を犯した、みたいなの。

そこへも行きつきそうな話だな。

というわけで、走り終わった後の心地よい疲労感とともに、終了します。

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ドリプラへの道に賑わいを!

2021年06月26日 | Weblog

なんてウタイもこめた歩きを明日の日曜日、予定していたのだけれど。

台風が来るそうで、順延。

梅雨が来たのか来ないのか、なんて話題の中、おいおい、台風かい、ってなもんだけど。

こちらはこちらで、鬼の居ぬ間のなんとやらで、走ってきた。

いつもの朝に見かける女史の真似をして、spmを増やそう、なんて魂胆とともに。

だったんだけどね。

気持ちよかったな。

恋人同士なのか、二人づれの釣り人がちらほら、目についた。

今朝は、エチオピアからのモカ、ディンギネッシュ。

湿気混じりの朝にはお似合いか、って、エチオピアの気候、知らないけれど。

そう、知らないけれど、語感から想像したら、はい、エチオピア、ってわけだ。

ことほど左様に、大きな世界を捉まえるときには、知らないことを知った気になって、という次第で。

知らないことを知らないもの同士が、それぞれに違ったように解釈しての、会話、なんてね。

だから、オタク、と言われる種族、民族、なんて書くといかにも大仰だけど。

今まであなた、とか、君、とか言ってたのが、わかるわかる、で、オタクさぁ、これね、みたいな。

瞬間に入れ替わる会話の質。

おたがいにほんとに知ってることを確認した時の嬉しさかな。

それも。

わかるね、オタクさぁ、この機微ね、というわけだ。

流れない巴川を眺めながら、さて、次なる展開へ、だ。

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今時の若いもんは、と言い出したら。

2021年06月25日 | Weblog

まんま、それ、鏡なんだろうな、と思うんだよね。

なんとか世代がどうとか、やれ、ああだのこうだの、っての、あるある、の話だけど。

よく、他人は自分の鏡、なんて言い方あるのが、腑に落ちる時でもあるな。

走ったり動いたりしている時には、あいつがどうだとか、評論するよりも、例えば。

ぶつからないように避ける、とか、そんな事になるわけで。

あるいは、自分の動きをさらによくするために、あいつをどう活用するか、とかね。

うまい説明ができないんだけど、「ゆとりの完全体」という話を交ぜて、学生さんの前で話してみた。

15歳のCEO、という御仁なんだけど。

前の世代は、競争して、一番二番を争う、それに比べて君たちの世代は、と何かと揶揄される。

けれど、例えば、あることを実現しようと思った時に、自分のできるのは、これ、しかし。

あれも、欲しい、といったときには、あれができる人間を探す、そして、共同して成し遂げる。

なんて言ってるんだよね。

すごいね、と思ったのは、もう5年くらい前か。

今頃、その彼、どうしているものか。

自分が一番、自分がなんでもする、って、一見良さげでもあり、しかし、あるときには、それが邪魔にもなり。

ってわけだ。

そう、表題ね、笑い話で、縄文時代の遺跡を掘ったら木簡が出てきて、という例の話。

エジプトのピラミッドとか、とにかく、そんな古い時代から、その発想はあった。

なんてこと、だから、古来、ホモ・サピエンスには、寄せては返す波のようにやってくる思考なんだろうね。

今でも、いろんな思考の波が、それぞれの御仁方に押し寄せてもいて。

しかも、共同幻想、みたいなものが、この時代、いつにも増して力を持っていて。

パンデミックなんて言葉もあるし、同調圧力なんてのも、で。

ほんとは、そんなのは、多くの人にとっては、言葉だけなんだけど、「思考」という言い方で。

どこからか訪れるんだよね、まるで、それは自分の所有物のような顔してやってくる。

ので、見間違えがちでもあって。

静かにひとり佇んでいるとき、なんてのは、一人でいる、ということだけなんだけど、うっかりすると。

そこへ自分のような顔してやってくるんだよね、その思考、ってやつが。

困ったものだよね、どこからどこまでが自分で、なんてことが、不分明になっちゃって。

やれやれ、ってなもんだ。

さて、そろそろ、本日の取り組みに出かけるか。

 

