yuuの夢物語

夢の数々をここに語り綴りたい

小説 高梁川 1

2006-01-29 14:53:39 | 小説 高梁川 連載中
  高梁川(たかはしがわ)


1



 大正十二年、春まだ浅い高梁川を一艘の高瀬舟がくだっていた。
 雪解け水を集めた黄土色の激しい流れだった。
 高梁川は中国山脈に始まり沢山の支流を集めて一つの大きな流れをつくり瀬戸内海にくだる。一年中水量の豊富な川であった。
 高瀬舟は流れに弄ばれるように下っていた。流れの曲がり角で白い飛まつが上がる。それを巧みにかわして滑っていく。
 周囲の山や畑はまだ、草木の芽が弾けた頃で、緑が転々としている程度で春がまだ届いてないことを物語っていた。
「親父、かわろおか」船尾で棹を立てて前方を見つめていた源太が大きな声で言った。
「可愛い娘の花嫁舟、棹は譲るものではねえ」
 船首で巧みな棹捌きを見せている茂市が叫んだ。
 高瀬舟には中央に小さな包みを大事そうに抱え、緊張した表情の菊が座っていた。
 その傍に心配そうに見守る母のシズがいた。 
「何も心配するこたぁねえ、女子が皆通る道じゃ」
 シズは幼い菊に声をかけた。
「うん」と菊は小さく頷いたが、不安そうな表情は消えなかった。
 菊は、父と母、兄の帰りの苦労を思っていた。
 高瀬舟に縄を駆けて川沿いの道で引き、川に入って船を押し石を斯くことを考えれば涙が出るくらい切なくなる。まして、この激流の中なのである。
 菊の縁談を決めたのは父の茂市であった。高瀬舟の船頭をしている茂平は松山で荷を積み川を下る。下りながら船着場で荷を降ろし川下への荷を乗せる。
 菊の一家は松山から山一つ隔てた村で僅かの田地を耕しながら川人足をしていた。
 高瀬舟の船頭をしている茂平は松山で荷を積み川を下る。下りながら船着場で荷を降ろし川下への荷を乗せる。
 菊の一家は松山から山一つ隔てた村で僅かの田地を耕しながら川人足をしていた。農繁期も何もなく、二人は仕事に出る。山地の段々畑を耕すのはシズと菊であった。
 菊は辛いともえらいとも言わなかった。母の言うとおりに何でもした。働き手であった。
 菊が十五の正月に。
「菊、決めてきた」と茂市は言った。ただそれだけだった。赤銅色の顔が酒のためか光って見えた。
 菊は着物の袂を抱え囲炉裏に手を翳して聞いた。ただ黙っていた。
 菊が月のものを見たのは昨年の秋だった。
「菊も女子になったの」と言ってシズは赤飯を炊いてくれた。それがどんな意味を持つものか判断をしかねた。
「ややが産めるということじゃ」
 と、シズは少し頬を緩めて心配そうな娘に付け加えた。
 菊は沢山の出血で頭がボーとしていた。が、母の言葉で少しは呑み込めた。
 菊は女になる準備をしていたのだった。 
 周囲の風景が変わって行く。山がだんだん引いてゆき土手の高さが増していった。流れは少し緩やかになり、川幅はひろくなっていった。時折岩に水だ砕けて白い飛沫が悲鳴とともに起こった。
 菊は流れに手を入れてみた。手に当たった流れが二手に分かれる。
「菊、生きるということはこの水の流れと同じじゃ…。速い流れもあれば緩やかな流れもある、だけど流れるのでは、水は…」
 と、シズは無邪気に遊ぶ娘に言った。
「うん」菊は頷いたが、母の言うことを理解していたわけではなかった。心の中には不安のあまり緊張が走っていた。
 何時間ほど下ったろうか、川幅は広く緩やかな流れになっていた。遠くの山肌に薄い桃色の斑点のような模様が現れた。
「早とちりの山桜、まるで源太のようじゃ」とシズは見て言った。
 山桜が張り付いたように咲いていたのだった。
 大きく蛇行したところで視界が開けた。青空がいっぱいに広がっていた。海が近いのか仄かに潮の匂いがしたように菊には思えた。
「もうすぐじゃ」と茂市が声を上げた。
「酒津の土手が見えてきたぞ」と源太が言う。
 ここから東高梁川と西高梁川に分かれていたが昨年の工事で東高梁川を堰きとめて西高梁川ひとつにしたのだ。東には名残の水路が造られたのだった。
 茂市と源太の船は水路へ入ることが多かった。四十瀬、江長、福田、呼松、塩生。通生、大室、下津井と下るのである。
 酒津を右に回った所で西阿知に船を着けた。
「着いたぞ」
「うちも始めて来た」とシズが立ち上がって言った。
「菊、来てみい、ここがこれからの生活の場所じゃ」
 源太が舟の中でじっとしている菊に声をかけた。
 麦とい草が波打つ田んぼが広がっていた。カタンカタンという機を織る音が聞こえてきていた。
 ここが私の生きる場所、菊はある種の感慨を持って眺めていた。

