yuuの夢物語

夢の数々をここに語り綴りたい

曇り空の日に鬱陶しいのは

2011-01-31 18:09:50 | 独り言
早春賦 日本叙情曲集より



曇り空の日に鬱陶しいのは・・・。

 頭が重く何をするにも気力が湧かない、どんよりとした曇り空の日にはそんな状態でぼんやりとしている。これでも良くなった方なのである。鬱の状態であったので厄年も、更年期障害もその中に混じっていて自覚しなかった。更年期障害というのは何も女性の専売特許ではない。鈍感な男はあまり自覚しないだけ。雨がしとしとというのも少しは楽だが同じ症状を呈する。寧ろザーザーと降ってくれている方が開き直れて楽なのだ。
 三十数年前車を車にぶつけられ整形外科へ半年ほど通院したことがある。二、三年して肩がこり頭が重く不眠で困ったのだが事故の後遺症くらいに思っていたのだ。だがこれはより深刻な問題の序章に過ぎなかったのだ。
 私は医者ではないので専門的なことは分からないが三十数年前は鬱であるとは診断できなかったと言えよう。鬱病の存在は分かっていたが心の病くらいにしか思われておらず、日航機の機長が鬱なのに操縦桿を握り羽田をオーバーランをして認知されたというものである。脳神経外科へいけば脳波を取って筋収縮性頭痛と診断され薬を調合された。それを飲んでも一向に良くならなかった。整形外科へ行けばレントゲンを撮って首つりの機械で首をつられた。それも効き目はなかった。内科に行けば十二指腸潰瘍の注射を二十日間射れ飲み薬をくれたが駄目だった。この際専門医のはしごをしようと思い眼科、耳鼻科、泌尿科、肛門科、などあらゆる医院の門をくぐった。治療費の無駄だった。
 私の周囲にも同じような症状の人がいて同病を哀れみ哀れんでいた。それは傷を舐めあっていたということだった。
「あの人は横着者なのよ。一日中ボーとしていて何を考えているのかわかりゃしない。ヤクでもやっているのでしょうか」という声に心がさいなまれている人たちであった。その中の焼き肉屋の克つちゃんが、
「何でも川崎医大に心療内科という科があるらしいのでみんなでいって見ようやないか」と言った。酒飲みのはしごと一緒でいくことにした。克つちゃんは川崎医大や倉敷中央病院に何度も入院して酒を飲み強制退院をしている猛者であった。何時もたばこ屋の巻ちゃんと魚屋の父の手伝いをしている敬子さんのところ入り浸りで焼き魚や刺身を食べながら想い人の敬子さんにつきまとっていた。店先の縁台に座って道行く車を眺めながら煙草の煙を吐き出していた。
 克つちゃんと巻ちゃんと三人で川崎医大の心療内科を受診したのだ。待合いにはうつろな瞳を宙に投げて煙草をふかしている人たちが沢山いた。
「そうですか、そんなに色々な医院を巡られましたか。みんなそうです、この病気は沢山の人が罹っているのですが世間では認識が不足しています。それに専門の医師でないと分からないのです」
と診察を終えた若い精神科医は言った。処方箋の投薬をきちんきちんと飲み始めて頭は軽くなり眠られるようになった。何より頭に鉛をのせている様な症状がなくなったのが一番有り難かった。頭の重さがなくなってようやく思考が出来るようになった。だが、車に一人では乗れなかった。助手席に家人を乗せて短い距離を走る程度であった。
「おい生きとるか」と尋ねてきたのが土倉さんだった。さんざんくどかれ原稿を引き受けざるをえなかった。どんなに今の体の状態を説明しても、
「頑張れとは言わん。何時までも待っているから気長に書いてくれればいいから」またしても演劇の世界へ引きずり込まれた。家にいる分には不安発作は少なかったのでやけと道連れで書いた。何作書いたか覚えていない。演出もした。外に出ることで不安発作は軽減していった。
 その頃舞台芸術財団演劇人会議のたちあげの実行委員になっていてその会議に東京まで行かなくてはならず一人で行動する恐怖はまだ残っていた。
「いつかは死んで行く身、何処で果てよと定めかな、人の値打ちはただ長く生きるというものではむあるまい。ままよ今まで生きたがもうけもの」演歌の詩のような心境になってようやく参加した。
 今年も国民文化祭の企画委員になって文句ばかり言っていたらお前のところがやれと言うことになり、一人芝居の「花筵」をやる羽目になった。時折気分が極端に高揚しいらぬ事を口走るときがある。その付けは意外としんどいものがある。
 晴れのち曇りの人生を、頭抱えてケツまくり、生きる我が身の切なさは、巡る月日の草枕、何処で果てよと蝉時雨、きっと何かを拾うもの、明日の望みを考えず、今を生きると心に決めて、と心に言い聞かせているのです。
「最近はどうなのですか」美しい声音が受話器の中から聞こえてきた。
「今は怖いものがなくなりました」とだみ声で言う。
「それはよろしゅうございました。案じておりましたの」
「それはありがとうございます」
「疣痔に切れ痔は大変でしょう」
「はあ」
 そんな間違い電話にも心安らかに身を置くことが出来るのです。
 曇り空の時にはそうはいきませんが・・・。

電話は午後にどうぞ

2011-01-30 22:16:42 | 独り言
ふるさと

電話は午後にどうぞ。

 午前中に私に電話をかけてくるのは友達にはない。友達なら私の生活を知っているから午後にかけてくるのだ。午前中は起きていないことを知っているのだ。寝ているところを起こすと機嫌が悪くぐずる幼児と同じできわめて愛想が悪い。会話が成り立たないのだ。頭が起きてなくて思考力はゼロに等しいのだ。そして、曇った日や雨の日にも決して架けてこない。三十五年ほど前にサイドに車のタックルを喰らうという交通事故で病院通いをし一応は治っていたのが数年して後遺症が出てそんな日は頭が重く何をするのも億劫なのである。そのことも友達は知っていて電話をかけては来ないのだ。自分勝手の横着者なのである。そんな私を見捨てずにつきあってくれている友達は神か仏のような心を持っていると思っている。後遺症から鬱という花が咲いたからどうしょうもない。二十年間つきあう羽目になった。別れようと何度も言ったが離れてくれなかった。悪妻のようなものだった。昼間はベッドに横になり頭を氷で冷やしていた。良くなった今でもケーキ屋が入れてくれる保冷剤をタオルの中に入れて頭に巻いて暮らしているのだ。この格好は何があろうがやめたことはない。新幹線の中でも、銀座を歩くときでも、お偉い先生方との会議でもタオルは外しをしないのだ。ターバンの様なものだ。鬱の名残のスタイルになってしまっているのだ。タオルはすり切れるので買わなくてはならない。保冷剤も劣化するので食べないケーキを買わなくてはならない、そんな生活を続けていたのだが最近保冷剤を売っている店を見つけてそこで買うことにしている。食べもしないケーキを買う必要がなくなったのだ。昔の知人からは時折電話がかかってくる。私の生活を知らない人たちなのだ。
「しっとるか、小野君が内田百ケン賞の随筆賞を取ったこと」
 午前十時頃杉原さんからかかってきた。
「知りません。そうですか、それは良かった」
「吉備の古墳のことを書いたらしい、目の付け所が違うな」
 杉原さんは昔の同人誌の仲間で「文学界」の同人誌批評の今月のベストファイブに入ったほどの書きてであったが土地が高速道路に取られ億という金が入ってから小説は書かなくなり随筆、俳句などでお茶を濁していた。そのことは風の頼りで知っていた。彼は色々のところに応募してその近況を午前中に電話を入れて報告をしてくれていた。何処どの佳作に入った、とか賞に入った随筆の本を送ったからとか親切に言ってくれるが、私の頭は起きていないのだ。
 そう言えば杉原さんと小野君のことでこのような事があった。
 就業時間の終わった五時過ぎに小野君が血相を変えて飛び込んできてこの原稿を読んでくれと言った。二十枚ほどの短編に見えた。
「杉さんがこのような作品は駄目だというのです」
「あの人は誰の作品も斜めに読むからな」
「今ここで読んで貰えませんか」
「いいよ。暇だから」
 読み終わってホーとため息が出た。
「どうでした」
「杉さん、これ読んでないよ。読めば作品の善し悪しは分かる人だから」
「無責任ですね」
「付き合いは君の方が深いでしょう」
 二人とも市役所に勤務して良く話すらしいことは知っていた。
「短編としては文句の付けようがない。良いできだ」
「あの、ほんとうに・・・」
「ああ、これなら何処の短編賞にだって応募しても受かると思うな」
「ああ、胸が苦しかったのですが、今は大きく息ができます」
「おばあさんの家の周囲に日に日に通勤の人たちの自転車が置かれていく・・・。おばあさんの心理描写が良いね。素晴らしい素材だと思うよ」
「助かりました」小野君は胸をなで下ろしていた
 小野君はその作品で中国新聞短編賞を受賞した。それを期に地方の賞をいくらか取っているはずだ。そして今回の随筆賞。
 このような電話なら午前中でもどんどんかけて欲しいと思う。
 朝の五時に眠ることにしているから夜は誰よりも強いのだ。
 夜と言えば「女流文学賞」を取った梅内女史のことを思い出す。毎日夜の十時に電話がかかってきて午前六時過ぎまで私の家の電話は話中になった。かの名女優の杉村春子さんから弟子にならないかと言われた程の美貌と美声の持主の梅内女史の声が受話器から蕩々と聞こえてくるのだ。つまり彼女は受話器にむかって原稿を読んでいるのであった。主人を寝かし付けてから電話をかけ、起きる前に切ると言う、何時寝ているのだろうかと心配をしたものだが、エネルギッシュな人との付き合いで夜に強くなったのだと思っている。
「あんたらなにしとるん。用事があってどちらに電話しても話し中やないの」
 「歴史文学賞」を取った松本幸子さんに良くからかわれたものだ。
 今は殆どがパソコンのメール、携帯は置いてるだけで持ち歩かない。電話も、
「丸々化粧品ですが・・・」「××証券ですが・・・」「お金必要だったら貸しまっせ・・・」色々の勧誘電話ばかり、午前中なら、
「いりまへん」と強く言ってガチャン。
 今までの電話はこれからどうなるのか・・・。
 遊び人の私に市の文化振興の企画委員とか国文祭の企画委員とかの要請がある度に午前中には電話をかけないで欲しいと一番に断りそれでいいのならと受けるのだ。

