まわりで起こっていること

since2004.12「糠漬け初心者」

物語を紡ぎなおす

2023年04月30日 | Weblog

昨日、藤原直哉さん、月橋重隆さん、マドモアゼル・愛さんの鼎談を聴いた。

年に一回、あるんだよね。

そこから啓発されたのが、神話。

民族、人類の物語とも言えるか。

そんな物語を意識の片隅に置き、人間ってのは、生きてきた。

なんて安定感を感じもし、愚痴を言い合い、とかしながらも、生きてきた。

のだけれど、その神話、物語を紡ぎ直す時期だ。

というようなお話かな。

2000年間続いた土の時代が終わり、というタイミングで、というわけだ。

常識、とか、当たり前、とか、学校で習ったことでは、とか、賢人が宣ったこと、とか。

それらのことごとから、解放されましょう、って。

風の時代、i knowの時代、われ知る、ということね。

知らしむべからずよよらしむべし、なんて言葉、あったよね。

よらしむ、って、依存の依と書かなかったかな。

いずれにしても、統治の原則みたいなもの。

もっとも、安岡正篤さんによれば、強制力で知らしめるのでなく、民が自ら進んで知り、ついてくる。

というような解釈だったけれど、自ら進んで、ということを。

さまざまなメディア、教育、歴史、などなどを使って、大枠を作ってきたわけだな。

そこが終わりかけているよ、って具合だ。

親鸞さんの言葉に、面々のおんはからいなり、とあるんだけど、あれかもな。

どうぞ、ご自由に、の世界なんだな。

それぞれの物語、神話をそれぞれの言葉で紡ぎ直す、ということね。

そんな時代に生きている僥倖を得ている、とも言える。

そうだよな、ここまで生き延びなかった友人、知人の数々、のことを思うよ。

さて、自らの神話、物語を紡ぐ一日に出かけていくとするか。

 

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不安とか恐れを棄て去る

2023年04月29日 | Weblog

と書くと、促成栽培みたいなポジティブシンキング病に陥り。

何かといえば、明るく楽しく元気よく、みたいな標語、撒き散らし、何てことになるんだけど。

それはそれで、一プロセス、一つのシチュエーション、ということでいいんだろうね。

しかし、それを味わい、つまり、不安とかね、尽くす、みたいな言説もあり、だな。

どこかへ奉納する、というの。

奉納といっても、現実の、物質的なものへ、ではなく。

天とか地とかへお返しする、くらいな感じかな。

いろんな感情がやってくるわけだけど、それを一つひとつ、吟味し評価し選り分け、なんてことじゃなく。

まんまを味わい、ご賞味いただく、って算段だな。

誰にご賞味いただくのかと言えば、当たり前だけど、まずは、当人、当事者に、だろうね。

そもそも感情もエネルギーなわけで、上手に利活用できれば、そりゃ、パワフルなもので。

ニュージーランドのネイティブの、ハカだっけ、あの踊りなんか、まさに、そんな感じもし。

天と地の存在と一体化するような、それで戦いに向かうわけだ。

だから、不安の根っこにある、人間によって評価されない時点でのエネルギーと一体化する。

一体化するのは、どこのどいつだ、ってことにもなるけれど。

とりあえずは、この、たった今に生きている当人、ってことだな。

デクラス、情報開示なんてのが、日々刻々と表に現れつつある現在、早い話が、自由を手に入れる。

そんなタイミングでもあり、パンデミック由来の、そもそもなんだっけ、という問いを。

日常に向けて発し。

となると、あらゆることが、自由に、真っ白いキャンバスにフリーハンドを与えられた状態だ。

誰の歌だっけ、じゅーん子、思い通りに、生きてごらん、なんて歌詞。

それだな。

新しいものの創造ってのは。

思考回路をフル回転させて、じゃなく、そこを「お休みにして」状態へやってくるものに。

ただ、畏敬もいらず、素直に、まんまを受け止め受け入れ、だろうな。

正解を探るのでなく。

答え探し、正解探し、なんてフレーズが、いかにも西洋流で。

その昔は、南蛮なんて半分揶揄してたでしょ、それが、舶来モノになり、そのうちに神様のようになって。

だよな。

今朝も浮かんでくることをそのまま書き記したGW初日だ。

 