2

 目が覚めると、隣で寝ているはずの夫の正久はいなかった。身づくろいを済ませて耳を澄ますと、「カタン、カタン」という音が聞こえてきていた。そのほうへ進んでいった。何台かの機織り機で茣蓙を織っていた。義母のせつ、義父の義一、義妹の百合、それに正久が忙しそうに働いていた。
「今日はゆっくりすればええ」
 とせつが声をかけた。
「昨日の今日じゃ、疲れたろうに」
 義一がそういって労った。
「おとうにおかあがそう言うのじゃ、部屋で休んでおれ」
 正久が優しく言った。
 家族だけのささやかな結婚式であった。
 着いた日は父も母も兄も安木の家に泊まり、次の日が結婚式であった。式が終わると菊の家族は高梁へ帰った。流れは少しは緩やかになっていた。が、船を引き、押す苦労は大変だろうと思った。
「うん」と菊は小さく頷いて部屋に帰った。
 窓から沢山の桜の木々が伺えた。そこが人目千本桜の酒津だと後から知った。高梁川の土手にはこんなに早い時だというのに織り上げた茣蓙が干してあった。
 それが風に弄ばれてパタパタと音を立てていた。
 菊はぼんやりと部屋の隅に座った。
 十五の菊は式の後、正久に抱かれて女になった。
「痛い」と声が出た。女が通る道、母の声が耳に響いたのだった。
 この人の妻になったと菊は思った。この人と生きていこう。これが自分の定めなのだと強く思った。
 幼さを残した菊の体は痛々しかったらしく、
「大丈夫か、なれるものじゃ」と優しく正久は言った。
 菊は小さく頷いた。そのとき夫の顔を始めて見た。
 肌は日焼けしていてきりりと締まった体であった。顔は厳ついが目の輝きはやさしい光を放っていた。 菊は夫の胸に飛び込んで眠った。そんな無邪気さがまだ残っていた。子供が甘えるそんな仕草であった。
 酒津の桜が綻んでくる頃、菊は義父母や夫と共に機を織る手伝いが出来だした。
 リャカーに織ったばかりの茣蓙を積んで高梁川の土手に干しに行く。夫が引き、菊が後を押す、干した後風に飛ばされないように石を置いていく。
「菊、見てみい、酒津の桜がもうすぐ開く。今度の休みは花見じゃ」
 正久は煙管を出して一服つけながら言った。
「綺麗じゃ」 菊は仄かに桃色に染まる酒津を眺めながら言った。
「風が強い日には、花びらが庭に飛んできて桃色に染まるぞ」
「うれしい」
「後が大変じゃ、掃除をするのが・・・」
 正久は煙を噴き上げながら言った。
 夫婦水入らずの時は、こんな時だった。
 菊は日々の暮らしの中でここでの生活に馴れていった。
 朝の四時におきて食事の支度を手伝う。食事が出来ている間にも夫と義父は機を織っている。
「ややまだかの」と普段無口な義父の義一が言った。
「まだ、あれはあるんか…」と義母のせつが言った。
 菊は小さく首を振った、そして、頷いた。
 どうして今日に限って聞くのだろうと菊は思った。
「おやじにおかん、心配せんでもええ。兵役はちゃんと済ましてくるけえ」
 正久は箸を口に運びながらいつもの様に明るく言った。
「お前がおらんうちに…菊が寂しかろうと思うてな」
「子供が出来たら、それこそ人手がのうなるぞ」
「心配はいらん、二人でどうにかできるけえ」
「そうじゃ」
 菊は何のことかわからなかった。言葉が頭の上を飛び交っていた。
「いやじゃ、そんなんはいやじゃ」
 正久からもうすぐ兵役で入隊すると聞いて叫んだ。
 菊は裸になって夫の上にのしかかって行った。ややの子種が欲しいそのときほど思ったことがなかった。
「すぐにと言うわけじゃねえ。来年の春じゃ」
「そう言うとも、すぐ来る」
「逢いにくればええ」
「来るなというても行くけえ」
「ああ」  
 正久は裸の菊を抱いて天井を見つめながら言った。腕に力が入った。
 わずかに開いた窓越しに月の明かりが差し込んで菊の裸体を照らしていた。
 細かった肩は肉が付き丸みを持っていた。少女から女になろうとしていた。
 腰にははっきりとした括れが出来て女の色香を漂わせていた。
 床の下で鈴虫が鳴いていた。一匹が二匹の鳴き声になり三匹と広がっていく。
 菊が嫁いで半年を迎えようとしていた。
 高梁川の周囲は紅葉し川面には小さな漣が立っていた。
「ややが欲しい、あんたのややが欲しい」
 菊は汗がまだ引かぬ肌を正久に押し付けていった。
「明日が早いぞ」
「眠らんでも平気じゃ」
 菊の体は大きな波に呑み込まれて行った。若鮎のように菊は跳ねた。
 菊は毎夜毎夜、子供が欲しいものをねだる様に正久に迫った。
 正久が三年間の兵役、その間の寂しさを思えば菊はいてもたってもおられなかったのだ。
「ややのまだか」の義母の言葉が女の菊を芽生えさせたのだった。
 子供がいれば寂しくない、それだけにより菊を積極的にさせていた。
 すすきが揺れ、月が満ち、秋が去ろうとしていた。
 菊が体に異変を感じたのはそんな時だった。
「ややがうまれたかもしれん」
 そう言って正久の手を腹の上に導いた。
「本当か」 
  正久は優しく撫でながら、
「ようやった、ようやった」
 と言い、強く抱きしめた。
「これからはあまりできんようになる」 
 菊は小さく言った。

