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一日一書 1741 寂然法門百首 90

2024-07-07 17:46:02 | 一日一書

 

月満已復缼

 

月満ち已(おわ)ればまた欠く
 

半紙

 

【題出典】『往生要集』87番歌題に同じ。
 

【題意】 月は満月になるとまた欠けていく。


【歌の通釈】


無常のこの世に住んでいるので、満月が細くなるように、いよいよ心細くなっていくことだよ。
 

【考】

月の満ち欠けによって無常を表現。人も満月が欠けていくように、その姿は変化し続けるものである。一瞬たりとも同じ状態でいることはない。(中略)無常を心に掛けることがすべての根本であることを説く。


(以上、『寂然法門百首全釈』山本章博著 による。)

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★このシリーズもなかなか進みませんが、やっと90番台まできました。81番〜90番までの10首は「無常」をテーマとしていましたので、この90番はその締めくくりということでしょう。
★仏教ではとにかく「無常」がその根本にあると寂然も言うわけですが、ともすると、この「無常」は、悲観的な人生観のように受け取られがちです。なんか、前向きじゃないよね、と言われそうで、もっとポジティブに生きようよと言う人もいるだろうと思います。けれども、これは決して「人生観」なのではなくて、生きるということの「現実」なんだと思います。ネガティブでもポジティブでもない。「無常」こそが否定できない「現実」なんです。
★評者は、「(人の姿は)一瞬たりとも同じ状態でいることはない。」と言っていますが、このことは、歳をとればとるほど、切実な「現実」として身に迫ります。我が身ひとつにとっても切実ですが、世界をみても、これこそが「現実」だといわざるをえません。
★満月を見て、ああ、きれいだなあと思う一方で、ああ、このままじゃないんだなあと思わざるをえないし、それが「現実」です。そういう「現実」を意識することは、「きれいだなあ」という感慨をぶち壊しにするようにみえて、実は、「きれいだなあ」という感慨を深めるものだと思うのです。それは、「きれい」なものが喚起する「見えない世界」への思いです。仏教的にいえば、「だから仏を常に思え」ということになるでしょうし、キリスト教的にいえば、「だから神(イエス)を思え」となって、結局結論は同じです。乱暴にすぎる結論かもしれませんが、この世に生きている時間は限られ、この世にあるものは、すべていずれ滅びる。だからこそ、目に見えている世界「だけ」に生きているのではなくて、その「向こう」にある世界に思いを致すことが重要になるのです。
★一枚の絵を見て、ああきれい、ああすてき、ああかわいい、で終わり、じゃなくて、その絵を描いた人の思い、心、感性、あるいは理性、あるいは肉体、あるいは人生経験、そうしたものに思いを馳せない人がいるでしょうか。それらすべては、絵をみているその時には「見えていない」ものです。
★絵を見て、その絵のことを思い出しながら、家路をいそぐ人、音楽を聴いて、その音楽を頭に響かせながら電車に揺られる人、かれらは、「もう見えない絵」「もう聞こえない音」を確かに「見ている」「聞いている」のです。
★絵も音楽も、みな「無常」です。音楽などは、聞いているそばから消えていきます。絵もいつでも存在するわけではありません。いずれは消えてしまいます。みんなそうした「現実」を抱えている。その「無常という現実」を意識しないでいることは、実際にはあり得ないことなのです。その「現実」をいつも意識しているからこそ、「現実」が愛おしくなる。それが仏への、神への道のように、ぼくには思えます。

 

 

 

 

 


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日本近代文学の森へ 264 志賀直哉『暗夜行路』 151  疑惑  「後篇第四 八」 その1

2024-07-06 19:41:49 | 日本近代文学の森へ

日本近代文学の森へ 264 志賀直哉『暗夜行路』 151  疑惑  「後篇第四 八」 その1

2024.7.6


 