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一つ起業でもしてみるか。

2023年04月28日 | Weblog

というのが、車を走らせながらにやってきた、ま、インスピレーション。

または、ユーミンじゃないけど、カーテンを開けたらすべてがメッセージ、みたいな感じか。

なので、早速、ここへ書き記すことにした。

なにせ、まわりで起こっていること、ってタイトルのブログだからね。

このところ、なんでも書いちゃうか、という気にもなっていて。

もっとも、今までもそうだっただろう、という言い方もできるけれど、そこはそれ。

さまざまな忖度とでも名付けられるものもやってきたりして、だ。

と書きつつ、すべてを書く、なんてのは、神のみわざだよな。

すべて、という言葉を、切り取り、とかと言い換える方がいいのかも。

ほんの刹那の、ほんの一コマの、だな。

とここまで書いてきて、社員さんが、正確に言うと、長男坊がやってきて。

早いな、との言葉に、ちょっと現場の件で、というわけだ。

大きく計画が変更される可能性が云々、ということの報告を受け、たしかに、事件は現場で起こっている。

ってことを知らされもし。

だな。

妄想、夢想のあわいに、存在している、ってことだ。

いずれにしても、そんなわけで、一直線の妄想は頓挫し、だな。

さて、気持ちの良い、連休前の一日と呼ばれる日に出かけるとするか。

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雨上がり決死隊

2023年04月27日 | Weblog

なんて芸名のお笑い芸人さん、いたな。

ふと、そんなことも思い出された朝。

青空です。

雨のおかげで花粉症も和らいだだろうか。

このところ、葬儀が多くて、と昨夜の呑みの後のタクシーの中での言葉が残っている。

古くからの友人というのか高校の後輩なんだけどね。

その後のポツリの一言が、だけど。

そうか、こいつもそんなこと、考えてるのか、なんて話です。

そのあとは、88歳の御仁とのしばしの呑みタイム。

頑丈な方だ。

まだ、歯は全部自分のだ、という方。

そりゃ、120は超えるかもですね、なんてね。

と時間が流れ、の青空の朝。

いい気持ちだね。

このゴールデンウィークは、雨模様だそうで、中には9連休なんて方々もいらっしゃるのだろうけど。

連休でうれしい、というのだけれど、かたや、毎日が日曜日、なんて方々も、かね。

結果、ないものねだり、といえばキツイ言葉になっちゃうけれど、今、でないものへの憧憬、と。

休みたけりゃ毎日休んじゃえばいいのにね、とも言えるな。

その結果はどうなるかはわかりませんが。

そもそも、明日は誰も知らないはずで、ね。

会社をクビになるか、家庭不和になるか、会社が潰れるか、誰にもわかりません、ってわけだ。

そそのかすわけじゃないけど、この時代、日常を壊す、くらいの気概でもいいかな、なんてね。

日常の構成要件、なんて言葉があるのかどうなのかわからないけれど、何をもっての日常なのか。

その要件を一つ一つ捨てて、とかさ。

あるタイミング、ある瞬間には、それらすべて投げ捨てて、なんてこと、あるんだからね。

そう、死だ。

黄泉の国への旅立ち、ってことだけど。

ま、朝から剣呑な話か。

いや、そんなことかも知れず、というのも、上記の葬儀が多い、なんて言葉からも察せられるんだよな。

とにかく、雨あがりの青空から始まる今日に出かけるとします。

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お侍と天使と女神

2023年04月26日 | Weblog

昨日は、午後からリモートでチャネリングをしていただいた。

チャネリングというのか、なんというのかね。

古くからの友人、札幌在住の女史。

表題の方々が僕の守護をしてくださっている方々、というわけだ。

去年の暮れに一回、春になっての二回目。

その中で、噴火、というワードが出てきて。

どうやら、富士山にまつわるもののようだけど。

僕の中でのイメージは、人との関係の中、会話の中からの噴火、というのは、わかりやすい。

溜め込んだエネルギーが外へ噴き出す、という瞬間ね。

あれ、わりと好きなんだよね。

わりと、というか、したりやったり、みたいな気分でもあるな。

その場での共同創造、ってことだな。

誰が、というより、そこに集う方々が、なんの因果か溜めに溜めたエネルギーを放出するいう場面。

多対多であったり、1対1であったりだけどね。

もっとも、そこには僕すらいない、とも言えるか。

エネルギーとエネルギーがそれぞれ別々のように見える姿形を持って登場し、というのね。

その噴火にもつながるけれど、外へ出すことの不安であったり、あるいは、まわりで起こっていることへの。

恐怖や不安との遭遇というのは、いろんな形でやってきもし。

それぞれのやり方でそれに対処する、というのが、ま、デフォであり。

ある方は癌となり、ある方は神経症とかね、胃痛とか怒鳴り声とか悲しみの涙、とか。

それが生きている証、なんて斜に構えた言い方もできるわけだ。