3


 大正十二年九月一日関東地方に大地震が襲った。出火した火は海となり人家を焼き尽くした。死者行方不明者十四万人、倒壊した家屋は五十七万軒に及んだ。治安を失った混乱の為盗難略奪が横行した。朝鮮人、中国人の暴動が始まるという流言があり撲殺事件が相次いだ。軍部は大杉栄と伊藤野枝を扼殺した。


 そんな事件は備中の片田舎に届いてもさして生活の変化はなかった。
 コスモスは野に咲き乱れ、柿の実は熟し、蜜柑は黄色く色づいていた。稲の取り入れも済み、神社の祭囃子は賑やかに過ぎて行った。
そんな事件は備中の片田舎に届いてもさして生活の変化はなかった。
 コスモスは野に咲き乱れ、柿の実は熟し、蜜柑は黄色く色づいていた。稲の取り入れも済み、神社の祭囃子は賑やかに過ぎて行った。
 菊のお腹は正月が過ぎた頃から段々とせり出した。
「動いた、動いた」
 と菊は言って正久の手をとって触らせる。菊は何もかも脱ぎ捨てて正久に肌を合わせていった。
正久は菊のお腹に手を這わせ壊れ物でも触るように撫でた。
「ここに、ややがおるんか」
「そうじゃ、あんたの子で元気がええ」
 菊は潤んだ目を向けて、肌を正久にぐいぐい押し付けた。
「いいのか、ややがいるのに」
「かまわん、欲しい」
 菊は積極的だった。あと何ヶ月かしたら正久が兵役に出ると思えば気が狂いそうで一時でも肌を合わせていたいと言う気持ちが理性を乗り越えていた。
 寒空に輝く備中の月は障子を越えて二人を照らしていた。
「づーうとこうしていてえ」
「こんなことを外の女にしたらおえん」
 菊は額に零れた前髪を掻き揚げながら言った。

