海の華
1
海が朝を迎えた頃、夜汽車は山陽本線の塩屋という駅舎に着いた。
ホームに降りたのは省三と省三の叔父の角次、それに十五人の男たちであった。
「おおさむうー」誰となくそう言い手袋の上から手を擦り白い息を吹きかけた。省三はジャンパーの襟を立てた。男たちは足早に陸橋のほうへ急ぐ角次の後について歩いていた。省三は角次の重いボストンバックを提げてみんなの後にいた。まだ周囲は薄暗かった。プラットホームには等間隔に裸電球が薄暗い明かりを落としていた。その明かりは朝空けの光の中に溶け込んでいた。陸橋の上から海が見えた。東の空には紀伊半島に上る朝日が真っ赤に燃え、波は黄金色に輝いていた。岸に打ち返す波の音が静まり返っている町を包んでいた。小さな明かりを点けたいくつもの漁船が港へと海を渡っていった。
ぞろぞろと足を引きずるような一団は人気のない駅前の細い路地を賑やかに通った。前や後ろで話し声がし笑いが弾けていた。
その時店の表戸が引かれ中年の男が眠そうな顔を覗かせ男たちを見つめた。が、男たちの目が一斉に男に向けられて直ぐに顔を引っ込めた。
男たちの服装は背広にネクタイ、その上にコートかオーバーを着ていた。ボストンバッグかスーツケースを提げていた。
新開地が、福原が、元町がと男たちは言葉に端に名前を挙げて猥談に花を咲かせ黄色い歯を見せて笑っていた。農繁期を終えての出稼ぎ人夫であろうと省三は思った。省三の住む所とあまり離れていないことは言葉の端々から分かる。まるで団体旅行のような雰囲気で心を開放させていた。
先頭の角次はハンチングを深めに被り、男たちの喜声に頬を歪めながら、背を丸くして両の手をズボンのポケットに突っ込んで歩いていた。
海を前に山を背にした細長い町だった。山肌には別荘風の建物がしがみつくように建てられ、山陽本線と第二国道を挟んだ海岸線に沿って同じような洋館建築が並んでいた。
陽はとっくに上がり海沿いの町には朝が訪れていた。波が繰り返し繰り返し岩に砕け砂浜を洗っていた。単調な波音だった。白いマストに帆を張ったヨットが朝靄の中を滑る様に渡っていた。
伊勢湾台風で崩壊した堤防を修復するのが角次の仕事で、男たちは土方として雇われて、省三は帳面付けとして来たのだった。
飯場は国道に面した別荘と別荘の間にあるガソリンスタンドの裏にあった。トタン屋根のバラックが三棟あった。雨と風が凌げればいいという粗末なものであった。
角次は男たちを三十畳ほどの大部屋に集めた。その部屋には前からいた十名ほどの人がてんでに布団を敷き眠っていた。男たちは部屋の数箇所にあるストーブを取り囲んだ。
「少し眠っておけ。昼からコンクリートうちをやるからな」と角次は濁声で言った。男たちは棚に荷物を置き隅に積まれた布団を空いているところに広げ、そのまま横になった。
「省三、お前も呆けっとしとらんと眠っておけ」
角次はそう言ってボストンバッグを提げて出て行った。省三はその後姿を見送った。(2005/10/09)
男たちはもう安らかな眠りの中にいて、高い響きの鼾をたてていた。省三は布団を出して横になったがなかなか眠られず何度も寝返りを打った。夜汽車で僅かにまどろんだだけであったので眠りの中へ入りたいと懸命に目を瞑った。がそれは徒労に終わった。しばらくすると異様な臭気を鼻腔に感じた。それは布団に浸み込んだ他人の体臭であることに気がついた。それが気になりだすと余計に眠られなかった。
海に広がる潮騒と焼玉エンジンの音が妙に寂しさを募らせた。省三は起き上がり部屋を出て堤防の上に立った。潮風が凍てつくように肌を刺してきた。
二号線に車が走り、山陽本線に列車が通過し一瞬海のあらゆる音を消した。
こんなに近くに海を見、波の音を聴くのは小学校の夏の臨海学校のとき以来であると思った。
打ち寄せる波の単調に繰り返えされる音は省三の心を孤独にした。少しの間堤防に立っていたが砂浜に下りた。黒い砂浜を波が洗い七色の油の皮膜が鮮やかに広がった。
少し歩いたとき寂しそうに肩を落として東の空を見る中年の小柄な男が映った。男は気配を感じて振り返った。男の両眼には涙が溢れ頬を伝っていた。省三は目線を落とした。
「あんたが親父さんの甥の省三さんかい」潮焼けした声であった。
「はい」と言って少し引いた。
「今日の、いや、今のことは見なかった事にしてくれ」男は海の方を向いて言った。
「はい」小さな声だった。
「俺は山中善太郎だ、よろしくな」
「省三です、よろしくお願いします」
「まあ、のんびりとやろうよ」
善さんが振り向いた時の目は柔和になっており口元が緩んでいた。
「じゃあ・・・」
善さんは少しはにかんだ様に言って砂浜を見つめながら歩き階段に消えた。善さんの肩は寂しそうに何かを語っていた。
省三は砂を踏みながら太陽に向って歩いた。堤防が大きく崩れ別荘の庭を噛み砕き、波がその下に打ち寄せていた。風と波が残していった爪あとを省三は見て回った。工事は三分の一も捗っていなかった。海岸線には同じような別荘がペンキの色を代えて建っていた。
その時、見上げていた別荘のカーテンが引かれガラス戸が開いた。
「*****」外人の若い女が顔を覗かせて省三に向って叫んだ。省三は訳が分からずに立ち竦んだ。女はベランダに出て来た。パジャマ姿で手摺りに身を乗り出すようにしてなにやら喋った。省三は慌てて逃げようとした。
「逃ゲナイデ」女は日本語で叫んだ。
「アナタハ、コンナニハヤク、ソコデナニヲシテルカ」女は省三の慌てる姿が面白かったのか笑顔で言った。
「仕事です」声が震えていた。
「シゴト・・・」
「はい」
「ネームワ」
「省三です」
省三は勇気を出して女を見上げた。二十歳くらいに見えた。パシャマ姿を通して発育が窺がえた。省三は急に恥ずかしくなって振り返り足を速めた。