【HD】書くわけ

2011-01-29 20:31:11 | 独り言
【HD】短篇小説 さだまさし

書くわけ

 そこに山があるから・・・に通じて愉しいから書くのである。書く苦しさはあるが終わった後、出来不出来は別にして達成感と虚脱感の快い疲労は書いた者しか分からないだろう。
 題材を決めて資料を漁り読んでからすべてを忘れるために若い頃はパチンコに行き喧しい騒音の波の中に身を置いていると今まで読んだものが頭の中から完全に忘れられたものだった。それらは体に入りとどまっていて書くときに自分の考えに変わって出てくれるのだ。パチンコには資金がいるしそんなことばかりしていたら家庭が破産するので深夜の映画館に行きポルノ映画を見ることで頭から忘れることもあった。蕩々とスクリーンに映し出される痴態をただ眺めているだけで何がどうなっているのか覚えてはいなかった。が、その方法も有効であった。だが書く前のプレッシャーを解きほぐすには馬鹿なことをして無駄な時間を浪費することであることに気づくのだ。読んだ本が頭に残っているとついつい生の資料を書いてしまうおそれがあったからそうしたのだ。その間に構成は出来、書き出しと終わりの1行が出来ていた。九十九パーセントが頭の中で出来、後の1パーセントが書くことなのだ。後は一気に書き上げていく、そこには降臨があって書いた物が自分の物ではないような感じを受けたものだ。書いて最低一ヶ月は何もせずにほったらかしておいて推敲をしなが書き直しをした。六月と十二月は応募原稿の締め切りなのでそれまでに四作づつ書き上げていた。万が一という考えはなかった。ただ書くことが愉しくてしょうがなかったのだ。その結果が応募であっただけなのだ。読んで書くそのことが面白く愉しかったのだ。そんな青春時代を過ごした人は全国で多くいただろう。書くことはいって見れば麻薬のような物だった。完全に書く中毒になっていたと言える。その楽しみの後には応募原稿が一次通過、二次通過、最後の十作へと繋がっていった。私の作品は暗くて重かった。人に読んで貰って喜んで貰える物ではなかった。考えて欲しいと思って書いたのだ。多分に自分のために描いた物が多かった。が、考える事のみを求める読者は少なく面白くて溜飲を下げることが出来ればいいという人たちが大半だった。それは分からないわけではなかった。この世知辛い世の中で金を出してまで人の苦しみを分かち合おうとする人はそんなにいなかったのだ。
「もっと面白い売れる物を書く努力をしてください」と出版社へ電話すると編集長がそう言った。これは資質の問題でそう簡単に面白い物がかけるはずもなかった。出版社は賞を与えて雑誌に載せ評判が良ければ単行本にしてもうけるのだからそう言うのは当たり前であったろう。だが内容は重たく暗いが書く方は愉しかった。書いているとだんだん体が暑くなり昂揚して知らず知らずにパンツ一枚で書いているときがしばしばあった。
 林芙美子さんが真冬に布団をかぶり裸で書いていたという逸話があるがそのことは真実だと理解できた。書いていると頭を血が駆け回り体はほてってそうなったのだろう。
 文章を書くと言うことは頭脳労働であり肉体労働なのだ。物書きと言えば病弱な感じを想像するが今では健康そのものという肉体労働の人たちが多くなっている。精神が病んでいればいびつな物しか生まれないと言うことなのだろうか。深く物を考えていると精神は病んでくる、だが、今の物書き達は健康な肉体労働をしている人たちが増えたと言うことなのか。その方が健全だが。
 昔の作家と言えば家庭のことはほったらかし、淫乱多情で、我が儘、偏屈、貧乏、病気持ち等々負の存在であった人たちが多かったのだが、今はそんなスキャンダルは聞こえて来ない。実生活が滅茶苦茶だが書いた物は清潔で道徳的だったという事が良くあった。それはまさに詐欺師なのである。きれい事を並べておいて反社会的な事をしていると言うことなのだ。なぜかそんな反社会的な作家の坂口安吾さんに惹かれ、彼の「堕落論」を教科書にしている矛盾を感じるのだが。人の世界はそんな物かも知れない。差別を否定している人たちが一番の差別者であるという事は良くあることなのだから。
 私のことで言えば、鬱に罹って以来物事を突き詰めて考えるようになった。書くことが苦痛になっていたが快方するにつれて愉しく書けるようになり今までの文体が変わってきた。文章の短い人は循環器に傷害があるという説があったのだが、谷崎潤一郎さんの作品を読んでそれはただの仮説であると思った。彼は作品に依って文体を変えていたのだ。文体を持てと言う先輩がいたがその文体はテーマによって変わる物なのだ。だから文体など関係なく、自由に書くべきなのだと納得した。つまりテーマが文体を産んでくれるものと解釈している。そう思うと文体などに関わらずに書くことが出来る。 
 今読んでいる南木佳士さんの作品は私小説の色合いが濃いいが随筆と小説の文章は異なっている。それは彼の特質なのだ。
 物を書く人の資質と言えば優しさと真実を持っているかどうかというものであると南木佳士さんを読んで感じた。
 そんな物をこの私が持っているのかと問われれば、分からないとしか答えられないが・・・。

猫への恩返し~

2011-01-28 17:31:33 | 独り言
風になる ~猫の恩返し~

 猫の九太郎

九太郎という牡の猫を飼っている。
劇団員の少女が捨て猫を見つけてかわいそうだから飼ってもらえないだろうかと言うことで面倒を見ることになった。犬猫の獣医助手を目指す彼女に拾われたと言うことは捨て猫にとって幸運だった。が、飼う方には災難であることの方が多い。小さな泣き声であった子猫は大きくなるに従い猫の特性を遺憾なく発揮しだした。トイレにおしっこをしなくてくんくんとかぎ回り何処へでもおしっこを垂れ流しだしたのだ。マーキングである。猫のおしっこは犬と違い特別臭い。その臭いが家中充満した。家族に取っては耐えられるものではなかった。猫を飼うとこのようになると言う現実は充分に知っていたが猫には返さなくてはならない恩義があったのだ。恩のなんたるかを知らない家人は恐れ多くも、
「また猫を飼うのですの。飼うのだったら去勢をしてくださいよ」
 と平然と言ったのだ。恩義の有る猫にそんな動物である証の子孫を残すための行為に必要なものを除去出来るはずはないではないか、と言おうとしたが声が喉に詰まり胃袋に落ちたのだった。それは病気の所為ではなく去勢しろと言う家人の心理が怖かったのであった。九太郎を車で連れ出して二時間ほど走って帰り、
「見事にたまたまを切除したぞ」と嘘を言ったのだ。それは妻に対する従順より恩義に対しての方が大きく重かったからなのだ。
 三十年程前に仮面鬱病になったときに家の前のゴミ捨て場で三毛猫の雌を拾った。弱々しい声で泣いて哀れを誘っている猫に同情して夕餉のすき焼きの残りを食べさせてやった。お腹が減っていたのかおいしそうに食べる姿に感動しついつい家に上がらせたのであった。その猫に茶子兵衛と名付けた。
 その頃肩がこり眠られず体が重たいし頭がボーとしていた時期であった。何軒も医院を訪ね診察を受け薬を調合して貰ってもいっこうに良くならなかった。おかしいと感じたのは県の青年大会の演劇部門で最優秀賞を貰い全国青年大会に出発する日に現れた。足がだるく息切れがして動けなくなったのだ。前日は興奮して眠れなかったので睡眠不足からくるものであろうくらいに考えて無理をして東京に行ったのだ。渋谷の参宮前駅で降り代々木オリンピックセンターまでの距離を歩いたのだが陸橋で立ち往生をしてしまった。どうしても階段が上れないのだ。階段を二三段上ると心臓は早鐘を打ったように鼓動し呼吸はぜいぜいと悲鳴を上げだしたのだ。一週間東京にいたが何がどうなったか定かに覚えていない。何度か医院のドアを開けたのは記憶しているが。そのほかは心臓病患者の様な不整脈と動悸の早さと喘息患者の様な息切れだけを記憶しているのであった。目黒公会堂での公演結果がどうであったか帰って聞くまでは定かではなかった。優秀演技賞と最優秀舞台美術賞を貰っていた。帰っていろいろな専門医に診て貰ったが正確に病名の診断を下す医者はいなかった。二階の書斎に上がる階段の途中で立ち往生をする事もしばしばであった。深夜とか静かにしているときに突然この世の終わりを告げられたような不安発作に襲われ何回も救急車で救急指定病院へ行った。着くと動悸は収まり息切れも治っているという状態が続いた。医者は何のために来たのかと言う顔をした。不安発作が鬱によるものとは判断できなかったのだ。
 その頃茶子兵衛が現れたのだ。猫は心臓病と高血圧と精神の歪みの病気持ちに心の安穏を与えてくれる動物だと聞いていたのだがそれが真実かどうかはわからなかった。そう思って猫を飼ったのではなかった。捨てられた猫に我が身を重ねて哀れを感じたのであろうか。か弱い飼い猫がそばにいると言うことは精神を安定させる作用があった。茶子兵衛の動作を見ていると心がいやされた。同じ症状の焼き肉屋の旦那が迎えに来てくれ川崎医大の心療内科を受診した。貰った薬を飲むと体のだるさがなくなっていった。眠られるようになった。頭も軽くなった。肩がこらないようになった。不安発作も少なくなった。茶子兵衛はじゃれついて慰めてくれた。病名は仮面鬱病と診断されたのだった。医者の治療と茶子兵衛によってだんだんと恢復をしていったのだ。茶子兵衛は一日ボーとしている主のそばを離れず見守ってくれ見上げる目は心配そうで優しかった。いつも体のどこかへ尻尾をくっつけていて様子を見ていたのだ。テレビに対して話しかけ怒鳴る事しか話相手のなかったのだが茶子兵衛は話相手になってくれ独り言愚痴を聞いてくれた。その茶子兵衛は二年後に尿路結石による腎臓病でなくなった。もっと早く犬猫病院に連れて行ってやれば長生きが出来たであろうと後悔したものだ。
 猫にはそんな思い出があり恩義があったのだ。
 九太郎は何度か尿路結石になったがそのつど犬猫病院へ連れて行き茶子兵衛の撤を踏むこともなくなった。茶子兵衛のためにも九太郎を同じ病気で死なす事は出来ないと思っている。茶子兵衛の恩返しのためにその後三太郎を飼ったがその頃もまだ仮面鬱病は全治してなくいやされたのだ。元気になった今九太郎に手を焼きながらも面倒を見ているのは茶子兵衛と三太郎への愛情の印なのかも知れない。
 九太郎を連れてきた劇団の少女は獣医の助手になり次男の嫁になって同じ屋根の下で生活している。今では双子の母である。


