紫紺のやかた

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新しい紙幣に思う(1000円札・北里柴三郎)

2024-07-10 18:48:45 | 回想
 逗子海岸に立つとふと日本の明治維新以降の医学の歴史を感じることがある。ここは昔小坪村に属し東小坪の新宿海岸として漁師の拠点であり松の繁る人気のない海岸だったという。それが1885(明治18年)初代陸軍軍医総監の松本順により健康に良いということで大磯海水浴場が開設されると、新宿海岸でも1888年(明治21年)、田越川河口に旅館養神亭が開業し、翌年横須賀線逗子駅の開業によって新宿海岸周辺に別荘が建ち始めた。陸軍軍医の石黒忠悳(ただのり)らによって1892年(明治25年)頃より海水浴場として最適であると宣伝され、徳冨蘆花の不如帰の舞台となったこともあり、大正頃より逗子海水浴場として知られるようになった。
  逗子海水浴場を宣伝した石黒忠悳

 石黒忠悳は北里柴三郎とも深い縁のある人物だった。1885年(明治18年)ドイツのベルリン大学へ留学した北里は医者で細菌学者ロベルト・コッホに師事していた。1887年(明治20年)、石黒陸軍省医務局長はベルリンを訪問して北里に近代衛生学の父とも言われるペッテンコーファー(緒方正規、森鴎外の恩師)の研究室に移るように指示したが、コッホは石黒と面会し、北里柴三郎という人物の期待の大きさを強調したので、石黒は移動命令を撤回したという。
  
            ロベルト・コッホ 
 1889年(明治22年)、北里は世界で初めて破傷風菌だけを取り出す「破傷風菌純粋培養法」に成功した。翌年には破傷風菌抗毒素を発見し、さらに「血清療法」という、菌体を少量ずつ動物に注射しながら血清中に抗体を生み出す画期的な手法を開発した。同年血清療法をジフテリアに応用し、同僚であったベーリングと連名で「動物におけるジフテリア免疫と破傷風免疫の成立について」という論文を発表した。第1回ノーベル生理学・医学賞の候補に「北里柴三郎」の名前が挙がったが、結果は抗毒素という研究内容を主導していた北里でなく、共同研究者のベーリングのみが受賞した。論文がきっかけで北里は欧米各国の研究所、大学から招聘の依頼を数多く受けるが、国費留学の目的は日本の脆弱な医療体制の改善と伝染病の脅威から国家国民を救うことであるとして、これらを固辞し、1892年(明治25年)に日本に帰国した。もし石黒がコッホの意見を断ったら北里の大きな成果は生まれなかったかもしれない。

 北里はドイツ滞在中に、脚気の病原菌の発見を発表した緒方正規に対し、実験手法の不備を指摘し病原菌発見を否定した。同郷で、熊本医学校では同期であった緒方は内務省衛生局では北里の上司だったことがあり、東京大学総長加藤弘之から「師弟の道を解せざる者」と激しい非難を浴びた。緒方とは私生活では良好な関係を保ったものの、これにより母校の東大医学部とは対立することになってしまった。時の日本では東大以外に伝染病研究ができる場所はなく、北里自身の日本での研究者生命を危うくすることを意味した。
     東京帝国大学医科大学学長、
                                 日本における衛生学、細菌学の基礎を確立した緒方正規

 北里が海外で大きな快挙を成し遂げたのにそれに相応しい研究環境が用意されないことを深く憂いたそんな北里の危機を救ったのが初代内務省衛生局長を務めた長與専斎と緒方洪庵の適塾時代からの盟友・福沢諭吉である。福澤諭吉は全面協力と多大な資金援助を行い、1892年(明治25年)10月に「私立伝染病研究所」を現在の芝公園内に設立、北里をその初代所長とした。この時、長與専斎54歳、福澤諭吉57歳、北里柴三郎40歳であった。
  
 鎌倉海水浴場の恩人 長與専斎      明治24年頃の福澤諭吉

 1908年(明治41年)コッホが来日した際に北里柴三郎等が建てた記念碑が稲村ケ崎にあって見ている。しかし元々ここに建てられたのではなく、眺望の良い霊山山(りょうぜんさん)に霊山園と呼ばれた公園があって、コッホを案内し、のちに記念碑をそこに建てたが記念碑は1983年(昭和58年)結核菌発見100年を記念し、鎌倉市医師会によって稲村ヶ崎に移転された。なお稲村ヶ崎と霊山山は一体で山続きだったが関東大震災で崖崩れが起こり山の形が変わってしまい、1928年(昭和3年))に丘陵開削工事で分断され切通し(現R134号線)が開かれた。成就院の裏山に位置する霊山山に移転を留める石碑があると聞き一度行きたいと思いつつ実現していない。
                 稲村ケ崎に建つコッホの記念碑
 霊山山より移転を留める石碑

 北里柴三郎は伊東に広大な別荘を構え千人風呂と言われた温泉プールを造り一般に公開して温泉療法を実践したが、葉山にも別荘があり郷土誌葉山第8号に「北里柴三郎の別荘」として矢嶋道文氏が書かれている。(yoo)