ので、窓を開けてみた。
ずいぶん前から、ある周波数が、聞こえにくくて。
なんだけど、今朝は、あれ、って感じで聞こえてきた。
それも、実際は定かではないけれど、そこに鳥がいたのかどうなのか。
なんてのもね。
と言えば、すべからく、この世はそんななりとたちで、出来上がってもいるわけだ。
先週の、長崎への旅の余韻が残っている、というのは、アンテナが。
島原とか雲仙とかに傾いている、とでも言えるか。
街を歩いていても、ね。
よく作家さんや学者さんが、くだんの研究対象の生家や事績を訪ね歩く。
なんてのがあるけれど、あれ、気持ち、わかるね。
不思議なもので、そこへ降り立った、というだけで、他人事でなくなる。
リアルの持つ力、か。
理屈や論理というのは、どうも、胡散臭いわけではないけど、屋上屋を重ねるようなところもあり。
砂上の楼閣とも書けるか。
かといって、ベタな現実だけを語る、ってのも、なかなか鬱陶しくもあるんだけど。
ベタな、というより、現実まがいの現実を表現する、というのかね。
どこかから借りてきた認識の仕方、解釈を並べる、っての。
時代の大転換期、なんての、どこでも言われるセリフだけど、それを思い知ったのが。
長崎での、ジャパネットタカダの高田明さんの講演で、彼、最後の方で。
愛、という言葉を投げかけた。
すべからく愛なんだ、と。
愛なんて言葉は、そこここで撒かれてもいるけれど。
あの場面での言葉、というのに、時代の転換を感じた次第で。
転換、というのも、たぶん、人類にとっていい方向への、という意味だけどね。
そりゃ、AIでなんとか、地球環境がなんとか、なんて言い方もあるけれど、テストに出るとこ。
そこんところじゃなく、ってわけだ。
殉教、愛、汝が先のナガサキ、被爆したマリアさま、などなど。
そこから抽出できるものが、たった今の、感懐なのです。
さて、外も明るくなりつつある中、骨との対話へ向かうとするか。