 その後平和な日々が過ぎたが、あくまでそれは表面的なもので、夫婦の仲は悪化し、謙作の生活はすさんでいった。


 その後、衣笠村の家(うち)では平和な日が過ぎた。少なくも外見だけは思いの外、平和な日が過ぎた。お栄と直子との関係も謙作の予想通りによかった。それから謙作と直子との関係も悪くはなかった。しかしこれはどういっていいか、──夫婦として一面病的に惹き合うものが出来たと同時に、其所(そこ)にはどうしても全心で抱合えない空隙が残された。そして病的に惹き合う事が強ければ強いほど、あとは悪かった。
 妻の過失がそのまま肉情の剌戟になるという事はこの上ない恥ずべき事だ、彼はそう思いながら、二人の間に感ぜられる空隙がどうにも気になる所から、そんな事ででもなお、直子に対する元通りなる愛情を呼起こしたかったのである。病的な程度の強い時には彼は直子自身の口で過失した場合を精しく描写させようとさえした。

 

 「夫婦として一面病的に惹き合うものが出来たと同時に、其所(そこ)にはどうしても全心で抱合えない空隙が残された。」というのは、いったいどういうことなのか、分かりにくい。「病的に惹き合うものが出来た」とはどういうことなのか。直子の性的過失を、観念的には赦そうとしながら、謙作という男の肉体は、そこにどうしようもなく性的な刺激を受けてしまったということらしい。まあ、安物の恋愛小説なんかにはよくある設定である。

 その分かりにくさは、すぐに具体例によって解消される。いわく「病的な程度の強い時には彼は直子自身の口で過失した場合を精しく描写させようとさえした。」というのである。その「描写」を会話で再現しないだけましだが、それにしても、醜悪な行為である。そうした痴態を、志賀は平然と書く。これが岩野泡鳴だったら、こんなことではすまないし、別に驚きもしないだろうが、あの「高潔さ」を何となくイメージさせる志賀直哉だから、そしてこの小説が「私小説的」なところがあるので、なおさらびっくりする。

 自分でも「恥ずべきことだ」と認識しながら、そういう痴態を演じてしまう人間というもののどうしようもなさ。そこから志賀直哉は目を離そうとしない。これを冷徹なリアリストと呼ぶべきだろうか。


 直子がまた妊娠した事を知ったのは、それから間もなくだった。彼は指を折るまでもなく、それが朝鮮行以前である事は分っていたが、いよいよ直子との関係も決定的なものになったと思うと、今更、重苦しい感じが起って来た。

 

 直子の妊娠と聞いて、謙作はすぐに「指を折る」。(「指を折るまでもなく」と書かれているが、心の中で折っているのは明白だ。)「要の子ではない。自分の子だと確認する。けれども、それは果たして「確信」だったろうか。自分が朝鮮に行く前に、直子と要が二人で会っていないという保証はどこにもない。男は、これは自分の子だという確信をなかなか持ちにくいものだと相場は決まっている。

 それはそれとしても、その後にくる「いよいよ直子との関係も決定的なものになったと思うと、今更、重苦しい感じが起って来た。」とはどういうことなのだろう。

 「直子との関係も決定的なものになった」というのは、直子と自分が生まれてくる子どもの親であるという関係が、「決定的」なものになったと思ったということだろうか。それなら、「重苦しい感じ」ではなくて、「晴れ晴れした感じ」とか、「嬉しい感じ」とか、そういった親になる喜びではなかろうか。それがなぜ「重苦しい」のか。

 それは、やはり、生まれてくる子どもの父親が自分ではなく、要ではないのかという疑いを拭いきれなかったからだろう。だから「決定的」なのは、親が自分だということなのではなくて、とにかく、直子と自分の間に子どもが生まれ、それが誰の子であれ、その子を自分たちの子どもとして受け入れなくてはならないという意味での「決定的」なのだ。まわりくどい言い方しかできないが、そうでもいうしかない。

 あるいは、そういうこととは別に、子どもが生まれることによって、直子との関係が今までとはまったく異なった新しい段階に入ったという意味での「決定的」なのかもしれない。


