yuuの夢物語

夢の数々をここに語り綴りたい

春なのか・・・。

2011-02-22 03:44:14 | 独り言

春なのか・・・。

 今日は車にヒーターなしでも大丈夫であった。家の中より外の方が暖かいそんな日。
 災難は続く、ウォシュレットが壊れた。色々と直るかと思っていやってみたりたたいてみたりしたが駄目。この前のリフォームの時に変えたのだから三年も立っていないものだ。今までも三年で壊れている。ウォシュレットの寿命はそんなものかと諦めることにした。一ヶ月五百円の償却になる。新しい物を買いに行った。安くて良い物が置いてあったので買った。帰って付けてみたが故障なのか電気が付かない、買った店に文句を言うとその製品は今はないので違うメーカーの物と取り替えるという。買ったものの二倍の値段の物だという。帰って付けてみると今までとは違い余分な物が着いていて付けるのに大変であった。水漏れもなく付けられたが、機能は前に買った物が相当いい。まあ親切に替えてくれたのだから文句は言わないことにした。どだい人間がお尻を洗うのを機械に任すというのが傲慢なのだ。昔は宮武外骨さんが推奨するように朝日新聞で拭いていたのを(当時は朝日新聞の発行部数が一番であったのは頷ける)、誰が考えたのか水で洗うと言う機械を発明したのだ。外骨さんが生きていたらなんと言うだろう。贅沢だ、縄にしろと言うかもしれない。
 災難は二度あることは三度あると言うが、三度目が運に関係していた。まあたいした災難でなくて良かったと、十万円の出費ですんだのだから。
 それより春を感じている。寒かったから余計に春の訪れが待ち遠しい。風の色が変わった、お日様の臭いが変わった。雲の形が変わった。空が微かに近くなった。草花が芽を吹き始めた。誰もささやかないのにみんな春の準備をしている。人間だけが春を待ち遠しいと思っている。もう春が来たというのに。外に出てご覧なさい、そして、あくびをしてご覧なさい、大気はもう春の装いなのです。ありがとうと向かえよう。
 春と聞けばなんだか心が弾みます。こんなに老いていても・・・。
 今までのことをすべて忘れて春を迎えよう。水漏れ、修理、ウォシュレット、みんな忘れて春の準備を始めよう。
「星に願いを」のラルは何処で春を迎えているのでしょう。ラルに訪れた悲しみはきっとラルの心の糧になり成長させてくれるでしょう。おわりとキーボードを打って止めたが今でもラルのことは心に残っています。幸せになれと願っています。そう思うのは春がちかずいているからなのかもしれません。もっと草原の中に生きるラルを書きたかったのですが、書くのがだんだん辛くなりました。それで急いでおわりと書いたのです。何かの拍子にまたラルを書くかもしれません。大人になって行くラルを暖かく見詰めています。
 最近、フェィスブックやツィッターを覗くことがあります。何処が新しく面白いのかと好奇心で見ているのです。朝の三時から四時頃までのつぶやきには勉強になることが沢山あるのです。本音でつぶやいているのが分かるのです。初めてまだ何日かですが、最初はらちもないことをつぶやいてストレスの発散をしていると想っていましたが、時間で違いました。社会の矛盾や変革を提言する人たちが多い事を知りました。一度は閉鎖を喰らいましたがお許しが出ています。今、東南アジアやアフリカで反政府デモが盛んになっているのはフェイスブックを使って呼びかけ広がった物なのです。
 そろそろ、行ってみますか・・・。ツィッターへ・・・。
 春になろうとしていますから・・・。

冬から春へ

2011-02-21 06:03:56 | 独り言
冬から春へ

 一月は行って二月は逃げて去る三月がもうすぐに来ようとしている。
 二月も二十日を過ぎようとしているが、中々寒さは去らない。今週は少し暖かくなる模様だ。
 今年の寒さには閉口した。寒波は二度やってきたが水道管が凍結して漏水で大変であった。早く気づけば良かったが寒さで外に出て見ることが出来ず漏水が何日も続いていることに気づかなかった。水道料を見てびっくりした。五万円も来ていた。家の回りを見て回ったら、川に漏水が勢い良く流れていた。周章てて業者に修理の連絡を入れたのだ。翌日来てそこは直してくれたが、メーターはまだ回っていた。あと1カ所漏れているのだ。くまなく水漏れを探したが見つからず水道局に電話して音波器で調査して貰ったら風呂の下あたりが漏れているという。今度は建設会社に電話して風呂の修理と思ったが新しくした方がいいというのでリフォームをすることにした。その日の夜、我が家の飼い猫の首に付けている鈴がないことに気づいて探していると水の流れる音が聞こえてきた。隣接する長男の家の洗面化粧台の下あたりから音はしていた。見ると水がしたたり落ちている。検査機器は何と当てにならないかと翌日修理に来て貰った。検針メーターはびくとも動かなくなった。今年の初めの水道代と修理代で十万円は消えそうである。無職渡世の遊び人には痛い。
 大変な冬の一コマである。
 倉敷というところは住んで四十一年になるが一度私が車を洗うのにひいた塩化ビニールの管が寒波で砕けそれ以来で今年のことで二度目。
非常に温暖な食べ物の美味しいところなのであるが、地球温暖化の影響で寒冷化したのか水道管が凍結し漏水することになったのだ。私は地球温暖化が二酸化炭素の影響と真実信じせっせとエコに励み電力は使わないようにし車もエコカーに変えてゴミの分別もきちんとしていた。が、今年の寒さでそれがどうも怪しいと思う様になった。武田邦彦さんの言うとおり寒冷化にむかっているのではないかと密かに思うようになった。この寒さは私が老いているからでなく万民皆寒いのだ。石油をけちりストーブをあまり焚くこともなかったが今年は炊かなくてはおられない寒さなのだ。エアコンと石油ストーブの比較もしてみた、やはり安くて暖かいのはストーブであった。もう二酸化炭素がどうのと言っておられなかった。物を書いているときには頭が熱くなるので寒さも忘れるのだが本を読んでいるときにはがたがたと震えた。
 珈琲、砂糖、大豆、小麦の値上がり、私の様に貧しいものが出来るのは上がる前に少しでも買いだめすると言うことしかない。僅かの貯金をはたいて買っている。今年の様に寒くて寒冷化するとなるとたちまち食料が枯渇する。そんなに長く生きようとは思わないが少しは努力して見たいと思うが心理ではあるまいか。地球が寒冷化すると今地球上に生きている人間の人口の半分は餓死するだろう。動植物にも言える。人間なんて偉そうに言っているが自然の前では平伏すしかないのだ。日本も江戸時代には二千何百万人しか生きていなかった。それだけの人間しか食べるものがなかったのだ。自給自足でいいと思う。働かざる者喰うべからずである。そうなれば私の様な遊び人はおさらばである。買い置きの煙草を吹かすしかないのだ。
 冬から春へ季節が移り変わろうとしている。剪定した薔薇の木もようやく幹に芽を吹き出している。どうもこれは神様の思し召しである。春が来ているからそろそろと準備をしなくてはいけませんよと言う声が聞こえるらしい。人間にその声は聞こえない。動物の本能、勘が鈍くなっている証拠なのである。予知能力の欠如である。雲の姿が変わったのに寒くて気づかない。冬の雲と春の雲の区別が出来なくなっているのだ。どうして人間という動物は退化したのか、環境を勝手に都合の良いように変えた罪なのか。そのくせエコがどうのこうのと忙しくしているのだ。おかしな生きものであると思う。自然に感謝の念が失せたせいか、何でも出来ると言う傲慢な故か、自分で自分の首を絞めていることに気づかない。やはり人間は愚かなのか。文明を追いかけて本能を喪失したのか。
 鬱の病と闘っている者にとっては春は受難の時なのだ。花粉症の比ではない。鬱の薬を飲むと言うことは脳を錯覚させていることなのだ。
時にその錯覚が不幸をもたらす。死への誘いである。決まっている寿命が来たという錯覚なのだ。生きる気力の喪失である。西行のように春櫻の下で死にたいという願望がむくむくと立ち上がるのだ。明日も今日と同じなら死んでも良いという心境になるのだ。目的、目標がないのだ。私がその淵から救われたのは演劇を創るという事だった。書いた物が演じられ観客がそれを見てどのような反応を表すかという好奇心であったのだ。私はその藁にすがった。いや、神様が垂らすクモの糸だったのかもしれない。必死にすがり登ったのだ。私のあとから糸にすがって登ってこようとしている者に頑張れと声をかけながらである。人は一人では生きてはいられない、仲間が欲しかったのだ。それはもしかしたら神様に仕組まれたものであったのかもしれない。どうだっていいみんなでその地獄からはい出たかったのだ。
 春になると鬱であった時のことを思い出すのだ。当時の生きる苦しみに比べたら水道代が十万来ようとも今を有り難いと思う。地球温暖化がウソでも許されると思う。とにかく今を生きることで誰かを幸せにしたいというあのとき感じた事が出来る事への感謝である。
 感謝を忘れたら生きる喜びは半減することを今なって感じているのです。

