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日本近代文学の森へ (11) 岩野泡鳴『耽溺』その5

2018-05-14 10:13:17 | 日本近代文学の森へ

日本近代文学の森へ (11) 岩野泡鳴『耽溺』その5

「日本の文学 8」中央公論社

2018.5.14


 

 さて、正宗白鳥は、泡鳴の『耽溺』について、こんなふうに言っている。

先生(主人公のこと)と芸者の関係なんか、いかにもバサバサしてゐて、しめやかな情緒と云ったやうなものは、ちっともない。これは、後年まで彼れの作品を一貫した特色である。彼れの作中の男女は、恋を語っても決して蜜のやうではない。「へん、そんなことを知らないやうな馬鹿じゃねい。役者になりたいからよろしく頼むなんぞと白ばっくれて、一方ぢゃ、どん百姓か、肥取りかも知れねいへッぽっこ旦つくと乳くり合ってゐやあがる」と云ったやうなのが、先生のいつもの口吻である。そして吉弥という芸者も「おからす芸者」といふ綽名の通り、色が黒くって、何だか汚ならしい。恋愛小説中の女性は、概して美しく描かれるのを例として、近年の実験記録の小説でも、作者の主観によって色取られて、そこに描かれる女性は、読者を魅するところがあるのだが、泡鳴のにはそれがない。醜男醜女の情事を見てゐるやうで、読者は読みながら羨望の感じを起すことがない。しかし、小説を娯楽品とせずして、人生世相の真実の記録とする立場から見ると、泡鳴の態度には真実性が多いのではあるまいか。

 「醜男醜女の情事を見てゐるやうで、読者は読みながら羨望の感じを起すことがない。」とは的確な指摘。ほんとに、二人の会話は、殺伐としているのである。それなら憎み合っているのかと思うと、どうもそうでもない。なんだか、先生は吉弥に、夢中になっているのだ。けれども、その「恋愛」がちっとも美しくない。蜜のようじゃない。汚らしい。そんな小説を誰が読むか、と今なら思うだろう。けれども、ここで、別の立場が出てくる。

 「娯楽品とせずして、人生世相の真実の記録とする立場」だ。

 現代はエンタテインメント全盛の時代だから、小説も「娯楽品」として扱われることが多い。文学に限らず、スポーツも含めてほとんどの「表現者」は、インタビューなどで、口を開けば「多くの人に喜んでいただけるように頑張ります」と言う。表現の動機が、あくまで、享受者の喜びや幸せとなっていて、自分の表現したいことをただ全力で表現したいと言う者はほとんどいない。まして、それができれば、どう思われたっていいと断言する者など皆無に近い。

 けれども、それでは、享受者は、何をもって「喜び」とし「幸せ」とするというのだろうか。疲れた心を癒やされることを求めている人もいるだろうし、辛い現実を一時でも忘れることを求めている人もいるだろう。求めることは一様ではない。それなのに、どうして享受者の「喜び」が表現の目的となりうるのだろう。スポーツならば、それでもいい。全力でプレイすることは、万人に興奮を与え、感動を与えるだろう。けれども、文学は? 

 エンタテインメントとしての文学を目指す大衆小説は、汚らしい恋愛など描かない。あくまで夢のような恋愛を描くのは、明治の時代から変わることはないのだ。

 しかし、「人生世相の真実の記録とする立場」を小説においてとったとすれば、夢のような恋愛など、真実からはほど遠い。もちろん、「夢のような瞬間」が恋愛にはあるだろうが、それだけで恋愛ができあがっているわけじゃない。打算、性欲、嫉妬、支配欲、などなど、さまざまな醜悪ともいえる要素が入り交じっているのが恋愛である。

 先生と吉弥との関係が、果たして恋愛といえるかどうかは別としても、それがまさしく一つの男女関係であることには間違いない。その男女関係を、正直に書いたのが『耽溺』であるとすれば、やはりそこには「真実性が強くある」のも事実だろう。
更に、白鳥は続ける。