「ショウゾウ・・・」
女の声が背にぶつかり落ちた。省三は走った。足元で白く泡立って広がり消える波があった。
飯場に帰ると若い女と年老いた男が朝飯の用意をしていた。女はせっせと釜戸に木っ端を投げ込み、男は幾本もの大根の漬物を切っていた。女が省三に気づきにっこりと笑った。男は鋭い視線を向けていた。(2005/10/10)
2
省三は誰が何時から何時まで仕事をしたかを手帳に書き込み、それを労務台帳に記載し、賃金計算をするのが仕事だった。
この現場には、現場監督の鳴海と事務の高山、班長の角次夫妻、大工に鳶に土方、賄い夫婦の総勢五十人ほどであった。
鳴海は図面を覗いて測量をし、直ぐ何処に行くのかいなくなった。元町の女のところへ行くのだという噂があった。高山は工事材料の調達と経理全般の仕事をしていた。工事現場を見ることもなく神戸のダンスホールに浸かっていた。
角次は現場を見て歩きそれ以外のときはオートバイを磨き町に出て行った。
工事は昼夜進められた。
工事は潮の満干で左右された。潮が満ちているときは休みだった。干いた時に鳶が海岸に鉄のパイルを杭打ちし、太い鉄筋を縦横に組み、足場丸太を立てた。大工がパネルを打ち据えナットで締め上げる。足場の上にバター板を敷きレールが走り、土方の押すコンクリートと入ったトロッコが行き交う。コンクリートミキサーは重い唸り音を出してガラガラと回った。サーチライトとガス燈がその風景を照らし出していた。
十一月下旬の海辺は潮風が冷たく、夜になるとスコップを握る手も悴み、モッコを担ぐ肩も軋んだ。
省三は砂浜で焚き火をして見ていた。サーチライトが煌々とした光を放ち、足場丸太の所々にぶら下げられたガス燈は蛍火の様に青白い灯かりを落としていた。その光は海にこぼれ夜光虫が群がっているように見えていた。
「省三、どんどん燃やしとけ、もう直ぐ小休止をするからな」
ニッカズボンを穿いた角次が足場の上から叫んだ。
砂浜の人夫たちはパネルの上にモッコを担いで砂を運びバラスとセメントを混ぜ、その上から水を入れスコップで捏ね上げた。それをスコップですくいパネルの中へ投げ込んでいた。上では数人の人夫がパネルの中に長い竿を差してコンクリートをまんべんに行き渡らせていた。スコップの背でパネルが激しく叩かれた。
それらの騒音は単調な波の音に溶け込んでいた。
「あと少しだ、パネルをもっと力を入れて叩け、その音では隅々までいっとらん、お前ら何年この仕事をやっとんだ」
角次が大きな声を張り上げた。
省三は木っ端を投げ込み石油をかけた。火勢は火柱となって夜空を焦がした。黒い煙は吹き上がり暗闇に呑まれた。
「ショウゾウ・・・」その声に省三は振り返った。
炎の向こうに人影が僅かに見えた。省三はその人が誰だか直ぐに分かった。
省三は少し砂浜の方へ移動した。間近に見ればまだ幼さを残した貌だった。下半身をぴったりしたジーパンで包み白い徳利のセーターを着ていた。髪は背に自然にたらし頬に幾つものそばかすが散っているのが見えた。なぜか省三は冷静に見ることが出来た。
「ミスター省三・・・」少女はふたたびそう呼んだ。
「喧しいですか・・・」滑らかに声が出た。
「ハイ、デモイイデス。波ト風ガ庭ヲ崩ス時、大変ニ怖カッタカラ・・・」
少女は笑顔で言った。
「そうだったでしょうね」
省三は短く応え暗い海へ視線を向けた。海を渡る別府航路の豪華客船が不夜城のように見えた。
「アノミーワ、キャサリン十六歳、ヨロシク・・・」
キャサリンは右手を省三の前に差し出した。手を握ったとき小刻みに揺れた。それは寒さの所為ではなかった。
「省三、ヨカッタラアスニデモアソビニキテクダサイ、ニホンノボーイフレンドイマセン・・・私寂シイデス・・・」
「・・・」省三はじっと見つめていた。
「デワ、ヤクソクシマシタヨ」
「・・・」省三は頷いていた。
「デワ、サヨナラ」
キャサリンは手を離して砂浜の暗闇の中へ消えて行った。
その後姿を省三は放心したように眺めていた。省三の手にはキャサリンの温もりと心臓の鼓動が残っていた。(2005/10/10)
3
ガラガラという牌の音で省三は目を覚ました。
省三は賄いの夫婦がいた小部屋に移っていた。女がぷいといなくなり、その後を追うように男も消えたのだった。
周りは冷たい空を灰色に変えようとしている頃であった。朝の六時まで引き潮の中コンクリート打ちが続いたのだ。風呂に入り、朝飯を食べ、洗濯をして布団に入ったのは十時を回っていた。
省三は万年床より蓑虫が殻を破って這い出すような緩慢な仕種で起き上がった。
省三は階段を下りた。粉のような砂が風に舞い足に纏わり付いてくる。西空には黄昏の中僅かに太陽の残り陽がオレンジ色に輝き、砂浜に干してある洗濯物が風に弄ばれるのを照らしていた。
省三はすばやく洗濯物をしまい胸に抱えて帰ろうとした。その時足元で波に漂う花束を見た。数日前、若い夫婦が昨年この浜で亡くなったわが子のために流がした供養花であった。二人で波に花束を浮かべ男は遠くの海辺に眼差しを投げ、女は砂浜にしゃがみこんで砂を指の間からさらさらと落としていたのを、省三は不思議な気持ちで堤防の上から眺めたのだった。その光景に一瞬胸に熱いものが溢れたのを覚えている。省三は花束を海から奪い取るように手にして砂浜に立てた。
「省三、何をしとんや」
高山はあばた貌を緩めて堤防の上から声をかけてきた。
「何でもありません、洗濯物を仕舞いに・・・。それに夕焼けがとても綺麗いじゃけえ見とれてたんです」
「夕焼けくらい毎日見とろうが」
「海に沈む夕日はそんなに見ておりません」
「ワイは子供の頃から見とるからなんとも思わんが、省三はロマンティクやの」