冬に秋のことを書く

2011-02-18 23:24:08 | シナリオ あの瞳の輝き永遠に 
春の風



 出不精の私が紅葉狩りに行ったと言えば小学生のころ遠足で行ったことがあるだけだ。この歳になっても粋人ではないので紅葉を愛でる趣味はない。まだ綺麗な物を綺麗だと言う心境には成れないし余裕もないのだ。私にはまだ自然の景観に感嘆する人の域に達してないのかも知れない。身近の美に対してのみ心動く小さな心しかないのかも知れない。つまり幼稚な精神しか持ち合わせてないと言うことなのだ。身近な雑事がある訳ではないが看たいという欲望が全くないのだ。人が春には櫻を愛で、夏には海水浴に興じ、秋には紅葉狩りを楽しみ、冬には樹氷をと忙しく立ち舞うのが理解できないのだ。時間は限りなくあるが行ってまで看たいと思わないのだ。そこにあれば見るだろうが。要するに美に関して横着なのだ。このような精神になったのには訳がある。子供達がまた幼かった頃には車に乗せて何処や彼処によく行ったものだ。だが、子供が少し大きくなり友達と遊ぶことの方を優先しだしてからは何処へも行っていない。三十を半分過ぎた頃に自立神経失調症にかかってからは余計に出なくなった。それが昂じて鬱になり家から出るのが怖くて外には一歩も出なくなった。出るときには家人を同伴させた。そんな私に自然の美に感嘆する資格はなかった。いわゆる閉じこもりなのであった。今様の人たちの閉じこもりとは違うが。
 だが、鬱がだんだん良くなって行く中で「演劇人会議」の実行委員をしていたときには東京へ這い這い一人で出かけた。東京駅で中央線へ乗り換える階段の多さには閉口した。今はエスカレーターがついていて便利になったが当時はなかった。新宿大久保のホテルまでよたよたしながら行った。倒れたら誰かが救急車を呼んでくれるだろうという思いであった。そんな私が家人と旅が出来るとは思わなかった。鬱を抱えていたときに篠田正浩監督の映画のに二ヶ月間参加してやり遂げた後少しは自信が付いた。その後監督とは三本の映画制作に参加した。このことは前に書いたことなので省略するが、監督との仕事で鬱と少しは離別できた。その間十年間子供達に演劇を教えて公演することで完治とは行かないまでも完治に近づいていた。二十数年間は鬱との戦いであり人生で一番動き充実した日々であった。鬱の苦しみを鬱を治すために誰かがくれた試練だったと言えるかも知れない。
 そんな私が自然の美と仲良くできるはずもなかったのだ。
 今年の春は家族八名で道後温泉へ行った。子供達がそれぞれ独立し家族を持って初めての旅行だった。春にはそのようなことがあったが紅葉狩りへの興味は湧いていない。
「紅葉狩りにでも出かけましょうよ」と家人は言うが今のところその言葉に答えてやれない。鬱を患ってからタオルの中に保冷剤を入れて額に巻いている。その保冷剤が1時間しか持たなくて溶けるとたちまち頭痛がするのだ。前の大きな車には保冷庫がついていたが今の車には付いていないので頭を冷やすすべがないのだ。だから躊躇するのだ。車でなくても新幹線でも一緒なのだ。頭を冷やす事は癖なのかも知れないとタオルを外して見たが一日が背一杯であった。筋収縮性頭痛なら冷やすと余計に血管が収縮し頭痛が酷くなるのだがそうではなく冷やさなければ痛くなると言う持病があって遠くへの外出は駄目と決めているのだ。国民文化祭の時に二日間会場に付いていたがタオルを濡らしにトイレに何回も通ったのだ。
 紅葉狩りも良いがこんな状態では無理だろうと決めているところがある。
 春の温泉旅行の時に秋には少し足を伸ばして伊勢にでも行くかという話があったのだが今のところその話題はない。
 東京の会議には四年間でほど三十回ほど人の善意を当てにして出たがその都度無事に帰ることが出来たのだ。あのときの気分で出る気になれば出られると思うが億劫が先に立つのだ。
 長年支えてくれた家人の願いを叶えてやりたいと北海道への旅を計画中だが、私の場合は先が見えなくてその日にキャンセルをするかも知れないと思うと躊躇するのだ。癖が悪くて朝早く起きられないから徹夜で行くことになり良く不測の思いが芽生えてキャンセルになるのだ。まだ鬱とは完全に決別が出来ていないと感ずる。
車は何不自由もなく乗ることが出来ている。家人を助手席に乗せなくても夜中でも何処へでも行けるようになっている。深夜六みんなが寝静まっても一人でパソコンの前で朝まで座ることも出来ている。
 やはり気のものなのか・・・。
 燃えるような紅葉を見れば私の心も赤く灯が付くだろうか。それが克服を祝う灯火であれば良いのだが。
 ここまで書いて、
 今年は紅葉がりをしに行っても良いかという気になっている。高梁川の流れを左に見て北へ走り・・・。


 

宮武外骨の偉業

2011-02-18 01:45:41 | 独り言
宮武外骨について

 皆さんは宮武外骨という御仁をご存じだろうか。
 讃岐が生んだ反骨精神旺盛な変わり者のことを。江戸時代の平賀源内、明治の外骨とちまたで評判の健筆家で健啖家でもあった。
「滑稽新聞」を初め当局に発禁をされると新しい雑誌、新聞を次々と送り出し世の中を滑らかに考える事の重要性を説き、その都度投獄され獄中にあって書き続けた。その数や今のはやりの作家とは比べ物にならない。天皇を不敬し、政治家を愚弄しなめ回し、経済問題、外交問題、道徳常識を蹴散らかし、庶民の思いを代弁し、あらゆる事を新聞雑誌に書き訴え続けた人である。八十八歳でなくなるまで盛んにほえまくった人でもあった。
 次に東京朝日新聞に出した自らの広告を載せます。「当時五十八歳になっても、マダ知識欲の失せない古書研究家、探しているものをいちいち挙げれば、新聞全紙を埋めても足りない。それよりか自分一身上の大問題について探しているものを申し上げる。亡妻の墓を建てない墳墓廃止論の実行、養女廃嫡のために宮武をやめた廃姓廃家の実行、今は一人身で子孫のために計る心配はないが、ただ自分死後の肉体をかたづけることに心配している。友達が何とかしてくれるだろうとは思うが、墓を建てられると今の主張に反する。自認稀代[世にまれな]のスネモノ、灰にして棄てられるのも借しい気がする。そこでこの死後の肉体を買い取ってくれる人を探している。ただしそれには条件が付く。かりに千円(死馬の骨と同額)で買い取るとすれば、その契約[と]同時に半金五百円を保証金として前はらいにもらい、あとの半金は死体と引き換え(友達の呑み料)、それで前取りの半金は死体の解剖料と骸骨箱入りの保存料として東大医学部精神科へ前納しておく。ゆえに死体は引き取らないで、すぐに同科へ寄付してよろしい。半狂堂主人[外骨]の死体解剖骸骨保存、呉秀三博士と杉田直樹博士が待ち受けているはず。オイサキの短い者です。至急申し込みを要する。」
 こんな広告を出すだろうか、外骨ならではの物である。
(幼名を「亀四郎」というが、その名を戸籍上も正当な「外骨」などという奇想天外な名にしてしまった男を記憶にとどめたい。ジャーナリストとしての最晩年を明治新聞雑誌文庫創設に捧げ、退職後は自叙伝の大成につとめたが、足腰の衰えはいかんともしがたく老衰のため四人目の妻、能子に看取られ昭和三十三年のこの日、天寿を全うした。
 尋常な人間の感覚では焦点を結ぶことが出来ないであろう。宮武外骨の駆け抜けた生涯を追いかけることは、あまりにも無謀だと気づかされるのに一時もいらなかったが、偶然にも訪ねあてたこの霊園の石碑、木陰でひっそりと佇んでいる「宮武外骨霊位」墓は、正岡子規・尾崎紅葉・夏目漱石・幸田露伴など大家と呼ばれる文士と生まれ年を一にする男。「我地球上に在って風致の美もなく生産の実もなくして、いたずらに広い面積を占めている」と墳墓廃止論を唱えた男。一代の危険人物の奇妙な形の碑であった。)(吉野孝雄さんの文章を写す)
 この人に触発され劇団滑稽座を創設したのだが、父の郷里の奇人には足下にも及ばない。
以下は主だった執筆物をのせます。全部外骨が社主をし書いている物。
「頓智協会雑誌』 『滑稽新聞』 『大阪滑稽新聞』『教育畫報ハート』 『此花』  浮世絵専門誌『日刊新聞不二』『雑誌不二』『ザックバラン』『スコブル』 『民本主義』 『赤』 『震災画報』『面白半分』 『筆禍史』『幸徳一派 大逆事件顛末』
「アメリカ様」『筆禍史』「滑稽界」「東京滑稽」「江戸ツ子」「ポテン」「滑稽雑誌」「釜山滑稽新聞」「猥褻と法律」「廃物利用雑誌」「我儘随筆」「裏面雑誌」「猥褻と法律」「廃物利用雑誌」「我儘随筆」「裏面雑誌」このほか自著や辞典やアンソロジーめいた出版物が数かぎりなくある。
 こんな物ではない世の中のあらゆる物を書き下した。女のほとの解説も。墓の無用論、姓名のくだらなさ、古代史、書画骨董にも精通していた。何処で学んだか、驚くことに殆どが独学なのである。
 朝日新聞は尻を拭くのに最適な紙という言葉で想像願いたい。
 滑稽、頓智、酔狂、癇癪、色気、洒落、反骨、風刺、愛嬌、正義、それらが外骨の精神の神髄なのである。
 私がなぜ外骨をのせたかは今のメディアに命をかけてその使命を全うしている人がいるかと言う義憤からである。まして文化人と称している人たちの中にこの気概を持っている人がいないと言うことを残念に思っているからでもある。
 今必要なのは坂本龍馬ではなく宮武外骨の出現を待っている人がいることを伝えたかったのである。
 このような新聞があれば喜んでとって読みたいと思う。また、文化人の中に破天荒な常識破りな考えの人が現れこの堕落している日本国民を目覚めさせてくれることを願ってもいる。
 