 菊と正久は何時も一緒だった。天気のよい日には荷車に織った茣蓙を積んで高梁川の中洲に干しに行った。成熟した女が男を誘うように流し目をする菊と、冷たい川面に手を浸して子供のように無邪気に遊ぶ菊もいた。
「危ないぞ」
「大丈夫」
 菊は正久の言葉にそう答え幼い顔を綻ばせた。そんな菊を見ていて正久はいじらしさを持った。三年間は長いなと思った。菊が三年間でどのように成長するか、無事に子供の母になれるのかと思った。菊はまだ十五だった。
 菊は子供のように正久の傍を離れなかった。
「桜が咲かんほうがええ」
 菊はよくそのように言った。
「なぜだ」と正久が問うと、
「春が来てしまう」と菊は悲しそうに言った。
「春は嫌いか」
「春が来るとお前さんがいなくなるからいやじゃ」
 菊は春が来ると正久が兵役に出て居なくなる事を嫌がってそのように言っていたのだった。
「来るなと言ったって来るぞ、春は梅に桃に桜を連れてな。慰問に来ればええ、ややを連れてな」

 田圃は氷が張っている、それを割って藺草の苗を植える。畑仕事に慣れているとはいえきつい、菊は重身だから尚辛い、腰が痺れた。手で腰を叩く。
「大丈夫か」
 正久が声をかけた。
「手伝わんでもええと言ったのに」
「お前さんと一緒に居たいんじゃ」
「そんなら、畦で見とればええが」
「いやじゃ、傍にいたい」
 こんな菊を置いていけるだろうかと正久は思った。四月には入隊するのだ。五月には菊は子を生む、やっていけるだろうかと言う心配が浮かんだ。

 酒津の土手に桜が満開だった。その花びらは風に運ばれ菊の家の庭を白く染めていた。
「元気でな、丈夫なややを産むんじゃぞ」
「うん」
 菊は大きく頭を下げた。
「親父やおかんと仲ようしてな」
「うん」
「体には気をつけてな」
「うん」
 菊は何を言っても「うん」としか言わなかった。
 菊は障子を開けて庭を見た。月明かりが庭に散る桜を雪のように見せていた。
 故郷はもう雪が積もっているだろう・・・。おとんやおかんやあんちゃんは元気だろうか、菊は胸が熱くなった。
「大丈夫か」
 正久がそう言いながら菊の背後に立った。
「菊がここ来て酒津の櫻が咲いた・・・」
「一人で見るのは嫌じゃ」
「一人じゃないややと一緒じゃ」
「うん、うち頑張る」
 菊は小さく言ったが、それは何かを決意したような力のある声だった。

 櫻の花びらが風に舞って庭に降る、それはまるで雪に華のようだった。
 正久はみんなに送られて出て行った。
 菊は一人部屋で泣いていた。
「菊は・・・」
 義父の義一が何か言おうとしたが、
「大丈夫じゃ、女は強いから・・・明日になればけろっとして、機をおっとる」
 義母のせつが言葉を取って言った。
「あの子は強い子じゃから・・・」
 菊は次の日、何もなかったように黙々と働いた。それは何かを忘れる為のように見えた。
 菊は暇を見つけては酒津の櫻の木の下へ行った。
 嫁いで正久と酒津に行ったとき、菊の髪に櫻の花びらが降ってきたのを手で払いながら、
「櫻はお日さんに花びらを向けずに咲く・・・わしらも陽を受けられんかもしれんが直向きに生きような」
 と言った正久の言葉を思い出すためだった。

