新型コロナ感染者数が東京都2000人台、神奈川県1000人台と・・・他に全国の総感染者数も変化なく留まった低下状況もない毎日で夕方のTVニュースを見るのもマンネリ化している現状です。
沖縄に転勤していた自衛官の娘夫婦も昨年暮れに激寒が待ち受ける北海道札幌基地に転勤した。夏の暑さから冬の寒さ・積雪の地への生活環境の移動でもある。沖縄のコロナ感染状況からは免れたが、2人して雪掻きも頻繁にしたという。
こういった状況下等で春を過ぎ私の「今は暇」も再開したのです。「市〇医学部附属病院」に腎臓・高血圧内科(2ヶ月に1回の検診)と血液内科の受診でお世話になっています。この血液内科の血液検査こそが体内のあらゆる機能状態を指針してくれる部署で、体内のその都度の検診であります。先日第2回目5/9~5/15日間の入・退院を終え次週2回の受診と次々週2回の受診をクリアーしました。そして1週お休みの後、昨日受診いたしました。その際体調にも変化がないので運動(Golf練習)しても?また第3回目のワクチン接種も可能でしょうか?とお伺いを立てましたが先生の回答は「NO」でした。暫く様子を見てからではとのことでした。まだ「ドクターストップ」の現状でしょか。運動がいま投薬をしている薬に影響を及ぼす可能性があるからです。体内に悪影響を及ぼしている何種類の血液種が基準値までに戻らないと正常とは言えないそうです。あらゆる検査の後ここで私の病名をはっきり申しますと「多発性・骨髄腫」と診断されました。この病気はほおっておくと骨内にはびこる菌に骨が侵されてゆく病気なのです。この治療法は骨内にはびこる菌を縮小する治療で全て血液検査結果のデーターで左右されます。基準値に近くになるのがベターですが、なかなかそのようにならないのが先生たちのご苦労の種なのでしょう。現在は週1回の診察でデーターによって投薬注射1回と7日間の錠薬で治療を受けています。私にとってこの病気が早期発見で治療の甲斐があったことでしょうか。出来るだけ早く週1回が2週1回に~3週1回に1ヶ月に1回と診療が遠のくのがベターな治療なのでしょうか?この病気とは長い~長いお付き合いなったのでした。
そして「今は暇」:となると四六時中頭の働きばかりで何かを考えている。体を動かす軽い運動(ウォーキング等)だけが私に許されているのです。趣味の写真の事・音楽の事についてはいろいろあるが、そのうち考えも尽き果てて遥か昔の思い出にまで及んでくる。
よくタイムスリップという言葉を耳にするが不思議と50年間携わり、生きてきた激動の社会情勢下は記憶が薄れている。おセンチにも学生時代のみ鮮明に思い出がこみあげてくる。
今から65年前まで遡って思い出がこみあげてきた。
我が「学生時代」の私生活の追憶:学業については以前にご披露した。S33/2~3月間、受験の為、友達と2人で帰省中の先輩の宿を借り、受験のために2ヵ月余りを過ごした。下宿先は世田谷区経堂で小田急・経堂駅近くにあり、大きな屋敷で大きなお宅の2階が何部屋かに分かれていて4~5人の学生さんが下宿していた。家主は当時、日大の教授がご主人で奥さんと2人暮らしで、奥さんが下宿学生さんの取り仕切り面倒を見ていられた。我々も奥さんには何かにつけ相談事等お世話になった記憶がある。その中の1室を間借りして2ヶ月余りの間、受験に挑戦したのでした。受験先は意とするところがあり「日大」と「明大」「東京教育大」の3校を選んだ。いずれも「建築学科」 「日大」と「明大」は早いうちに試験があり、合格が確定したが、第一本命であった「東京教育大」は国立2期校で3月末の試験日で、東京文京区の「茗荷谷」まで通った。2ヶ月間の旅の疲れもあり、試験科目(工作)の追加課題で予備知識不足も重なって断念せざるを得なかった。合格した「日大」では教養課程は2年間「静岡県・三島キャンバス」で3・4年から上京し本校での専門課程を極めるルールであった。一方「明大」は4年間通して 花の都大東京 での一貫した学業が与えられていた。「明大」は実力派の諸先輩方やスポーツでも知名度が高く、尚、マンドリン倶楽部創設者で作詞・作曲家の「古賀政男」の出身校でもあった。一方学業の方はというと、専門課程で有名な工学博士専任教授や工学博士専任助教授7人の面々を擁し少ない学生の専門へと導いていられることであった。悲しいかな歴史が浅く我々が工学部の歴史を作っていかなければと自覚した。私は知名度も高い「明大」進学の道を選んだ。折しも下宿先の奥さんの紹介もあり、近所で2室空きの内1部屋に下宿を決めたのでした。一旦帰省し進学の為再度上京とした。引っ越し荷物を母に送ってもらい下宿初日挨拶をしたのでした。ここのご家庭もご主人は当時、早稲田大学の理工学部・工業経営学科助教授「O・M」氏でその奥様が一人息子(現在O・A氏(当時小2)の教育ママなのでした。それにご主人の父親の4人家族に私の下宿先が決まったのでした。生活をしているうちにその一人息子さんが勉強の合間でヴァイオリンを習っていられることが解り、当方もヴァイオリンを齧っていた関係で一緒に「きらきら星」の合奏を楽しんだ記憶があります。奥様の趣味でもあった水彩画にもお付き合いしたこともあったっけ!そうこうしているうち明大での教養課程2年間もあっという間に過ぎたのでしたが(同輩のS君との出会いとお付き合いはこの頃であった)当方はこれから卒業までの2年間の専門課程はどうしても厳しくなった学業を全うしなければとの思いで、当下宿先に訳を話し、ご理解を求め断腸の思いで当下宿先を変わり専門学業に励んだのでした。
※ここで一つのエピソードがあるのでした。
私の「今は暇」であれこれ記憶をたどっているうち、昔の下宿時代ことに頭が及んだ。そうだ当初の下宿先「O・M」先生はどうしていらっしゃるかな?とやたらと気になり始めたのでした。65年ぶりにその後のご様子をネットで検索してみたのでした。虫が知らせたのか、そして追悼文などにより過去の「O・M」氏の略歴と悲報を知りえたのでした。
その名ぞ「尾関守氏・早稲田大学名誉教授(理工学部経営学科教授・勲三等瑞宝章)」とあり、2020年5月11日(97才)脳梗塞等でご逝去されたとのことです。私は65年前僅か2年間の短い期間でありましたが寝食共にお世話になった氏を偲び、又学問一筋に人生を全うされた氏に合掌しご冥福をお祈り申し上げた次第です。氏はコロナ禍情勢下他界されたわけですが、何か因果なものを感じざるを得ませんでした。それは私の誕生月日と氏のご命日が同じ月日であったからです。又ヴァイオリン合奏で楽しんだ一人息子さん「O・A」氏は早大大学院物理学科卒で朝日新聞・北大客員教授・を経て現在は法政大学で非常勤講師の傍らフリージャーナリストとして活躍されているとのことです。著書も多々ありますが我々の世界より少しかけ離れた学問のように感じられてなりません。
今の私にとってはつかの間の学生時代、いや人生の一通過点でこれで良かったのかもしれないと自称している。 (ysa)