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大学の先生からメールをいただいた。

2021年06月24日 | Weblog

学生たちは、この時点までの人生体験しかないから、集中して聴きそうなことは、下記です。

という具合の内容だった。

早い話が、ダメ出し、みたいなものとも取れるんだけど、ね。

そう、昨日の90分講義、ってやつ。

自分の学生生活や社会人になった時のこと、社員さんの成長ぶり、などなど。

という事を書いてくださっていた。

もちろん、ダメ出し、なんて書いたけど、今後のご参考に、ということでもあり、当方が。

話しながらも、時折、これで伝わるかな、とか、学生さんに聞いたりしていたこともあり、だったのかも。

という、懇切丁寧なメールを読みながらも、なんだろうな、今までだったら決まって訪れる感情のようなもの。

もっとこうすれば、というような悔いともいうのか、それがやってこなかったな。

もちろん、ダジャレじゃないけど、仕事、事に仕える、という意味では。

この点、あの点をこうしてああして、という創意工夫はやってくるとは思うけれど。

完結している、というのかね。

あれはあれで、完結、という当たり前のことを当たり前に振り返っている、とでもいうのかな。

「働くことと生きること」という演題で、そもそも、生きること、なんて、ね。

なので、当方の内面に訪れている関心ごとに光を当てて、という運びでもあったんだけど。

生きてあることは、なになにをしているもの、というだけではなく、なになにが自分の中に訪れている。

というのもありで。

それらのものがお互いに刺激され、化学反応が起き、というのが、生きてあることの醍醐味。

なんだろうから、実際には、言葉の応酬をしてみたかったな。

いずれにしても、有難いメールをいただき、爽やかな朝の空気を吸っている、のであります。

今朝は、エチオピアからのモカ、イルガチェフェ。

そうだ、くだんの先生、帰りの道すがら、その年齢には見えませんね、とおっしゃるから。

コロナ以来、走りはじめましてね、なにせ、自己免疫力、ですから、大事なのは。

なんて会話をしたんだった。

僕より、どうだろう、5歳や10歳は若いのかも、だけど、点々点、ってことだな。

ついでに、リアル7人、リモート80人、という時間で、静まり返った構内、って感じだったな。

これもあれも、みんな、コロナのせい?