宮武外骨 異聞

2011-02-17 21:28:27 | 独り言
命がけで真実を追究したジャーナリスト・宮武外骨 1/5

外骨異聞

外骨の研究家の吉野孚雄さんの文章を全部引用すると、
まだまだいっぱいあるが、だいたいがこんな具合だ。このほか自著や辞典やアンソロジーめいた出版物が数かぎりなくある。ぼくは『筆禍史』に瞠目した。 ともかく出しまくっている。 ぼくの畏敬する友人に京都の武田好史君がいるのだが、彼は創刊誌を3号以上もたせなかったのは “立派” なのだが、それでもまだ3~4誌しか潰していない。もう一人、グラフィックデザイナーの羽良多平吉君は、メディアを作るのが大好きなのでいつも雑誌の予告をしつづけていて、これがめったに出ないという “立派” をかこっているが、外骨にくらべると「実行即退却」の果敢なスピードがあまりにもなく、 “派手” がない。まず、作ることである。 もちろんこんな外骨が順風満帆であるわけはない。援助者やスポンサーも跡を断たなかったものの、絶対に長続きしていない。「頓智と滑稽」は発行者には博報堂の瀬木博尚が買って出て、「骨董協会雑誌」には富岡鉄斎や久保田米遷や今泉雄作が、「不二」には小林一三が協力したけれど、誰も恩恵に浴さなかった。ただし、そういう外骨が嫌われたという記録はほとんどない。 もちろん他人に協力を仰いでは潰しているのだから借金も多く、骨董関係の仕事をしていたときは、借金を逃れて台湾に渡り、養鶏業などに手を出して捲土重来をめざしている。が、この程度の退却は外骨の人生にとってはジョーシキあるいはコッケーのうちなのである。
 ヒットもあった。大ヒットもあった。なかで特筆すべきは「滑稽新聞」である。これは台湾から戻ってさすがに東京に顔を出せず、大阪に陣取ったのがよかった。 京町掘の福田友吉の印刷出版社福田堂と組んで、そのころ大阪を席巻していた池辺三山の「大阪朝日新聞」の国権主義、小松原英太郎の「大阪毎日新聞」の実業主義を向こうにまわし、あえてこれらに挑発しながら切り込んだ。こういうヨミが外骨のおもしろいところで、決してニッチや隙間産業など狙わない。それなのに、なんと創刊7万部を売った。そのころの「文芸倶楽部」が3万部、「新小説」「ホトトギス」などが5000部から1万部程度、北沢楽天の「東京パック」の絶頂期さえ9000部だったから、この売れ行きはそうとうに凄まじい。いっときは8万部に達した。 このときのコンセプトが「癇癪と色気」なのである。 調べてみると、この「滑稽新聞」はまことに多様な亜流を生んでいる。大阪で「いろは新聞」が、東京で「東京滑稽新聞」「あづま滑稽新聞」「滑稽界」「東京滑稽」「江戸ツ子」が、京都で「ポテン」「滑稽雑誌」が、韓国でも「釜山滑稽新聞」が作られた。まさに外骨ブーム。外骨自身も「滑稽新聞」が筆禍によって自殺号に至ると、「大阪滑稽新聞」という衣替えを遊んだ。 ぼくも多少のことをしてきたのでわかるのだが、いかに孤立無援の編集をしていようとも、しばらくするとだいたいエピゴーネンや亜流やヴァージョンが世の中のどこかに出てくるもので、それが見えれば自分が試みてきたことが妥当だったことがすぐにわかるものなのだ。 ところがマーケティングをしすぎたり、世の中の評判を気にしたりして、たいていはそれ以前に企画倒れになっていることが多い。突撃精神というのか、試作精神がなさすぎる。
 ところで、外骨はメディアをつくるとともに、つねにクラブやサロンの組織を作るか、連動するかを図っている。「滑稽新聞」のときも大阪壮士倶楽部と組んだ。中江兆民が大阪に出入りしていたころのことである。 骨董雑誌や浮世絵雑誌「此花」や日刊新聞「不二」を作ったときも、こういうクラブやサロンが動いていた。外骨はそういうときに必ずや才能のある新人の抜擢を怠らない。「此花」の南方熊楠や大槻如電や渡辺霞亭、「不二」の折口信夫や正宗白鳥や谷崎潤一郎や鈴木三重吉たちである。 かように、いろいろ刺激の多い外骨ではあるが、ひとつ気にいらないこともある。ついつい議員に立候補したことだ。これは与謝野鉄幹・馬場孤蝶・長田秋濤にもあてはまることであるが、これで男が廃った。少なくともぼくはそう断じている。ただ外骨はこの失敗で吉野作造の民本主義にめざめ、晩年はあいかわらず編集遊びはやめなかったものの、新渡戸稲造・大山郁夫・三宅雪嶺・左右田喜一郎らの「黎明会」にかかわって、官僚政治討伐・大正維新建設の“操觚者”としての本来の活動に邁進していった。
 さて、このような外骨の編集王ぶりで最もぼくが感服したメディアを、最後にあげておく。 これは50歳のときに刊行した大正5年発売の「袋雑誌」というもので、次の12種類の雑誌印刷物を一袋に放りこんだ前代未聞の立体メディア、福袋やビニ本のように買わなければ中身はわからないという代物だった。外骨の作った雑誌と他人の雑誌が入り交じっている。 すなわち、「猥褻と法律」「廃物利用雑誌」「我儘随筆」「裏面雑誌」などの自己編集ものに、貝塚渋六こと堺利彦主筆の「俚諺研究」、長尾藻城の「漢方医学雑誌」、溝口白羊の「犬猫新聞」、安成貞雄の「YOTA」などを織り交ぜた。 福袋のようにただ投げこんだのではない。全体を総合雑誌のような体裁にして、目次だけはまとめて綴じ、そのほかは分冊製本したのである。発行人は「東京パック」の有楽社の中村弥次郎が天来社をおこして、引き受けた。もっともあまりに資金をかけすぎて、これは第2号の予告であえなく挫折した。 しかし、この発想は群を抜いている。ひとつは、お上がそのうちの一つの内容を発禁にしようとしても、12種類の雑誌すべてを反故にできないだろうという防衛策があった。もうひとつは、「メディアは互いに連動する」という判断だ。ぼくも以前、「遊」と「エピステーメー」を一冊にするアイディアをもったことがあるが、これは言うは易く、なかなか実現しにくい。それでもいまや、ウェブ上のホームページたちがその壮挙をなんなく、ただし無自覚に実現してしまった。外骨の先見の明というべきである。 けれども、いまだにウェブ上のホームページやサイトは“袋詰め”されてはいないのだ。そろそろ“電子の宮武外骨”が現れて、「滑稽」や「癇癪」に代わる方法をもってウェブ社会を煙に巻くべきではあるまいか。
参考¶宮武外骨の著述なら『宮武外骨著作集』全8巻(河出書房新社)と『宮武外骨 此中にあり』全26巻(ゆまに書房)がある。河出のものは10年前に、ゆまに版は5年前に完結した。これは壮挙であった。痛快無比な文章だけを『予は危険人物なり』(ちくま文庫)がまとめた。本書の著書の吉野孝雄には『過激にして愛嬌あり』(ちくま文庫)などもある。著者は高校の先生。