【歴史の空白が・・・。

2011-01-27 22:12:57 | シナリオ あの瞳の輝き永遠に 
【車載】茨城県取手市 常総ふれあい道路西行桜並木2010年


歴史の空白が・・・。

 昔、良寛さんを書いて舞台へ上げたことがあります。一応資料は集め読み砕いたのですが何か判然としないもがあり「僧にあらず俗にあらず」の言葉通り普通の人間僧侶として書いたのです。曹洞宗の光照寺で国仙和尚に依って御受戒を受けて出家をしました。良寛さんは国仙和尚さんを一生の師匠として岡山は備中の僧堂円通寺にお供をしそこで僧侶の修行をするのです。円通寺での良寛さんのことはなにも残っておりません。何も残っていないと言うことはどのように嘘八百を書いても文句が出ないという事なので色々と考えを巡らせ創作をしたのです。そのように空白があると言うことは物書きにとって有り難いことで何でも書いて良いですよと良寛さんが言っている様に感じて書かしてていただきました。出雲崎では良寛さんは童貞であったという説があるのです。大庄屋の跡取りであった良寛さん庄屋見習いの時に嫁を貰って直ぐに離縁しているのです。一女があったという説もあります。が、立派なご僧侶がバツイチでは良寛様の名に傷を付けることを案じてか童貞であると言うことなのでしょう。円通寺の事と、新潟は長岡の閻魔堂の貞心尼との心の交流も嘘を積み重ねて書きました。これは貞心尼が良寛さんとのことを歌で詠んでいる「蓮の露」がありましたが中に創作をさせていただきました。
 このようにして歴史の空白があれば書き手は自由に書くことが出来るのです。
 西行法師さんも書かして貰いました。舞台で上演しました。西行さんと待賢門院璋子さんとのことは女房の待賢門院堀河の語りとして直接に西行法師さんを書かずに西行さんを書いたのです。待賢門院璋子さんは鳥羽帝の女院でした。堀河さんは小倉百人一首で有名な歌詠みです。璋子さんの幼い頃から亡くなるまで女房として仕え何もかも分かっていたとして璋子さんと西行さんとの恋を語らせたのです。西行さんは好色家と言えば西行さんのファンの女性の方に怒られるやも知れませんが大変にもてた方であったらしいのです。花と月は西行さんの歌のテーマのような物ですがそこに女を加えてました。恋の、人想う歌も多かったからです。西行さんがどうして鳥羽帝の北面の武士を捨ててなお得度したか、それには待賢門院璋子さんと一夜のちぎりをもちそれが一生に一度の恋に想え苦悩の末に絶望したことが原因であったと言う説を取り入れ、ものの哀れを感じたと言うことにしたのです。親友の突然の逝去故にという説もありましたがそれを採りませんでした。劇中の会話はすべて創作をしました。瀬戸内寂聴さんや辻邦生さんや白州正子さんにしかられる事でしょう。
 北面の武士佐藤義清、歌人西行法師、法名円位上人が西行さんなのです。平清盛さんは西行さんと鳥羽帝の同期の北面の武士であったのです。
 目が不自由だったが居合いの手練れがいた。という子母澤寛の短い文章で「座頭市」が別の作者の筆で生まれると同じようにと言う風にです。
 坂本龍馬さんも舞台にのせました。
「金のなか人間に何が出来よっとぜよ」金に執着した龍馬さんを作りました。大法螺吹きにしました。なぜか龍馬さんを書いているとき愉しくなかったのです。あまりに完璧な龍馬さんを皆さんが書いている事に対する反発がありました。
「日本の國を洗濯しちゅうきに」
 この龍馬さんの言葉はあまりにも有名ですが洗濯する為には金がいることに気づき金集めに奔走する龍馬さんにしました。金持ちに取り入るのがうまい人として書きました。高杉晋作さんは策士で、中岡慎太郎さんに龍馬さんはこういうのです。
「高杉は喰えん奴じゃきに気をつけーや。泣いて助けてくれーというても知らんきに」
 今、NHKで「龍馬伝」放送しているが、龍馬さんと岩崎弥太郎さんとは長崎で初めて会っているのにあんなに何もかも知っているのはおかしいのです。ここは中岡慎太郎さんが流れを作り進めるということのほうがよかったと思います。龍馬さんと中岡慎太郎さんは質屋の二階で惨殺される。その暗殺者を人斬り半次郎さん、示現流の居合いの達人に仕立てたのです。これは西郷吉之助さんの意であったとしたのです。薩摩は龍馬さんを殺さければならない怒りがあったとしました。司馬遼太郎さんにしかられそうです。
 龍馬さんを時の人として薩長連合、公武合体、大政奉還。
 誰かが仕組んだものではないかとしたのです。
 お竜さんは龍馬さん亡き後横浜の豪商と再婚しています。
「人とはなんと悲しいのでしょう」お竜さんはそういいきります。
 書き手は時代の空白を書く。一瞬を語るのだと思います。書いてしまえば書き手の手元から離れ一人歩きを始めるのです。
 良寛さん、お元気で子供達と手まり歌を歌いながら遊んでいますか・・・。
 西行さん、大仏復興の勧進帳を持っての旅どうでした・・・。
 龍馬さん、まっこと誰に殺されたじぇよ、ぎょうさんの説で学者も困っているきに・・・。

 もう懲りたので歴史の人物は書かないことにします。
 
 

小説家は随筆を書くな

2011-01-27 00:29:20 | 独り言
危ない環境問題のウラ 3/4


小説家は随筆を書くな

 小説家は随筆を書くなと言った小説家がいることを知ったのは小説家の南木佳士さんの随筆を読んだ時だった。その中で芥川賞受賞パーティーの席で開高健さんから言われたと書いている。何でも随筆一作で短編の材料を使うのはもったいないというような意味のことを言われて戒めたという。南木佳士さんは随筆を沢山書かれているが書いている時に常に開高健さんの言葉がよみがえってきて何か悪いことをしているという罪悪感に襲われたらしい。芥川賞の選考委員と言えば受賞者にとって雲の上の人、その人から声をかけられ将来を思い戒めの言葉を貰ったのだから分かるような気がする。南木佳士さんはそのことを何遍も書いているのは自分には医者として誰も書かけない小説を書く自信があることを小説のテーマーからも文章からも伺えるのだ。確かに随筆を書くときに少し突っ込んで書き進めれば短編になる物がある。開高健さん言いたかったのは小説家は本来小説を書く事を本業とし、随筆家は随筆を書くことで立つと言うことであったろう。
 南木佳士さんには今は克服したが鬱という病気持ちで短編長編となると神経が持たないという事で頼まれて短い随筆を書いているのだろう。
 南木佳士さんは大変なことを書いていた。彼が「文学界」に応募したとき一次も入らなかったが編集者から電話がかかり異質な世界の方で作品に光る物があり温かさを感じたので話を聞きたかったという物だったと。本来応募作品についてはお答えしないと言うのが定説なのだがこれは応募要項違反であるのだ。それが縁で編集者に作品の書き方を教わったという。文章や構成を学んだというのだ。「文学界」の新人賞を受賞したときにも応募する間際まで編集者と作品を推敲したと書いている。カンボジア難民救済医療団の一員として飛行場から出発する一時間前まで額をつきあわせて直したと言うことも書いている。これは真剣に作品を書き未来を夢見て応募する人たちにとって不幸なことである。編集者がその才を見抜き新人賞を取らせたと言っても過言ではないのだ。文芸春秋社の大いなる過失であり賞の価値はなくなる。私が応募した賞でも最終に残っていなかった作品が受賞した例はあるから何かの画策があったというほかない。選考に付いての問い合わせには応じられないとあるが、私が作品について聞きたいと電話をすると編集長さんが出て親切丁寧に答えてくれました。私はそこで問い合わせに応じられないという但し書きはみんなから問い合わせが来ているのだという意味なのだと感じた。この理解は正解であった。新人を発掘したい、偉大な作家を誕生させたい、希有な小説を世の中に出したいこれは編集者の仕事であるから時に型破りをするらしかった。
 世の文学青年や文学老年達が南木佳士さんの随筆を読んで文芸春秋社に抗議をしたというニースに出会っていないのでそんなことはなかったのだろう。この話はもう時効だからと南木佳士さんは書いたのかも知れない。
 徳のある人の人との邂逅は時に大きな花を咲かす事がある。そんな経緯があって南木佳士さんも今花を咲かしているのだ。
 信州の佐久平の七百床もある病院の勤務医である南木佳士さんは呼吸器の専門医として特に肺ガンの治療に携わり多くの患者を見送ったのだ。それが元でパニック症から鬱になられた。自己診断も出来ずに病院の精神医にかかり治療を始められた。その病床にあってこれでは駄目だ何かしなくてはこのままでは死ねないと小説を書き始めたという。育ちは山奥でなにもすることがないので父の本を取り足りして読んでいたらしい。彼は言う、芥川の小説で一番良いのは「秋」だと。子供の頃から今までその思いは変わらないらしい。芥川の「秋」を出すくらいの深い理解力それが元になっているらしい。呼吸器系の診察から外して貰い人間ドッグドクターとして勤務して快方に向かったという。それに加えてこのままでは死なぬと言う思いと書くという彼の使命が支えたのだろう。
 自宅から自転車で五分の通勤を続けておらせれると言う。
 信州佐久平の病院は医療研修医に評判が良く全国から来るという。                                                                                                                                                                         私のかかりつけの耳鼻科の医師に尋ねるとよく知っていた。
 今、勤務の傍ら日本百名山に登るという計画を立てるほどに恢復しておられる。山に生まれ山で育つた彼は人間の宿命とも言える生まれたところへ帰るという回帰本能が芽生えたというのでしょうか。
 小説家は随筆を書くなと言う開高健さんの言葉を今どのように感じておられるのか。彼の随筆を読むたびに思うのである。彼の随筆は読む薬として広く処方されている。読者の層は広く浮気をしないらしい。作者の優しさと真実が読む者に心地良い癒しを与えてくれる。心の持ちようでなんとでもなるものだと感じ取らせてくれる。
 彼は言う、どんな患者でも何処が悪くても奇跡が起こり治るのだと言う人が殆どだという。死なないと思っているという。が・・・。
 人間はどんなに金持ちでも貧しくても平等に死を迎えるのだと。
「あの憎たらしい奴が死なないのに俺が死ぬのは不公平だ」と言うことはないのだ。