ろうたけた御仁方は、ま、世にいう賢人、聖人、なんて方々は、その恐怖、不安を別の表現にしてるかな。

あるいは、違った場面で利活用する、なんて具合のデフォルメの技を施し、って具合だ。

つまり、エネルギーそのものを活かす、と。

逡巡しない。

そこに立ち尽くさない、なんて具合かな。

つまり、すべてのものはエネルギーが本体、なんて解釈でもあるか。

本体であるエネルギーが、「いろんな出来事」という名前の仮装をして、とも言えるか。

いずれにしても、そんな朝は雨です。

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霜止みて苗出ずる

2023年04月25日 | Weblog

4月の25日から29日までが、表題で。

いい感じだな、と書き写した次第。

新緑の季節だ。

この時期はいいよね。

なんて書いてると、花粉症の方々の嘆きが聞こえてきそうだけどね。

なんだろうね、あれ。

花粉でも、スギやらなにやらで症状が違うとか、だそうで。

意外な人が、僕もあたしも花粉症です、なんて告白があったりするからね。

野鄙な、とか、豪胆な、とかの形容詞がつきそうな御仁方、ね。

現代病なのか、縄文の頃からあったのか。

謎だな。

いずれにしても、カラダからしたら、われを害する異物、ってなモンだな。

異物といえば、どうしても、例の、covid-19だっけ、コロナね。

世の中には、俺を害するばい菌が蔓延しているから、マスクします、っての。

あるいは、あたしのばい菌がお年寄りを害すると困るから、とか。

これ、知らぬ間に、いや、無理やり人と人との距離をつくっちゃうかな。

もっとも、もともと、距離ってのはあって、ベタな関係なんてのが、胡散臭い関係でもあるんだけど。

お前のこと、わかるよ、という時の、わかる、は、わかつ、から出ているなんて言説、誰だったかな。

安岡正篤さんが書いてたか。

かの老師も晩年には、細木何某との関係からいろいろとあって、ご遺族はご苦労された、なんて話もあったな。

致知出版の元副編集長が話していたのは、何年前になるかな。

彼のオタクに一夜、泊めていただいたことがあった。

本棚にはずらっと文庫本から何から並び、編集者ってのは、こんな読書量なのか、と慨嘆したものだった。

今頃、彼、どこでどうしているのやら、ってなもんだな。

ところで、表題に続いて、苗代では稲の苗が生長する時節、とある。

身延街道を北へ向かった、あそこ、何ていう地名だったか、和紙の里の先、この時期。

緑が綺麗だろうな、と浮かんできたよ。

おじおば会が定例化してた頃は、毎年の風物詩みたいな感じでもあったな。

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久しぶりの「河岸の市」

2023年04月24日 | Weblog

このところ、福一へよく行ってたからね。

魚が少ないよ、といつもの大将からの声がやってくる。

困ったもんだね、と応じつつ、他の店に行くと、カワハギがいいよ、と若い衆。

といっても、還暦前後の御仁だな。

前回の時、やっぱりそんな会話で、ここが柔らかいから肝がよさそうだけど、というわけだ。

じゃ、それちょうだい、という間に、アジ、珍しく由比のだよ、ときたから、それも、だ。

なんて買い物をしつつの清水港だった。

さっそく帰宅後、青のりを佃煮にし、カワハギのカマやらはすまし汁とでも言うのか、薄い塩だけで。

これが、絶妙とまでいかないけれど、薄味の向こうにほんのりと出汁がやってくるんだな。

そうだ、帰宅したら次男坊と妻が、どうやら田舎の古い家を物色中。

これだけの広さなら、自給自足ってなもんだな、と。

昨日も書いたけど、鄙の暮らしだ。

リアルに田舎へ引っ越し、ってのもありだし、心の中の鄙ってのもありそうだな。

つまり、自分の好きなこと、ものは自分で決めます、という決意表明だ。

人やら社会やらルールやらで左右されません、というのね。

ファッションから生き方までの道、それは自決します、ということになるな。

自分の「おかしさ」に気づくのが才能だ、なんて言説にも出会い、そう、そこだよ、と。

おかしさ、というのも、和語のいい響きでもあり、「いい加減」が裏表あるように。

これも、なんか、昔の和歌か川柳になかったかな、いとおかし、みたいな表現ね。

たぶん、そこへ至ると思うんだけどね。

僕はペットに興味がなく、というのか、自分自身がペットみたいなものだからね。

それに通じるかな、おかしさ、ね。

そりゃ、最強だよ。

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木曽でクラスター

2023年04月23日 | Weblog

が出たために、役場が臨時休業?なんていうヤフーニュースがあり。

ある弁護士が、それ、いつの話?今なの?みたいなツイートをしていた。

歓送迎会かなんかの後に、ということのようだけど。

今どき、そんなことがあるんだね、という感想でもあり、とともに。

この6月の漆器祭り、どうなるんだろうか、という話なんだけどね。

木曽平沢村と奈良井宿ね。

今年は楽しみにしていたんだけどね、久しぶりに行きたいな、と。