高山は日生諸島を魚場に持つ網元の息子で、東京の大学を出てK土木に入りここへ来ていた。
「それより、今日外人の別嬪におうたんや」
高山らそう言われて省三はドキリとした。昨夜の約束を思い出した。行こうか行くまいか迷っていたのだ。
「省三、お前しっとろうが」高山はにこにこしながら言った。
「いいえ知りません」
省三は高山にキャサリンとのことを知られたくなかった。知っているといえば紹介しろと言うに決まっていた。キャサリンのことは秘密にしておきたかったのだ。
「本当か・・・嘘をついてもすぐ分かるんやで。その別嬪は省三のことしっとったで」
「ほんまに知らんのです」省三は強く言った。
「今日の昼間、向こうの崩れた堤防の測量をしとったら別嬪が庭に出てきて省三はどうしていると尋ねよったで、嘘はいかん、なにかあったんか」
高山の目が光っていた。獲物を狙う猟師の目だった。省三はドキリとし、そこまで知られているのならいわなくてはと思った。
「一度だけ会いました。ここに来た朝、砂浜を歩いていると声を掛けられました」
「それだけか・・・」
「ええ」
「こいつ隅におけんのう、ええことしょつてからに」
「なにもしておりません」
「外人の女はませるけえ、省三の童貞を奪われるかもしれんで・・・。けど外人でもあれだけの別嬪は珍しいで。さすが神戸や」
省三は昨夜のキャサリンの手の温もりを思い出していた。
「これから神戸に行くんや、一緒にどうや」
省三はその言葉が聞こえないふりをして階段を上がった。
「おもろいところを見つけたんや、ええ女もいたで」
「今日は大潮で仕事も長いし、飯食べて少し寝ようと思います」
「そうか・・・あの外人の裸でも想像してマスでもかけばええんや・・・けどわいはあの別嬪をものにするで」
と高山は言って事務所の方へ消えていった。
高山に押さえ込まれるキャサリンの姿が省三の頭を掠めた。そんなことは出来るはずがないと打ち消そうとしても、高山の貌が笑っていた。省三はキャサリンに逢って高山のことを注意するように言わなくてはと思った。
省三は洗濯物を部屋に投げ込んで大部屋の方へ回った。窓の傍でジャン卓を囲んで牌を摘み口撃を盛んに応酬していた。反対側の隅には省三と同じくらいの歳の順二郎が、トランジスタラジオを抱えイヤホーンで聴きながら目を瞑り足でリズムをとっていた。
省三は順二郎の肩をゆすった。順二郎は顔を向けイヤホーンを外した。
「順ちゃん、何処にも行かないのですか、仕事は十二時からですから・・・時間はありますよ」
「金がねえ、金がないのよ」順二郎は上品な顔を崩して言った。飯場の住人には見えなかった。
「それによ、少し眠ってなくてはね。十二時を回った仕事は金になるが体にはきついよ。寒いし飯食って起こしてくれるまで寝るよ」
順二郎は安田といい二十歳と労務台帳に記載されていた。前借がないのは順ちゃんと省三と一緒に来た男たちで、前からいる男たちは何ヶ月も前借があった。
順二郎は省三に手を上げてごろんと横になった。
部屋には三箇所にストーブが置かれその上で薬缶が湯気を立てていた。それを囲むように十数人の男たちが眠っていた。その人たちは省三と一緒に来た男たちで、マージャンをしている男たちは前からいる人たちであった。外の人たちは夜の街へ出かけているらしかった。
「省三! どうだ」その声に省三は振り返った。奥の布団置き場の前で一升瓶を前にして胡坐かきコップ酒をしていた善さんが声をかけたのだった。
善さんはいつも酒を飲んでいた。潮焼けが酒焼けかわからないほどであった。
目は混濁して輝きをなくしていたが現場に立つと猫の目のように光った。
「俺の現場で一人として怪我人はだしゃしねえ」それか善さんの口癖だった。
省三は善さんの前に立った。
「どうだ」善さんは酒の入ったコップを突き出した。
「呑めないんです」
「なに呑み方をしらねえ?」
「そうじゃないんです、呑めないんです」
「座れ」
「はい」省三は素直に座った。
「幾つになる」
「十七ですが」
「じゃあ練習するんだ・・・俺なんか省三くらいのときには一升空けたものだ」
「それよりあんまり呑んだら仕事が出来なくなって・・・親父さんに・・・」
「省三、俺に説教垂れようと言うのか」
「そうではありません、善さんの体が・・・」
「省三、有難うよ。だがな、呑みたいときに呑めるってことが人生の花よ。・・・省三ここに来て何日になる・・・」
善さんは酔った目を据えて省三を睨み付けた。省三はその目の奥に、朝の誰もいない砂浜で海を見つめて涙を浮かべていた光を見たように思った。
「今日で二十日になります」
「そうだろう、それだったら少しはおれ達のことを知ろうとしろ」
「知ろうとしろ・・・」
「省三はしっかりしているが・・・俺たちとの間に一線を引いている、大工や人夫じゃないと・・・」
「そんなこと・・・」
省三は思い当たるのか声が途中から消えた。
「ここを腰掛だと思っている証拠だ。そんなことでは何処に行っても役立にたたず仕事の出来る人間にはなれねえぞ。・・・モッコの重さを知っているか、棒が肩の骨に食い込んでくる痛さを知っているか、よろけて土に這い蹲る辛さを・・・。人の前に立ってやろうとする人間はその痛み辛さを知って耐えなくてはならねえ」
省三は黙って聴いていた。
「どうして酒を飲むか、呑まなくてはおられないか、そこのところを理解しねえと人は使えねえぞ」
善さんは滑らかに喋った。仕事中は無口で唇を真一文字に閉じ、人夫たちの動きを睨みつけていたが、酒が饒舌にさせているのだろう。
「はい、分かります」省三は鼻をすすっていた。
この二十日間省三は角次に言われるままに仕事をしていた。人夫たちの立ち振る舞いを見ているだけで、どのような心で生活をしているかを知ろうとする努力はしてなかった。酒と博打と女、それをだけを生甲斐に生きていると思っていた。省三の頭の中に二十日間の出来事がめぐっていた。