文化講演会

2011-01-25 21:00:54 | 独り言
[a] 赤とんぼ(Red Dragonflies)~どこかに帰ろう


文化講演会

 最近は文化、文芸講演会の開催の情報を得ることはなくなった。昔のベストセラー作家は売り出し中の演歌歌手の様に全国を駆け回っていたものだ。それは本を売るためばりではなく国民の意識を高める上で効果的であった。今はそれをしないのは作家がテレビに出て半端なコメンテーターをしてお茶を濁しているせいか。それでは読者の心はつかめないだろうし読者のこんなものが読みたいという要求をつかめるはずもない。時代だと言ってしまえば終わりだが新人賞や直木、芥川賞を取った作家の本が売れないと言うのも納得がいく。書き手の必然が読者の必然と相い照らす事が出来なくなっているから売れないのは当たり前という物だ。作家では飯が食えないという時代であるが作家になりたがっている作家予備軍は多い。昔の様に文芸同人誌が多くなく減っているからそこで勉強をすることは出来なくなってブログに書いたり懸賞に応募するくらいになっている。万のいい人はブログに書いた小説が良い編集者に巡り会い芥川賞を取るという希有な人もいるがそれはあくまで希もので砂の中に金を見つけるより難しく殆どそういう恵まれた人はいないのが現実だ。百万円近く出して自主出版をする人も多いのだが出版界不況の中で良い商売になっていると言うことはそれだけ書いたものを本にしたいと言う希望があるからだろう。そのような人もプロの道は険しく殆どの人はプロにはなれない。プロでも注文の来ない作家がごろごろしているのだ。その人達はゴーストライターをして飯を食べている人が多い。林真理子は作家になる前に松田聖子のゴーストライターをしていたことは有名である。また、売れなくなると必ず「創作の仕方」「文章講座」などを書いて売れれば儲けだがそれより書き手が創作の原点に返るために書くことが多いようだ。書いた人で再起した人は殆どいないのはそれが徒労であると言う査証であろうか。
 若かった頃、半年に一度はくる講演会に良く話を聞きに行ったものだ。皆な正装して拝聴していたのだ。インテリーの集まりの様に上品なのだが聞く作法を知らない。笑うところを笑わず手をたたくところでたたかない。さぞやりにくかったろう。開高健、曾野綾子、大江健三郎。井上光晴、野間宏、松本清張、水上勉、五木寛之、まだ沢山の作家や文化人の話を聞いたが、大江健三郎さんは我が子の話とほんの宣伝に終始し井上光晴さんは共産党をどんな経緯でいかにして離党したかを話した。殆どの作家は自作の本の宣伝が目的であり物見遊山もかねていろう。連載を沢山抱えていても地方に公演旅行をする余裕があったのだ。それだけでも今の作家とは違うと言える。その頃はまだファクスもなく出先で書いた原稿補を電話で読み上げて編集者が記述するというものと編集記者が原稿取りに行くという方法しかなかった。
 心に残っていると言えば五木寛之さんと水上勉さんがある。
 五木寛之さんは大学時代からテレビ創生期のの放送作家でありシベリア鉄道で北欧への旅をした。地中海沿岸の
國にはあまり興味がなかったらしい。そこで国々を見て回り人にふれ歴史と文化を学び取った。後に「ソフィアの秋」「さらばモスクワ愚連隊」「蒼ざめた馬を見よ」「ガウディの夏」「ワルシャワの燕たち」などの作品を書く土壌を培った。直木賞を貰ったときに賞と同質の作品が五十作書きためて手元にあったという。みんな受賞をしても次作が書けないというのに五木さんは何年か分の作品を書いていたのだ。会場に集まった文学青年達からどよめきが起きた物だった。五木さんの自信に満ちた凜とした姿は忘れられない。それが「青春の門」に繋がった。還暦を迎えて大学に入り「浄土真宗」を学び新しい五木さんの活躍の場を広げている。それは計算された生き方でなくその都度何かを真剣に研究しなくては居られない五木さんの言ってみれば使命というべきものかも知れない。
 水上勉さんは白い顔にかかる髪の毛をかき上げかき上げ少し激情して話をした。まだ「雁の寺」を書いて直木賞を貰う前のことだった。熊本の水俣で猫が飛び回っていると言う話を聞いた。水上さんは水俣へ飛んだ。そこには本当に飛び跳ねる沢山の猫たちがいた。何かの原因で、この有明の海で何か大変なことが起きている・・・猫にこのような症状が出ていると言うことはやがて人間にも・・・不安と怒りの中「海の牙」と言う推理小説を書き上げた。その話の間中涙を流し髪をかき上げ体を震わせて訴える様に語った。それは作家ではなく一人の人間の真実を露呈していた。
 今、この二人の作家は私の心に大きな位置を確立している。沢山の公演を聞いたけれど二人の話が聞けたと言うことが何よりの果報であると思っている。
 果たして今の作家にそのような怒りの軌道があるのか、人間を蹂躙する物に対して果敢と戦う姿勢はあるのか。注文が来ない、本が売れない・・・それは当たり前というものなのだ。大衆の心が分からなくて書いていて売れるはずもない。代議士と同じなのである。幸せというものに、生き甲斐という物に、夢という物になんの答えを持たずに明かりを与えない作家が書いて売れるはずもなかろう。怒りを忘れている作家にはもう一度土と戦って欲しいと思う。土が生み出す力こそ今人間が学ばなくてはならぬ物のような気がする。
今、信州は佐久平の病院医師南木佳士さんの随筆小説に親しんでいるが読むと沢山の答えを返してくれる。歳のせいか読んで薬になる物を好むようである。
 生きとし生けるものことごとくみんな平等に逝くと言う安心感を根底において優しさと真実をつづる作家である

