紫紺のやかた

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新しい紙幣に思う(5000円札・津田梅子)

2024-07-08 13:33:30 | 回想
 かなり昔になるが毎年6月になると鎌倉市長谷にある成就院に紫陽花の花を見に行っていた。石段の上から紫陽花と共に見る鎌倉の海岸は趣きがあったし、ここから極楽寺切通しを通って極楽寺に行き境内を拝観、気が向けば江ノ電の線路沿いに歩いて稲村ケ崎に出ることもあった。成就院の紫陽花の木が大幅に切られてしまってからこのコースを歩くことはなくなってしまった。
 稲村ケ崎の音無橋のほとり、江ノ電の線路より小高い場所に津田梅子の別荘があり、この跡地近くに立って相模湾を眺めたことも記憶に残っている。 


 梅子は明治4年に船上で7歳を迎え岩倉使節団に同行してアメリカに留学、18歳で中等教育までの11年間の留学を終えて帰国した。帰国後職もなく、9年後に再度3年間の大学留学をして帰国後に女子英学塾(後の津田塾大学)を創設し女子の高等教育に生涯をかけている。
     

 稲村ケ崎のこの別荘が終焉の地で昭和4年に64歳で亡くなった。近くの姥ガ谷に能登生まれの哲学者西田幾多郎も別荘を持って昭和8年から住むようになり昭和20年終戦2か月前にここで亡くなっている。二度目の西田夫人の山田琴さんは梅子の奨めでアメリカに留学、卒業後女子英学塾の教授を務め、津田別荘で幾多郎と出会い結婚したという。
 新紙幣の前の肖像は女流歌人樋口一葉でその前は東京女子大学初代学長を務めた教育者の新渡戸稲造だった。新渡戸も津田別荘の近くに住んでいたことを知って訪ねたことを思い出す。島本千也さんの「海辺の憩い(湘南別荘物語) 」という本を入手して湘南の別荘を探しながら散歩した時代が思い出される。この本は末尾に協力者として中学の恩師黒田康子の名があり今も手元にある。
 逗葉の地に津田梅子の話を未だ聞いていないが、岩倉使節団に一緒に加わり終生交流があった山川捨松が帰国後大山巌に嫁つぎ鹿鳴館の華と言われたが先妻の若くして亡くなった娘が不如帰の浪子のモデルになっていることを思うと披露山下の海に建つ不如帰の碑に捨松と津田梅子をふと連想したのも遥か昔になってしまった。

 
 かって勤務先が三井コンツエルンの設立者で茶人の益田孝とゆかりが深い箱根強羅公園前に保養所を建てたことがあったが益田孝の実の妹が津田梅子、山川捨松と共に岩倉使節団に同行して留学期間を終えて帰国した3人のうちの一人永井繁子だったことも記憶を蘇らせて追記しておきたい。

 
 永井繁子後の瓜生繁子は日本最初のピアニストと言われているが、山川捨松後の大山捨松と共に津田梅子の終生の理解者であり女子英学塾の設立協力者であった。(yoo)