「酒は一概に気違い水ではねえ。疲れを癒し、痛み苦しみを忘れさせてくれるものだぜ。・・・時々この部屋を覗きな、そして、話し笑い泣きな、そうすりゃあ、ここの人間の心の隅々まで見え読めるというものだぜ」
善さんは茣蓙の上にコップを置いて一升瓶から注ぎ、顔を近づけて啜り上げ、手で持ち上げて一気に飲み干した。善さんの顔がいっそう赤黒くなった。目はぎらぎらと輝き始めた。
善さんは角次の弟分のような存在であった。小頭という身分で角次がいない時は工事の手配をし進行の号令をかけた。
善さんは「黒田節」を歌い始めた。この歌が出ると酒量に達しているのだった。今日のように絡んでくるようなことはなかった。そんな善さんだったが角次より人夫たちに親しまれていた。
「誰が、誰が本当のことを知ってるというんだい。知るもんか、知るものか」
善さんが突然寝言のように叫んだ。それは善さんの心に蹲るものにたいしてのようであった。
(2005/10/11)
4
省三は懐中電灯で砂浜を照らしながら歩いた。
善さんは喋るだけ喋ると枯れ木が倒れるように横になった。善さんの言葉が省三の心の中でくり返されていた。暗い海を渡る船の為に光り続ける灯台のように思えた。何か考えなくてはならないその指針を投げかけてくれたように思えた。
今日も別府航路の豪華船が汽笛を長く鳴らして海を渡っていた。
「八時か」省三はそれを見て呟いた。
「省三」キャサリンの声が降って来た。
キャサリンは崩れかけた庭に立っていた。家の明かりがその姿をくっきりと見せていた。省三は近寄っていった。
「来テクレタノデスカ・・・パパトママワパーティーデイナイ」
省三はその言葉に躊躇し迷って黙り込んだ。
「シンパイハイラナイ、少シ話ヲシテ行ツテ欲シイ、省三、オ願イ」
「それは・・・僕はこれから夕食を食べて・・・十二時から仕事があるから少し・・・」
「省三ワ約束ヲ破ルノデスカ」
「約束?」
「昨日、約束シマシタ。食事ワ出シマス、私一人デ食ベルノサビシイデス」
省三は善さんの事を考えていた。寂しい、その言葉が善さんのいいたかった総てではなかったかと思った。
「ソレジャ、ミスター高山ニオ願イショウカ」
「それは困ります。あの人には近寄らないほうがいい」
省三は慌てて言った。
「デモ省三ノボーイフレンドデショウ」
「ええ、だけど、怖い人ですから」
「ミーワ、勇気ノナイ人嫌イデス。デモ省三ワ別デス・・・。省三、ドウゾ」
キャサリンは省三を執拗に誘った。
その時省三は砂浜を踏む足音を聞いた。振り返った。黒い上下の背広を着た大工の石原が近づいていた。
「石原さん、お出かけですか」
省三は何か悪いことを見つかったような気拙さを言葉に代えた。
「うん、ちょっとな・・・」
石原は一瞬立ち止まり省三をちらりと見て言った。
「仕事の時間までには帰って来てくださいね」
「うん・・・じゃあ、うまくやんな」
石原はそう言い残し急いで東の砂浜へ消えていった。省三はその後姿に何かを感じていた。
「ドウスル、サァ、遠慮ワイリマセン、パパトママニワ省三ノコト話テアリマス」
省三は今まで若い女性と一対一で話したことがなかった。胸に激しい動悸を感じていた。 「少しの時間なら」
「サンキュー、ヤハリ省三ワイイ人」
キャサリンに導かれて省三は家に入った。映画でしか見たことのない家具と調度品が置かれていた。マントルピースの上に肖像画が掛けられてあった。その前に立ってじっと眺めた。
「ソレワ、ミーノグランドファザーデス」
暖炉には赫赫と燃えていた。省三はロッキングチェアーに腰を落として辺りを見ていた。キャサリンはコーヒーとケーキを運んで来てソファーに座った。
「コノルーム二、ニホンノボーイフレンド、ハジメテデス」
省三にはどう見てもキャサリンが十六には思えなかった。背丈は同じくらいだが、大きく見えた。胸の大きさ、腰のくびれ、ヒップリ張りのよさ、金成とした脚の線は、ニホンの同年の女性にはないものだった。
省三はここに来て始めての友達が外国の女性であることに戸惑っていた。
「それは光栄です、と言わなくてはならないのですね」
「コウエイ?」
「嬉しいと言う意味です」
「ソウデスカ、ソレデワ、ミーモ、光栄デス」
キャサリンは笑って言った。
省三はキャサリンの体臭に胸が苦しくなっていた。
「ドウゾ、メシアガレ」
「有難う、キャサリンは日本語が上手だね」
「ハイ、此処二来ル前二、横浜二イマシタ。パパワ、貿易ノ仕事ヲシテイマス・・・。
ミーワ、日本ノボーイフレンド出来テトテモハッピーデス」
「それで何を話せばいいのでしょうか」
「ハイ、時折話シ相手二ナッテクレレバ嬉レシイ・・・。ミーワ、アノ朝、省三ヲ見タ時好キニナリマシタ。ナンダカ寂シソウデシタ、トテモ省三ノ顔・・・」
「母を残してきましたから・・・」
「ママヲ・・・。ソレハイケマセン。キット寂シガッテイマス。時々帰ツテアゲルベキデス」
「ええ、この仕事は来年に一月いっぱいですから・・・一度正月には帰ります」
「ソウデスカ、一月ガ終ワレバ・・・」
キャサリンは小さく言った。
「はい、その約束で来ていますから」
「ソレワ困リマス、折角フレンドニナレタノニ・・・」
「でも仕方がありません。・・・僕も、ここに来てキャサリンに逢えたこと良かったと思っています。・・・それまで時々来て話し相手になります」
「嬉シイ、省三・・・」
キャサリンが省三に歩み寄り唇を重ねてきた。大きな一枚ガラス戸は潮騒を消し暗い瀬戸内海の海を映していた。
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海が朝を迎えた頃、夜汽車は山陽本線の塩屋という駅舎に着いた。
