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100のエッセイ・第10期・46 いい人生

2015-07-28 16:19:54 | 100のエッセイ・第10期

46 いい人生

2015.7.28


 

 3日間にわたる、キンダースペースの『赤い鳥の居る風景』の公演も終わったが、その打ち上げに招かれた。キンダーの役者さん、スタッフさん、客演の役者さんたちで行われる打ち上げに、ぼくが招かれたのは、チラシ、ポスターの字を書いたからだったらしい。チラシにも、スタッフとしてぼくの名前が書いてあった。なんとも光栄なことである。しかし、ぼくは頼まれてチラシの字を書いたわけではない。ぼくがたまたま書いた字を使ってくれたのだ。その経緯は前に書いたとおりである。

 打ち上げは、公演の最終日の翌日(つまり7月27日)、キンダースペースのアトリエで行われた。公演のとき、原田さんに、「ぼくなんかが出てもいいの?」と聞くと、「もちろんですよ。だって、スタッフなんですから。」と言われたので、お祝いに「焼酎」と、「梅ヶ枝餅」(たまたま京急デパートで九州展をやっていたので出来たてを買えた)を携えて、出かけたのだった。

 アトリエ公演でしか見たことのない西川口のアトリエは、大道具がない部屋になっていて、意外に狭い空間である。そこに、テーブルとイスが並んでいた。キンダーの人たちとは顔なじみなので、みんな笑顔で迎えてくれる。テーブルの上には、飲み物や劇団員の手作りの料理が所狭しと並んでいる。

 夕方6時に始まるとのことで、徐々に人が集まってきたが、6時になっても肝心の原田さん、瀬田さんが来ないので、まずは、「第一次乾杯」ということになった。司会の村信さんが、何を思ったか、突然、「では乾杯の音頭を、瀬田さんの恩師である山本さんにお願いします。」という。隅っこのほうで見学できればいいやというくらいのつもりだったぼくは、飛び上がるほどびっくりしてしまったが、びっくりしたまんま、わけもわからないことを言ってとにかく乾杯の音頭をとった。劇団の主宰者原田さんの奥さんである瀬田さんの高校時代の恩師である、ということだけで、ぼくは、今までずいぶん「いい目」を見させてもらったが、考えてみれば、ぼくが「瀬田さんの恩師」であるということは、過去のことで、今の時点でキンダーに何ほどの貢献をしているわけではない。(いちおう賛助会員ではあるけれど。)今回だけは、「チラシの字を書いた」という貢献はあったのかもしれないが、それとても、瀬田さん、原田さんの「粋なはからい」だったのだとぼくは思っている。それなのに、乾杯の音頭をとれるなんて、なんとオレはシアワセな男なのだろうと、感激してしまった。

 ほどなく原田さんも瀬田さんもやってきて、原田さんの音頭で本格的な乾杯が行われたのだが、その後の打ち上げの展開は、またまた驚くべきものだった。

 そもそもぼくは劇団の打ち上げというものに参加したことがなかった。高校の演劇部では、公演の終わるたびに打ち上げはやったけれど、それはたいていジュースを飲んで、ああだこうだとしゃべっているうちに終わってしまうようないいかげんなものだった。キンダーの打ち上げも、最初はそんな感じだった。ところが、はじまって1時間ぐらいたったころ、「それでは、これから○○を始めます。」と言う。この○○が何という言葉だったかどうしても思い出せないのだが、とにかく「儀式」のようなものが始まったのだ。

 「儀式」というとなんかアヤシイ感じがするが、そうではない。原田さんが手に「大入り袋」を山盛りにして持って、立ち上がった。その「大入り袋」をキャストやスタッフのひとりひとりにねぎらいの言葉とともに渡し、みんながその度に拍手をし、そして受け取った人は短くスピーチをする、そういう「儀式」だったのだ。

 ぼくは、そこでも初めの方で名前を呼ばれ、「瀬田は、先生に高校時代、別役実の芝居を教えられ、芝居の道を歩むきっかけを作ってくださいました。今回は、チラシに字を書いてくださいました。ありがとうございました。」といったような内容の謝辞を原田さんがきちんと述べて、大入り袋を手渡された。そこでも、ぼくは感激してしまって、いつものような流暢な(?)スピーチをするどころではなく、言いたいことの十分の一も言えないたどたどしいスピーチをした。今思えば、ぼくは、キンダースペースの皆さんに、少なくとも30分ぐらいは感謝の言葉を述べ続けたかったという気持ちで一杯だけれど、そんなことをしたら会はいつまでも終わらなかったろうから、かえって感激でしゃべれなくなって幸いだったわけだが、とにかく、その後、キンダーの役者、スタッフ、客演の役者、キンダーの若い役者の卵など50人近い人たちのすべてに、原田さんはユーモアたっぷりに、しかもひとりひとりの働きに心からのねぎらいの言葉をかけ、そしてその人たちがみな、またユーモアの中にもそれぞの個性あるれるスピーチをしたのだった。それはいつまでも続いてほしいと思うほど、面白く、愉快で、また刺激的で、「発見」にみちたものだった。