読書をしよう

2011-01-25 03:12:57 | 独り言
読書をしよう

 読書の秋だから読書というのもなんだがこの気候のいいのに読書などするのは勿体ないとも思う。外に出て晴れて澄んだ空の下で大いに体を動かした方がいいに決まっている。それなのに読書の秋などと言うのはおかしいのではなかろうか。今年は気候変動で夏が頗る暑かったものだからなかなか眠られずついつい本を読んでしまうと言うことをした。辻邦生さんに始まり南木佳士さんの殆どの作品を読んだのだ。だから秋に読書と言われても適当な本に巡り会わない。若かった頃は本屋を覗き読みたいよりつんどく為に片っ端から有り金をはたいて買ったものだが、今は本屋を覗くこともなくなっている。孫に何か良い本はないものかと思い覗いたくらいである。もっぱらインターネットの通販で買っているのだ。何処も送料無料というのが良い、無料と書いてあればついつい買ってしまう貧乏性は同じものを二冊三冊も買ったりするので困ったものだが。
 宮武外骨の滑稽新聞の本を買って読んで積んでいたのを探してがみたが見あたらない。本の中に隠れてしまっているらしい。たまたま外骨を読んで書いてみたいと思い探したのだ。なければ買うかと思いアマゾン、楽天と探して驚いた。昔買って積んでいた本が途方もなく値上がりをしているのだ。もう一度沢山の本をひっくり返して掘り出せば値上がり分だけの儲けと言うことになる。が、いかんせんそそっかしくて横着者でその手間を掛けられるほど大きな男ではないときている。買いたいと思ったら買って置くものだとつくづく思う。昔の書斎には何処の段に何がありあれはその二段下にあると覚えていたのだが、二十畳の書斎を次男夫婦の部屋にリフォームをしたときに最初丁寧に選別をし捨てていたのだが最後の方は全部捨ててしまうと言う横着をしたのが悪かったのかいる本がどんなに探しても見つからないのだ。捨てた大半の者は若い頃読んでかみ砕いたもで捨てても惜しくはないが探して見つけたい本もあったのだと気づいている。今、六畳の間を書斎にしているのだが壁一面に無造作に積んでいるだけである。机の上にはパソコンが二台おいてある。使っていないので物置同然に色々の物を置く空間に変貌しようとしている。今は家人の部屋の片隅を借りて一日中パソコンにむかい遊んでいるのである。
 本を読むときにこの作者は命と引き替えに書いていると思うとなおざりには読めない。私がそうであったようにひと文字幾らの値が付くと文章なんか書けるものではないのだ。書いている間中命を縮めていた。緊張感とプレッシャーでストレスがたまり生きた心地がしなく堅い文章になってしまうのには困ったものだった。私の様に小心でなく剛毛が覆う心臓の持ち主ばかりなら良いが鬱を抱えた南木佳士さんのような作家の本は真摯に読まなくては申し訳ないと丁寧に読んだ。あれだけ沢山の物を書いた南木佳士さんの心臓には強靱で太い血管が心拍しているのに違いない。だがそのような人でも鬱になるのだから鬱という病気はこれからの人たちが寄り添って生きる物なのかも知れない。私の場合、読んでくれたらこっちのもの、書いたらやけと道連れで原稿を渡すという神経ならば気楽であったろうと思うのだが出しても気になって何度も読み返し書くのではなかったと後悔を深くして尚ストレスを抱え込んだものだった。
 今は原稿料を貰って書いているわけではないので気楽に愉しく遊べるのだ。この方が精神衛生上頗る健康であることは言うまでもない。これは決して注文が来ない負け惜しみではなく忙しかった東京の生活を捨てたときに感じた同じ心の動きなのである。
 世に沢山の書き物の好きな人がいるが金に縛られて書くことは健康に良くないと思う。金に縛られて書いた物は余裕がないから読者に満足を与えられないと言うことになりかねないのだ。まあ、そんなことは平気なのだヘッチラヨと言う方はプロになられベストセラーを産めばいいと思う。
 私は楽しんで物を書きたい。人の為ではなく自分のために書きたい。このような物が読みたいが誰も書いてくれないのでそれでは書こうかという物を書き読んでみたいと思っている。
 本との出会い、これは愛する人との出会いとよく似ていると思う。良い本は一生物なのだ。いい人との出会いも一生物なのだ。飽きが来ない本も人もそういう出会いを作らなくてはならない。それには沢山の本に接することであり、多くの人との出会いをなす事であろう。
 今私のパソコンの隣には南木佳士さんの「医者という仕事」という随筆の本が置かれてある。
 貧しさ故に菊池寛さんのリアリズムの生き方を学んだが、「生活が第一でそれから文学だ」というものだが。家庭の生活が順当でなくて何が文学だという彼の哲学の信仰者であったが晩年の菊池寛さんの生き方を知るにつけそこから離れ辻邦生さんの「西行花伝」「銀杏ちりやまず」に心酔し南木佳士さんの優しい真実に心奪われているのだ。
 読書の秋に読書をしないのはすがすがしい秋の空気を胸一杯に吸い込んで見たいから。このような気持ちになれたのも秋ではないが読書のおかげであると思っているが。

 文化講演会

最近眠られない

2011-01-23 06:08:58 | 独り言
最近眠られない

 寝るのは朝の五時である。年寄りは早起きだというのは私には当てはまらないらしい。五時頃「ジーンズ剛さん」がブログを更新するがそれを読んでから安定剤のデパスを一錠飲んで床にはいる。何をそんなに遅くまで深夜勤務をしているのかと問われればなにもしていないのだ。映画を見たり本を読んだりブログの随筆を書いたり、これから書こうとしている長編小説「水島灘物語」の資料集めや構想を練っているのだ。頭を使っているとやたら煙草の本数が増える。お腹がすくので間食をする。体に良いことは一つもない。これは鬱の名残なのだと思っている。私の人生は鬱の頃から昼と夜が逆転しているのだ。鬱は夜は眠ることが出来なくて昼には眠られるという癖がある。夜にはみんなが眠っていて自分だけが眠られないと言うことが不安なのだ。昼には誰かが起きているから安心して眠ることが出来るのだ。昼寝ていると言ってもうとうとしているだけなのだ。夜眠られないからボーとした頭で沢山の台本を書いた。ぼんやりとした頭で本も読んだ。映画も見たが殆ど頭の中を通り過ぎている。台本はどうにか公演できたからいくらで良かったのかも知れない。多分に降臨のおかげである。
 私は常に鉢巻きをしている。タオルを巻いているのだがその中にケーキ屋さんでくるれる保冷剤を冷凍庫に入れて凍らせた物を入れている。常に頭が熱いからで冷たくなくなったらボーとするのだ。筋収縮性頭痛の場合は冷やしたら駄目なのだが私の場合は冷やさなくてはなにも出来ないし涼しくなってもクーラーのお世話にならなくては体が熱くていらいらするのだ。これも鬱の後遺症なのかも知れないと思っているが真意は分からない。その所為か寝るときにも布団を掛けて眠ることはしない。これは奇病かも知れないが・・・。
 五時に寝ても十一時頃には目が覚めてしまう。熟睡することなくうとうとし夢ばかり見ているのだ。穏やかな夢なら良いのだが恐怖に震える物が多い。これも・・・と決めつけると鬱に悪い気がするのだが。
 朝が白々とやってくると体が眠りを求めてくる。そんな体質になってしまっているのだ。私の知り合いは午前中には電話をかけてくる人はいない。私の生活を知っているからで知らない人からたまに電話がかかってくるが。この前、新聞の取材で女性記者から午前十時頃電話がかかってきた。国民文化祭の出し物についての物でどんな芝居であるかを知りたいという。練習風景をカメラに収め作者の説明が欲しいと言った。午前中はきわめて機嫌が悪い。
「何を見て取材の電話をかけているのでしょう」と問うと、
「国文祭の演劇のチラシを見てお願いしているのです」
「チラシには役者が一人と書いてあるでしょう」
「はい。ああ・・・そうですね一人芝居なのですね」
「それが分かれば役者と演出の格闘なんかを取材しても面白くはないですよ」
 機嫌が悪かったと言うことと無知な記者に対して取材を拒否したのだ。今の新聞記者の質は確かに落ちている。記者クラブにのほほんと座っていて記事を貰っているのだから特ダネという物もないし署名入りの記事も書いたことがないだろう。盆暮れの付け届けの高く積まれたビール箱前で囲碁か将棋を指したりテレビを見ている記者を思った。
 その日も世の中について考えていて眠られなかった。少し前は鳩山の不定見を嘆き、小沢の金の問題で腹を立て、いら菅の節操のなさにあきれ、円高を憂い、尖閣の問題には激怒し、夏の記録的な暑さと相まって眠られぬ日が続いたのだ。
 眠られないからと言って痩せているのではない。人より余分に肉が付いている方だ。夏やせという言葉は当てはまらない。秋、食欲は旺盛である。体重のことは考えないようにしているのだ。太っているのは鬱の時のままなのだ。ダイエットをして十三キロ落としたが直ぐに元に戻った。その経験からいつでも落とせる自信が付いている。
 起きているときの夢がだんだんしぼんできたから、寝ている時に夢を見るのだろうか。夢は潜在的なものだと言うがどうか。
 今宵はどうか・・・良い夢が見られますように・・・。
「睡眠不足ですか、そんなに太っていればメタボのようですがさぞ糖尿が手招きをしているでしょう。うん、そのけは全くないと、なに毎日珈琲を十杯飲んでいるから大丈夫だと、そんな臨床所見はありません。・・・。あなたは元々起きているときにボーとしていて眠っているのですから睡眠不足になるはずはありません。これは特異体質とでも申しましょうか、良い特性をお持ち方だから、死ぬまで生きられますからご安心を」
 そのような夢を見た。それでまた色々と悩むことになるのだが・・・。

