yuuの夢物語

夢の数々をここに語り綴りたい

藺草

2006-01-31 21:53:43 | 時代小説 藺草
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藺草



 倉敷は先年まで花茣蓙の産地として有名であった。それが廃れて行ったのは日本で藺草を植えなくなったからである。また、生活様式が変化して畳の部屋が少なくなったのも原因である。風土に適した住居が、その様式が廃れて次の生活空間を求めた國民の変りようである。だが、何百年の文化とは何かを考えさせてくれる変化である。



 干潟に藺草を植え、茣蓙を織るようになったのは何時の頃からか定かではない。

 備中綿と茣蓙が世間に知れ渡ったのは、江戸時代の初め頃からであろう。

 米を作り大坂に送り換金するより嵩は張るがそれらを荷として出す方が儲かったし楽であったろう。以外と自然の脅威によって左右されなかったのも作り手にとっては良かった。松山川が押し流す土砂で一番に干潟になったのは西阿知と中島であった。先に書いた四十瀬の対岸一帯であった。その干潟に何時の頃からか藺草が植えられるようになった。氷の張った田地を割って苗が植えられ、真夏の炎天下で刈り入れる。防腐と艶出しのために藺泥に漬けて乾すと青々とした藺になった。乾かしたあと袴の様な切り株が残っているのを取らなくてはならない、それを袴を取ると云う。それを機に通して織るのだが、西阿知とか備前の早島は茣蓙で有名であった。何処の家も機を織る音が朝早くからした。織り上がった茣蓙は子供たちが松山川の土手に干した。後に日本一の茣蓙の産地になり、絵柄を織り込んだ花茣蓙は世界各地へ輸出されるようになるのだが・・・。それは江戸の始めに干潟になったこの地方の産物であった。



 おせいが、父の棹で松山川を下り西阿知へ嫁いできたのは春まだ浅い頃であった。父は高瀬舟の船頭であった。松山から近在の荷を積み棹を操り四十瀬、五軒屋、古新田、東塚、呼松、塩生、通生、下津井と、荷お下ろしながら川を下る。帰路はそれぞれの船着場で荷を積み肩に食込むともづなをひっぱりながら上る。人の出会いは運命をつくる。それが取り持つ縁であった。

 おせいが十三の時であった。

 おせいが嫁いだ先は、米が五石と藺草を植え、茣蓙を織り裕福とは言えないが五人の生活には困ることはなかった。

一人が三日で一升足らずの米を食べていたから一年に十斗と言うことは二、五俵、詰まり百升で一石と言う計算になる。江戸時代の米の値段は一石一両である。畝俵と言われていた時代一反で十俵と言う計算になると言う事になるが中々その通りにはいっていない。小作と地主なら五五か四六の割りで分けられた。だから五俵四俵ということになる。三反百姓では十五俵、六石あまり、大人三人と子供が一人の生活でやっとであった。江戸時代の二百七十年の平均の米の相場は先にも書いたが一石一両、一両を今の価値に直したらおおよそ二十万円。一年間に一人二十万円の食生活費がかかったということになる。

 豊臣秀吉が検地をして畝、反、丁と新しく定めるとき、歩幅の小さい男を使い三十歩を畝と決め、三百歩を反にして、新しく土地の面積を決めたことは、領地を狭くして、田地を、石高を増やして恩賞の地にしたのだ。

 秀吉の検地では・・・。

 一合枡は一人の一回の食する米の量であった。一升を三日とすると、一ヵ月で三斗、一年で十二斗になるが、およそ一石。一畝で一俵として、四十升を三十坪で割ると一坪当り一升と三合と言う事になる。豊作でこうなるのだから一坪を一升と考えたほうが良いことになる。詰まり一坪が一升、三日の米の食べ量であったのだ。考え方によっては一斗が一ヵ月十升である。大さっぱに言えば一反を二石として何万国の大名としたのである。だから、三万国の大名は一万五千反、四万五千歩と言うことになる。大名にその石高が入ったのではなく農民と五五か六四で分けていたから、実質は一万五千か一万二千石の財政ということになる。六四であれば一万二千人の生活しか出来なかったのである。年貢を高くすると農民は土地を捨てて逃げたから、上げることも出来ず大名は長い年月の内に窮息して行く事になる。その前は三百六十五坪が一人の人間が生活するのに必要であったという事になる。から、秀吉の検地より前の領地は広かったのだ。本来なら三百六十五坪なのだが、それを三百坪を一反という基礎を定めたのだ。土地は狭くなった。秀吉の検地は土地の広さと米の収穫量で枡と坪を決めたということである。米の出来る量で土地の広さを決めていたのを、人がどれだけ食べるかで決めたということだ。尺貫法は枡の生活から生まれた日本独特の物であった。