四十歳近い「耽溺」の先生は、自分より年上の、世帯窶れのした、ヒステリーの古女房に倦怠を感じてゐる。その頃、多くの作家の題材とした「中年の恋」を、彼れも求めてゐたので、ふとした機会で接近した田舎の「おからす芸者」によってでも、心の不足を満たそうとした。しかし、平凡人の浮気とは違って、彼れは、自己の抱懐せる人生観を応用して、この単純な「見ず転買」以上の何物でもないのに、深刻らしい意味をつけようとした。「堕落、荒廃、倦怠、疲労──僕は、デカダンと云ふ分野に放浪するのを、むしろ僕の誇りにしようと云ふ気が起った」などと云ひ、あるひは、彼れが読みかけてゐるメレジコフスキーの高尚典雅純潔な生涯を、自分の生涯に比して、「僕の神経は、レオナルドの神経より五倍も十倍も過敏になってゐる」と云ってゐるところなんか、読者に「詰まらん坊」の感じを与える。丹念に書かれてゐるが、作者の苦悶が紙上に現はれてゐない。

 と手厳しいが、ぼくもまったく同感だ。ここまでズバリと言い切れる白鳥に感服してしまう。要するに、この『耽溺』という小説は、「失敗作」なのだ。けれども、それでもなおこの小説は、泡鳴の代表作として紹介されるのは、ここにこそ、泡鳴の「特色」が端的に出ているからだ。その特色とは、白鳥によれば「すべての感傷主義を打破して自我に徹するところ」だ。

 「自我に徹する」というのは、「自分のやりたいようにやる」ということだ。その時の自分の欲望に忠実であること、といってもいいのかもしれない。

 それが恋愛であるか、などということは泡鳴にとってはどうでもいい。吉弥に惚れたなら、とことん惚れる。だからといって、気に入られようとしておためごかしは言わない。吉弥に惚れたことが女房にどんな被害を与えるかも考えない。遠慮はしない。オレはオレだ。オレの道をどこまでも行く。

 『耽溺』に描かれた事件は、ほぼ実際にあったことで、このことが、次の「泡鳴五部作」にも出てくる。この「吉弥事件」の後、泡鳴はどう生きたか、それが「泡鳴五部作」には克明に描かれているらしい。これを読まない手はない。

 

 

 

 


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一日一書 1442 平常心是道 2

2018-05-11 19:20:21 | 一日一書

 

平常心是道

へいじょうしんこれみちなり

 

17×64cm

 

 

この言葉は、

どんなときも「平常心」、つまり不断の気持ちを保つことが大事だ、という意味で

多く使われているように思います。

試験の時も、大事な試合の時も、いつも「平常心」を失わずに臨みなさい。

というように。

 

けれども、実はそういう意味ではありません。

「仏教語大辞典」によれば

日常の行住坐臥の生活そのままが、すべて道と一体であり、悟りそのものである、ということ。」

ということです。

 

 

「悟り」とは、どこか日常とかけ離れたところにあるのではない。

日々の生活そのものの中にある。

いや、日々の生活そのものが「悟り」なのだ、ということです。

 

 

キリスト教的に言い換えれば

人生で、もっとも大事な「愛の実践」は、

生活の外にあるのではなくて、

毎日の生活の中にこそある。

日々の細々した行いこそが、「愛の実践」に他ならない

ということではないでしょうか。

 

 

仏教でも、キリスト教でも

日々の生活が大事だということにおいては

ちっとも変わりはないのだと思います。

 

 

 

 

 

 

 

 


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日本近代文学の森へ (10) 岩野泡鳴『耽溺』その4

2018-05-09 09:35:28 | 日本近代文学の森へ

日本近代文学の森へ (10) 岩野泡鳴『耽溺』その4

「日本の文学 8」中央公論社

2018.5.9


 

 ひとりの人間をどう見て、どう評価するかは、とても難しい。テレビで話題になる芸能人をとってみても、そのスキャンダラスな行動に対して、さまざまなコメンテーターが勝手な批評をするが、どこまでその人間を知っているのか分かったものではない。ただ、報道された「事実」を元に、勝手な憶測をしてしゃべりちらしているにすぎない。

 この『耽溺』の主人公は、ほとんど岩野泡鳴その人らしいが、こんなことが今のテレビで報道されたら、誰が彼を擁護するだろうか。女の敵だ、ヒドイ奴だ、と非難囂々は間違いないところだろう。

 ヒドイ奴だと決めつけて、石を投げることは簡単だが、それをしないで、待てよ、これはいったいどういうことだろうと、マジメに考えるのが、文芸評論家というものかもしれない。