「読書」

2011-02-17 00:22:13 | 独り言
「読書」?「学習」? 朝10分間の使い方


食欲の秋なのか

 秋は本を読んで論理や倫理や理性や感性や思想哲学や・・・あらゆる知識をかみ砕き身につけて心を養う事なのか。それを食欲の秋というのか。とするならば私には秋を語るすべはない。

 私は人生勉強をおろそかにしさぼってきた。今思うと若い頃買った本を片っ端から読んでいれば身につけていればと言う後悔がある。そうしていたら老いて心をひからびさせないですんでいたであろう。生きていく指針が揺れることもなかったであろう。生活が貧しかったという境遇を弁明は出来ない。貧しさの上にも精神的な生活をしていれば咲いたはずである。それが小さな一輪の草花にしてもだ。若かった頃はそれに気づかなかった。野辺にけなげに咲く小さな花を見ようとはしなかった。星を眺めて願い事をするというロマンはなかった。そんな私は何を見、読んだのだろうか。忘れる為の読書をし身につく読書生活をしていなかったと言える。その頃の私は本を沢山買い込んで書く為の資料としたのだ。殆どが積ん読であった。著者は読み手が心の肥やしになることを望んでいたのを忘れ必要なところだけを横着に切り取っていたのだ。書き手は書く時間より読む時間をより多くとり愉しい読書をしているものだと言うことを知ったのは最近見たテレビで小説家の浅田次郎さんが言っていた。私は書いている時に読むと影響されるからと言う理由で読まなかった。読書に楽しさを見いだしていなかったと言うことなのか。最近、南木佳士さんの随筆、小説を全作むさぼるようにして読んだのだが。そんな経験は若い頃はなかった。若い頃は楽しむというより苦しんで読んだ物だ。読んでなかったらみんなから遅れると言う物だった。私は読書の本来の意味を忘れて研究書を読むように小説、戯曲を読んでいたのだ。ロシア文学も登場人物の名前の長さにうんざりしながら苦痛の中で読んだ。ラシーヌの戯曲の一人の台詞の長さにまだ続くのかという気持ちで読んだものだ。シェクスピアーの戯曲をあまり読まなかったもの比喩の多さに辟易しながらであったからだ。夏目漱石、芥川龍之介、太宰治などは字面をおっただけで、菊池寛は愉しく読んだ。チエホフの戯曲には心奪われて読んだが。要するに好きな作家の本は丁寧に読んだが私にとってどうでも言い作家のものは斜めに読んだことになる。その斜め読みは心に何も残してはくれなかった。読んだという記憶だけが残っているだけだ。それらを楽しんで読んでいたら今の生き方がもっと充実し愉しくなっていたであろうと思う。
 遅いか、まだまだこれからと言えるか。今持っているもので生きるしかない。小さな器に盛る料理は幾ら豪勢にしてもそれだけの見栄えしかしない。仕方がない、そのように生きた結果なのだから。
 私はくる者は拒まず去る人は引き留めはしなかった。人の成長に手を貸して自らが成長する路を選んできた。そのことは間違っているとは言えまい。だが、その人のために語った事でその人は傷つき前から消えた人もいる。悪い癖で直接的に話す性格がある。言葉をオブラードに包むことをしなかった。本当のことを言うことがその人の為になると思ったからだが、そのことで傷ついた人がいたことに反省をしなくてはならないのか。私だったらこうする、このように考えた方がいい思うとついつい言ってしまう。言葉はむずかしいものだ。相手を考えて租借した言葉で伝えなくてはならなかったものが、相手の心にひっかかり思いだけが伝わり誤解を招くこと多々あった。あの頃は酷いことを言ったなーと思うこともある。若気の至りだとは言えない。
 先輩から勧められサルトル、ジイド、カミュ、の作品を読んだ。いわゆる実存主義の作品群をである。哲学はデカンショを読んだ。デカルト、カント、ショーペンハウエルである。それらはいかほどの私の人間形成に役立ったというのだろう。ただ読んだだけですべて忘れている。その頃の私は読んで忘れることの大切さを実践していたと言える。普通人より少しだけ読んだ本が多かっただけである。私は読んでえたものを覚えることが苦手で、人の様にすらすらと引用できない。感銘を受けたものですら1行も覚えておらず誰々がこう言った、書いていると言うことは出来ない。だが、忘れていても体の中に少しは残っていて書く上で役立っていることは否めない。
 今も読むのだがそのままを引用することは出来ない。直ぐに忘れるという特質がある。本を読んでも租借しないで体外へ出していると言うことなのだ。
 それでは精神を養うことは出来ない。が、時折これを私が書いたのかと言う驚きがあることは何かの蓄積が存在し手いるのかも知れない。それを降臨と言うことにしているが。
 つまり降臨は読書の産物である気がしている。
 秋、食べるように本を読む、それは腹にたまるのではなく心の肥やしになっているものだと感じる。
 本当の食欲の秋を感じなかった事を今更のように後悔をする。今になってもっと真剣に本を読み生きていたらと言う反省が沸々と心をさいなむのだ。だが、斜め読みも熟読したものもすっかり忘れているが濾過されて心の中に残っている、それを食欲の記憶という事にしている。何をしても何かが残るものらしい。
 老いてよりその感は増しているが・・・。
 何でも美味しく食べられる幸せを感謝しなくてはいけないと・・・。