ホームに降りたのは省三と省三の叔父の角次、それに十五人の男たちであった。
「おおさむうー」誰となくそう言い手袋の上から手を擦り白い息を吹きかけた。省三はジャンパーの襟を立てた。男たちは足早に陸橋のほうへ急ぐ角次の後について歩いていた。省三は角次の重いボストンバックを提げてみんなの後にいた。まだ周囲は薄暗かった。プラットホームには等間隔に裸電球が薄暗い明かりを落としていた。その明かりは朝空けの光の中に溶け込んでいた。陸橋の上から海が見えた。東の空には紀伊半島に上る朝日が真っ赤に燃え、波は黄金色に輝いていた。岸に打ち返す波の音が静まり返っている町を包んでいた。小さな明かりを点けたいくつもの漁船が港へと海を渡っていった。
ぞろぞろと足を引きずるような一団は人気のない駅前の細い路地を賑やかに通った。前や後ろで話し声がし笑いが弾けていた。
その時店の表戸が引かれ中年の男が眠そうな顔を覗かせ男たちを見つめた。が、男たちの目が一斉に男に向けられて直ぐに顔を引っ込めた。
男たちの服装は背広にネクタイ、その上にコートかオーバーを着ていた。ボストンバッグかスーツケースを提げていた。
新開地が、福原が、元町がと男たちは言葉に端に名前を挙げて猥談に花を咲かせ黄色い歯を見せて笑っていた。農繁期を終えての出稼ぎ人夫であろうと省三は思った。省三の住む所とあまり離れていないことは言葉の端々から分かる。まるで団体旅行のような雰囲気で心を開放させていた。
先頭の角次はハンチングを深めに被り、男たちの喜声に頬を歪めながら、背を丸くして両の手をズボンのポケットに突っ込んで歩いていた。
海を前に山を背にした細長い町だった。山肌には別荘風の建物がしがみつくように建てられ、山陽本線と第二国道を挟んだ海岸線に沿って同じような洋館建築が並んでいた。
陽はとっくに上がり海沿いの町には朝が訪れていた。波が繰り返し繰り返し岩に砕け砂浜を洗っていた。単調な波音だった。白いマストに帆を張ったヨットが朝靄の中を滑る様に渡っていた。
伊勢湾台風で崩壊した堤防を修復するのが角次の仕事で、男たちは土方として雇われて、省三は帳面付けとして来たのだった。
飯場は国道に面した別荘と別荘の間にあるガソリンスタンドの裏にあった。トタン屋根のバラックが三棟あった。雨と風が凌げればいいという粗末なものであった。
角次は男たちを三十畳ほどの大部屋に集めた。その部屋には前からいた十名ほどの人がてんでに布団を敷き眠っていた。男たちは部屋の数箇所にあるストーブを取り囲んだ。
「少し眠っておけ。昼からコンクリートうちをやるからな」と角次は濁声で言った。男たちは棚に荷物を置き隅に積まれた布団を空いているところに広げ、そのまま横になった。
「省三、お前も呆けっとしとらんと眠っておけ」
角次はそう言ってボストンバッグを提げて出て行った。省三はその後姿を見送った。(2005/10/09)
男たちはもう安らかな眠りの中にいて、高い響きの鼾をたてていた。省三は布団を出して横になったがなかなか眠られず何度も寝返りを打った。夜汽車で僅かにまどろんだだけであったので眠りの中へ入りたいと懸命に目を瞑った。がそれは徒労に終わった。しばらくすると異様な臭気を鼻腔に感じた。それは布団に浸み込んだ他人の体臭であることに気がついた。それが気になりだすと余計に眠られなかった。
海に広がる潮騒と焼玉エンジンの音が妙に寂しさを募らせた。省三は起き上がり部屋を出て堤防の上に立った。潮風が凍てつくように肌を刺してきた。
二号線に車が走り、山陽本線に列車が通過し一瞬海のあらゆる音を消した。
こんなに近くに海を見、波の音を聴くのは小学校の夏の臨海学校のとき以来であると思った。
打ち寄せる波の単調に繰り返えされる音は省三の心を孤独にした。少しの間堤防に立っていたが砂浜に下りた。黒い砂浜を波が洗い七色の油の皮膜が鮮やかに広がった。
少し歩いたとき寂しそうに肩を落として東の空を見る中年の小柄な男が映った。男は気配を感じて振り返った。男の両眼には涙が溢れ頬を伝っていた。省三は目線を落とした。
「あんたが親父さんの甥の省三さんかい」潮焼けした声であった。
「はい」と言って少し引いた。
「今日の、いや、今のことは見なかった事にしてくれ」男は海の方を向いて言った。
「はい」小さな声だった。
「俺は山中善太郎だ、よろしくな」
「省三です、よろしくお願いします」
「まあ、のんびりとやろうよ」
善さんが振り向いた時の目は柔和になっており口元が緩んでいた。
「じゃあ・・・」
善さんは少しはにかんだ様に言って砂浜を見つめながら歩き階段に消えた。善さんの肩は寂しそうに何かを語っていた。
省三は砂を踏みながら太陽に向って歩いた。堤防が大きく崩れ別荘の庭を噛み砕き、波がその下に打ち寄せていた。風と波が残していった爪あとを省三は見て回った。工事は三分の一も捗っていなかった。海岸線には同じような別荘がペンキの色を代えて建っていた。
その時、見上げていた別荘のカーテンが引かれガラス戸が開いた。
「*****」外人の若い女が顔を覗かせて省三に向って叫んだ。省三は訳が分からずに立ち竦んだ。女はベランダに出て来た。パジャマ姿で手摺りに身を乗り出すようにしてなにやら喋った。省三は慌てて逃げようとした。
「逃ゲナイデ」女は日本語で叫んだ。
「アナタハ、コンナニハヤク、ソコデナニヲシテルカ」女は省三の慌てる姿が面白かったのか笑顔で言った。
「仕事です」声が震えていた。
「シゴト・・・」
「はい」
「ネームワ」
「省三です」
省三は勇気を出して女を見上げた。二十歳くらいに見えた。パシャマ姿を通して発育が窺がえた。省三は急に恥ずかしくなって振り返り足を速めた。
