紫紺のやかた

紫紺のやかた

野鳥の名前はなかなか覚えられない

2022-06-20 13:18:12 | 日記
 ysaさんのブログに大船フラワーセンターで見た2種の野鳥の写真が載っていて名前が判らないとのことでしたが4枚の写真はハクセキレイで1枚はムクドリと思います。
(拡大して口ばし・足が黄色で尾が短いのを確認しました。ムクドリです)

 庭に来たり家の近くでも見かけるのでこの鳥の名前は良く判ります。スズメ・ハト・カラス・トビ・メジロ・ヒヨドリ・シジュウカラも・シラサギ・カモも身近な鳥です。何故か身近な鳥でないツル・ニワトリ・シチメンチョウ・ツバメ・キジ・ウズラ・クジャク・フクロウ・ライチョウ・オウム・ダチョウというような鳥は写真を見れば誰でも判りますが、これは幼年期から絵本等で覚える習慣になっているからだと思います。

 花や樹木そして四つ足動物の名前はかなり覚えても野鳥や魚の名前は中々覚えられません。以前明大の仲間と毎年のように2月末になると逗子海岸で波打ち際に流れ着いた若布を拾って浜で茹でて一杯飲みながら「若布で一杯」という行事を行ったことがありました。この時は若布に限らず他の海藻も拾い茹でてショウガ醤油等で食べ酒の肴にして歓談しましたが「海藻勉強会」も兼ねて一応20種類ぐらいの海藻の名前を覚えて海岸のある住民としての資格を得たような満足感に浸った思い出もあります。海岸には必ずトビが上空にいます。
 葉山イトーピアに住むHさんが野鳥の名前を覚える「野鳥観察会」をしたらという話が昔ありましたがこれは実現していません。イトーピアは山の上なので変わった野鳥がくるのではと今でも思います。

 最近は市内特に川の近くや山にある公園で鳥の写真と名前を記載した看板を見かけることがあります。自然環境が良くなったという趣旨と名前を憶えてもらいたいという趣旨を謳っているのだと思っています。逗子清水橋駐車場寄りの橋の袂にも「田越川にすむ生きもの」として5種類の鳥の名前が載った看板があります。 



 また葉山南郷公園でも以前「この森で見られる野鳥」という看板を見たことがあります。15種類の鳥の名前がありましたが写真と名前を一緒にはまず覚えられません。
 

 大きな鳥を除き野鳥は地面でよく見かける鳥以外、見るのは僅かな時間なので実物を観察する余裕がなく、口ばし・足の色や尾の形・長短というような特徴を観察することが難しいからかもしれません。田越川で綺麗なカワセミを見てヤマセミもいるというのを頭に入れていれば山の水場近くの木の上に来たヤマセミに出会った時はまさに幸運を感じるのではと思います。

 図鑑で写真と名前を頭に入れてもやはり出会った際にすぐ結びつくかと言えばこれはまず無理で印象に残るような出合いが必要と思います。以前野鳥観察は双眼鏡が主流でしたが今は望遠カメラ観察だと思います。動きの速さでの長短はありますが写真を撮る方は撮影で鳥を見た場所や識別がよくできるので鳥への関心が深まれば名前を覚え易いと思います。
 ysaさんがハクセキレイとムクドリの名前を覚え、田越川でキセキレイに巡り合えるのを願っています。(yoo)

大船植物園を訪ねた

2022-06-19 12:43:05 | 写真館
 大船フラワーセンターは今頃花の見ごろは如何かと少々気になり、体調調整もあり週中の晴れた日に花の撮影にウォーキングしてきました。6/16
         
 ガーデン前の広場(アーケイド) 美しい花を求めて歩いているうちに花ならぬ野鳥と共に歩行することとなった。なぜか目の前4~5mのところで、つかず離れずで私はいいアングルを願いながら追いかけた。
 