 謙作の心は時々自ら堪えきれないほど弱々しくなる事がよくあった。そういう時、彼は子供のようにお栄の懐(ふところ)に抱(いだ)かれたいような気になるのだが、まさかにそれは出来なかった。そして同じ心持で直子の胸に頭をつけて行けば何か鉄板(てついた)のようなものをふと感じ、彼は夢から覚めたような気持になった。


 今風に言えば、「出た〜、お栄!」といったところだろうか。結局のところ、謙作にとっての「女」とは、自分の母であり、母の代わりであったお栄であったので、その「愛」は、「その懐に抱かれる」以外の何ものでもなかったのだ、と、結論づけたくなるほどだ。

 お栄に「母」を感じた謙作は、その懐に抱かれることを夢見て、あろうことか結婚の申し込みをする。けれども、それが断られると、直子と結婚していちからやり直そうとしたのだが、そこでも直子に求めたのは「母」であった。しかも、その母親は夫を裏切り、あろうことか、夫の父と過ちを犯してしまい謙作を生んだ。その上、謙作を捨てて、謙作にとっては祖父にあたる「実の父」の家にあずけてしまい、その祖父の妾であったお栄が謙作を育てる、という、まあ、ありえないほど複雑な事情を抱えている謙作なのだが、それだけに、直子の過ちは、自分の母の過ちと重なり、生まれてくる子が万が一にも自分の子でなかったとしたら、いったい自分の人生はなんだったのかと、世をはかなむのは当然のことだろう。そういうすべてを含んでの「重苦しさ」であったはずなのだ。

 だからほんとうは、謙作は直子を赦すことなぞできるはずがないのだ。そうしたことを理解しないで、ここだけ読んだ読者は、なんだこの甘ったれ男が! ってことになるだろうが、そこは十分に忖度しなければならないところだろう。

 室生犀星などは(実在の人物だが)、謙作よりももっとひどい境遇に生まれた。加賀藩の足軽組頭が女中に手をつけて生まれた犀星は、生後すぐに近くのお寺に預けられ、犀星は生涯実の母に会えなかった。もらわれていった雨宝院というお寺の住職室生真乗の「内縁の妻」赤井ハツの私生児として戸籍登録され、ハツに育てられたのだが、このハツという女は片っ端から貰い子をして、その子たちを虐待し、小さい頃から働きにだして金を稼がせ、自分は酒だ役者だと遊び暮らした女だ。犀星は粗暴に育ち、小学校3年のとき、事件をおこして(小学校で先生の来るまえに、教卓の上に座って切腹のマネをしていたところを、やってきた先生に叱られ、先生が「やれるもんならやってみろ」と言ったところ、ほんとうにナイフを腹に突き刺したとかいう事件。不正確かもしれません。)退学となり、以後学校というものに行っていない。犀星は死ぬまでそのハツを恨み、自分の文学を「復讐の文学」と呼んだのだった……なんてことを書いていたら切りがないのだが、本当の話だ。

 謙作の境遇なんか、それに比べれば屁でもないといえばいえるが、人間というものは、そんなに簡単に理解できるものではないのだということは、肝に銘じておきたい。そしてそのことを何よりもよく教えてくれるのが文学というものなのだ。

 

 

 


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日本近代文学の森へ 263 志賀直哉『暗夜行路』 150 密雲不雨  「後篇第四 七」 その5

2024-06-14 14:49:07 | 日本近代文学の森へ

日本近代文学の森へ 263 志賀直哉『暗夜行路』 150 密雲不雨  「後篇第四 七」 その5

2024.6.14


 

 疲れ切った謙作は、茶屋に入り、末松にことの次第を話そうとするが、なかなか切り出せない。

 