「ショウゾウ・・・」
女の声が背にぶつかり落ちた。省三は走った。足元で白く泡立って広がり消える波があった。
飯場に帰ると若い女と年老いた男が朝飯の用意をしていた。女はせっせと釜戸に木っ端を投げ込み、男は幾本もの大根の漬物を切っていた。女が省三に気づきにっこりと笑った。男は鋭い視線を向けていた。(2005/10/10)
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省三は誰が何時から何時まで仕事をしたかを手帳に書き込み、それを労務台帳に記載し、賃金計算をするのが仕事だった。
この現場には、現場監督の鳴海と事務の高山、班長の角次夫妻、大工に鳶に土方、賄い夫婦の総勢五十人ほどであった。
鳴海は図面を覗いて測量をし、直ぐ何処に行くのかいなくなった。元町の女のところへ行くのだという噂があった。高山は工事材料の調達と経理全般の仕事をしていた。工事現場を見ることもなく神戸のダンスホールに浸かっていた。
角次は現場を見て歩きそれ以外のときはオートバイを磨き町に出て行った。
工事は昼夜進められた。
工事は潮の満干で左右された。潮が満ちているときは休みだった。干いた時に鳶が海岸に鉄のパイルを杭打ちし、太い鉄筋を縦横に組み、足場丸太を立てた。大工がパネルを打ち据えナットで締め上げる。足場の上にバター板を敷きレールが走り、土方の押すコンクリートと入ったトロッコが行き交う。コンクリートミキサーは重い唸り音を出してガラガラと回った。サーチライトとガス燈がその風景を照らし出していた。
十一月下旬の海辺は潮風が冷たく、夜になるとスコップを握る手も悴み、モッコを担ぐ肩も軋んだ。
省三は砂浜で焚き火をして見ていた。サーチライトが煌々とした光を放ち、足場丸太の所々にぶら下げられたガス燈は蛍火の様に青白い灯かりを落としていた。その光は海にこぼれ夜光虫が群がっているように見えていた。
「省三、どんどん燃やしとけ、もう直ぐ小休止をするからな」
ニッカズボンを穿いた角次が足場の上から叫んだ。
砂浜の人夫たちはパネルの上にモッコを担いで砂を運びバラスとセメントを混ぜ、その上から水を入れスコップで捏ね上げた。それをスコップですくいパネルの中へ投げ込んでいた。上では数人の人夫がパネルの中に長い竿を差してコンクリートをまんべんに行き渡らせていた。スコップの背でパネルが激しく叩かれた。
それらの騒音は単調な波の音に溶け込んでいた。
「あと少しだ、パネルをもっと力を入れて叩け、その音では隅々までいっとらん、お前ら何年この仕事をやっとんだ」
角次が大きな声を張り上げた。
省三は木っ端を投げ込み石油をかけた。火勢は火柱となって夜空を焦がした。黒い煙は吹き上がり暗闇に呑まれた。
「ショウゾウ・・・」その声に省三は振り返った。
炎の向こうに人影が僅かに見えた。省三はその人が誰だか直ぐに分かった。
省三は少し砂浜の方へ移動した。間近に見ればまだ幼さを残した貌だった。下半身をぴったりしたジーパンで包み白い徳利のセーターを着ていた。髪は背に自然にたらし頬に幾つものそばかすが散っているのが見えた。なぜか省三は冷静に見ることが出来た。
「ミスター省三・・・」少女はふたたびそう呼んだ。
「喧しいですか・・・」滑らかに声が出た。
「ハイ、デモイイデス。波ト風ガ庭ヲ崩ス時、大変ニ怖カッタカラ・・・」
少女は笑顔で言った。
「そうだったでしょうね」
省三は短く応え暗い海へ視線を向けた。海を渡る別府航路の豪華客船が不夜城のように見えた。
「アノミーワ、キャサリン十六歳、ヨロシク・・・」
キャサリンは右手を省三の前に差し出した。手を握ったとき小刻みに揺れた。それは寒さの所為ではなかった。
「省三、ヨカッタラアスニデモアソビニキテクダサイ、ニホンノボーイフレンドイマセン・・・私寂シイデス・・・」
「・・・」省三はじっと見つめていた。
「デワ、ヤクソクシマシタヨ」
「・・・」省三は頷いていた。
「デワ、サヨナラ」
キャサリンは手を離して砂浜の暗闇の中へ消えて行った。
その後姿を省三は放心したように眺めていた。省三の手にはキャサリンの温もりと心臓の鼓動が残っていた。(2005/10/10)
3
ガラガラという牌の音で省三は目を覚ました。
省三は賄いの夫婦がいた小部屋に移っていた。女がぷいといなくなり、その後を追うように男も消えたのだった。
周りは冷たい空を灰色に変えようとしている頃であった。朝の六時まで引き潮の中コンクリート打ちが続いたのだ。風呂に入り、朝飯を食べ、洗濯をして布団に入ったのは十時を回っていた。
省三は万年床より蓑虫が殻を破って這い出すような緩慢な仕種で起き上がった。
省三は階段を下りた。粉のような砂が風に舞い足に纏わり付いてくる。西空には黄昏の中僅かに太陽の残り陽がオレンジ色に輝き、砂浜に干してある洗濯物が風に弄ばれるのを照らしていた。
省三はすばやく洗濯物をしまい胸に抱えて帰ろうとした。その時足元で波に漂う花束を見た。数日前、若い夫婦が昨年この浜で亡くなったわが子のために流がした供養花であった。二人で波に花束を浮かべ男は遠くの海辺に眼差しを投げ、女は砂浜にしゃがみこんで砂を指の間からさらさらと落としていたのを、省三は不思議な気持ちで堤防の上から眺めたのだった。その光景に一瞬胸に熱いものが溢れたのを覚えている。省三は花束を海から奪い取るように手にして砂浜に立てた。
「省三、何をしとんや」
高山はあばた貌を緩めて堤防の上から声をかけてきた。
「何でもありません、洗濯物を仕舞いに・・・。それに夕焼けがとても綺麗いじゃけえ見とれてたんです」
「夕焼けくらい毎日見とろうが」
「海に沈む夕日はそんなに見ておりません」