そのうち2羽の鳥が寄ってきてなぜかポーズをとってくれているように見た。
 

       
  二種,2羽の鳥が寄ってきて花のことは忘れ、暫し時を忘れ一緒に過ごした。しかし、いいアングルを求めたがそれは叶わなかった。やはり素早く動くものは写真に収めるのが難しいのです。残念ながら鳥の名前は私の知識不足でした。
 七月初旬に先駆けて鉢植えの蓮の花が先行賑わいを見せかけていた。
 

 
 紫陽花も時期を惜しむかの如く木陰で踏ん張っていた。「ひまわりテディビア」がその北側で時期を引き継ごうとしていた。ぐるーと1週2.5時間のウォーキングであった。
 折しも、「合同写真展」6/7~6/19が催されていたので拝見した後にセンターを後にしたのでした。                                         (ysa)


箱根湿生花園を訪ねた

2022-06-11 12:21:11 | 写真館
 今年も「幻の青いケシの花」展示不可能な事情で一抹の寂しさを感じていたが湿生花園の事情によると、この紫陽花の時期に200種の鉢植えの箱根の「小さなあじさい展」(5/21~6/19 期間限定)で展示会が開催されているということで箱根路を往復してきました。国道1号線の往復では、今新緑が真っ最中、谷間に生えた新緑のトンネルに、朝の太陽光を浴びたスケルトンの新緑が鮮やかでした。入園をし紫陽花展と6月の季節花撮影ウォーキング2時間を堪能したのでした。
       
   
                   


   

                               

                    

丁度、お昼時を過ぎ疲れも少々、いつもの向かい側の「蕎麦処」でとろろ蕎麦を昼食に、暫し休憩し帰途に就いたのでした。   (ysa)


北鎌倉の寺で紫陽花鑑賞

2022-06-09 18:06:01 | 日記
 鎌倉ケーブルテレビで鎌倉報国寺の竹林の管理と長谷寺の紫陽花の管理について見ましたよ。両方の寺は何度も訪れていますが庭師の具体的作業を知って大変だなという思いを新たにしましたね。

 竹林は日が当たらないと竹が曲がってしまうので間引きが必要。曲がった竹も切って斜めにし下から短く切っていくのは高い木が上から切っていくのと反対でした。竹林で切り株をよく見ますが筍を掘っただけでなく間引きの跡でしょうね。長谷寺は海が近く潮風で葉や花が傷みやすいのに四季を通じて花の名所になっています。紫陽花も同様で、青色は土中のアルミニウムが吸収され、色素と結合して発色。 逆に、アルミニウムが吸収されないと、ピンク色が発色ですね。 アルミニウムは酸性土壌でよく溶け、アルカリ土壌では溶けません。 だから、土を酸性にすれば青い花になり、中性~弱アルカリ性の土ではピンクの花になりますが、これは昔から常識ですね。長谷寺では青色とピンク色が混在して咲いている場所もあります。種明かしは潮風が当たらないようにしている場所で紫陽花の木を育てていて、観光客の目に留まる紫陽花が傷めば取り替えているとのことでしたよ。

 雨の翌日の6月8日、このテレビの影響もあり妻と北鎌倉の歩く距離が少ない寺に紫陽花を鑑賞に行きました。東慶寺では最近手入れが行き届かないせいか入場無料が続いていますが落ち葉の溜まった水路を掃除している方がいましたね。大木が多く庭師の役割も違って感じられましたよ。紫陽花も濃い青は見当たらず、ピンクが目立ち酸性土壌が弱まっている感じでしたね。
 明月院は花見客が多く、株数も多く紫陽花の名所は今も変わりませんね。酸性土壌が豊富な感がしましたよ。ただ株数が多いので道の確保に庭師の役割が付いて回りそうですね。



