ゆいもあ亭【非】日常

映画や小説などのフィクション(非・日常)に関するブログ

クライマックスとドラマツルギーにおけるクライシスの正しき一体化ということ

2007-05-02 | 映画


劇場版 名探偵コナン 探偵たちの鎮魂歌《レクイエム》

前に半端なレヴュー予告をしたままだったが、ここで一応まとめて置きたい。

結論から言ってしまえば、劇場版のシリーズとしては期待外れだった。「劇場版10周年記念作品」という成り立ちがそもそもの失敗の引き金を引いているように思う。

劇場版コナンのシリーズはただでさえ、オールスター的要素が期待されており、キャラクターの顔見世的な要素が付きまとっているというのに、10周年記念ということで、それに一層の拍車が掛かり、ある意味内容が薄まってしまったという点は事実として否めまい。

映画のクライマックス(最高潮場面)がドラマツルギー(作劇上)におけるクライシス(危機描写)と遊離してしまったという、致命的な欠陥はやはりこの欲張りの故か。

クライマックスとクライシスの見事な融和は「時計仕掛けの摩天楼」や「天国への力ウントダウン」、また「銀翼の魔術師《マジシャン》」においてその成功が顕著である。

そう考えると成功作品では、コナンという主人公とそのヒロインとの関係においてこのクライシスが巧く機能しているという事実に気が付く。

すなわち「時計仕掛けの摩天楼」と「銀翼の魔術師《マジシャン》」では声の新一と蘭の(いずれも新一の声に導かれて危機を脱する!)、「天国への力ウントダウン」ではコナンと歩美の(コナンを思うときの歩美の鼓動が正確なタイミングを教える!)、その恋心と強い信頼がクライシス忌避のキイになり得ているのが観客によく響くのだ。

思うに「探偵たちの鎮魂歌《レクイエム》」のメインのヒロインは灰原哀ではないか。そしてその魅せ場はいつもの小学1年生とは思えない(もちろんメンタルな実態はコナン=新一以上に大人なのだが)クールビューティーぶりを捨て去り、珍しくも小学1年生らしい「(お腹が痛いという)演技」をする、あの遊園地の救護室場面ではないのか。

ロリ系哀ちゃん映画。そう考えるとヒロインとは無縁なかたちで起こる元太の爆弾騒動は、どうしても付け足しの場面になって、クライマックス不在の映画と感じられる事実は否めまい。

ということで、素直にロリ系哀ちゃんとともに爆死を覚悟する顔見世連、博士や警部たちと同化して、キミと一緒に死のうとシンパシーを催すのが、この映画の見方としては正解なのではないだろうか。


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