 今回、岩野泡鳴について、正宗白鳥が何と言っているかを調べているうちに、そうだ、平野謙ならどう考えるのだろうと思って読んでみた。平野謙をちゃんと読んできたわけではないが、時々は読んできていて、なんだか細かいことを丁寧に批評する懐の深い人だなあというような印象を持っていたからだ。幸いなことに、我が家には『平野謙全集』も残っているのだ。

 この『平野謙全集』全13巻は、新刊で買ったのだが(約40000円)、絶版になってから、一時古本で20万円以上の値をつけていた。その時は、まったく読んでもいない全集なので、売りとばしてしまおうかと思ったのだが、なぜかその気になれなかった。今では、古本の値段も暴落して、この全集も何と10000円を切っている。ほんとに、どうしたことだろう。ここ十数年ほどで、世の中の価値観がすっかり変わってしまったとしか思えない。

 まあ、そんなわけで、手元にある『平野謙全集』を開いてみると、ありましたよ、ありました。『耽溺』についても、ちゃんと書いてある。

この主人公の性格は単なる放胆でも粗暴でもなくて、おそらくは無垢なのである。真率なのである。『耽溺』全篇を通読すれば、この主人公がお人好しといってもいいほど正直な人柄であることは、誰の目にも明らかだろう。もしも、世なれた普通の大人なら、この主人公のように女房の着物を入質するほどの無理算段をして、田舎の不見転芸者の身請金をつくるような窮地に陥ることをもっと巧みにすりぬけるはずである。もともと一夏の旅の客に、身請けしなければならぬほどの義理合いはないはずである。女優にしようか妾にしようかと、主人公が一時本気に迷って、女に口約束したにせよ、そんな口約束を無理算段して実行にうつすことなど、世の常の大人のすることではない。無論、主人公が惚れぬいて、どうしても妾にするつもりなら話は別だが、女が悪質の梅毒患者たることを確認すれば、あっさりひきあげてしまうのである。近松秋江の『黒髪』の主人公のような執念は、この男性的な主人公にはない。ただ前後の見境もなく、百五十円の大金を溝にすてたも同然である。こんなふるまいは、到底世の大人のすることではない。ここにこの主人公ならびにこの作者の真率な詩境がある。

 おもしろいなあ。これだから、文学はやめられない。普通なら、「こいつは馬鹿だ。」で終わってしまうところを、こんなふうに考えるなんて、素敵だね。

 平野は何度も「こんなことは世の常の大人がすることではない。」と繰り返しながら、「普通の大人」がしないようなことをする岩野泡鳴の「無垢」「真率」をあぶり出すのである。

 果たして岩野泡鳴は、「無垢」なのか、「真率」なのかは、にわかには判断しがたいが、平野謙の言うことだ、ちゃんと聞いておくにしくはない。
何の義理もない行きずりのやすっぽい田舎芸者に義理立てして、女房の着物を質入れしてまで身請けの金を算段する。しかも、その女に心底惚れているわけでもなく、病気が分かると、あっさり捨ててしまう。そんな泡鳴を平野謙は「男性的」だという。

 そこに引き合いに出されているのが、近松秋江で、話の流れからすれば、近松は執念深く、女性的だということになるわけで、いずれその『黒髪』も再読(数年前に読んだけど忘れてしまったので)しなければならないにしても、確かに、どこまでもその女に執着することはないのが岩野泡鳴だ。
だからこそ、この岩野泡鳴の行動は不可解で、馬鹿だとしか考えられないわけだが、それを別の見方をすれば、そこに「無垢」「真率」があるのだということを、平野謙は教えてくれる。

 小説を読むということ。しかも、あまり人気のない、「変な小説」を読むことは、ぼくらの通り一遍の、薄っぺらい人間認識に、一撃を与えてくれる。「普通の大人じゃない」人間の思考や行動を、じっくりと見つめることが与えてくれる恩恵は、たぶん、大きい。


 


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一日一書 1441 平常心是道

2018-05-08 17:08:17 | 一日一書

 

 

平常心是道

 

半紙

 

 

 

 

 


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一日一書 1440 蛙始鳴(七十二候)

2018-05-07 20:12:19 | 一日一書

蛙始鳴(かわずはじめてなく)

 

七十二候

 

5/5〜5/9頃

 

ハガキ

 

 

そういえば、5月5日は、立夏だったのですね。

立春などに比べて立夏は地味。

大型連休のニュースにかき消されるのでしょうか。

 

今年は、立夏を過ぎたら

妙に涼しいですね。

 

 


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