 少時(しばらく)して二人は二年坂を登り、其所(そこ)の茶屋に入った。謙作は縁の籐椅子に行って、倒れるように腰かけたが、今は心身の疲労から眼を開いていられなかった。節々妙に力が抜け、身動きも出来ぬ心持だった。これは病気になったのかも知れぬと彼は思った。そして、
 「茶が来たよ。そっちへやろうか」末松にこう声をかけられた時には謙作はいつか、眠りかけていた。
 「どうしたんだ」
 「寝不足なんだ。それにこの天気でどうにもならない」
 謙作は物憂い身体を漸く起こすと敷居際から這うような恰好で、自分の座蒲団へ来て坐った。
 「大変な参り方じゃあないか」
 「実は君に話したい事があるんだ。しかしそれを話すまいと思うんでなおいけない」
 末松はちょっと変な顔をした。
 「…………」
 「持て余しているんだ。僕の気持の上の事だが」
 しかし謙作はまだいうまいと思っている。いえばきっと後悔する事が分っていた。
 「気持の上の事?」
 「ああ、丁度今日の天気見たように不愉快な気持なんだ」
 「どういうんだ」
 「何れ話す。しかし今日はいいたくない」

 


 今日の「天気」が重要な役割を果たしている。今日の天気のために、からだがいうことをきかない。今日の天気のように不愉快な気持ちだ。謙作は、天気の支配下にある。この天気は、謙作の感情そのものだ。

 謙作は、末松に、以前末松がその関係に悩んでいた商売女のことに話題を転じる。嫉妬に苦しんでいた末松の気持ちと自分の気持ちを比べてみようと思ったわけだが、末松の場合は女に対する疑心暗鬼が問題だったのに対して、謙作の場合は、問題はすでにはっきりしているという違いがあった。少しずつ、謙作は語り始める。


 「疑心暗鬼ではない。しかし事件としては何も彼も済んでいて、迷う所は少しもないのだ。ただ、僕の気持が落ちつく所へ落ちつかずにいるんだ。それだけなんだ。それは時の問題かも知れない。時が自然に僕の気持を其所まで持って行ってくれる、それまでは駄目なのかも知れないんだ。が、とにかく今は苦しい」
 「…………」
 「しかし一方ではこうも思っている。今直ぐ徹底的に僕が平和な気持になろうと望むのはかえって、自他ともに虚偽を作り出す事だとも。その意味で、取らねばならぬ経過は泣いても笑っても取るのが本統だという考えもあるんだ」
 「…………」
 「抽象的な事ばかりいっているが、そうなんだ」
 「大概分ったような気がする。そしてそれは水谷に関係した事なのか?」
 「いや、直接関係した事ではない。露骨にいえば水谷の友達で直子の従兄がある。それと直子が間違いをしたんだ」
 「…………」
 「それも直子自身に少しもそういう意志なしに起った事で、僕には直子が少しも憎めないのだ。再びそれを繰返さぬようにいって心から赦しているつもりなのだ。実際再びそういう事が起こるとは思えないし、事実直子にはほとんど罪はないのだ。それで総てはもう済んだはずなんだ。ところが、僕の気持だけが如何しても、本統に其所へ落ちついてくれない。何か変なものが僕の頭の中でいぶっている」


 告白された直後、謙作は、とっさに観念的に事態を捉えることで、なんとかダメージを最小限に食い止めようとしているようにみえる。これは人間の自衛本能なのかもしれない。
「事件としては何も彼も済んでいて、迷う所は少しもない」というが、現実には「事件」はまだ始まったばかりで、「迷う」ところばかりだ。けれども、事実としては、妻は過ちを犯し、それを謙作に告白したが、謙作は、妻にはほとんど罪はないと考え、赦したつもりになっている。それでもう「事件」は終わりだとするのだ。ただ、「僕の気持が落ちつく所へ落ちつかずにいる」ことが苦しいという。この「僕の気持ち」の問題は、時間の問題で、いずれ解決するだろうと言うのだ。

 もちろん、それは当座の頭の中での解決で、真の解決にはほど遠い。本当に厄介な問題は、「僕の気持ち」なのだ。

 謙作は、直子の告白を聞いた直後に、お前は邪魔だ、俺がこの問題を解決するんだと言い放ったのだが、それがどれだけ間違った認識だったのかを、あとで痛いほど知ることとなる。けれども、まだ、この時点では、謙作は、自分の感情が、あるいは肉体が、どれほどのダメージを受け、それがどんな行動を自分にとらせることになるのか知るよしもなかったのだ。