 そうしたやりとりを聞きながら、劇団キンダースペースが、人間関係に対する信じられないほどの細やかな配慮によってこそ維持されているのだということ、だからこそ、小さな劇団だが、今年で30年周年を迎えるほど長く続けることができたのだと深く納得したのだった。

 劇団の維持ということは、人間関係だけではなくて、経済的な面でも実に多くの困難を抱えている。けれども、その困難を乗り越えさせるものは、「演劇」への情熱と愛以外の何ものでもない。ここに集まった人たちは、誰ひとりとして「金もうけ」のために、『赤い鳥の居る風景』という芝居をやろうとしたわけではない。ただただ、いい芝居を作りたい、他の劇団にはできないような別役実の芝居を作ってみせたいという情熱だけで、集まり、稽古をし、舞台に立ち、あるいは裏方の仕事に奔走した。演劇の魅力とは、つまり、そういうところにあるのだとシミジミ思った。これは一時のセンチメンタルな感想ではなく、極めてリアルな実感であえる。

 焼酎を飲みながら、原田さんに、「原田さんも瀬田さんも、いい人生を送っているね。」と言ったら、「まあ、そうですかね。大変ですけどね。」と苦笑いしていた原田さんだったが、打ち上げの最後に、演劇への思いをとめどなく情熱的に語る原田さんをみて、そして「はい、そこで終わり!」との瀬田さんの一言で、恥ずかしそうに笑ってすぐに話を打ち切った原田さんを見て、やっぱり2人はいい人生を送っているなあと思ったのだった。


 



生まれて初めてもらった大入り袋


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一日一書 652 つらいほうを選びなさい・別役実「赤い鳥の居る風景」

2015-07-27 13:31:02 | 一日一書

 

別役実「赤い鳥の居る風景」より

 

 
つらいほうを選びなさい。
 
あなたにとってどっちがつらいのか、それを考えなさい。
 
そしてそのつらい方へ行くの。
 
 
 
半紙
 
 
 
 
ぼくは、いつも、「楽なほう」を選んできましたから
 
こういう言葉が、舞台の空間に放たれると、ドキッとしてしまいます。
 
そして、深い反省に導かれるのです。
 
 
 
ただやみくもに「つらい」ほうを選べというのではありません。
 
簡単にいえば、(ほんとうは簡単に言ってはダメなのですが)
 
現実をきちんと見なさいということです。
 
現実を見て、それを受け入れることは「つらい」のです。
 
 
 
 
芝居を見るということは、「楽しむ」ことでもありますが
 
生き方を考えることでもあります。
 
 
 
 
 
 
 
 
 

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一日一書 651 みんなのやさしさに泣いてはなりません・別役実「赤い鳥の居る風景」

2015-07-26 16:01:10 | 一日一書

 

別役実「赤い鳥の居る風景」より

 

みんなのやさしさに泣いてはなりません。それだけ、あなたは弱くなります。

 

 

この前の金曜日と土曜日、キンダースペースの「赤い鳥の居る風景」という芝居を見てきました。

その芝居には、胸を刺す「言葉」が満ちていました。

別役さんの許可なく、書いていいのか分からないのですが

セリフを、書いてみたくなりました。

不都合があれば、すぐに削除します。

 

 

盲目の姉が、人を殺してしまった弟を諭すセリフ。

長いセリフが、何度も出てくるのですが、いちいち身に染みてきます。

 

なぜ「みんなのやさしさに泣いてはならない」のか。

やさしくされて、泣くことが、なぜいけないのか。

それは「みんな」(つまり世間)のやさしさは、「相手へのやさしさ」ではなくて

「自分へのやさしさ」に過ぎないからだと、「姉」は言うのです。

「世間」の「本音」は、つねに、他者にやさしくないのです。

それは、世間を構成する人間が、本質的にエゴイストだからでしょう。

その世間のエゴイズムに身をさらし、それによって「強さ」を獲得しなければならなない。

そうしなければ、いつまでたっても、自分が強くならない。

強くなければ、自立できない。

そう「姉」は、弟を諭すのです。

まるで、ぼく自身が諭されているような気分になりました。

 

