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ダ・ヴィンチ・コードへの興味(9)メロヴィング家とは、

2006-06-26 16:49:03 | 講演資料レジメ

残忍、好色、評判の悪い「メロヴィング王家

ダ・ヴィンチ・コードでは最終場面に近ずくにつれ、メロヴィング家という名前が出てきて、マリアの子孫たちの血脈はメロビング家に引き継がれているという話になっている。

このメロヴィング家は、ローマ帝国滅亡後のヨーロッパを統一しフランク王国、なかんずくフランスの始祖となった家で、本来ならヨーロッパ史の中で燦然と輝いてよい筈なのだが・・・後記のようにやや問題、恥ずかしいところがあって、カール大帝のカロリング家の名声に遥か及ばない。 少しこの家のことをまとめて見る。

①フランク王国は、現ベルギー領のトゥルネー周辺に根を張ったゲルマン系のフランク族サリ部族が始祖。

クローヴィス(生没年466年 - 511年)という傑物が出て、先ずライン川北岸で十いくつかに分かれていたフランク族を統一、

③ガリア北部ソワソンの戦いで、アッチラを撃退したことで有名なアエティウス将軍の子シアグリアス率いるローマ軍を破り、

④当時イタリアを支配していた東ゴート王国のテオドリック大王に妹を嫁がせ、自らはブルグンド王国の王女クロティルダとソワソンで結婚したりで同盟を固め、

⑤アラマン族、ブルグンド族、西ゴート族、チューリンゲン族などを撃破、現在のベルギー、フランス地方を統一する。

⑥この間、王妃クロティルダの薦めでローマのカトリック(アタナシウス派)に改宗する。 先に改宗した西ゴート族やヴァンダル族はアリウス派であったのに対し、改宗が遅れたフランク族は主流派のアタナシウス派と結びつきえた。

⑦その後、508年にはパリに都を定め、セーヌ川左岸に修道院を築いたりするが、晩年には小王クラスの名門家系の出身者を次々に姦計にかけ、そのほとんど全てを抹殺し、511年に死去。彼の生涯はトゥール司教グレゴリウスが詳細な年代記を残している。

クローヴィス自身も相当な悪漢で残忍好色だったようだが、彼の軍事・政治力は歴史に残る。しかしその後の王は悪名の窮み。

①クローヴィスの末子「クロタール1世」は、自分の亡くなった兄達3人の未亡人を次々妻にした。他にも妻妾多数。

②クロタール1世の後フランク王国は東北部(アウストラジア)、中西部(ネウスとリア)、南部(アクイタリア)、東部(ブルグンド)に分割されるが、

③ネウストリアの王ヒルぺリヒの側女「フレデリング」は、王が見初めたアウストラジアの王妃の妹をベッドの上で殺し、自分が王妃に成り上がる。そして両国が戦うハメになるが、彼女はアウストラジアの王ジキベルトをも殺戮する。

④アウストラジアの王妃「フレデグンデ」はこれに輪をかけた女傑、国内の豪族を次々滅ぼし専制を欲しいままにするが、なんと敵国ネウストリアのヒルべリヒ王の先妻の子「メロヴェ」に恋をし、家臣から猛烈な反発を受け国内はめちゃくちゃ。

ことほど左様にフランクの4つの国は全く統治が行き届かず、バラバラ状態に陥るが・・・

⑤ヒルベルヒとフレデリングの子「クロタール2世」が王国を再統一する。しかしその後の王は贅沢で怠惰な後宮生活に浸るものばかりで、無為の王あるいは「精薄児たち」と揶揄される。

この間、フランク王国はいわば番頭任せの「宮宰政治時代」に入り、その中から、カロリング家が実権を握るようになり、カール・マルテルやカール大帝などが活躍、表の歴史として語られるようになる。

 こうしたメロヴィング家の血どろみの戦い、その登場人物たちの恨み辛みは、ゲルマン民族の叙事詩と言われる「ニーベルンゲンの歌」やワグナーのオペラ「ニーベルングの指輪」の随所に形を変えて現れる。また最近の「ロード・オブ・ザ・リング」は、青少年向け故に美しいファンタジー、楽しい冒険ものに仕立て上げられているが、このメロヴィング家や次のカロリング家の伝説が取り入れられていることは間違いない。

それにしても、ダ・ヴィンチ・コードの持ち出した話のうち、マグダマのマリアを通じてイエス・キリストの子孫がいるという程度の話はあってもいいとは思うのだが、それがメロヴィング家へつながっているというところまで来るとあまりにも捕ってつけた眉唾ものといいたくなる。しかし最近はDNA鑑定というものがあるので・・・、いろんな可能性も完膚なきまでにはやっつける訳にいかないのだが・・・。

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