 余計なことを考えていて花を愛でていないと受け取られるといけないため一言添えておきます。「羅漢洞」の少し先に白い花びらで中心部が黄色の花が咲いていましたよ。



 明月院で確認できた初めての花でしたね。近くの御朱印帳の場所で女性の方に尋ねましたが判らず事務所で聞いて下さいとの返事でした。事務所によって若い娘さんから「夏蠟梅(なつろうばい)」ですと教えてもらいました。
 何かを得たような有難い気がしたのは年取った証拠かなと思いましたよ。                                                                                                                              (ごんべい)


新型コロナ感染者数低下も乏しく! 「今は暇」における私の追憶

2022-06-05 13:26:00 | 追憶
 新型コロナ感染者数が東京都2000人台、神奈川県1000人台と・・・他に全国の総感染者数も変化なく留まった低下状況もない毎日で夕方のTVニュースを見るのもマンネリ化している現状です。
 沖縄に転勤していた自衛官の娘夫婦も昨年暮れに激寒が待ち受ける北海道札幌基地に転勤した。夏の暑さから冬の寒さ・積雪の地への生活環境の移動でもある。沖縄のコロナ感染状況からは免れたが、2人して雪掻きも頻繁にしたという。
 こういった状況下等で春を過ぎ私の「今は暇」も再開したのです。「市〇学部附属病院」に腎臓・高血圧内科(2ヶ月に1回の検診)と血液内科の受診でお世話になっています。この血液内科の血液検査こそが体内のあらゆる機能状態を指針してくれる部署で、体内のその都度の検診であります。先日第2回目5/9~5/15日間の入・退院を終え次週2回の受診と次々週2回の受診をクリアーしました。そして1週お休みの後、昨日受診いたしました。その際体調にも変化がないので運動(Golf練習)しても?また第3回目のワクチン接種も可能でしょうか?とお伺いを立てましたが先生の回答は「NO」でした。暫く様子を見てからではとのことでした。まだ「ドクターストップ」の現状でしょか。運動がいま投薬をしている薬に影響を及ぼす可能性があるからです。体内に悪影響を及ぼしている何種類の血液種が基準値までに戻らないと正常とは言えないそうです。あらゆる検査の後ここで私の病名をはっきり申しますと「多発性・骨髄腫」と診断されました。この病気はほおっておくと骨内にはびこる菌に骨が侵されてゆく病気なのです。この治療法は骨内にはびこる菌を縮小する治療で全て血液検査結果のデーターで左右されます。基準値に近くになるのがベターですが、なかなかそのようにならないのが先生たちのご苦労の種なのでしょう。現在は週1回の診察でデーターによって投薬注射1回と7日間の錠薬で治療を受けています。私にとってこの病気が早期発見で治療の甲斐があったことでしょうか。出来るだけ早く週1回が2週1回に~3週1回に1ヶ月に1回と診療が遠のくのがベターな治療なのでしょうか?この病気とは長い~長いお付き合いなったのでした。

 そして「今は暇」:となると四六時中頭の働きばかりで何かを考えている。体を動かす軽い運動(ウォーキング等)だけが私に許されているのです。趣味の写真の事・音楽の事についてはいろいろあるが、そのうち考えも尽き果てて遥か昔の思い出にまで及んでくる。
 よくタイムスリップという言葉を耳にするが不思議と50年間携わり、生きてきた激動の社会情勢下は記憶が薄れている。おセンチにも学生時代のみ鮮明に思い出がこみあげてくる。           
 今から65年前まで遡って思い出がこみあげてきた。
 