「ワイは子供の頃から見とるからなんとも思わんが、省三はロマンティクやの」
高山は日生諸島を魚場に持つ網元の息子で、東京の大学を出てK土木に入りここへ来ていた。
「それより、今日外人の別嬪におうたんや」
高山らそう言われて省三はドキリとした。昨夜の約束を思い出した。行こうか行くまいか迷っていたのだ。
「省三、お前しっとろうが」高山はにこにこしながら言った。
「いいえ知りません」
省三は高山にキャサリンとのことを知られたくなかった。知っているといえば紹介しろと言うに決まっていた。キャサリンのことは秘密にしておきたかったのだ。
「本当か・・・嘘をついてもすぐ分かるんやで。その別嬪は省三のことしっとったで」
「ほんまに知らんのです」省三は強く言った。
「今日の昼間、向こうの崩れた堤防の測量をしとったら別嬪が庭に出てきて省三はどうしていると尋ねよったで、嘘はいかん、なにかあったんか」
高山の目が光っていた。獲物を狙う猟師の目だった。省三はドキリとし、そこまで知られているのならいわなくてはと思った。
「一度だけ会いました。ここに来た朝、砂浜を歩いていると声を掛けられました」
「それだけか・・・」
「ええ」
「こいつ隅におけんのう、ええことしょつてからに」
「なにもしておりません」
「外人の女はませるけえ、省三の童貞を奪われるかもしれんで・・・。けど外人でもあれだけの別嬪は珍しいで。さすが神戸や」
省三は昨夜のキャサリンの手の温もりを思い出していた。
「これから神戸に行くんや、一緒にどうや」
省三はその言葉が聞こえないふりをして階段を上がった。
「おもろいところを見つけたんや、ええ女もいたで」
「今日は大潮で仕事も長いし、飯食べて少し寝ようと思います」
「そうか・・・あの外人の裸でも想像してマスでもかけばええんや・・・けどわいはあの別嬪をものにするで」
と高山は言って事務所の方へ消えていった。
高山に押さえ込まれるキャサリンの姿が省三の頭を掠めた。そんなことは出来るはずがないと打ち消そうとしても、高山の貌が笑っていた。省三はキャサリンに逢って高山のことを注意するように言わなくてはと思った。
省三は洗濯物を部屋に投げ込んで大部屋の方へ回った。窓の傍でジャン卓を囲んで牌を摘み口撃を盛んに応酬していた。反対側の隅には省三と同じくらいの歳の順二郎が、トランジスタラジオを抱えイヤホーンで聴きながら目を瞑り足でリズムをとっていた。
省三は順二郎の肩をゆすった。順二郎は顔を向けイヤホーンを外した。
「順ちゃん、何処にも行かないのですか、仕事は十二時からですから・・・時間はありますよ」
「金がねえ、金がないのよ」順二郎は上品な顔を崩して言った。飯場の住人には見えなかった。
「それによ、少し眠ってなくてはね。十二時を回った仕事は金になるが体にはきついよ。寒いし飯食って起こしてくれるまで寝るよ」
順二郎は安田といい二十歳と労務台帳に記載されていた。前借がないのは順ちゃんと省三と一緒に来た男たちで、前からいる男たちは何ヶ月も前借があった。
順二郎は省三に手を上げてごろんと横になった。
部屋には三箇所にストーブが置かれその上で薬缶が湯気を立てていた。それを囲むように十数人の男たちが眠っていた。その人たちは省三と一緒に来た男たちで、マージャンをしている男たちは前からいる人たちであった。外の人たちは夜の街へ出かけているらしかった。
「省三! どうだ」その声に省三は振り返った。奥の布団置き場の前で一升瓶を前にして胡坐かきコップ酒をしていた善さんが声をかけたのだった。
善さんはいつも酒を飲んでいた。潮焼けが酒焼けかわからないほどであった。
目は混濁して輝きをなくしていたが現場に立つと猫の目のように光った。
「俺の現場で一人として怪我人はだしゃしねえ」それか善さんの口癖だった。
省三は善さんの前に立った。
「どうだ」善さんは酒の入ったコップを突き出した。
「呑めないんです」
「なに呑み方をしらねえ?」
「そうじゃないんです、呑めないんです」
「座れ」
「はい」省三は素直に座った。
「幾つになる」
「十七ですが」
「じゃあ練習するんだ・・・俺なんか省三くらいのときには一升空けたものだ」
「それよりあんまり呑んだら仕事が出来なくなって・・・親父さんに・・・」
「省三、俺に説教垂れようと言うのか」
「そうではありません、善さんの体が・・・」
「省三、有難うよ。だがな、呑みたいときに呑めるってことが人生の花よ。・・・省三ここに来て何日になる・・・」
善さんは酔った目を据えて省三を睨み付けた。省三はその目の奥に、朝の誰もいない砂浜で海を見つめて涙を浮かべていた光を見たように思った。
「今日で二十日になります」
「そうだろう、それだったら少しはおれ達のことを知ろうとしろ」
「知ろうとしろ・・・」
「省三はしっかりしているが・・・俺たちとの間に一線を引いている、大工や人夫じゃないと・・・」
「そんなこと・・・」
省三は思い当たるのか声が途中から消えた。
「ここを腰掛だと思っている証拠だ。そんなことでは何処に行っても役立にたたず仕事の出来る人間にはなれねえぞ。・・・モッコの重さを知っているか、棒が肩の骨に食い込んでくる痛さを知っているか、よろけて土に這い蹲る辛さを・・・。人の前に立ってやろうとする人間はその痛み辛さを知って耐えなくてはならねえ」
省三は黙って聴いていた。
「どうして酒を飲むか、呑まなくてはおられないか、そこのところを理解しねえと人は使えねえぞ」
善さんは滑らかに喋った。仕事中は無口で唇を真一文字に閉じ、人夫たちの動きを睨みつけていたが、酒が饒舌にさせているのだろう。
「はい、分かります」省三は鼻をすすっていた。