「麗老の華 13.14.15

2011-02-15 21:37:09 | 創作の小部屋
「雪の華」オルゴール曲 キャンドル・夏


麗老(13) 
田植えも無事に済んだ。雨の長く続く季節だった。 雄吉は幸せに包まれながら鹿脅しの音を聞き雨の庭を見詰めていた。今まで何とも思わなかった風景が約束されたもののように思えた。眼の前にあるものの総ては雄吉のために誰かが作り施してくれているような感覚に陥っていた。生活の一瞬一瞬が前もって誰かの手で準備されているのだという錯覚を持つのだった。自分と同じ現実を生きている人があることを不思議に思った。 雄吉と妙子は引き合う磁石だった。「昨日は落ちた」「落としたの、私が・・・」「青空を泳ぎ柔らかな草原へ・・・」「奈落の底がこんなにいいものだとは・・・」「ストンと舞台から消えて・・・こんな事初めて・・・」「忘れていたものだったよ」「生きていて良かった」「そうだね」「何度か死のう思った」「そんなことあったの」「弱かった、躓いたことを後悔した」「・・・」「父と二人の生活に耐えられなかった」」「・・・」「認知症の父と・・・壮絶な戦いだった」「・・・」「それもあなたへの道のりだった」「・・・」「ご免なさい・・・今が幸せだから言えた」 雄吉はじっと妙子の言葉を聞いていた。 妙子は時として感傷的になった。そんな妙子をいじらしいと雄吉は思った。日々の生活の中で新しい妙子を発見することに新鮮さを感じた。「愛したことがない。愛されたことがなかった」「心の中に君が広がっているよ」「いいの」「いいよ」「こんないいことあった。あなたを愛して・・・」 雄吉は歳のことを忘れていた。若かった頃のひたむきに生きた情熱が返ってきたような思いがしていた。寡黙で朴訥な雄吉を詩人にさせていた。
麗老(14) 
妙子のお腹は少しずつ大きくなっていた。悪阻もそんなに酷くなく変わらぬ生活が出来ていた。 雄吉は時たま田んぼに出て水の張り具合を見て歩いた。「除草剤を撒いてくれた」「いいや」「あんたらしい」「自然農法がいい」「作るより買った方が安いし」「どうなの」「なに」「調子」「大丈夫」「暑くなるから大変」「あなたが・・・」「この家は涼しいから・・・」「私本当に母になるんだ」 妙子は穏やかな顔になっていた。自信が現れているように思えた。女は母になることで初めて完成する。せり出したお腹を突き出して歩く姿にそれは見えた。そんな妙子に愛おしさが増す勇吉だった。「なに」「女らしくなった」「だって、女だもの」「まだ夢を見ているようだ」「幸せだわ」「そう」「残念ね、私のこの気持ちがわからなくて・・・」「女でないから・・・」「濡れた」「えっ!」「女の幸せ」 妙子は勇吉の手を取っておなかに持って行った。「ここにあなたがいる・・・誰でもいいと思っていたけどあなたで良かった」「本当に・・・」「ええ、あなたじゃなくては嫌」 お腹が熱くなっていた。そこは新しい命が息づいている様に思えた。
麗老(15) 
妙子はマタイニードレスが似合っていた。本家普請の家は風の通りが良く涼しかった。雄吉は田圃の水を見に行き水がなければポンプを回すと言う以外に外に出ることはなかった。庭に藤棚を作り、畑に花を咲かせるくらいだった。 家にいて妙子の立ち振る舞う姿を見ているだけで仕合わせだった。妙子も外に出ようは言わなかった。出るのは食品の買い出しくらいで、嬉しそうにお腹をせり出して歩いた。こども宿す女の自信が美しくしているのか妙子はその様に見えた。買い物の時でも妙子は雄吉にきちんとした服装をしろと喧しかった。外見を保つことが自信を生み出し一つ一つの仕草を優雅にすると言うのであった。見られているのだから見せることを演出しろと言うのであった。確かに普段着とは違って緊張感が生まれた。引きずる歩き方は出来なく足を上げなくてはならなかった。家の中にいるときでもLEEのジーパンをはかされた。食べ物にも気をつける様に、腹八分目を強制した。バランスが大切だと野菜料理を何種類か食卓にのせた。「パパになるのだからね」「何も言ってないよ」「長持ちして貰わないと」「長持ちね・・・・」「平凡だけど、生まれた子を抱いてあなたと宮参り・・・ 」「そんな夢があったの」「お宮さんの前を通るたび思った」 妙子の瞳が滲んでいた。そんな妙子を見るのは初めてであった。 男の様な言葉を使い割り切ったようなことを言っているが女の優しさと感情は持っているのだと雄吉は思った。一つの命がそうさせたのかそれは分からなかったが・・・。「来年の春にはできるよ」「待ちどうしい」「待ちどうしいね」 雄吉は先のことを考えないようにしていた。今を精一杯に生きる事にしていた。これから何がおきるか分からない、その定めを流れようと思っていた。 ガラス戸を通して差し込んだ陽射しが畳の上で日だまりを作り遊んでいた。夏の陽射しが和らぎ夕焼けの中を赤トンボが舞う秋が向かえに来ている頃だった。 人は還暦を過ぎてから死の準備をするのなら後の二十年を綺麗に生きようと考えるだろう。肉体の死があっても魂は存在し、その魂をつれて中有の旅へ出るのならば魂を綺麗にするのがその二十年か・・・。雄吉は死を考えないがこの後の生き方を何か今までと変わった生き方にしょうと考えるのだ。自堕落な生き方は辞めて体を清潔にし身繕いを正してと思うのだ。そのように生きるという指針があって他に何かが起こるとしたらそれを従順に受け止めなくてはならないと思った。仏門へはいることを考えたがそれだけの勇気はなかった。 托鉢の僧になけなしの金を差し出しお腹が空いたら食べてくださいと言うこと、遍路の人たちに宿を貸す人たち、その総ては魂を清浄にする行為なのであった。そんな生き方に憧れることもあった。若い頃はなぜという疑問があったが今にしてそれを理解出来るのであった。 庭や家の中の掃除から取り掛かった。それは死の準備でなく定めをながれるためだった。 雄吉は身の回りをこざっぱりさせた。何かが壊れ新しい自分が表れた様だった。自由を生きると言うことは難しいがそれを生きると決意した。自由に生きるためには自制心が必要であることを知った。雄吉はお日様と一緒に暮らすことを自分に課した。それが定めだという風に受けとめた。 この数日雄吉は憑かれように自己変革を行った。悟りを開くというのではなく煩悩の中で定めを生きようとしたのだ。綺麗に生き素直に歩こうとしたのだった。それは老いの知恵だったのかも知れない。好奇も探求も追求するのではなく流れの中で解決しようとするものだった。好奇心も探求心も若かった頃と比べ薄れていくのが魂の浄化であった。 日が落ちてその静寂の中に心の安らぎを知った。雨の音に命の鼓動を知った。風のざわめきに慈しみを知った。自然の中に人間の心があることを知ったのだった。綺麗に老いると言うことは自然のままに暮らすことだったのだ。雄吉は明日来る朝焼けに胸を張った。

雪が降る (Yuki ga Furu)

2011-02-14 18:25:22 | 創作の小部屋
雪が降る (Yuki ga Furu)

麗老(11) 
妙子は昼間に雄吉の家に現れるようになった。「草餅が美味しそうだから買ってきた」「アイスクリームが食べたいから・・・」 妙子は土産をいつも買って来た。夕餉を作り一緒に食べることもあり、寿司やラーメンを食べに行くこともあった。 妙子が来る様になって部屋は綺麗になっていた。大人しそうに見えるが、よく笑い良く喋った。雄吉はその明るさに救われた。じめじめしとした性格だったら付き合って行けなかっただろう。リードするのは妙子だった。「苗床を手伝って欲しいの」「いいよ」「去年は一人でやった」「疲れたね」「ほっといたから収穫はあまりなかった」「でも、食べられるだけあったんだろう」「十分に」「稲は作ったことがないから・・・」「ここを引き払って私の所に来たら」 妙子は突然に言った。「ここに出入りしていると奥さんに焼き餅を焼かれるわ」「そんなことを気にしていたの」「するは・・・」 雄吉はこれも定めかという風に従うことにしたのだった。家は長男に譲ることにした。「親父大丈夫なの」「騙されてない」「歳が離れすぎていない」「捨てられて、泣くんじゃない」「はっきりとした方がいいよ、俺たちはどちらも賛成だから」「家は貰っておく」「弟には山をやって」 長男はさばさばと言い放ったのだった。「何もなくなった」 と、妙子に言った。「私だけの人になった」  妙子は笑った。 籾を蒔いて黒いビニールで覆いをした。「さてと、夕食を奢らなくては・・・行きましょう」 妙子がハンドルをとった。山間のレストランで食事をした。帰りに車は池の側にあるラブホテルに吸いこまれて行った。
麗老(12) 
雄吉は夢のような生活だと思った。人生に流されることも流れることもそれが定めなら甘んじて受けようという気持ちが沸いてきていた。今までは受け身の生活をしていたのだ、拘束と約束の中で生きていたと言うことだ。それに理性が・・・。少し考えを変え、少し道を違えば新しい生活が待っていたというのか・・・。変わらぬ日々のなか子供たちを育て仕事一筋の人生に何があったというのか・・・。それはそれなりに充実したものであったが。 雄吉は目の前が開け今の幸せを噛みしめていた。 妙子の家には簡素な山水の庭があって池に鯉が泳いでいた。「籾の芽が出た」「暖かい日が続いているから」 妙子はそう言って雄吉の側に座って庭石を眺めた。妙子の肌はしっとりとし前よりまして女らしくなっていた。「こうしているとまるで夫婦みたい」「ご近所から何か言われないかい」「言われたっていい」「勇気があるね」「もう、人の眼を気にして生きる事は辞めた」「だけど・・・」「さんざん言われた、男を引き込んでいるって・・・」「平気なの」「誰にも迷惑を掛けていないもの」「私のように年寄りでは・・・」「言わないで、私があなたを好きだと言うことだけでいい」「これからどうすれば・・・」「田植えを手伝って欲しい」「手伝うよ」「愛してくれなくていい・・・愛させて・・・」「こんな気持ち何十年ぶりだろう」「心臓に良くない」「落としていたものを見つけた気分だよ」「落としていたの」「ああ、探さなかった」「探せば良かったのに」「足下に落ちていたのに見つけようとしなかった」「私は探した、探す場所を間違えてた」「君に見つけて貰った」「今度は見つけてよ、迷子になったら・・・」「いいよ、必ず見つけるよ」 雄吉は妙子の肩を抱いた。 前向きに歩き続けなくてはならない、これから妙子探しの旅が始まるのだと思った。