 いくら謙作が直子を「赦したつもり」になっていても、直子に「罪はない」と思っていても、それは謙作だけの勝手な判断にすぎない。それで「事件」が終わるわけではない。直子がどう思っているかが肝心なことで、直子は「赦された」と単純に思っているはずはない。「赦したつもり」の謙作が直子に憎しみをほんとうに感じないかといえば、それもおぼつかない。憎しみは、持続するとは限らない。波のように繰り返し打ち付けるかもしれないのだ。

 その予兆のようなものを、「何か変なものが僕の頭の中でいぶっている」と表現していると言えるだろう。

 謙作の話を聞いて、末松は、時の経過を待つしかないが、それとともに、感情を意志で乗り越えるべきだと言う。

 


 「それは君のいうように時の経過を待つより仕方ないかも知れない。現在はむしろそれが自然だよ」
 「それより仕方のない事だ」
 「無理な註文かも知れないが、事件として解決のついた事なら、余り拘泥しない方がいい。拘泥した所で、いい結果は生れないから。つまらぬ犠牲を払うのは馬鹿馬鹿しい」
 「ただ、当事者となると、よく分っている事で、その通り気持が落ちついてくれないのが始末に悪いんだ」
 「本統にそうだ。しかし意志的にも努力するのだな。そうしなければ直子さんが可哀想だ。感情の問題には相違ないが、君のように事件が十二分に分っているとすれば、感情以上に意志を働かして、それを圧えつけてしまうのは人間としても立派な事だと思う」
 「君のいう事に間違いはない。しかし僕としてはそれは最も不得手な事だからね。それとたとえ直子に罪がなかったとはいえ、僕たちの関係からいえば今まで全然なかったもの、あるいは生涯ないとしていたものが、出来た点で、今までの夫婦関係を別に組み変える必要があるような気がするんだ。極端な事をいえば仮に再び同じ事が起っても動かないような関係を。──もっとも、こんな事をいうのからして、君のいう事を本統に意志してない証拠かも知れないが」
 「まあ、それは無理ないと思うけど……」
 「密雲不雨という言葉があるが、そういう実にいやな気持がしている」
 「それはそうだろう。しかしとにかく、君にとって、これは一つの試練だから、そのつもりで充分自重すべきだな」

 


 時の経過を待つよりしかたがないという末松だが、「事件として解決のついた事なら、余り拘泥しない方がいい」という。しかし、これもまた観念的な言い方だ。ついさっき起きた(少なくとも謙作の心の中で起きた)事件が、すでに解決済みということはないだろう。頭では解決していても、謙作の感情がついていかないのだから、それを「解決」とはいえない。いろいろと「拘泥する」ことがあるから、謙作の心も落ち着かないのだ。「時の経過を待つ」というのは、座してただのうのうと待つことを言うのではない。むしろ謙作の言うように、「取らねばならぬ経過は泣いても笑っても取る」ことだ。その「経過」には、当然ながら様々な「拘泥」があるはずだ。相手をなじり、追求し、罵倒し、といったそれこそ泥まみれの「経過」があるはずだ。その「経過」がなくて、「赦す」ことなどできるはずがないのだ。

 お前は邪魔だと直子に言った謙作も、この「事件」が「夫婦関係」の中で起きていることを知らないわけではない。しかし、この「事件」が、夫婦関係の根幹を揺るがすものだとまでは、まだ感じていない。

 だから、「たとえ直子に罪がなかったとはいえ、僕たちの関係からいえば今まで全然なかったもの、あるいは生涯ないとしていたものが、出来た点で、今までの夫婦関係を別に組み変える必要があるような気がするんだ。極端な事をいえば仮に再び同じ事が起っても動かないような関係を」というようなトンチンカンなことを考えるのだ。ことは、そんなに単純に観念的に運ぶものではないことも、やがて謙作は知るはずだ。

