コートジボワール日誌

在コートジボワール大使・岡村善文・のブログです。
西アフリカの社会や文化を、外交官の生活の中から実況中継します。

局長待遇の失業者

2009-08-21 | Weblog
日本で皆既日食があったと聞いて、思い出した。あれも皆既日食のあった日だった。「日食、フランス」と検索すると、すぐ出てきた。1999年8月11日。なんとちょうど10年前である。この日、私はパリにいた。街の角々で、観察用のサングラスを売っているのを見て、午後にフランス本土で皆既日食があることを知った。私には、残念ながらこの世紀の天体ショーを楽しむ暇はなかった。この日私は、パリを発って新たな任地に赴任しなければならなかったからである。行先は、コソボであった

NATOがセルビア軍を爆撃し、1999年5月、ミロシェビッチ大統領はコソボから撤退した。その後始末を任された国連は、コソボに国連コソボミッション(UNMIK)という現地機関を設立し、平和の再構築を始めた。私はそのUNMIKに、日本政府から派遣された政務官として、赴任することになったのだ。ちょうど10年前のこの日に、私はパリを発ち、ウィーンを経由してマケドニアの首都スコピエに入り、そこから国連のヘリコプターに乗せられて、コソボの飛行場に降り立った。

今にして思えば、それから15ヶ月間のコソボでの仕事は、私の人生を変えたように思う。紛争直後のコソボは、街も村も荒廃し、人心は荒れ、ありとあらゆる問題を抱えていた。UNMIKはわずかな人数で、それらの問題に縦横無尽の対応を求められた。行政と名のつくものなら何でも仕事であると、これだけ漠然とした任務を与えられたのは、国連にとって史上初めてだった。目の前で起こることが、私には経験のないことばかりであった。いや、国連の誰にとっても、コソボでの仕事は前例のないものだった。

私にとっては、それ以上の試練が待ち構えていた。私をコソボに送り込むにあたって、日本政府は国連本部ときちんと話をし、ニューヨークで合意を取り付けていた。私のポストは官房次長、つまり局長待遇。だから、UNMIKでは、自分の個室と秘書がつくはずだ。そして着任次第、明確な任務と部下が与えられ、整然と仕事を進めることになると思っていた。それはとんでもない誤解だった。

UNMIKは、セルビア軍が撤退した後の軍関係のビルを占拠して、仮事務所にしていた。コソボに到着した私は、人々が激しく出入りする雑然とした廊下に、官房長の執務室を見つけた。そして部屋に入り、官房長に挨拶した。私は貴方の次長として、本日着任いたしました。
「なに、次長だと。そんなもの、私は頼んだ覚えはない。」
覚えはないと言われても、私には国連本部からの任命書がある。任命書を一瞥して、その官房長は言った。
「要らないものは要らない。君が日本政府から派遣されたかどうかは、自分の知ったことではない。ここは戦場だ。働く者だけが必要だ。とにかく、自分に次長は必要ない。」

個室や秘書どころではない。いきなり失業者になってしまった。ポストも机もなく、私はなんとそれから1週間ばかり、行き場がなくて街を放浪した。東京に連絡しても、現場の問題には全く埒が明かない。その一方で、次々に到着する国連職員たちは、がむしゃらに仕事を決めて、どんどん働きだしていた。

途方に暮れながら、私はようやく悟った。この国連の世界は、一匹狼の集まりなのだ。外務省という組織の一員として、組織の規律と規則に従い、組織に守られて仕事をするのと、まったく訳が違う。その世界には世界の、掟があり作法がある。

そうと腹をくくれば、私はもう自力で何とかするしかない。UNMIK事務所の中を歩き回って、ようやく机の半分のスペースを見つけた。そこに座っていた職員が、地方の仕事に転出したので、机が空いたのである。私はそこに座り込み、書類などの荷物を積み上げて、自分の机だと宣言した。幸い、その人が使っていたコンピューターも残してあったので、それを使って、自分勝手な仕事を始めた。

これが私のコソボ生活のはじまりである。次長のポストはおろか、ニューヨークで合意されていたはずの局長待遇は、ついに最後まで与えられなかった。というより、誰にもそのような特別待遇など無かった。まったく官房長の言う通りであった。働く者だけが、ポストを得た。働く以上は、ポストは平等であった。

そのうちに、UNMIKの人々も、私に力があることを認識するようになった。その結果、私はようやく人並みに働けるようになった。私の力といっても、私自身の実力ではない。日本政府がコソボ貢献策で決めていた資金を、私が東京と相談しさえすれば、使えるようになるということが、次第に皆に分ったのである。

コソボに到着して、いきなりくらった衝撃により、とにもかくにも私は目から鱗を落とした。ポストに座って、与えられる課題を正しくこなす、という職務ではない、別の仕事のやり方があるということだ。課題を自分で見つけ、自分で担ぐ。自分が司令塔になって、会議を開き、人を動かし、金を取ってくる。少々の、いや相当の乱暴をしても、その課題が達成できれば、人に認められる。そして国連職員の場合、それが履歴書に積み重なっていく。達成できなければ、無能といわれ、もう次の雇用契約は回ってこない。

日本の役所には余りいない、型破りの仕事師が、国連の現場にはたくさんいた。彼ら侍たちに揉まれ、彼らの熱情溢れる仕事ぶりに触れることができたことは、貴重な体験であったと思っている。私も、次第に彼らにならって、自分の発想と信念において仕事をするようになった。何をするにも、日本と違って、組織の枠は希薄だった。国連は自由であった。自由な中で、15ヶ月の間、私はいろいろなことを手掛けながら、何でも意志一徹があれば実現することを知った。

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1 コメント

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ご無沙汰いたしております (A)
2009-08-28 17:15:45
ごく短期間ですが、コソボにてお世話になりました、K大学のAです。ウィーンでバルカン班のブリーフィング、さらにベオグラードに入ってから陸路コソボへ、どんどんと不思議な世界に入っていく感覚でした。岡村さんにいろいろ面白い話をうかがい、とても勉強になりましたが、この話はお聞きしなかったなあ。私がお邪魔した時にはすでに個室をお持ちでした。
興味をもってこの日記を拝見しております。現在公共部門に働く若い人を教育する大学院を設置して運営しております。機会があればぜひ学生に講話をお願いしたいと思います。

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