映画で楽しむ世界史

映画、演劇、オペラを題材に世界史を学ぶ、語ることが楽しくなりました

「トゥーランドット」のペルシャの王子

2007-08-30 22:48:50 | 舞台は東アジア・中国

いささか旧聞になるが、荒川静香さんで有名になったトゥーランドットだが、いったいこのオペラの時代背景はどうなのだろう。

トゥーランドットと呼ばれる異民族の姫や「ダッタンの王子」などが中国の宮殿に現れるとははどういうことなのか少し考えてみたい。

 

1、中国史を踏まえて

 

解説本によっては、このオペラの話は「伝説の時代」などと書いて済ませているものもあるがそんなに安易な話ではないと思う。

いったい中国史は黄河の中原を巡る民族興亡の歴史。確かに文明当初の殷、周、秦ぐらいまでは漢民族が支配したのかもしれないが、その後は東夷、北荻、西戎、南蛮が入れ替わり立代わり侵入する。漢民族はその度にこれらと混血しつつ、機を見て異民族を追出し自らの王朝を確立せんとするが、中国史を通してみれば全体として異民族に支配された時代の方がずっと長い。

短くまとめれば、三国志時代以降の魏、北魏、隋、唐、五胡十国、金、元、清などは北の鮮卑、柔然、突厥、モンゴルなどの征服王朝であること、ならびに唐や元あるいは清の時代、西域深く攻め入り中央アジア、イスラム圏から人をさらって来るという話は充分ありうる話であることを認識しておかねばならない。

また、ダッタンといえばアルタイ山脈山麓から中国周辺北西域経由中央アジアにまで勢力を伸ばしたトルコ人を総称的にいうが、このトルコ民族が中国史のみならず世界の歴史に深く関わった・・・特にモンゴル人の「モンゴル帝国」が世界史の始まりなどという説もあることを承知しておこう。(岡田英弘「世界史の誕生」)

 

 2、オペラの種本

 

それを前提にこのオペラの原作などを調べてみると、

通説的にはトゥーランドットという名前は18世紀フランスの流行作家、ペティ・クロワが1710年~1712年に出版した「千一日物語」の中で「カラフ王子と中国の王女の物語」に登場する姫の名前であり、このオペラはその物語を基にヴェネツィアの劇作家カルロ・ゴッツィが1762年に著した戯曲に基づいて作曲されたとされている。

 研究者の間では、アラビアからペルシャにかけて「謎かけ姫物語」と呼ばれる一連の物語群があり、こうした話は古くはアゼルバイジャンの作家ニザーミーの叙事詩「ハフト・ペイカル(七王妃物語)」(1197年)にまでさかのぼるとされる。この残されたペルシャ語写本にはトゥーラン国の名があり、これをヨーロッパに紹介した千一日物語が「トゥーランドット」という名に装飾したようである。即ち「カラフ王子と中国の王女の物語」がゴッツィの「トゥーランドット」となり、更にはシラーによってドイツ語に翻案されたという(1801年)。

 

3、考えられること

 

以上からすると、中国へペルシャの姫や王子が捕縛されてきたという話は、歴史的にどの辺に可能性があるのであろうか。

① まず、唐の時代、安史の乱で有名な安禄山はソグド人とされ西域を荒しまわり、   楊貴妃に胡旋舞など見せて喜ばれるが、イラン系の女性や捕虜を連れてくることは充分ありうる。但し、唐の王宮は長安で北京ではない。

 ② チンギス汗はモンゴル統一後、イスラムのホルムズ王国を攻め滅ぼすが、ホル  ムズの王子はカフカス地方にまで逃げたあと生死やその場所など不明であるとされており、この話はいか様にも脚色されうるだろう。

③ チンギス汗の末裔は中央アジアからロシア、シリアにに至るまで領土を広げ、4つのハーン国を建てるが、長男ジョチの開いた「キプチャクハーン」や、次男三男の「チャガタイハン」「オゴタイハン」あるいは、四男系の「イルハン」など何処からでも「ペルシャの王子」捕縛は考えられる。

 ③ 更には、王子の父親の名前が「ティムール」であることから、チャガタイハンが滅びた後イラン地方を制圧した「ティムール帝国」(1370-1507)からも考えられる。

 ④そしてオペラの場所が紫禁城であることに拘れば、清の乾隆帝の時の西域制圧(特にウイグル地区)ということも考えられる・・・しかし清の建国は17世紀初頭、乾隆帝は18世に半ば以降のお人でやや年代が合わない。

 

いずれにしても、トゥーランドットの話は、上記いろんな時代のいろんな話を気ままに取り入れ脚色したもので、詳しく詮索しても一つの時代の一つの話に絞り込むのは不可能であろうと思われるが・・・専門の方はもっと深く広く突っこんで調べておられるのかもしれない。

 

  


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