 菊は元気な男の子を生んだ。
「お義父さん、お義母さん、お願いがあります・・・。うちの人が留守の間勉強がしたいんじゃ。今より働きますから許してくだせい」
 菊は正座をしてそう言い頭を畳みに擦りつけた。
「女は勉強せいでもええ」
 せつがはっきりと言った。
「ややはどうするんじゃ」
 義一が優しく言った。
「はい、傍においておきます」
「何を勉強したいんじゃ」
「まだ決めておりませんが、いろんなことを勉強してえ」
「この家での生活に不満があるのか」
 せつが厳しく言った。
「いいえ、うちの人が帰ったらもっと仰山子供を生んで・・・。三年間勉強させてくだせい」
 菊は引き下がらなかった。女学校へ行きたかったが、貧しくて行けなかったのだった。何をというのではなかった。たくさんの本が読みたいと思った。その思いは子供の親になってより以上に増していた。
「一時間でも二時間でもええ、勉強する時間をくだせい」
「ややがおると、女は忙しいぞ」
 せつが根負けして言った。
「やってみい、出来るだけの手助けはしてやる」
 義一はそう言った。
 菊は何時もより早く起き、朝餉の支度をし、機を織り、夕餉の支度をして部屋に帰るという生活を許された。
 子供の名前は義父が付けてくれた。
「亮太、今度の日曜日にはおとうに会いに行くか」
 菊はむずかる亮太を抱いて声をかけた。
 菊は土曜の夜に支度をして、次の日の朝早く山陽本線の上りに乗った。姫路連隊に正久はいたのだった。その日は正久も外出が許され、姫路城の近くの宿に休憩を取った。
「大きゅうなったの、風邪を引かすなよ」
 正久は亮太を見て言った。
「何もなかった、元気だった」
 菊はそう言って正久にむしゃぶりついて行った。菊の体は若鮎のように跳ねた。
 梅雨の晴れ間の優しい陽射しが降り注いでいた。
 菊は無邪気に裸で窓辺に立ち姫路城を眺めていた。屋根瓦がきらきらと陽を跳ね返し輝いていた。
 菊は正久に勉強のことを言った。
「そうか、これからは女にも勉強が必要かも知れんな」
「うち、東京へ行ってみてえ」
 菊は茣蓙の仲買人から浅草の事を聞いたのだった。
「兵役が終わったら行ってみようか」
「ほんと、ほんとね」
 菊ははしゃいで正久の体に被さっていった。菊の顔は幼かったが体は成熟した女に変わろうとしていた。
 
 菊は亮太を背負い朝食の用意をして機を織った。そして、夕方から亮太を遊ばせながら本を読んだ。系統だって読むと言うのではなく手当たり次第に読んだ。正久がいない寂しさを紛らわせるようだった。
 夏の炎天下に藺草を刈る。朝、夜が明ける前に田圃に出るのだ。籠の中に亮太を入れ畦において作業をするのだ。刈り終えた田圃に刈ったばかりの藺草をい泥につけて干した。これは生半可なものではなく大の男がへとへとになった。酒と肴が用意されていた。酒を流し込まなければしんどくて眠られなかったのだった。
 四国から出稼ぎの藺草刈りの人夫が押しかけるのもこの時期だった。
 藺草の緑の田圃が広がっていたが、一枚一枚土色の田圃に戻っていった。藺草の田圃に水を張り稲が植えられるのだ。氷を割って植え炎天下に刈る、大変な作業であった。
 藺草刈りが済むと一段落で、藺草を乾かして機で織ればよかった。織った茣蓙は畳表になったり、上敷きになっりしていた。織り手は茣蓙に対する執着はなくただ作るだけに専心していた。茣蓙の行く末を考える暇はなかった。が、心の底で大切に使ってもらえよと声を掛けるだけだった。
 菊が最初に感じたのは行く末を考えることで心の余裕を持つ事が出来るという事だった。それは本を読むことで作れたものだった。読んだ後の余韻で考えると言うことを知ったのだった。