行くことはできるにしても、クラスター祭りだと、あれやこれやの規制の中では楽しめないからね。

木曽路は深い山の中、だっけ、そんな昔のフレーズ、たしか、あったけど。

まさに、そんな具合で、都とは一周遅れ、みたいな。

その昔、木曽の、源義仲だったか、いろいろとご苦労もありつつの上京でもあったんだろうな。

なんてことが浮かんできたよ。

さらに、あの木曽路を皇女和宮が江戸へ向かったのは、200年くらい前か。

お供のもの、何百人か、ひきつれの道中、さぞかし、いろんな習慣の違いやら何やらで難儀したことだろう。

都市と田舎、都と鄙(みやことひな)みたいな区分けが、これから先の時代は、たぶん、そんなに口の端に上らなくなる。

というより、むしろ、鄙の方が、暮らすにはいいよね、なんて話になりつつある気配濃厚で。

早い話が、鄙と都の違いってのは、外から、つまり、海外からの文物なんかの摂取状況の違いでもあり。

ネットで瞬時に繋がることを仮定したら、それは、前時代の遺物とも言えて。

だな。

グローバリズムが衰退し始めているとしたら、という仮定の話だけどね。

昨日と今日の走りについては、気分がいいんだ。

5分台/kmが続けて出たからね。

そんな小さな出来事が、僕にとってはとても大きな出来事で、というわけだ。

というような日曜日です。

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見附のお天神様

2023年04月21日 | Weblog

そう、久しぶりに磐田。

電車で降り立つのは初めての磐田駅。

そこへ車で迎えに来てくださった御仁の口から出てきたのが表題。

様をつけての物言いが、とても良くて、思わず彼に伝えてしまった次第。

いかにも、日頃から大事にされている神様なんだな、と。

言葉の端端に出ちゃうもんだからね。

いい感じだったな。

主祭神は、矢奈比賣命(やなひめのみこと)ということで、延喜式内社というから、古い。

菅原道真公も祀られている。

おじおば会で、母たちと何回か訪れた天神様だ。

たしか、近くに、産屋の跡が残されていたと記憶にあるな。

砂浜で出産した、妊婦は一人籠り、箒で掃き清め、の後の出産だったかな。

谷川健一さんの本を読んでいた頃だ。

民俗学、というやつね。

今ではあんまり覚えてないけれど、時折、顔を出すんだな、そんな記憶が。

今となっては、学と名のつくものも、眉唾物、みたいな風情でもあるんだけど。

それぞれの学究者さんたちが、人生を賭けての営為でもあったんだよね。

なんてことも思いつつの磐田の夜を過ごしたのでした。

地元の、20人弱くらいの方々との懇親の場だった。

タバコを吸う御仁方が多くて、今どき珍しいね、と喫煙スペースでの話に花が咲いた。

さて、今日は夕方に二件のお通夜だ。

知り合いのご母堂の葬儀。

ちょっと前までは、葬儀すら遠慮がちに、だったんだけど、だいぶ旧に服した感じだ。

にしても、この時節、いろんなことが表に出てき始めてるな、という印象。

逆に言えば、今まで、いかに裏に隠されていたか、の証左でもあるんだけど。

そんな流れの中で、カタカナ語に見直しがかかりそうかも、なんて予感が嬉しいネタ。

かも、ってのがミソで。

日本語使いの脳が復活、なんてことになるかもな。

密かに期待しているのであります。

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他人のタイムライン

2023年04月20日 | Weblog

なんてフレーズに出会って、すかさず、メモをした次第。

そのタイムラインには介入できないように、誰もあなたの人生を操作できませんよ。

という応援メッセージみたいな感じで現れた。

Twitterが始まった頃から言われ始めた、このタイムラインというカタカナ語。

便利なので、というか、何も考えずに使っているんだけど、和語ではなんだろうね。

落語でもそんな目で聞き直したら、しこたま出てくるのかな。

はともかく、この3年ばかりのタイムライン、世間のね。

そんなこともつらつらと考えてみもしているわけだ。

と書きつつ、僕の中では、いわゆるコロナ禍というやつは終わってるので。

このところ、そこここへ出張っていこう、という気になっていて。

行って観て会って、というフレーズも、それこそ、このパンデミックくらいの間によくお聞きする御仁。

そのメディアから流れてくる中で、出会ったんだけどね。

観光、とも言えるかな。

光を観る、ってのは、なかなかいい言葉だよね。

お宝発見、とも言えるかな。

みる、が、見るではなく観る、ってのが、また渋い。

観自在菩薩、ってなもんだ。

観光というと、観光地、ということになるんだけど、人も事業もあれやこれやと、もっと奥行きのあるもの。

そんな感じで受け取ると面白そうだな。

縦軸と横軸の広がり。

火と水のなんとか、ってのあったな、たしか。

火は天地を貫き、水は滔々と拡がりゆく、という感じ。

なんて朝は、ブラウニーのマスターが精魂込めたブレンドだ。

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