空は澄んだ青。
なんて書くと、ここまではお約束の、みたいな感じでもあるけれど。
なにせ、このところ、言換え、概念を切替え、なんてことに挑戦しているので。
なんだけど、亀井勝一郎も、そんなことに、つまり、言い古された言葉に取り込まれていたな、と感じた瞬間がね。
あったようで。
「おくのほそ道」という講談社文庫があって、松尾芭蕉の句をそれにちなんだ地で回想、感想を書く。
なんていう企画の中で、佐渡を担当。
佐渡といえば、荒波や佐渡に横たふ天の川、って有名な句となるんだけど。
彼、それに囚われていて、佐渡といえば、荒涼たる夜の海なんてことが思い浮かび、そのはずだ、みたいなね。
もっとも、あらゆるところで、そんなことはあるわけで、区分けしたり名付けたり帰属を決めたり。
それで安心する、ってことに慣れ、もともとはなんだっけ、ってなもんだ。
支配する、なんてのも、不安やおそれからでもあるかね。
この、概念や名前を後生大事に、というのはそれはそれで悪くはないけど、時には、あれ、って考え直してみるのも。
これまた一興で。
ところで、今日から第18候、牡丹華く(ぼたんはなさく)とあるんだけど、深見草ともいうらしいね。
それはともかく、牡丹といえば、わが祖母、おすえさんの逸話。
牡丹が咲いて、雨だったか雪だったかが降ったので、落花しないように傘をさしていた、と。
この季節だと、流石に雪ではないね。
その話を聞いたのは、わが母親からで、その彼女も90歳を超え、施設に入所中、コロナ禍で。
面会もできず、ということなんだな。
なので、恒例のおじおば会も開くことができず、去年から季節の移り変わりを車中での。
昭和一桁世代の言葉とともに愛でることもままならず、だ。
さて、流れない巴川の上空は澄んだ青、そんな今日に出かけるとするか。