春の花.wmv

2011-02-13 23:22:50 | シナリオ あの瞳の輝き永遠に 
春の花.wmv


麗老(9) 
妙子は前夫の暴力がたまらずに離婚したと言った。酒飲みで飲んだら暴力を振るったという。子供は欲しかったが出来なかったと言った。別れた後、父の遺産で食べてきたと言った。食べるだけの土地はあり米だけ植えているのでと言った。借家も何軒かあり毎月その収入が入ってくると言った。「私に何も責任を感じてくれなくていいんです・・・。一人で生きていくだけの経済力はありますから」「それでは私に何をしろと言うのですか」「お互いを拘束しなくて、時々こうしてお茶やお話の相手をして下さればいいのです」 雄吉は何をどのように考えればいいのか戸惑っていた。「お嫌でなかったらですけれど・・・」「それは・・・」「お嫌でしたら面と向かっては辛いし・・・電話ででも」「いいえ、実を言うと女将から言われて断り切れずに・・・」「やはり、ご迷惑だったのですね」「そんなことはありません、今では良かったと・・・」「嬉しいわ」「・・・」「こんなに話をしたの、初めてです。あなたの前ですと素直に言葉が・・・」「私は一日中家にいてテレビを見ているだけでした」「船をお持ちとか」「漁船ですが」「山に畑をお持ちとか」「はい、猫の額くらいですが」「田植えを手伝って下さると嬉しいのですけれど」「はい、喜んで」 雄吉は魔法にかかったように言いなりになっていた。それが嫌ではなかった。「あなたの部屋が見たいわ」 雄吉は周章てた。まだ布団を敷いたままであったのだ。「まだ・・・」「片付けてあげます」 雄吉は案内した。「こんなことは初めです」 妙子は衣服を脱ぎ裸になって布団に横になった。雄吉は唖然とし呆然と眺めた。油ののりきった女体がそこにあった。
「二十年くらい女の人に触れてません」
「何も言わないで・・・」
 雄吉は夢だ夢だと心の中で叫んでいた。
麗老(10)
「安っぽい女でしょうか」「私も初めてです」「お嫌らなられた」「いいんですか、こんなことになって」「この歳になったら、もう何も失うものはありませんから。心の赴くままに生きたいと・・・」「私に鬼になれと・・・」「女の生活を忍従の中に閉じこめてきた社会に抵抗をしようと決めたんです・・・好きな人が出来たら私から誘おうと決めていたんです」 妙子は庭のようやく咲き始めた五月を見ながら言った。「私で良いのですか」「一人で飲んでおられる後ろ姿を見て・・・その哀愁に惹かれたのです」「これから食事でも」 雄吉は話を変え不器用に誘った。 瀬戸大橋の見える海岸線を走った。穏やかな海が 広がっていた。雄吉はそこを走って山間のレストランへの道を走っていた。山肌にはツツジが咲こうとしている時期であった。「なんだかこうなるように定められていたみたいです」 妙子は運転している雄吉の肩に頬を寄せて言った。雄吉も何年も連れ添った人のように感じていた。妙子をいじらしく眺めた。 雄吉は二十数年ぶりに男を感じさわやかな気分の中にいた。沸々と蘇る気力を感じ目の前が開かれたように思った。 谷間の小川をまたぐように山小屋風の建物が造られていた。 潺の音が床を通して聞こえて、鳥の囀りが静寂を破っていた。「ここは奥さんと来たところですか」 妙子は口元に運びながら言った。「いいえ、忍びの男女がよく来るそうです」「いい処ですね。こんな処を知っておられるなんて隅に置けないです」「初めてです」「嬉しい」「私たち、どのように映っているのでしょう」「さあ・・・」「人目を忍んで・・・。美味しい・・・」「時間は・・・」「誰も待っている人はいない」「そうですね」 山に夕闇が迫っていた。風が出たのか木立がざわめいていた。

麗老の華 7.8

2011-02-12 18:59:12 | 創作の小部屋
春はそこまで/森昌子


麗老(7) 
一日がこんなに長いとは思わなかった。何もしないでボーとしていると時は過ぎないのだった。これには雄吉も困った。自由に生きると言う事がこんなに大変だとは・・・仕事を選べはよかったと思った。食べてテレビを見て眠る、そんな生活は一種の拷問だった。助かるのは、プロ野球が始まっていることだった。時間つぶしには格好だった。何処のファンということもなく見るのが好きだった。というより何処でもよくテレビの画面に何かが映っていればよかったのだ。 こんな生活をしていれば完全におかしくなると思った。妻を亡くして鬱になり苦しんだ経験があった。何か夢中になるものはないかと探した。趣味を持たない雄吉にとってそれは中々見つからなかった。とにかく、明日は庭の草取りでもしょうと思った。毎日のスケジュールを作ることにした。 野球を見ながら小腹が空いたのでお茶漬けを啜り込んだ。「三十八歳か」 言葉がもれていた。意識してなくても何かを期待している心があるのか、寂しさ故に何かを求めたのか、女将の声が聞こえた。そう言ってくれることはいやなことではなくありがたい言葉だった。 雄吉は定めに従順に生きてきていた。ここは逆らうことなく流れよう、それが定めならと思った。 妻を亡くして、それ以来女性との関係はなかった。誘ってくれる友もいたが行くことはなかった。潔癖症ではなくただのものぐさだった。お茶飲み友達がいてもいいなと最近思うようになっていた。仕事をしているときは一人の寂しさは感じなかったが、一日何をすると言うこともなく過ごすとき心に広がる孤独感を感じるのであった。「散髪をして、デパートに行って最近はやりの洋服を買って・・・」と、雄吉は考えた。生まれ変わろう、そのためにはまず身だしなみからだと思った。外見をかえれば何かが変わるかもしれないと思い実行することにしたのだった。
麗老(8)
「今日はどこかへお出掛け」「いいえ」「何か違うわ」「そう」「明るくなった」「服を変えたから」「艶がよくなったわ」「石鹸で顔を洗ったから」「考えてくれた」「なに・・・」「この前の話」「逢うだけなら」「そう」「どっちでもいい」「悔しい」「なぜ」「断ると思っていたの」「断ればいいの」「後は上手くやって」「なにを・・・」「知りません」「初めてだから・・・」「そこまで責任は持てませんよ」「責任て・・・」 数日後、女将は妙子を紹介したのだった。おとなしそうな女性だった。背に長い黒髪を垂らしていた。黒目がちの理知的な人だった。 雄吉は動揺することなく応接できた。こんなことがあっていいと思っていなかったから平常心で話すことが出来た。何もなくて元々だということだった。雄吉は寡黙で妙子の話を聴いているだけだった。 妙子は酒を何杯もあけこんなことは初めてだと言った。 逢った次の日、突然妙子が雄吉の家に現れた。「一度逢っています・・・私から女将に頼みましたの」 応接間に案内した雄吉に妙子は言った。 雄吉は心を平静に保つことが出来なくなっていた。「綺麗に片付けているのね」と、当たりを見ながら言った。この家に女性が来たことはなかった。雄吉は周章ててカーテンを開き窓を開けた。淀んだ空気を入れ変えたかった。「押しかけて来て・・・そこまで来たものですから・・・」と、妙子は言い訳をした。

麗老の華 5.6

2011-02-11 20:13:11 | 創作の小部屋
大阪城梅林 梅の花


麗老(5) 

雄吉は朝のニュースを見て眠るという生活をしていた。起きるのは正午、パンを一切れと牛乳とコーヒーで朝昼の食事を済ますのだ。 カーテンを開きサッシを開けると春の陽射しが六畳全体を照らし夏のような陽気を感じさせた。掛け布団を跳ねて敷き布団の上で大の字になる。じっと陽射しを体に受けながら、さて今日は何をしょうかと考えるのだ。 雄吉はパチンコもカラオケもしなかった。パチンコ屋の駐車場もカラオケ屋の駐車場も真新しい高級車で占められていた。そんな風景を見て、こうはなりたくないなと思うのだった。がといって何をするかをまだ決めてなかった。 雄吉はゆっくりと起き上がり、朝の支度を済ますとパンを焼きコーヒーを淹れ牛乳を温めた。 今日は町をぐるぐると走って、ドライブをすることにしたのだった。家と会社の往復で町の様子を全く知らないことに気づいたのだった。仕事をしていたときの休日は庭の掃除やら、木々の剪定、壁のペンキ塗り、買い物でつぶれたのだった。郊外に大きな複合ショッピングセンターが出来たの、レジャー施設が出来たのという言葉を聞き流して生きたのだった。先輩の言うように車を買う予定もなかった。定年退職者が車を買うのはどういう事なのか理解のほかであった。そんなに見栄を張る必要はないという思いもあったが、ホームカーを乗っていた人たちが大きな車に乗り換えるのが流行っているらしかった。それをステータスだと言った人がいたが・・・。今ではゴルフに行く人たちも大きな車でなくても恥をかかなくなっていた。そんな時代に大きな車を乗り回すのは退職金が入り今まで我慢してきた裏返しのように思えるのだ。パチンコ屋に乗り付け、カラオケ屋に横付けして何がステータスかと思う心があった。 エンジンを掛けてその音に耳を澄ます、快適な響きが伝わってきた。この分なら後五年は大丈夫だと思った。ハンドルもそんなに遊びが来ていない、クラッチも滑っていない、ガソリンの消費が少し多くなっている程度だ。雄吉は満足して車に乗り込んだ。百メートル道路を西に走った。中央の分離帯が公園になっていて桜が花びらを散らしアスファルトの上に白く敷き詰めた様に広がっていた。車の中は暑いくらいだった。窓を開けて風を入れ頬に受けた。 レジャー施設の周りを走った。子供たちが幼かったら喜ぶだろうにと思った。孫に手を引かれ嬉しそうな顔をして年寄りが入園していた。ショッピングセンターや、あれこれと見て周り時間を潰した。町の様変わりに驚きながら町も生きているのだという実感を持ったのだった。麗老(6)「ジュンちゃんかったんだって」「買ったの」「生活変わったって」「変わるんだ」「変わる変わる元気になって艶々だもの」「そう、いいな」「飲むか、話すがどちらかなして」「ごめん、それで何買ったの」「でしょう、猫を飼ったの」「真っ赤なスポーツカーだと思ってた」「犬か猫でも飼ったら」「それもいいね」「貰って来てあげましょうか」「何でも世話するんだ」「猫は血圧や心臓にいいそうよ」「初めて聞いた。犬は・・・」「心臓と血圧かな・・・」「飼ってみたいけど、どちらにしょうかと迷うよ」「猫にしなさいよ、散歩に連れて行かなくていいから」「決めてくれるの、犬も捨てがたいし、何か犬に悪いような気がするし・・・」「これでは女性が嫌がるわ」「いいよ、仕方がないだろう」「この前の話し・・・」「なによ」「いい人紹介するって話・・・」「その話は・・・なぜ今なの」「もっと前にと言うの」「そうでもないけど・・・」「一人で旅行するより楽しいでしょう」「優柔不断だから・・・」「一度結婚に失敗してるのじゃないし、生き別れだからいいでしょう」「別に、何よ、それ・・・」「死に別れだと、なかなか心から消えないっていうし」「そうなんだ・・・」「ああ、死に別れなんだ」「いいけど、別に・・・」「まだ愛してる」「・・・」「三十八なの」「え」「考えといてね」 最近とみに冠婚葬祭のダイレクトメールが多くなっていた。