 「密雲不雨」という天候に関する言葉が、この後の展開を見事に暗示する。「密雲不雨」とは、「兆候はあるのに、依然として事が起こらないことのたとえ」だが、謙作は、夫婦関係の新たな姿を模索しながら(たとえトンチンカンであったとしても)、「事件」が決して解決済みではないことを実は痛切に感じ取っているのだ。むしろ、これから何が起きるのか、不安の真っ只中にいるといったほうがいいのだろう。

 そしてこの「七」は、二人が見た飛行機が、深草に不時着したという号外の件を挿入して終わる。夫婦関係の崩壊を暗示するかのような不気味な幕切れである。

 

 

 


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一日一書 1741 寂然法門百首 89

2024-05-31 11:26:39 | 一日一書

2024.5.31


 

日出須臾入

 

いかにせん隙(ひま)行く駒の足はやみ引きかへすべきかたもなき世を
 

半紙

 

【題出典】『往生要集』87番歌題に同じ。
 

【題意】 日は出ると一瞬にして沈む。


【歌の通釈】


どうしよう、隙間から見る馬が早く見えるように、あっという間に時は過ぎていき、引き返せる方法もない世の中を。
 

【考】

時の流れの早さによる無常の歌。日の出入りは世のはかなさを示すようだが、観音により照らされるその日の光の恵みを左注では説く。その恵みの恩を胸に寸暇を惜しんで解脱を求めよというのである。


(以上、『寂然法門百首全釈』山本章博著 による。)

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★「隙間から見る馬」は、映画の発明に関するスリットから見える馬の画像を思い起こさせますね。あまたある「時の早さs」の比喩としては、ものすごく新鮮なものに思えます。

 

 


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日本近代文学の森へ 262 志賀直哉『暗夜行路』 149 またまた誤読訂正  「後篇第四 六〜七」 その4

2024-05-28 11:21:14 | 日本近代文学の森へ

日本近代文学の森へ 262 志賀直哉『暗夜行路』 149 またまた誤読訂正  「後篇第四 六〜七」 その4

2024.5.28



 どうもだんだんボケてきたのだろうか。「誤読問題」が続いている。

 前回、どうもひどい誤読をしたようだといって、お詫びと訂正をしたばかりなのだが、ふたたび、お詫びと訂正をしなければならなくなった。これが「最終決着」だといいのだが。

 「誤読」はどこにあったのか。

 

謙作はこれまで、暴君的な自分のそういう気分によく引き廻されたが、それを敵とは考えない方だった。しかし過去の数々の事を考えると、多くが結局一人角力になる所を想うと、つまりは自分の内にあるそういうものを対手に戦って来たと考えないわけには行かなくなった。直子の事も解決は総て自分に任かせてくれ。お前は退いていてくれ、今後顔出しするのは邪魔になる。──自分が直ぐこれをいったのは知らず知らず解決をやはり自身の内だけに求めていた事に初めて気がついた。実際変な事だと思った。──

 

 この中の「お前」が誰を指すのかということだ。前々回では、これを「直子」ととった上で、問題は直子の過ちなのに、その問題の解決から直子を排除してしまうことの理不尽を指摘したのだが、その後、いやいやそれはあまりに非常識だ、そんなことを直子に言うはずがないではないか、「お前」は末松に決まっている、そう考え直して、「お詫びと訂正」に至ったわけである。

 しかし、それも間違いでないかと改めて思ったわけだ。

 それは、この前後をちゃんと読むと、謙作はまだ末松に直子の過ちについて何も語っていないことが分かるからだ。末松は、謙作の水谷への態度に関して、謙作のエゴイスティックな態度を非難しているだけなのだ。それなのに、謙作がいきなり、「解決は総て自分に任かせてくれ」とか「お前は邪魔だ」など言うわけがない。もし末松がそんなことを言われたら、この後、末松が穏やかに話していることが納得できない。