たばこをやめよう

2011-01-22 00:46:03 | 独り言
電子タバコ 東京スモーカーの秘密

たばこをやめよう

 買い置きがなくなったらきっぱりと煙草をやめようと考えている。
 かかりつけのお医者さんにそのことを告げると当医院ではそれができないと言う。医院なら何処でもその治療が出来るものと思っていたのだがそれは間違っていた。色々と制約があるという。健康保険で治療が出来ると言うことは厚生労働省の管轄になっているのだ。
国民の健康の為に煙草の値段を上げて禁煙を幇助したいと言った大馬鹿の鳩山は今は平の議員に成り下がっているが、そこまで考えてくれるのなら何処の医院でも禁煙診療が出来ると言うとこまでやって欲しかった。
「佐藤外科を紹介しますからそこで頑張ってください」
「なにぶん禁煙は薬より本人の決意と根性ですから」とも言った。
 煙草を吸い始めたのは比較的遅かった。遠い記憶をたどれば、遅くて幼い恋をしてどちらも事情があって別れたときからであった。ピースを吸って咽せた。セブンスターをふかし、富士を指で挟み、ショートホープを気取って吸って、蘭、チェリー、キャビン、ラーク、ベベルと色々吸い、今はキャビン100を吸っている。煙草が美味しいと思ったことが一度もない。
 物を書くときについつい煙草に火を点けてしまう。酷い時には灰皿に何本も煙る煙草があるくらいだ。煙草を吸ったからと言っても良い考えが浮かぶと言うことはない。が、何か落ち着くことが出来るような感覚になるのだ。
「煙草依存症、つまりニコチン中毒ですな」
「あなたは煙草を吸って満足でしょうが、そばにいる人には大変に迷惑なことなのです。分煙と言ってその人も煙草を吸っているのと同じなのですから」
「自己責任で煙草を吸って心筋梗塞、脳梗塞、肺ガン、あらゆる病気の元で逝くのは一向にかまいませんが、ご自身より他の人まで巻き込んではいけませんから、人の中で吸いたくなったら外に出て吸ってください。それくらいのマナーはもってください」
「お孫さんがいるのですからこれを機会に禁煙を・・・」
 孫という言葉には弱かった。
 孫達がくる足音がすると煙草の火を消して窓を開けた。空気清浄機を備えた。何度も禁煙をしようと思った。が、意志が弱いので出来なかった。
 鼻血が止まらなくて生まれて初めて八日間入院したときには禁煙が出来た。そのときはすいたなかったのだ。吸えなかったという方が適当か。八日間我慢が出来たのだから出来なくはないと思ったのだが・・・。あの時にやめておれば今の苦労はしなくて良いのだが。なにも百十円値上がりをしたからと言って周章てなくても良いのだが。
 今ではどうなっているのだろうか、鬱で川崎医大の心療内科へ診察に行っていたとき待合いは患者の煙草の煙でもうもうとしていたのだが。みんなボーとしてうつろな瞳を浮遊させながら無意識に吸っているのだった。一人診察室に入れば一時間はかかるので長い待ち時間で何本も煙にしていた。鬱の患者に取って煙草は一種の安定剤の効果があったから医師は煙草をやめよとは言わなかった。好きなようにさせていたのだ。鬱の患者の楽しみと言えば煙草くらいだったと言うこともあったろう。
「そろそろ禁煙したらどうです」と耳鼻科の先生が言う。
「先生は診察机に灰皿を置き吸っていたのはいつまでですか」
「あれは・・・もう二十年も前になりますよ」老先生はそう言った。ばつが悪そうだった。診察机の上に医師が灰皿を置いていたという事実を突きつけられたからだ。
 かかりつけの大先生は院長の息子さんと奥さんに禁煙をさせられているが煙草が好きでやめられないらしい。患者から、
「大先生、一本どうです」と勧められると笑顔になり貰ってそそくさと自室へはいるのだ。
 悪いと一番に分かっている医師がやめられないのだから遊び人などやめられるはずがない。
 煙草の賞味期限を考慮して三百三十個の買い置きをした。値上がり分で買ったとすると三万五千六百の得をした勘定になるのだ。百万円定期にしても年に一千二百円ほどなのだから三千万円の定期をして利息を得た勘定になるのか。
 その買い置きを吸い終わったら禁煙をすると家人に宣言をしている。今から唇の寂しさを忘れるためにガムを噛んでいるのだがそれが効果的なのかどうか分からないが。

新聞紙いらない

2011-01-20 20:31:52 | 独り言
今日の産経新聞 1月2日 週刊写真ニュース


 新聞紙いらない

 新聞を取らなくなってもう三年が過ぎようとしている。取らなくてもなんの差し障りも起きないし感じなくなっている。最初の頃はテレビ番組がわからなくて困ったが今ではテレビのリモコンボタンを押すと出てくるのでなんの不自由もしていない。買いものをするときに便利なチラシもパソコンで見られる。新聞紙は純パルプを使っているので資源の節約におおいに役立つことになる。世の中の動きはテレビとパソコンで充分に知ることが出来る。いのまの世の中で各新聞社の発行部数が減るのは当然と言える。長く続いている景気低迷で広告収入も激減しているしから経営も大変だろう。各家庭では新聞代も馬鹿にならないと言うことで経費削減になる。
 新聞を取っていたときには年払いの前払いで八ヶ月分の新聞代を払って取っていた。勧誘員がきて勧めるがなんやかんや言っているとあれもこれもと品物を付けたり値段を割り引いたり、最後には、
「前払いの年払いで四ヶ月分サービスしますよってどうや」
 少しやくざかかった勧誘員がすごみをきかせた。そのすごみに負けたわけではないがおつきあいで取った。まあ新聞の勧誘員というのが怖い人たちが多くてさっぱりと断らなくてはいつまでも帰らないのだ。それもそのはず一紙勧誘すれば一万五千円の収入になるのだと聞いたから納得した。どんな勧誘員よりも率は良いのだ。中には何紙もの勧誘をしている人たちもいた。
 今、新聞の使命を忘れている新聞が多い。新聞が政治を変え、流行をつくり、命まで左右しだしたことは怖い時代になっていると思う。足で原稿を書くのではなく記者クラブに広報担当からネタがばらまかれそれを記事にするという楽な取材をしているから勉強をしない記者が目立つ。昔は三ヶ月間飲み歩き三ヶ月間岩波新書を全部読み砕いたという記者もいたのだ。どこの新聞も紙面の大きさは異なるが同じ事をのせているのだ。記者クラブは地方では県庁、市役所、警察署、駅などに置かれ新聞記者が暇をもて余してあくびばかりしているところが多い。友達が詰めていた大阪南の曾根崎警察の記者クラブの壁には天井まで缶ビールの詰まった箱が重ねられ覆っていた。企業からの付け届けなのだと言うことだった。記者は忘年会には招待されおみやげを貰って帰るのだった。
 昔、警視庁の記者クラブを舞台に「事件記者」という番組がテレビで放映とされていたが、今は特ダネのすっぱ抜きという様な記事はない。特オチと言って記事を落とすようなことでもあれば記者は始末書ものだった。また、署名記事というものも少なくなっている。書いた記事に名前を入れ記者個人が責任をもつというもので署名記事を書いて一人前の記者と呼ばれたものだ。
 今はどうか自分の記事に全く責任を持たず一方的に垂れ流すだけの新聞に愛想を尽かす読者が増えるのも当然というものだろう。  
 若かった頃は記者の友達が多くいたので各紙の新聞を取っていた。
記者にもいろいろなタイプがいて人間観察の上で勉強ををさせてもらったものだ。記者は囲碁と将棋と麻雀の腕はたいした物だった。それは暇なときに常にやっていたからだ。事件が起こると社旗を風になびかせて現場へ急行するのだが何時も最後はNHKの記者が乗ったタクシーだった。
 昔から言われていることだが、新聞記者と警官はつぶしがきかないと言うことだ。権力を持っていた時の事が忘れられず頑固で妥協をせず攻撃的になって人間関係が作れないと言うことらしい。私とつきあった記者も向こう行きが強く個性的であった。怖いものは何一つない様な振る舞いをしていた。ペンは剣より強と言う言葉を彼らを見て思いおそれを感じたこともあった。が、記者を友達に持つことはメリットもあった。いざというときに記者を連れて行けば解決することが多かったからだ。彼たちは特権階級であった。
 高度成長の波を巧みに乗り切って成長した新聞というメディアはここらで裏取引のない真実の報道をしなくてはならないだろう。それが消えずに残る報道のつとめなのではないだろうか。
 今の新聞紙はなくても良いが、必要としないが、昔あった宮武外骨が出していた「滑稽新聞」なら喜んで読んでみたいと思うのだが。
彼は世の中をなめまくり政府を愚弄し天皇を諳んじた。反骨精神はますます旺盛でそれ故に常に獄中に繋がれていて本を読みかつ書いたのだがそれは半端な量ではなかった。ここには書かないがいろいろな新聞雑誌を発行している。その書いた量は今の流行作家など足下にも及ばない。庶民から喝采を受け指示され獄を出入りしながらも新しい雑誌を出し続けられたのも大衆の支えがあったからだろう。
 今の新聞にそれはあるのか、殆どの読者はテレビ番組のページしか見ないのだ。あとは折り込みのチラシ、チラシが欲しいから新聞を取っているという人の声を沢山聞いた。新聞は自然環境を問うならまず配達先もない残部を知るべきであろう。それらは貴重な森林資源なのである。そのことをまず問わなくてはならない。 
 その中で新聞かみのランク付けをしている。一番上等な尻拭きに適したものは朝日新聞であると論じている。昔の人ならううんと納得する人が多いだろう。
 宮武外骨は平賀源内とともに讃岐が生んだ希代の天才であり奇人であることはここに改めて書くこともないか。          

自然環境の前に

2011-01-20 00:32:39 | 独り言
冬山の雪景色 View of Snow-Covered Mountains(Shot on RED ONE)