麗老の華 3.4

2011-02-10 20:45:22 | 創作の小部屋
老いを生きる。


麗老(3) 
六十歳の誕生日と、年度末で退職する制度があるらしいが、雄吉は年度末で退職した。                       半農半漁の村がコンビナートに飲み込まれ雄吉は漁師を辞めて自動車会社に入ったのだった。流れの速い潮にもまれたこの地方の魚は美味しく評判がよかった。遠浅の海が広がり足下で魚が跳ねエビや貝が手で捕まえられた。そんな海は工場の下になっていた。村の近くへ家を建てそこで生きたのだった。時折り思い出したように 船を出して釣りをするくらいで趣味というべき物はなかった。 堤防に立つと潮風が快く吹き付けその風は春が来たことを告げていた。目の前には工場の煙突が林立し黙々と煙を吐き出していた。背後の山肌が老いた人の頭のように所々白くなっていた。山桜が蕾を開き染めているのであった。 定年退職を祝って息子たちが席を設けてくれた。「どうするの、これから」 言葉といえばそれにつきた。「まだまだ元気なのだから、下請けにでも行けばよかったのに」「孫の守をする歳ではないよ」「少しのんびりして何かをするさ」「呆けないでよ」「そうしたいと思うが・・・」 そんな会話が続いたが、雄吉は話しに乗れなかった。孫たちが次々と膝に乗ってきて戯れていた。 雄吉はどちらかというと寡黙だった。会社ではラインから検査を担当しそこで終わっていた。検査の技術で下請けへということがあったが、一息つきたかった。今までいろいろあったことと、車の駐車の件が引っかかっていた。体力的には後五年はどうにか勤められると思うが、ここで身も心もリフレッシュしてこれからの道を快適にと考えたのだった。 サッシを開けると、日差しが波のように押し寄せた。その中を雄吉は泳いだ。 これが生きていることなのかと思った。
麗老(4)
「あれからどうしている」「気が抜けたビールのよう」「毎日」「泡もなくなった」「そろそろだな」「なによ」「捨て頃」「ようやく自分で立てるようになった」「俺もそうだった」「そう、空ばかり見てるんだ」「あれ厭かないな。いろいろな形があって」「雲のことなの」「話変わるけど、車買った」「車買ったの」「赤いクラウン」「そう」「嫁さん乗せて買い物」「カート押してるんだ」「義務感と満足感」「勿体なくない」「なによ、文句ある」「ないけど、車のこと」「高速飛ばせっていうわけ」「でもないけど」「パチンコとカラオケに行くために買ったんだもの」「目立たない」「寂しい心を癒してくれるから」「そんなものなの」「車買ってあの空虚感から解放されたもの」「そう」「君も買ったら、車を磨いていたら何も考えなくていいもの」「侘びしくない」「俺、充実してるもの」「先のこと考えたいんだ」「何かを期待してた」 雄吉は退職した先輩と居酒屋で話していた。何か寂しさが心に広がっていた。

麗老の華 1.2

2011-02-09 22:45:02 | 創作の小部屋
春は花夏ほととぎす秋はもみぢ葉


麗老の華

1・・・(1)

 車を駐車場にきちんと止めたと思ったが左に切りすぎていた。そんな事が最近増えていた。
 このあたりで定年か・・・。そのことで逢沢雄吉は心を決めた。相談する人はいなかった。妻は二人の子供を残してあっさりとなくなっていた。二人の子供たちも年頃を迎え相手をどこからかみつけて巣立っていた。
 おかげで家のローンも完済していたから退職金と年金で食べていけることに心を撫で下ろしたが、一人の家での生活がどうなるのか不安はあった。一人二人と家を出て行き寂しさを持ったがそれは一時のことで、南向きの和室に万年床を敷いて過ごしたのだった。休みの日にはカーテンを開きサッシを開ければ日差しは布団を乾かしてくれ、きれいな空気を満たしてくれた。そのことに雄吉は満足していた。
 まだ幼かった子供たちを残されたとき、どうなることかと案じたがどうにか育てることが出来た。やれば出来る物だと言うことをそのとき知った。
 雄吉は定年に対してあれこれ考えてはいなかった。下請けに行く事も出来るがといわれていた。が、前のように車を停車できないことで区切りをつけたのだった。それと年ごとに寒さに対して体が適応しなくなったこともあった。下着を二枚着なくては過ごせなくなっていた。

麗老1・・・(2)

「下車するの」
「車が真っ直ぐ駐車できなくなったから、降ります」
「それなによ」
「切っ掛け」
「そうなんだ」
「そう」
「これから国家公務員になるんだ」
「年金生活」
「羨ましいわ」
「手足もぎ取られるようで、ほんと寂しい」
「年取らないでよ、真っ赤なスポーツカーを買って颯爽と生きてよ」
「これから考えるよ、何かを作らなくてはと思ってる」
「それでどうすんの」
「なによ」
「女作って子供作って・・・」
「そんな歳でもないよ」
「一休さんは八十で子をなしたって・・・」
「羨ましいね」
「奥さん亡くしてどうしてたの」
「忙しかった」
「もう、色気がないんだから。男は少し悪の方がもてるのよ」
「いいよ、もてなくても」
「いい人紹介しょうか」
「また来るよ」
「逃げるのね」
「ああ」
「まだ寒いから、暖かくしてね」
 雄吉は仕事から帰ったら近くの居酒屋で時間をつぶすのを日課にしていた。あまり飲めないので燗を二本と旬の魚料理を食べるのであった。


2011-02-08 19:17:45 | 独り言
春よ、来い(歌詞付き)