 こういうわけで、やっぱり前々回にぼくが書いたことは、間違いではなかった。前回の「お詫びと訂正」こそが間違いだったということになる。

 しかし、それにしても、なぜこんな「誤読問題」が生じたのかを考えてみると、負け惜しみじゃないけど、志賀直哉の書き方が分かりにくいということに原因の一端がある。「自分が直ぐこれをいったのは」という部分だ。「直ぐ」という言葉が突然出てくる。「何から直ぐ」なのかが明示されない。最初の読みでは、直感的に、直子の告白を聞いて直ぐだと思ったわけだが、結局はそれが正しかったらしい。しかし、いくらなんでも、過ちの当事者を「邪魔」だというのは、エゴイズムにもほどがある、という「常識」が、「誤読」を引き起こした。謙作自身が「実際変な事だと思った」と言っているわけだが、ほんとに変だ。でも、それが正解だった、としか今は思えない。

 というわけで、前回分は、そっくりそのまま削除したいところだが、関連して引用した内田樹の文章が貴重なので、煩雑だがそのまま残し、恥をさらしておくことにしたい。

 さて、気を取り直して先へ行こう。

 

 大津からの電車はなかなか来なかった。
 謙作はぼんやり前の東山を見上げていたが、ふと異様な黒いものが風に逆らい、雲の中に動いているのに気がついた。そして彼は瞬間恐怖に近い気持に捕えられた。風で爆音が聴こえなかったためと、こんな日に如何にも想いがけなかったためと、その姿が雲で影のように見えていたためとで彼の頭にはそれが直ぐ飛行機として来なかったのだ。
 機体は将軍塚の上あたりを辛うじて越すと、そのまま、段々下がって行き、しまいには知恩院の屋根とすれすれにその彼方(むこう)へ姿を隠してしまった。
 「きっと落ちたぜ、円山へ落ちた。行って見ようか」
 陸軍最初の東京大阪間飛行で、二人とも新聞では知っていたが、今日はまさか来まいと思っていた。それが来たのだ。
 二人はそのまま粟田口の方へ急ぎ足に歩いて行った。

 

 ここに描き込まれている事故は、実際にあった事故らしい。こちらを参照。

 

 このエピソードを描き込んで、「第六」は終わる。「第七」は、そのまま飛行機事故のことから書き始められる。


 二人は円山から高台寺の下を清水の方へ歩いて行った。何処でも飛行機の噂をしているものはなかった。朝の新聞でもしそれを見ていなければ謙作は先刻(さっき)の機体を自分の幻視と思ったかも知れない。それほどそれは朧気にしか見えなかったし、またそれほど彼の頭にも危なっかしい所があった。彼は甚(ひど)く空虚な気持で、末松に前夜の事を話そうか話すまいか、迷いながら、絶えず他の事を饒舌(しゃべ)り続けていた。実は話すまいと彼は決心しているのだ。しかしその決心している自身が信用出来なかった。


 墜落してゆく飛行機の姿が幻視と思えるほどに、謙作の頭は「危なっかしい」ところがあった。冷静さを欠いている謙作の心理的状況をうまく描いている。


 彼は前にも尾道でちょっとこれに近い気持になった事がある。それは自分が祖父と母との不純な関係に生れた児(こ)だという事を知った時であるが、その時はそれを弾ね返すだけの力が何所(どこ)かに感ぜられた。そして実際弾ね返す事が出来たのだが、今度の事では何故かそういう力を彼は身内の何所にも感ずる事が出来なかった。こんな事では仕方がない、こう思って、踏張(ふんば)って見ても、泥沼に落込んだように足掻(あが)きがとれず、気持は下ヘ下へ沈むばかりだった。独身の時あって、二人になって何時(いつ)かそういう力を失ってしまった事を思うと淋しかった。

 

 自分に自信が持てず、空虚感を抱えている状態を、自分の出生の秘密を知った「尾道」時代にまで遡って重ねている。謙作も歳をとって(といってもまだ30歳前後)、気力が衰えたというわけだが、独身の時にあった「力」が、結婚したらなくなったというのは、どういうことなのだろうか。なんとなく分かるような気もするが、実感的には分からない。というのは、ぼくは23歳で結婚したので、いわゆる「独身時代」というのをほとんど経験したことがないからだ。

 結婚というのは、どこかで男の活力を削ぐものなのだろうか。

 

 

 

 

 


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