湯原修一の歓喜悦慶と聊かの慷慨憂愁, etc.

いつとはなしに眠りにおち微風を禿頭に感じて目が覚める。
このような生活に変わったらブログが更新されないかもしれません。

♥ 002 見せられている事実で語られる真実は「真実の一つ?」

2015年01月27日 15時01分46秒 | 紫苑色の重い思い[慷慨憂愁]

真実は一つしかないと思う人は、その真実を「絶対的真実」とみなし、
テレビ、新聞等で報道される内容は、認知された全ての事実に基づいたものと考えることになる。

テレビ、新聞等で報道されることは「真実(修辞された)の一つ」に過ぎないと考える人は
都合の悪い事実が隠されているのではないかと疑うこともある。


予定どおり?汚染水海洋投棄することになるであろう福島原発の現状についての報道の少なさ、
新型インフル、尖閣、PM2.5などに関する一過性の大騒ぎ報道、
小沢さん疑惑のときの異常な人格否定バッシング報道と、無罪判決後のケロッとした対応、
海外報道(日本に関する)の共有の少なさ、等々をみていると、
テレビ、新聞等は報道内容を恣意的に選別していると考えるのが自然な気がします。
都合の良い事実だけをとり上げて作った「真実の一つ」だけを示して教導しているのではないかと思えてきます。

『判断能力のない愚民の皆様に良かれと考えてのことです』と正当化するのかもしれませんが、
真実は一つしかないと信じている多くの人に
「真実の一つ」をあたかも「絶対的真実」のように見せかけて世論を誘導していくのは、
許されないことでしょう。



羊が狼に襲われず今を安穏に過ごすためには、
テレビや新聞の報道に疑念を差し挟まず
報道される「真実の一つ」を「絶対的真実」と思った振りをして生きていくほうが
要領いいのでしょうか。

先の大戦は
そのようなラジオや新聞があり、そして国民がいることで演じられた悲劇(誰かにとっては喜劇?)
であったはずですが。