いや、その解釈は、違っているな、もう少し大きな視点で眺めることなんだろうな。

学というものの独立、なんて観点も必要になるのかも、だ。

これ書き出すと、めんどくさい事になるけれどね。

ソクラテスよ、来れ!なんて言えるのかも、という気分と共に、次の展開へ。

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東京からの来客。

2021年06月23日 | Weblog

と書くと、ある人々にとっては、ワイヤ、あいや、みたいな言葉、出てきそうだけど。

いきなり、名刺交換で、「なつかしい未来創造株式会社」と書かれたものが出てきて。

瞬間、話は、次元を超えた。

先日の、同友会の総会での、パネルディスカッションで、この言葉が僕の口をついて出てきて、皆さんにご披露。

という事になったんだけど、のちの感想には、いい言葉だ、というものもあって。

そんなこともご紹介しながらの、6名さんに、僕を加えて、7名での大団欒。

そもそもの来社理由は、就職氷河期の人たちへの、なんらかの支援ができれば。

かつ、その運動を巻き起こしたい、というようなもので。

静岡市を挙げての取り組みに、というわけだ。

わが社の経営指針発表会での、今季のテーマ、「傾聴」の絵にまつわる逸話もご紹介し。

Don't seek the beautiful serenery

Find beauty in the serenery

スペル、違うかも、だけど、そんな言葉ね、どうやら、ゴッホのものらしいけど。

美しい景色を探すのではなく、景色の中に美しさを見つける、ということね。

仕事のできる人材を探すのではなく、人の中にある能力を見つける、あるいは、育む、と解釈し直しての。

発表だったんだけど。

もっとも、あのゴッホが、当時、こんな言葉も書いたのかね、と小林秀雄さんにお聞きしたいものだけど。

残念ながら、小林さんは黄泉の国の人になっていて、今のところは、言葉は交わせない事になっているんだな。

肝心なことは、そこではなくて。

まるで、有名人が自宅にやってきて、きゃーっと手を口に当てて、みたいな風情、あの、陸前高田で。

被災地の復興を目指して、地元の方々と立ち上げた会社の、当のご本人たちだったからね。

なんてことは、ともかく、おもしろいものだ。

今後の展開に、乞う、ご期待、ってなもんだ。

そうそう、その御仁方、当方の社長TV、ってのもご覧いただいていて、なんというのか、瞬時に。

距離は縮まり、という体感だった。

市からの行政さんもお二人参加され、だった。

そんなことのあった翌朝が、今で。

またぞろの、コロンビアからの、メサデサントス。

巴川沿いをそぞろ歩く方々の、時折聞こえてくる会話の音も楽しみながらの朝です。

くだんの話は、そこここへシェアしたいのはヤマヤマなれど、県大の講義、賞与計算、新規採用の云々、なんてことが。

目白押し、と書くと、いかにも忙しさを振りまいているようだけど、ま、そんなわけで。

この先、どんな展開になりますやらのお楽しみとともに、次へ進みますか。

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朝日に迎えられながらのプリウス走行。

2021年06月22日 | Weblog

夏至の翌朝、なんとなく、縁起がいいわい、って気分だ。

これだけで終わる一日、ってのも、妙なる時間かも、と。

そのプリウスから降りたら、自治会長のお宅で、キビタキと言うのかな、鳴いていた。

囀り、と言った方がいいのか、長い時間だったな。

鳴くと囀りの微妙な違い、ってのも、あるんだろうけど、ま、そういう光景、情景です。

そのお宅は、昔ながらの庭、家屋で、僕は好きなんだ。

たまに、こんちわ、ってお邪魔するんだけどね。

今朝の巴川は、いつもより早いランナーが行き過ぎていく。

そう、さっき、キビタキに眺めいっていたときにも、いつもとは違うランナーが走りすぎた。

なんか、大会でもあるのかな。

LSD、つまり、長くゆっくり遠くまで、の当方の埒外ネタだけど。

今朝の珈琲は、ケニアAAというもので、焙煎堂さんからの、だ。

たぶん、焙煎屋さんの腕によりをかけたブレンドってのが、美味しいのだろうけど、今のところは。

あの銘柄、この銘柄、と渡り歩いている。

珈琲問屋さんで手に入れたイルイルという、便利な焙煎道具は、今のところ、使われずじまいだな。

今朝は、短いけれど、次への展開をすることにします。

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「波動医学」の本を読んだ。

2021年06月21日 | Weblog

と言っても、さわりだけ、ってことなんだろうけど。

旧ソビエト製の機械があるらしく。

ざっくり言うと、未病の追求、なのかな。

化学ではなく、量子物理学の世界だそうで。

内臓にも波動があり、それが次の展開を示してくれる、と言うわけだ。

東洋医学の鍼灸などとの相性も良いらしく、ちょっと、勉強してみようかな。

この500年くらいの西洋への信仰、信頼、信奉、あと何、いろいろと変容している現在だからね。

ところで、今日は夏至。

いつもの72候は、第28候、乃東枯る、これで、なつかれくさかるる、と読むらしい。

草木が生い茂るなか、夏枯れ草だけが枯れていく、昔は、それを漢方薬に用いた、とある。

さらに、冬至ではかぼちゃがいい、と言われるけれど、夏至には、関西では蛸なんだ、とも書いてある。

稲が8本足のように大地にしっかり根付くように、との願い、と言うんだね。

親父ギャグっぽい祈りだ。

関西らしいといえば言えるね。

上記、波動医学、っての、今の世界を理解しようとすると、なかなか、示唆に富むわけだ。

後から後から標語がやってくる、例えば、地球温暖化、SDGs、ダイバーシティ、DX、なんての。

多様性なんてのも、以前ご紹介した、「夜這いの民俗学」の赤松さんによれば、もともと、各地各層で。

さまざまな決まり事、習慣があったようで、まさに、多様性まんま、みたいな。

それらが離合集散していくんだけど、ま、グローバルな、って。

それじゃいけませんよ、とそんな標語が生まれ、人みなそちらの方面に流れ込んでいく。

それが、古来、人間社会、人間世界の当たり前、といえば、当たり前なのかも、だけどね。

そうだ、昨日、ほんとに久々に、蛇を見たんだった、庭先で。

一瞬、たじろいだよ、いるはずのない、と思っている蛇だからね。

木に登り、そのうちどこかへ消えていった。

家に蛇がいるのはめでたい、と昔の人は言ったような、そんな記憶があるんだけど。

アダムとイブの物語を想像しちゃったなんて、西洋かぶれも甚だしいか。

先ほど触れた、夏至の蛸、といい、ちょっと前までの列島では、自然の生き物たちと。

まさに、共生、と言うようなことが普通に行われていたんだろうな。

ごく自然に。

当たり前のこととして。

いつの間にか、窓はサッシになり、網戸がはめられ、高気密高断熱みたいなうたい文句になり。

快適でっせ、いつでもこの温度、ってエアコンみたいなのも設置され。

その先には、昨日も書いたけど、便利この上ないチップ内蔵の人間、みたいな。

さて、そんな妄想はともかく、今日に出かけます。

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