自然環境の前に

 自然破壊や自然環境を言う前に整備を怠ってはならない。つまり自然のあるべき姿を認識する必要がある。その時代を何時の時代まで戻すかのと言うことである。
だが言葉ではたやすく言うが壊れ破壊していくものを元へ戻すことが本当に可能なのだろうか。今考えていることは壊れ破壊している自然を今の状態で止めると言うことでしかない。万一それが出来るとしても自然恢復は可能なのだろうか。大気圏にあるフロンや二酸化炭素をどのようにしてなくするのかと言う研究は途方もなく広くて考えられないというのだろうか。もうこれ以上二酸化炭素の排出を阻止しなくてはあらゆる動植物の生存は出来ないところまできているという現実。人間は際限もなくあらゆる地球の資源を生活の便利と引き替えに浪費してきた付けがいまの地球と言う水の惑星に襲いかかっている危機なのである。人類の最高の発明と言われる自動車が石油という資源を消費する事により、ジェツト機で地球の時間を短縮させて気候変動の元を作っているのだが、果たしてそれだけであるのか。地球自体が変動期に入っていて狂わせているのではないか。様々な憶測がある。いろいろな研究もなされているのだが真意は実態は調べ始めた統計からは判断が出来ないのだ。このままで行くと地球には大きな試練が待っていると言うことになろう事は推測できるのだが。その地球が百万年か二千万年を過ぎて地球自体が再生され動植物がすむようになるとすれば進化した動植物が息を吹き返す事になるのであろうか。地球に危機が訪れ度に動植物は進化を遂げたようにである。
 今、家庭ゴミの選別をし焼却による大気汚染を防止賞しようとする動きがあるが、車をエコカーに買い換え、電力の消費を押さえた電化製品に取り替え、企業は二酸化炭素の削減を行い、それらの努力は果たして報いられるのか。だがそこには大きな落とし穴があることに気づかなくてはならない。自然環境を考える人間自体の問題があることを。つまり人間のモラルの問題である。
 私は倉敷水島のコンビナートにすんでいて公害闘争を行った経験がある。水の汚染がやかましく言われ合成中性洗剤が敵の様に言われた時期があった。学校の先生上がりの人たちがやかましくまくし立てていたが彼女達がやったのが廃油の中に苛性ソーダーを入れ炊き石けんを作ると言うものだった。その程度の浅知恵で水が綺麗になると考えていたらしい。新聞やテレビに取り上げられ悦にいっていたが、水は一向に綺麗にならなかった。合成中性洗剤ん゛みずを汚すと同じように作られた石けんも水を汚すことには変わらなかったのだ。この程度の事で綺麗になるはずはなく行政に下水道の完備をなぜ提言しないのかと不思議であったものだ。行政は水の汚れに対してコンクリートの護岸工事をして海へ早く垂れ流すと言う投げやりな解決策を施したのだ。それが余計に水を汚染させていた。それまでの川には草が生えて川面にたれ水草が繁茂して水を浄化していたものをそれが出来ない川にしたことに気づかなかったのだ。それに住民の意識が足りなかった。つまり人間環境が整ってなかったと言うことなのである。何が言いたいのか、つまり自然環境を良くするためには人間環境を良くしないと駄目だと言うことを言いたい訳なのである。川にゴミを捨て、煙草の吸い殻を路に捨て、人は横断歩道でないところを渡り、自転車に乗っている人たちは信号機を無視し、大きな車を一人で乗り回し、ジェツト機に乗って観光にうつつを抜かし、木々を切り倒して山を削り作ったゴルフ場で運動と言いつつ遊興にふけり、曽於している現実はすべて人間環境のなさ故で、そこに大きな公害や二酸化炭素の排出の原点があることを知らない無知な傲岸があるのだ。それは固形石けんを作ったくだんの先生上がりと大差のない行動なのである。
 今よりこれから今の地球を残そうとしたらそんな傲岸はやめなくてはならない。不自由は我慢し耐乏しなくてはならないことなのだが、一向に気づく人がいないのが現状である。その人らは口では環境問題を真しやかに説くのだ。それは煙草の煙が他人に迷惑を及ぼすからやめろと言う理論なのだ。自動車の排気ガス、ジェット機のとつてもなく多い排気ガス、工場の煙突から出る煙に文句が言えない人の弱い者いじめなのだ。煙草は分煙と言うこともあるので節度のある人たちは喫煙所で吸うべきなのだ。声だかに言われる筋合いではない。吸って早く逝きたいのだからほっとけばいいのである。
 人間環境、これは教育の問題ではない。人間の資質の問題なのだ。資質は教育から生まれると言われるがどのように生きれば良いかという哲学の問題なのだ。優しい慈しみがその底辺に流れていなくては生まれないものなのだ。
 更に言う。環境問題のネックは人間環境の貧しさであり自分勝手な行動なのである。それを知らしめる事の不備であると。人間環境が良くならないと自然環境は決して改善されないのだ。
 心がすさんでいては自然も崩壊すると。

風呂敷包みの中身

2011-01-18 20:52:16 | 独り言
赤とんぼ(童謡)


風呂敷包みの中身

人は大きな風呂敷包みを持っていると感じたのはこの歳になってだ。いろいろな物を一杯入れて背負っているのだ。それは今までの物とかこれからの物なのだ。沢山入っている人が賢者で立派とは言えないし少ない人が愚者でつまらないとも言えないのだ。要するに中身の問題だと言うことか・・・。
 遊び人である私は意外と大きな風呂敷を担いでいる。それも中途半端な物がずいぶん多い。偏った物を入れていると言うことなのだ。誰でもそうだが好きな物を入れているのだ。サラリーマンを長く続けた人たちは幅が狭く規則正しく袋に入れている。まじめに生きた人たちも同じである。が、いろいろな経験や多少路を外れている人は沢山入っている場合が多い。それは喜びであったり苦悩であったり感情の起伏の大きい物が入っていると言うことだ。一つの物に拘って生きた人は細くて深い物である。
 人はそれで満足していればなんの文句もないのだが、こんなものじゃないという思いこみと向上心が平常心を妨げる。それも風呂敷に入れる。だから今の人たちの風呂敷は一杯なのだ。不平と不満という負をいれているのだ。歓喜は軽いが負は重たいのだ。だから重い風呂敷を負っていることになる。みんな風呂敷に入れすぎているのだ。それだけ生き方が多様になったと言える。風呂敷の中身が多い人ほど苦労が絶えない。単純に考えればいい物を複雑に考えてややこしくしてしまう。風呂敷の中身を沢山入れて生きたい人はそうすればいい。研究をしてノーベル賞を貰えばいい。風呂敷の中身をすっきりとしておきたい人はフリーターでもニートにでもなって自分の人生はこんな物だと開き直り欲心を捨てればいい。そんな人が増えたら国庫に入ってくる税金が少なくなると政府は余計な心配をして雇用対策に力を入れ職につかせようとする。人はそれぞれ生き方があるのだ。百万円あれば暮らせるという人は百万円稼げばいい。それでいいではないか。満足している人に金儲けの仕事の世話をする必要があるのか、いらぬお世話な事だ。その日の飯代だけを稼ぐその日暮らしはやったらやめられないものだ。人並みの生活それはそれぞれなのだ。それが自分の風呂敷だからだ。人は自分の風呂敷を過大に評価して不幸になることが多い。
 好きなことをして生きている芸術家はまず欲心を捨て皆様にご迷惑をおかけして申し訳ないという気持ちを持たなくてはならない。好きなことをして芸術品を万一作ることが出来たらそれを寄贈する位の気質を持たなくてはならない。世の中に対して益になっていない生き方をしたのだからせめてもの恩返しである。そんな風呂敷を持っている芸術家はまれである。好きなことを続けることが出来た事を自らが喜ぶのではなくみんなに喜んで貰うには芸術家を自認している者は社会に対して返すべきものがなくてはならない。自分勝手に生きて創作に打ち込んでいるのだからたまには上等なものも出来るだろう。
「すいませんこんなものしかできなくて」と頭をかきながら言うくらいの謙虚さが欲しいが、功績が評価され勲章など貰うのは芸術家のもっとも嫌うことでなくてはならないのにこにこと笑って喜んでいるようでは風呂敷が小さいゆえんなのだ。私は芸術家より腕のいい職人芸を買っている。作る物は同じなのに芸術家と職人の何処が違うというのか。とにかくものつくりが先生とか、作家とかなること事態がおかしくないか。江戸時代の職人を考えて欲しい。あれほどの仕事が今の芸術家に出来るのだろうか。芸術家と思い上がるのもいい加減にして欲しいものだ。好きな事をして生きると言うことは自分の勝手である。世間に迷惑をかけていないからいいだろうというのは詭弁なのだ。人は風呂敷の中身でそれ相当の社会奉仕をしているものなのだ。あんなに苦労をしてと同情をする必要さらにない。好きな事をして生きているのだから寧ろ苦労はあたり前であり勲章より重いかも知れないのだから。世の矛盾に対して立ち上がらない文化人という偽文化人にもそれは言えるのだ。邪魔をしないで勝手に生きてくれと。牢獄で叫んだかつての芸術家や文化人は今の現状をどのように思うだろうか。
 私は長嶋茂雄、野村克也、星野仙一は嫌いだ。名をなし功を遂げれば世の中に返さなくてはならない物があるはずだ。知る限りこの人達にはそれがないからだ。風呂敷の中身は金なのだ。安物の名誉心なのだ。
 人間の最大の特質は忘却することである。と言うが人はなかなか忘れようとしない。忘れなくてはいけない事を忘れずに忘れたらいけない物を忘れると言う事をする。肝心な事は忘れるのだ。覚えていても忘れた格好をするのだ。自分の都合のいいように風呂敷の中身を使い分けるのである。まあ、それが自己保身という事なのかも知れないが。
 鬱を患ってからは風呂敷に入れる物がなくなった。なにも考えられないからである。考えていたら行き着くところまで行き死を選んでいたかも知れない。今これで良かったと思っている。そうでなかったら人として大変な過ちを犯しているかも知れないから・・・。 