この二十日間省三は角次に言われるままに仕事をしていた。人夫たちの立ち振る舞いを見ているだけで、どのような心で生活をしているかを知ろうとする努力はしてなかった。酒と博打と女、それをだけを生甲斐に生きていると思っていた。省三の頭の中に二十日間の出来事がめぐっていた。
「酒は一概に気違い水ではねえ。疲れを癒し、痛み苦しみを忘れさせてくれるものだぜ。・・・時々この部屋を覗きな、そして、話し笑い泣きな、そうすりゃあ、ここの人間の心の隅々まで見え読めるというものだぜ」
善さんは茣蓙の上にコップを置いて一升瓶から注ぎ、顔を近づけて啜り上げ、手で持ち上げて一気に飲み干した。善さんの顔がいっそう赤黒くなった。目はぎらぎらと輝き始めた。
善さんは角次の弟分のような存在であった。小頭という身分で角次がいない時は工事の手配をし進行の号令をかけた。
善さんは「黒田節」を歌い始めた。この歌が出ると酒量に達しているのだった。今日のように絡んでくるようなことはなかった。そんな善さんだったが角次より人夫たちに親しまれていた。
「誰が、誰が本当のことを知ってるというんだい。知るもんか、知るものか」
善さんが突然寝言のように叫んだ。それは善さんの心に蹲るものにたいしてのようであった。
(2005/10/11)
4
省三は懐中電灯で砂浜を照らしながら歩いた。
善さんは喋るだけ喋ると枯れ木が倒れるように横になった。善さんの言葉が省三の心の中でくり返されていた。暗い海を渡る船の為に光り続ける灯台のように思えた。何か考えなくてはならないその指針を投げかけてくれたように思えた。
今日も別府航路の豪華船が汽笛を長く鳴らして海を渡っていた。
「八時か」省三はそれを見て呟いた。
「省三」キャサリンの声が降って来た。
キャサリンは崩れかけた庭に立っていた。家の明かりがその姿をくっきりと見せていた。省三は近寄っていった。
「来テクレタノデスカ・・・パパトママワパーティーデイナイ」
省三はその言葉に躊躇し迷って黙り込んだ。
「シンパイハイラナイ、少シ話ヲシテ行ツテ欲シイ、省三、オ願イ」
「それは・・・僕はこれから夕食を食べて・・・十二時から仕事があるから少し・・・」
「省三ワ約束ヲ破ルノデスカ」
「約束?」
「昨日、約束シマシタ。食事ワ出シマス、私一人デ食ベルノサビシイデス」
省三は善さんの事を考えていた。寂しい、その言葉が善さんのいいたかった総てではなかったかと思った。
「ソレジャ、ミスター高山ニオ願イショウカ」
「それは困ります。あの人には近寄らないほうがいい」
省三は慌てて言った。
「デモ省三ノボーイフレンドデショウ」
「ええ、だけど、怖い人ですから」
「ミーワ、勇気ノナイ人嫌イデス。デモ省三ワ別デス・・・。省三、ドウゾ」
キャサリンは省三を執拗に誘った。
その時省三は砂浜を踏む足音を聞いた。振り返った。黒い上下の背広を着た大工の石原が近づいていた。
「石原さん、お出かけですか」
省三は何か悪いことを見つかったような気拙さを言葉に代えた。
「うん、ちょっとな・・・」
石原は一瞬立ち止まり省三をちらりと見て言った。
「仕事の時間までには帰って来てくださいね」
「うん・・・じゃあ、うまくやんな」
石原はそう言い残し急いで東の砂浜へ消えていった。省三はその後姿に何かを感じていた。
「ドウスル、サァ、遠慮ワイリマセン、パパトママニワ省三ノコト話テアリマス」
省三は今まで若い女性と一対一で話したことがなかった。胸に激しい動悸を感じていた。 「少しの時間なら」
「サンキュー、ヤハリ省三ワイイ人」
キャサリンに導かれて省三は家に入った。映画でしか見たことのない家具と調度品が置かれていた。マントルピースの上に肖像画が掛けられてあった。その前に立ってじっと眺めた。
「ソレワ、ミーノグランドファザーデス」
暖炉には赫赫と燃えていた。省三はロッキングチェアーに腰を落として辺りを見ていた。キャサリンはコーヒーとケーキを運んで来てソファーに座った。
「コノルーム二、ニホンノボーイフレンド、ハジメテデス」
省三にはどう見てもキャサリンが十六には思えなかった。背丈は同じくらいだが、大きく見えた。胸の大きさ、腰のくびれ、ヒップリ張りのよさ、金成とした脚の線は、ニホンの同年の女性にはないものだった。
省三はここに来て始めての友達が外国の女性であることに戸惑っていた。
「それは光栄です、と言わなくてはならないのですね」
「コウエイ?」
「嬉しいと言う意味です」
「ソウデスカ、ソレデワ、ミーモ、光栄デス」
キャサリンは笑って言った。
省三はキャサリンの体臭に胸が苦しくなっていた。
「ドウゾ、メシアガレ」
「有難う、キャサリンは日本語が上手だね」
「ハイ、此処二来ル前二、横浜二イマシタ。パパワ、貿易ノ仕事ヲシテイマス・・・。
ミーワ、日本ノボーイフレンド出来テトテモハッピーデス」
「それで何を話せばいいのでしょうか」
「ハイ、時折話シ相手二ナッテクレレバ嬉レシイ・・・。ミーワ、アノ朝、省三ヲ見タ時好キニナリマシタ。ナンダカ寂シソウデシタ、トテモ省三ノ顔・・・」
「母を残してきましたから・・・」
「ママヲ・・・。ソレハイケマセン。キット寂シガッテイマス。時々帰ツテアゲルベキデス」
「ええ、この仕事は来年に一月いっぱいですから・・・一度正月には帰ります」
「ソウデスカ、一月ガ終ワレバ・・・」
キャサリンは小さく言った。
「はい、その約束で来ていますから」
「ソレワ困リマス、折角フレンドニナレタノニ・・・」
「でも仕方がありません。・・・僕も、ここに来てキャサリンに逢えたこと良かったと思っています。・・・それまで時々来て話し相手になります」
「嬉シイ、省三・・・」
キャサリンが省三に歩み寄り唇を重ねてきた。大きな一枚ガラス戸は潮騒を消し暗い瀬戸内海の海を映していた。