我が「学生時代」の私生活の追憶:学業については以前にご披露した。S33/2~3月間、受験の為、友達と2人で帰省中の先輩の宿を借り、受験のために2ヵ月余りを過ごした。下宿先は世田谷区経堂で小田急・経堂駅近くにあり、大きな屋敷で大きなお宅の2階が何部屋かに分かれていて4~5人の学生さんが下宿していた。家主は当時、日大の教授がご主人で奥さんと2人暮らしで、奥さんが下宿学生さんの取り仕切り面倒を見ていられた。我々も奥さんには何かにつけ相談事等お世話になった記憶がある。その中の1室を間借りして2ヶ月余りの間、受験に挑戦したのでした。受験先は意とするところがあり「日大」と「明大」「東京教育大」の3校を選んだ。いずれも「建築学科」 「日大」と「明大」は早いうちに試験があり、合格が確定したが、第一本命であった「東京教育大」は国立2期校で3月末の試験日で、東京文京区の「茗荷谷」まで通った。2ヶ月間の旅の疲れもあり、試験科目(工作)の追加課題で予備知識不足も重なって断念せざるを得なかった。合格した「日大」では教養課程は2年間「静岡県・三島キャンバス」で3・4年から上京し本校での専門課程を極めるルールであった。一方「明大」は4年間通して 花の都大東京 での一貫した学業が与えられていた。「明大」は実力派の諸先輩方やスポーツでも知名度が高く、尚、マンドリン倶楽部創設者で作詞・作曲家の「古賀政男」の出身校でもあった。一方学業の方はというと、専門課程で有名な工学博士専任教授や工学博士専任助教授7人の面々を擁し少ない学生の専門へと導いていられることであった。悲しいかな歴史が浅く我々が工学部の歴史を作っていかなければと自覚した。私は知名度も高い「明大」進学の道を選んだ。折しも下宿先の奥さんの紹介もあり、近所で2室空きの内1部屋に下宿を決めたのでした。一旦帰省し進学の為再度上京とした。引っ越し荷物を母に送ってもらい下宿初日挨拶をしたのでした。ここのご家庭もご主人は当時、早稲田大学の理工学部・工業経営学科助教授「O・M」氏でその奥様が一人息子(現在O・A氏(当時小2)の教育ママなのでした。それにご主人の父親の4人家族に私の下宿先が決まったのでした。生活をしているうちにその一人息子さんが勉強の合間でヴァイオリンを習っていられることが解り、当方もヴァイオリンを齧っていた関係で一緒に「きらきら星」の合奏を楽しんだ記憶があります。奥様の趣味でもあった水彩画にもお付き合いしたこともあったっけ!そうこうしているうち明大での教養課程2年間もあっという間に過ぎたのでしたが(同輩のS君との出会いとお付き合いはこの頃であった)当方はこれから卒業までの2年間の専門課程はどうしても厳しくなった学業を全うしなければとの思いで、当下宿先に訳を話し、ご理解を求め断腸の思いで当下宿先を変わり専門学業に励んだのでした。
※ここで一つのエピソードがあるのでした。
 私の「今は暇」であれこれ記憶をたどっているうち、昔の下宿時代ことに頭が及んだ。そうだ当初の下宿先「O・M」先生はどうしていらっしゃるかな?とやたらと気になり始めたのでした。65年ぶりにその後のご様子をネットで検索してみたのでした。虫が知らせたのか、そして追悼文などにより過去の「O・M」氏の略歴と悲報を知りえたのでした。
 その名ぞ「尾関守氏・早稲田大学名誉教授(理工学部経営学科教授・勲三等瑞宝章)」とあり、2020年5月11日(97才)脳梗塞等でご逝去されたとのことです。私は65年前僅か2年間の短い期間でありましたが寝食共にお世話になった氏を偲び、又学問一筋に人生を全うされた氏に合掌しご冥福をお祈り申し上げた次第です。氏はコロナ禍情勢下他界されたわけですが、何か因果なものを感じざるを得ませんでした。それは私の誕生月日と氏のご命日が同じ月日であったからです。又ヴァイオリン合奏で楽しんだ一人息子さん「O・A」氏は早大大学院物理学科卒で朝日新聞・北大客員教授・を経て現在は法政大学で非常勤講師の傍らフリージャーナリストとして活躍されているとのことです。著書も多々ありますが我々の世界より少しかけ離れた学問のように感じられてなりません。
 今の私にとってはつかの間の学生時代、いや人生の一通過点でこれで良かったのかもしれないと自称している。    (ysa)