まわりで起こっていること

since2004.12「糠漬け初心者」

鼻の筋肉を鍛える

2018年05月31日 | Weblog

今朝の表題は、めちゃくちゃ、だけど。

そもそも、筋肉じゃないし、つまり、薫香と書けば、かっこい。

いや、かおりを聞く、だったか、香道ね。

鍛える、なんてのは、おこがましいんで、嗅覚を呼び覚ます。

とでも言えるか。

早い話が、珈琲豆を挽き、その香りを楽しむ、というだけのことなんだけど。

それ、毎朝、原産地の違う豆を楽しむと、表題のような。

よくありがちな、例えば、大腰筋を鍛える、なんてことにも似ているかな、と。

ただそれだけなんだけど。

いつだったか、新聞の健康欄に、足が早くなるマシンを開発した御仁の記事があって。

膝と同時に腰も出す、という動きをサポートするマシンのようで、インナーのマッスルを動かす。

というコンセプトらしい。

という記事に触発された表題でもあるんだけど。

日頃、うかうか過ごしていると使わずにほっとかれている機能に注目、とでも書けるか。

大腰筋も、使わずにいると、だんだん、収縮し、なんて言葉にピクピクというわけだ。

せっかくの機能だから、それこそ、神からの授かり物だとしたら、大事に使わせていただこう、というね。

黙っていると、声の大きな方へ傾斜しがちだし。

目とか耳とかに押されちゃうでしょ。

しかも、目とか耳ってのは、頭に近いから、頭優位な、理屈優位な。

なので、音楽なんてのは、おもしろい道具だろうな、と思う。

昨日アップしたOSHOの、聴く、ってのとほぼ、同じこと、だからね。

聴くだけが、そこにある、という状態、思考も入らず、何も入らず、と。

触覚もそうだし、味覚もそうだし、とつながる。

禅僧が食事を作るそのことが修行だし、食べる、そのことが修行、というね。

すると、外界で起こっていること、あるいは、もともとそこにあったものたちに。

出会う。

日々は豊穣へと様変わりする。

そんな仕組みだね、きっと、たぶん。

心してみれば、という例の、誰が言ったのか、僕は、「宮本武蔵」の吉川英治に教わったのだけれど。

万物、ものみな、わが師なり、という時の、心して、と書いちゃうんで、誤解が生じもする。

心、は、意志の力でなんとかする、できるものじゃなく、まんま、そこに置いとく。

そんな感じなんだろうけどね。

ところで、このところ、ネガティブであること、それを味わい尽くす、そんな能力がある。

なんて言い方にであい、英語で書くと、negative capabilityかな、ネガティブ・ケイパビリティ。

これについては、to be continuedということにしておいて、そうだ、志ん生がお亡くなりになったんだった。

もちろん、結城昌治さんの伝記のような小説の中でのことだけど。

娘さんに、医者から止められていた酒を、おい、酒が飲みたい、飲ませなけりゃ、死んだ後後悔するぞ。

と脅して、水差しに注いでもらって、その晩、そのまま、眠るように黄泉へ旅立った。

という臨終の顛末だった。

それにしても、凄まじい、芸というものへの、なんていうのか、生き様と落語が一体化した。

とでもいうのか。

耳に思考が入らない聴く、と、生きることと落語の間に、夾雑物が入らない、噺、と。

似ているかな。

ちょっと人工的だけど、瞑想にも通じるものもあり。

古来、高僧たちが、愚をめざしたのとも似て。

愚、とは、とやかく考えない、とでもいうか。

考えはあくまでも外側にあるもので、その人そのものとは違う、とかね。

こんな話、言い出せばきりがないくらい、言いたい放題になってくるけれど。

そんなことより大事なことは、今朝の骨ストレッチ、というわけで、さて、そろそろお時間となりました。

ってことだ。

 

コメント
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