夢の中で

2011-01-17 23:01:06 | 独り言

夢の中で

 このところ良く夢を見る。それも二十代の頃の夢なのだ。最近のことは思い出さないが、夢にも見ないが、昔の事は良く覚えていると言うが大変リアルなのである。若かった頃の懐かしいものばかりなのである。夢に出てくる人たちからは疎遠され無視されるという者が多い。そんなに我が儘であった覚えはないのだが。
 若いころ半年働いて三ヶ月間は失業保険を貰いながら生活をしていた。その間本を読んだり原稿用紙に文字を埋めたりして暮らした。物書きになると言う目的でなく好きでやっていたのだ。たまたま同人誌に書いた作品が「文芸」同人誌批評をしておられた作家で評論家の中田耕治さんに取り上げられたりして、また、会の主宰者の直木賞候補作家の小林実さんに「この作品は中央の文芸誌に発表しても遜色はない」とほめられても物書きになるには遠く厳しいことくらいわかっていたから好きでやればいいと構えていた。確かに六ヶ月残業をしてたくわえ三ヵ月文学の世界の浸り続けて小説家やシナリオライターになった人は多かったが、その真似をしても物書きにあこがれてもなろうとは思っていなかった。これで何か生きるきっかけがつかめればというものだった。不可能な夢に浸るほど裕福ではなかった。半身不随の母の面倒を見ながら生活をしていたのでこのような生活をすることは無謀であることはわかっていた。かすかに心のどこかに物書きに成れたらいいなという願望はあったのかも知れなかった。新派の北条秀司さんが新しく出す雑誌の仲間を募っていると聞いて仲間に入れてもらった。テレビドラマ「判決」を書いていた高橋玄洋さん、本田英夫さんらがいた。
 そこでいろいろと教わったものが後に台本をたくさん書くことになるのだがその影響は色濃く残っている。新派の泣きの芝居になるのを成らないように書く努力は大変な作業であった。その会に入ったのも台本の書き方の勉強のためだった。それから「シナリオ学校」の通信課程にはいり本格的に勉強をした。後に推理作家になった赤川次郎さんや歴史文学賞をとった松本幸子さんは後輩になる。
 戯曲と小説を同人誌に載せてみんなの評価の俎上を仰いだが戯曲はほとんどの人にわかってもらえなかった。「女流文学賞」をとった梅内ケイ子さんとは毎回小説の懸賞に応募していた。そのころから物書きに成れたらいいなという淡い思いがわいてきていた。毎夜の十時ごろに電話が鳴って朝の五時ごろまで、梅内さんが電話の向こうで作品を読むのを聞かされた。黙って聞いていると、
「ここんところがおかしいのやね」と自問して続けるのだった。
「ここまで来たら世にでなあかんで」と常に励まされた。二人はあらゆる賞の一次や二次は常に通過していた。時には最終ということもあった。
 志茂田景樹さんに振り落とされ、宮本輝さんには足蹴にされた。文芸春秋にどうして落ちたのかを電話すると読んでくれていた編集長が出てこられて、
「志茂田景樹さんの小説を読んでみてください。そうすればわかりますよ、テーマが暗すぎました。賞と言ってもこちらも商売ですので売れるものを取ります。これに懲りずに応募をお願いいたします。
才能はありますので期待しております」という電話の声がした。その電話が道を迷わすことになった。だめです才能はありませんといわれたらあきらめて備前焼の作家へ華麗なる転進をしていたかも知れないのだ。「太宰治賞」の宮本輝さんの作品を読んでノックダウンさせられた。
 そのころ家人と結婚していて二人の子がいた。そろそろ潮時かと考えた。この一線が越えられなくて一生文学青年で過ごした人は多くいた。それでも時折応募はしていた。小説入選と脚本賞が転がり込んだが物書きの苦労と辛さは身にしみていた。
 今までのことはみんな夢なのだと、気ままに好きでものを書くことに決めて子供たちのオシメを洗い夕食をせっせと作った。車に乗せて子守に専念した。
 暇なときに新聞小説を書いた。随筆も連載した。書いている間生きている気がしなかった。重圧がひしひしと襲った。お金を貰って書くという事がどれほど苦しくしんどいかを知らされた。書くことを楽しむことは出来なかった。
 夢を見ていた中で欝の症状を体にきたしのしかかられていたのに気づかずいた。
 何もかもそこで終わりだった。
「おい、生きとるか、今度の青年祭の台本を書いて欲しいねん」と演研の土倉さんが顔を見せるまで、欝の世界を堂々巡りをして夢を見ていたのだった。
子供達や青年とわいわい騒ぎながらの演劇作りの十年間、鬱との戦いではあったが今では夢を見ていたようである。
 篠田正浩監督の撮影に参加して、岩下志麻さん、真田広之さん、河原崎長十郎さん、佐野史郎さん、竹中直人さん、浜村純さん、長塚京三さん、葉月里緒奈さん、フランキー堺さん、高田純次さん、羽田美智子さん、鶴田真由さん、上川隆也さん、加藤治子さん。片岡鶴太郎さん、吉川ひなのさん、鳥羽潤さん、余貴美子さん、中井貴一さん、山本学さん、小沢昭一さん、そのほか多くの役者さん達と仕事が出来て映画の制作現場で学んだことが多かった。映画制作現場で働くスタッフの映画好きがひしひしと伝わってくる姿を見てこんな夢も悪くなかったなと思った。監督とは大きな夢を見る人であると感じた。鬱を忘れて四作の撮影現場は本当に愉しかった。映画好きの少年時代に帰っていたのだった。鬱の症状は出なかった。良い夢が見られたのだ。
 なんだか人生は夢を見ているようで沢山の夢を見て過ぎていくのかも知れない。うたかたの夢なのかも知れない。
 夢を見ることはすばらしいが分相応の夢を見るに限ると今は思えるのだ・・・。
 

言葉が分からない・・・

2011-01-16 22:36:58 | 独り言

言葉が分からない・・・

生きるために必要な物とは尋ねられてはいそうですかと 答える事の出来る人はそんなにいないのではないか。
「命でやしょうか」「金でしょうか」「空気でありやすか」「水でしょう」「連れ合いです」そんなに咄嗟に出てくるものではない。人それぞれに違った言葉を返してきた。ことば・・・と書いてはたと考えた。生きるために必要なものは言葉。人は一人では生きられないから言葉が必要だ。みんなが共通に使える言葉が、意思を伝える言葉ではなかろうかと気がついた。
 歳を取ると記憶の倉から引き出すのに時間がかかる様になる。分かっているがなかなか実像と言葉が重ならなくて間違った言葉を発してしまう事が多い。すんなりと思う言葉が出れば誤解も少ないが、言葉がうまく出ずに気まずい思いをすることもしばしばあるだろう。言葉はゆっくりと思い出すように喋ることにしている。書くことにおいては間違うこともなく言葉を選べ直ぐに頭に浮かぶのだが。
 生きるために必要なものとして言葉を選んだが皆さんはどうか。  何んと答えてもそれらはすべて正解と言うことなのです。
 言葉と同じで昔から心に引っかかる問題を抱えています。
 もう四十年も前の事でしょうか、私の住む倉敷水島は工場の煙突が数十本も林立し五十メートルの炎を一日中あげていたときの話です。その下では夜に新聞紙が読め私のところからは夜空が真っ赤に焼かれて毎日大火事の空を眺めているようでした。全国からオルグとして沢山の人たちが来ていました。彼たちはこれからどのように対抗する運動を展開するかを協議していました。参加した漁師の方は、
「排水溝にコンクリートでも流し込むしか方法はなかろう」
「むしろ旗を掲げてのデモじゃ」
「くそうてどうもならん魚を県庁の玄関と工場の玄関にばらまいたらどうじゃろう」
「署名運動はどうかの」
 この言葉に何の力もなかった。全然伝わらなかった。言葉は相手
に伝わらなくては必要なものにならないのだ。すったものだと言葉の応酬をしても平行線では言葉が生きていないということなのだ。それは突き詰めて言えば双方に言葉がなかったということなのだ。むなしいやり取りの言葉ほど疲れるものはない。
「知りません」「わかりません」という言葉がまかり通っている今の世の中は死語が行きかっているということでそれを容認している
社会は終末に近いということなのかもしれない。感情的な言葉のやり取りは言葉であって言葉ではないものになる。あるる思いと心の入っている言葉には程遠いものなのだ。それを言葉とは言いがたい。
 倉敷水島では次の会話にならない言葉のやり取りが続き、
「責任を取れ」「責任はない」との応酬がむなしく響いていた。
 そんな中、小さな支援グループの人たちと知り合った。都会から数人で公害反対運動をしている人たちであった。事務所を開き電話だけ引いた侘しいところだった。資金が潤沢ではないことはすぐにわかるところだった。大学生らしかった。学生運動の崩れたものであったろう。
「運動資金がなくなって困っています。どうかこの本を買っていただけませんか」と公害に関係した本を持ってきていった。
「明日運動に必要な電話を止められるのです。お願いです」細面の端正な顔つきの青年は言った。頭を下げることはなかった。そんなに困っているのならと思い言い値で買った。そのときが縁で読みもしない小難しい本を何冊か買う羽目になった。
 この土地の人たちが尻込みをして反対運動もしないのにわざわざ遠くから支援に来てくれていると思うとむげには断れなかったのだ。
 了解、納得には言葉が生きていて伝わったものだ。
「あの、売る本もなくなったので外にまたしている女を買って貰えませんか」この言葉には驚くと同時にあまりにも重過ぎた。
「そんな、そんなにしてまでこの水島の公害反対運動をする意義があるのですか」
「私たちがここへ来ているのは半端なものではないのです。使命を持ってきているのです」
「今のようでは使命も何もないのではないのではありませんか」
「だから女も男も体を売るのです」
「そこまでしても・・・なお・・・」
「ここでなくてもどこでも良いのです。実践の限界を試しているのですから・・・。何ができるのかをためしているのですいから、どれだけ人間は耐えられるのかという」
 この青年たちは女の子の売春によって運動を続けていたのだがいつの間にか消えていた。
 言葉が通じない社会になりつつある。とそのときにも思った。それは世代の相違でなく考え方の違いだった。売春しても電話代を稼ぎ運動を続ける、今になっては菩薩のようにも思われるが、操を売っても続けることに意義があったのかは疑問であるが・・・。
 また、大臣の名刺の裏にこの者をよろしくと書いたものを持って公害企業を訪ねあるきタクシー代を稼いでいた業界紙の人たちのことも言葉が通じなかった。
 いろいろのことばが氾濫していた時代、今もあまり変わらないが・・・。
 意味はわかっても言葉が通じなかったなと今も思っている。