  中國の尺は日本より今の計算方法を基準にすると十センチ程短かった。つまり一里は五百メートルであり、万里長城は日本の距離の測り方では千二百五十里である。五千キロと言うことになる。

 まとれ・・・。



 夫である千蔵は宮大工をしていた。歳は三十歳に近かった。十一の時に弟子入りして宮大工として一人前になるにはそれだけの歳月がいった。小柄であったが逞しい身体であった。

おせいは恐々と煎餅布団の中で身をちじこませで待った。

 千蔵が入ってきて、

「ええか」と言った。

 おせいは母から言われた通り背を見せてじっとしていた。

「いたい」と初めての時は頬を濡らした。

 おせいは千蔵の腕の中で女になった。女の道がそこから始まったといえる。機を織る音が微かに聞えていた。義母はもう起きて仕事をしている、おせいは周章て千蔵の腕から抜け出して、身仕度をし水を使った。身体がまだ火照っていた。東の空が明けていくのを見ながら、これからの生活を夢見た。

「今日くらいは、ゆっりと休めばいいが・・・」

 義母のかねが優しく言ってくれた。

「教えてください」とおせいはいった。

 かねから藺草織りのことを習うことになる。

 藺の袴を取り方を教えられた。藺を揃えて義母が織る機を手伝った。そして、機の前に座るようになるにはそんなに時がかからなかった。

 千蔵は宮の作事があれば何ヵ月も家を空けたが、それ以外はおせいと機を織り、荷車に茣蓙を積み松山川の土手に乾しに行くのが楽しかった。

 また、このころは・・・よく普請という言葉を建築の時に使うが、江戸時代にはその言葉は開墾造成と言う意味であった。家を建てるというのを作事と言った。余談になるがここに記しておこう。



 おせいは、松山川の流れに手を遊ばせながら、この上流に母がいると思うと苦労を辛いと感じられず幸せだった。それに、千蔵は優しく、義母もいい人だった。義父は千蔵が生まれてすぐ他界したということだった。祖父母がまだ元気だった。後家の踏張りで子を大きく育てただけに、芯の強い働き者であった。

 一日を殆どかねと過ごすのだが、女と過ごすというより男の包容力を持っているかねだからジメーとしたものはなかった。



 おせいを淋しくさせるのは・・・



 千蔵が仕事で何ヵ月も家を空ける時、おせいは一人の褥で身を持て余して眠れないのだった。千蔵の厚い胸が恋しくも思った。

 おせいにとっては人生で一番幸せな時期であった。

 おせいが嫁いで一年目に、千蔵があっけなく疱瘡で逝った。子供は出来なかった。

 おせいは、泣き崩れた。

「これもあんたの運命じゃから・・・」

 とかねがぽっりといった。

「おせい、精舎というのは色のある木花を植えんところじゃ。いろ、女に迷わん・・・と言う戒めじゃそうじゃ・・・。が、人間とは黒い衣を着けている人たちでも、尚それだけ欲心が多いいということかもしれん」

 千蔵の言葉を思い出した。おせい家の庭からは山桜がよく見えていた。

 二人でよく眺めた。

「櫻は陽を見ては咲かん。どうしてじゃろうか・・・。このわしの仕事も、仏様や神様を頂く入れ物を造るが、陽を見ることはねえ・・・。櫻と同じじゃ・・・」

 二人で松山川の土手で茣蓙を乾し、幸せなときを過ごした折りに話してくれたものだった。

 おせいは千蔵の元へ行くまで櫻を梅雨時に二十本づつ植えた。

 春になるとその花びらが庭を覆い始めていた。乾した茣蓙にその花びらが絵模様を描いた。

 ある時春雨が桜花を敲いた。急いで茣蓙を仕舞おうとしたが間にあわなかった。

 茣蓙に鮮やかな絵図が残っていた。それが、花茣蓙として人気を博す事になるのだから世間の事は先が見えない。

 汐入り川へ向けての河幅を広げる運河工事が終わり、その土手に沢山の櫻が植えられた。酒津の櫻の事は大正十二年に東西に岐れていた高梁川(松山川)の東が堤堰された時に植えられたという説もあるが筆者は前者を取りたい。



 今、酒津はひとめ千本櫻の名所として残っている。花茣蓙は消えつつあるが・・・