4

 田地は藺草の緑を刈り取った後に植えた稲は薄緑に変わりとり入れの頃になった。菊は機を任され終日織った。三台の機を操った。義父母と義妹が稲刈りに出た。このときを過ぎると秋の祭りが来ると思えば苦にならなかった。籠の中に亮太を入れてい泥の舞わない庭に出して守をしながら織った。
 秋祭の日には、機をとめて祝うのが普通だった。村が物音を立てずに静まり返っていた。そんな中を祭りの鉦と太鼓が響き、熊野神社への道は賑わっていた。各家の玄関には御神灯が下げられ灯かりが広がり、縁側には競うように沢山の祭り料理に肴や酒が飾られ詣でる人に馳走をするのだった。
 山車が練り男達が鬼の面を被り錫丈の鈴を鳴らし村中の魔を払いながら歩くのだ。子供たちは逃げ回り幼い子は泣き叫ぶのだ。
 神社の境内には何十もの幟が立ち風にはたはたと揺れ、ガス燈を点けた小屋掛けの店と露店が並び、参拝の人たちで賑わっていた。
 菊は亮太を抱いて参った。鈴を鳴らし夫の無事を願った。
 もう里は風花が待っている頃か、菊は山肌の段々畑を耕す母を思った。父は下津井に下り来た時に顔を覗けて亮太を見て直ぐに帰っていくのだった。泊って行くように義父が言っても帰りを急いだのだった。
「春になったら一度、里へ帰らしてもらおう。亮太を見せたい」
 菊はそう思うのだった。
 亮太は風邪を引くことなく健やかに育っていた。菊の部屋の明かりは遅くまで点いていた。毎晩読書に明け暮れた。一人寝は寒くて嫌だった。菊は正久のことを思った。面会に行って早何ヶ月かは過ぎていた。正久は時折手紙をくれみんなに可愛がられるようにと言って来た。
 いつの間にか菊は少女から子供を生み女になっていた。
 菊は近いうちに正久に会いに行こうと思った。

 春節を家族で祝った。餅をつき、ご馳走を拵えて仏壇に供え、神棚の前に置いた。義母に教えてもらって菊も手伝った。
「今年は目出度い年になる。百合の縁談が決まったぞ」
 義一は嬉しそうに言った。
「おめえは何ぼになった」
 せつが百合に聞いた。
「十七じゃ」
 百合は恥ずかしそうに言った。
「あっちは早いほうがええと言うとる・・・。櫻の咲く前に行くのう」
「うちは、どっちでもええ、父さんが決めて」
「決まったら早いほうがええ」
 せつが言って、百合の方を見詰めた。
 百合は顔を上げなかった。
 百合は年下の菊を義姉さん義姉さん慕っていた。
「良かったね」
 菊は短く言った。

 菊は高梁川の土手に織った茣蓙を荷車に乗せて乾しに行くのだ。亮太を背たらい荷車を引くことも菊には苦ではなかった。水江の渡し人が船穂からの人たちを櫓を漕いで渡す、その人を見ていると飽きなかった。その人に父と兄を被せて見ていた。その向こうに母を見ていたのだった。
 土手の上は風が強く通り茣蓙は良く乾いた。
 菊は川沿いにある猫柳が僅かに小さな芽を出しているのを見て頬を綻ばせた。
春が来ていることを実感し心が浮き立つように感じた。茣蓙の上に横になり大の字に寝て空を見上げた。白い雲が立ち止まり菊を見下ろしていた。風の色が見えたように思えた。足元の向こうに水仙が群生し花びらを垂れて風に揺れていた。亮太がお腹をすかしたのか泣き始めた。抱えて胸を肌蹴て乳をやった。
「痛い」
 亮太が噛んだのだ。体全体に快感が走った。それは幸せの印しのように思えた。亮太は現気よく吸った。
 母になったとはいえ菊はまだ十六だった。か細い体に乳房だけは大きくたわわだった。