倉子城物語
太鼓橋(たいこばし)
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倉子城村の真ん中を流れる汐入川は高梁川から枝分かれして児島湾に流れこんでいた。倉子城に集まる荷は汐入川から児島湾の小串で大船に積み替え大坂へ運んでいた。また、高梁川の船着き場四十瀬の渡しで荷積みをして高梁川を下って連島の沖の亀島から大坂へと言う二つの海路があった。
嘉平は暇なときは店をおたねに任せて遠くまで出歩くことが多かった。川西町や連島の角浜の遊郭へ行くのではなく自分なりに道程や人家の模様を頭に叩き込むのが目的だった。
高梁川には高瀬舟が荷を積んで松山(高梁)から下津井へ上り下りをしていた。四十瀬の渡しには村が出来ていた。四十瀬は荷が集まりそれを積み降ろす人足達の長屋や船大工、鍛冶屋、茶店、めし屋、が一つの集落を作っていた。
遠くからでも見える銀杏の木が聳えていた。その中で雀が群がって遊んでいた。子供達は銀杏に群がる雀に石を投げて獲ろうとしていた。倉子城からは一本道だがみんな銀杏を目指して歩を運んだ。その銀杏の下にお鹿の茶店があった。秋になって銀杏の落葉をはき集めるのは一苦労だがお鹿はいとおしそうに掃き集めていた。四十瀬の渡しあたりには綿が植えられていた。川向こうの中島や西阿知や水江にも綿の畑が広がっていた。米より綿の方が値が良かったからだった。中州の土地が米に適していなかったと言うこともあったのだろう。その頃は高梁川とは言わず松山川と言っていた。中島、西阿知、水江は松山川が流し出した土砂で作られた広大な中洲であった。それを挟んで川は東西に分かれて流れていた。東松山川と西松山川と呼んでいた。山陽道は倉子城の北の山沿いを通っていた。山手、清音、川辺の渡し、真備、矢掛、井原、福山へと続いていた。
皆様御元気で・・・ご自愛を・・・ありがとうございました・・・
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