 二月に入ってようやく寒波はひいたようだ。少し気温が上がり過ごしやすくなった。梅の便りも届くようになっている。寒いが風が心地良い。剪定した薔薇の幹から新芽が伸び始めている。春が来ることを感じた草花が春の準備を始めている。寒さに耐えて物だけが感じる息吹なのだろう。冬芽は春になると綺麗な花を咲かすという。そう言えば鳥たちの囀りが春を運んでくるのだろう。
 ようやく冬の寒さに慣れたというのに春を迎えようとしている。
 私に取っては春は頭の回転を鈍くする物だ。春と限定する必要もなくなっている。年中なのかもしれない。人間の体に丁度良い気温は私の様に鬱を持ち合わせている物にとっては辛い時期になる。春の天気にはほとほと嫌気がさすことがある。気圧が安定していないから耳がつんとして中々戻らない。春眠暁を覚えずではないが眠くてしょうがないという弊害がある。頭はボーとしていて思考力低下する。今まで春に書いた作品はないと言っていい。それは秋にも言える。
 鬱で苦しんでいるときに同じ症状の焼き肉屋のてっちゃんが川崎医大の心療内科へ連れて行ってくれた。てっちゃんは私のところからニ百米ほど行ったところの魚屋に良く来ていた。たばこ屋のまきちゃんも同じような病気で魚屋へ良く来ていた。二人とも魚が目的ではなく父の魚屋を手伝う恵子さんが目当てで毎日のように通っていたのだ。三人は同じ高校の同窓で仲が良かった。店の前の縁台に刺身や干物を焼いた物を置き二人で食べながら美しい恵子さんを見てはため息をついていたのだ。二人は盛んに煙草をくゆらせていたが、目は恵子さんに貼り付けていた。恵子さんは高峯秀子さんばりの可愛い人であった。
三人の三角関係というのであれば話は面白くなるのだが恵子さんは相手にしていなかった。男として見ていないと言うことなのだ。てっちゃんもまきちゃんも大柄であったが気持ちは優しくて温厚な人だった。恋をしていても口に出す程の勇気は持ち合わせていなかった。二人とも美しい片思いをしていたのだ。てっちやんは入院して治療中に酒を飲んで二つの大きな病院を強制退院させられるという猛者なのであったが恵子さんには弱かった。焼き肉屋は嫁さんに任せて魚屋と病院へ通よう日々を送っていたのだ。色の白い艶福な顔立ちの青年であった。北朝鮮の在日三世であった。
 そんなてっちゃんに連れられて病院通いをし出して鬱の症状はだんだん軽くなっていった。薬が効いたのであった。夜眠られるようになった。鉛をかぶったような頭が軽くなっていた。
 そのころ倉敷演劇研究会の土倉さんが、
「おい、生きとるかや」と久しぶりに覗いた。
 演劇の台本を頼み練習を見てくれと泣きついてきた。基礎訓練を見て書いても良いと思った。
 台本を一晩で書いて渡した。その練習にも立ち会った。
 鬱の症状はなくなったが、時に不安発作が襲い何度救急車に乗ったであろうか。それは決まって春と秋に出た。もう死んでも良いと破れかぶれになるしかなかった。開き直ったら意外と楽になっていた。それまで乗れなかった車も「死ぬときはしぬ」と念仏のように唱えながら運転した。
 辻邦生さんや南木佳士さんや五木寛之さんの本が読めるようになった。むずかしい本は理解できないという後遺症は残っているのだが。
 私の演劇の歴史は鬱の歴史なのである。
 青年達と少年達に支えられながら演劇の公演を六十回こなした。家の隣にスタジオ件練習場を創り毎日その階段を上がっていく度に鬱との別れ話が進んでいったことになる。
 日本劇作家協会、財団法人舞台芸術財団演劇人会議、篠田正浩監督作品への出演らの関わりも鬱の何かでのことなのである。
 今はそのすべてを止めのんびりゆったり自分流に暮らしている。なぜか今昔の文学青年に返りつつあるのだ。演劇よりしきりに小説が書きたくなっている。
 若かったころ同人誌を創ってはやめ創ってはやめしたころを懐かしんでいるのだ。そのころの同人は今何をしているのだろうかと想う日々が繰り返されている。皆、才能を持った人たちであった。家庭を守らなければならなくなって止めていったのだ。時折電話がかかってきたり年賀状が転がり込んで元気にしていることを知り我がことの様にうれしくなるのだ。
 心臓病を抱えて何時死んでも良いと言っていたキリスト教徒の丘ちゃん、土地が売れて何億もの金が転がり込んで書けなくなった杉さん、
「女流文学賞」をとり今は踊りの流派を立ち上げ弟子を育てている梅さん、嫁さんがいながら何度も女と駆け落ちをした大さん、全共闘上がりで理屈屋で脳梗塞の後遺症に悩むすーさん、大手新聞の取締役になったますさん、それぞれが自分の人生を生き抜いたのだ。それがまさに小説のようにである。
 寒さに耐えて春を迎えようとしているがその人生に春があって欲しいと祈っている。
 そう言えば焼き肉屋のてっちゃんは夭折したと聞いた。
 春になろうとしている今、そんな感慨にとらわれている。
 地球が温暖化する寒冷化する、そんな事はもう考えなくして、ひたすら書きたい物を書くことにする。
 春から新しい作品を書き始めることにしたのだ。
 今は安定剤を飲むだけになっている。

2011-02-07 21:11:37 | 独り言
ご先祖さまは呑気なモンキー(2011立春大コラボ企画・original)by mimu1225231



 秋は冬と違った静けさがある。そう感じたのはやはりこの歳になってからである。緑なした葉は紅葉してやがて落葉し地面を覆う。一面に枯れ葉を敷き詰めたような佇まいになる。人通りがあっても静けさを感じる。わびさびの世界へ誘ってくれ静寂を肌に感じることが出来る。その少し肌寒い澄んだ空気が心まで引き締めてくれるよう。
 春と秋のどちらが良いかと問われたら秋ですよと答えるだろう。春は心浮き立ち多感でもないのに何も手に付かなく、秋は心を安らかにしてくれ何事にも集中させてくれる。
若い頃は春も秋もあまり好きではなかった。寧ろ厳しい夏と冬の方が好きで創作に向いていた。汗だくになり、重ね着をする現実の方が私の性に合っていたのだ。
 還暦を迎えた頃から夏と冬があまり好きではなくなった。それは暑さと寒さに弱くなった所為かも知れない。春のけだるさが、ひなたぼっこが出来る丁度良い温かさが体に合ってきたのかも知れない。秋の少し涼しい風が緊張感を持たせてくれ考える時間を提供してくれるのが体に合ってきた。
 春と秋のどちらが好きかと問われたら秋ですよと答えるだろう。
 歳ともに自然の中に同居する自分を感じている。思えばそれが佇む秋なのかも知れない。蕭々とふく風と一体となって空を飛んでいるような感覚にとらわれるのは秋なのである。想像力が、集中力が増すのはやはり秋なのである。歳とともにその感は深くなっている。
月の満ち干きにも、満点の輝く星にも心が動き下手な詩を口ずさんでしまう。秋はいかほどの人をもロマンチィクにする。無粋な私に何か考えなくてはならない様な感覚にさせる。佇む人にしてくれる。
秋の空気を吸うのも好きです。肺堂に新鮮な空気を一杯吸いたいと思わせる。
 こんな感慨を持つようになったのは還暦が過ぎた頃からだった。
私の場合は特殊なのかも知れない。今まで秋を蔑ろにしていたから余計に感ずるのかも知れない。秋は私を哲学者にしてくれる、思想家にしてくれる、詩人にも・・・。
 歳をとると現実家になると言うが、今更ロマンもないが何かが叶い出来そうな予感を持つことが出来る。秋は夢を実現してくれる時に変わる。厳しい冬にむかわせる秋のひとときはそれを乗り越える力をくれる。
 人恋しくなって訪ねたくなるのも秋、自然の景観を楽しむのも秋、
佇む秋なのだ。
 私の好きな童謡に、「赤とんぼ」「里の秋」がある。舞台でよく使うのは「赤とんぼ」である。子供達に舞台で歌って貰う。効果として流す。ホリゾントを夕焼けに染めて歌い、流すのだ。最近は特によく使う。それが私の郷愁であり心のふるさとのように。
 私のふるさとは何処なのだろうと思う。父と母の墓があるのは讃岐平野の飯山の南にある市街化された真ん中に残されている里山の中なのである法軍寺。私が産まれたのは疎開をしていたいまの岡山の市街地になっている東畦というところ。育ったのは岡山市内の東古松、今住んでいるのは倉敷水島。それぞれがふるさとだと言う思いはある。だが、父と母の眠るぽつんと残された里山が一番ふるさとにふさわしいと思っている。秋を感じることの出来る場所であるからなのだろうか。父はその里山で生まれ里山で眠っている。
 父が老いてからの口癖は産まれた場所に帰りたいというものであった。歳を取って思うに多少無理をしてもその願いを叶えてやらなかったかと言うことだ。私も帰るふるさとがあればそう言うだろうと思うからだ。ふるさとという言葉に秋を感じるのは私一人であろうか。
 四季のある日本では秋は神仏の行事が多い気がする。秋は神事、仏事をするのに最適な季節なのだろう。手を合わせたくなり、祈りたくなり、自らを振り返るのには秋の静かな佇まいがあう。季語も有り余るほどある。それは秋をこよなく愛した人たちが沢山いたという事か。
 これは直接関係ないが、
 小説家の南木佳士さんは芥川の作品の中でどれが秀作かを問われ「秋」と答えている。芥川が男と女の別れを書いたものの題名がなぜ秋なのか、ものの哀れを秋に喩えたのか・・・。
 秋の佇まいにものの哀れを感じるから日本人は秋が好きなのだろう。
 これからも佇む秋を感じ考えながら生きていかなければならない。
静まり返り物音一つしない空間の中に老いた身を置いて何かを感じるために・・・。
 若かった頃のことども思い出ししばし遊ぶために・・・。そして、考えてもどうしょうもないこれからの道のりのために・・・。
 秋はそんな感慨をもたらしてくれる。
 秋は老いてゆく孤独を優しく包んでくれる、孤独の中でつぶやくと秋の景色は大らかに受け止めてくれ中へとけ込むような気がする。
 四季の中でそんな秋が好きになっている。