 


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【劇評】劇団キンダースペース「赤い鳥の居る風景」──「感情」をめぐって

2015-07-26 11:35:43 | 批評

【劇評】劇団キンダースペース「赤い鳥の居る風景」──「感情」をめぐって

2015.7.26


 

 『赤い鳥の居る風景』のパンフレットで、演出の原田一樹はこんなふうに書いている。

作家(別役実)へのあるインタビューによれば、初期のものは「感情」で書いているところがあって、時に見ていて耐えられない……そうだ。もちろん、惹かれるのは、この「感情」があるから、ではない。それどころか我々は、何とかしてこの「感情」を乗り越えられないかと毎日歯ぎしりして稽古の時間をすごしている。

 それなのに、ぼくは、キンダースペースの『赤い鳥の居る風景』をみていて、なんども「感情」を深くえぐられ、ゆさぶられ、涙さえにじんだのだった。それでは、キンダースペースの毎日の「歯ぎしり」は徒労だったのだろうか。この芝居は、結局の所、ぼくの「感情」に訴えることに終始したということになるのだろうか。

 原田は続けて言っている。

「感情」ではなく「方法」。別役さんの言を待たずとも、これが表現者としての成熟の一つのありかたであることは間違いない。いつその地平に到達できるのか。「方法」はしかし、到達するものではないかもしれない。この「方法」は有効なのか、という不断の疑いにさらされて、やっと機能するものだろう。つまり私たちは、いつの時代でも「空疎感」と「実感の欠落」をその命題としてきたという、ただ、それだけのことかもしれない。

 「感情」に対置される「方法」が、いったい何を意味するのか、ぼくにはほんとうのところよく分からない。けれども、感情に訴える表現が、表現として「成熟」していないのだということはよく分かる。はやい話が、「お涙頂戴」をこととする映画や演劇やドラマはそれこそ腐るほどある。それらは少なくとも「成熟した表現」とは言いがたい。そうした意味では、「方法」とは、演劇なら、演劇としてどう成立させるかのギリギリの決着のしかた、のことなのかもしれない。あるいは、「泣ける」という個人的な感情に収斂するのではなく、「なぜ泣けるのか」という問題として普遍化されるということなのだと言えばいいのかもしれない。

 とにかく、この芝居を二度見て、二度ともぼくは、深く感情を揺さぶられた。涙がにじんだ。

 それは、ラストで「弟」が死ぬからではない。盲目の「姉」が「かわいそう」だからでもない。そうではなくて、「姉」の語る「言葉」が、ひとつひとつ、氷でできた刃のように胸に突き刺さり続けたからだ。「弟」の語る「言葉」が、まるで、今の今、この世界で叫び続ける子どもたちの声としてぼくの胸に響き続けたからだ。

 何という見事な「言葉=肉声」だったことだろう。ぼくは『赤い鳥の居る風景』を今回初めて舞台で見たのだが、今後、この戯曲を読むときに、「姉」を演じた古木杏子の声、「弟」を演じた中村翼(中学3年生)の声を想起せずには読めないだろう。声だけではない、そのセリフのリズム、間、そこに込められた「感情」、それらすべては、もう他に置き換えることはできないだろう。この2人を中心に、すべての役者たちの姿、声、動き、そして、素晴らしい音楽と、照明、美術、衣装、そうした一切合切が、戯曲を読み返すたびにぼくの心の中によみがえり続けるだろう。

 キンダーが、「『感情』を乗り越えられないかと毎日歯ぎしりして稽古の時間をすごし」た日々は、だから、見事に結実したのだ。つまり、「泣けた」「感動した」では決して終わらない芝居となったということだ。そればかりか、見終わった後に、実に複雑な、そして重大な問題をぼくらに残し続ける舞台となったのだ。

 借金を残して自殺した両親をもつ姉と弟が、「借金を返し続ける」ことこそが「本当の生活」だと考えるが、それを「世間」は理解しない、というのがこの芝居の基本的な構図だが、ぼくらがこの芝居を見終わったあと、痛切に感じ取らなければならないのは、ではぼくらにとっての「借金」とは何か。ぼくらは、その「借金」を意識し、それを「返し続けよう」と意志し、そのために「つらい道」を選びとり、「一生懸命に走ってきた」か、という問題である。その問題は、歴史的にいえば、「戦後問題」であろうし、個人的にいえば、それこそ人の数だけあるだろう。ぼくらは、「しずかな生活」を求めて何を「がまん」し、何を「がまん」しなかったか。何も言わずに死んでいったひとたちは、何を「がまん」していたのか。(たとえば、ぼくが、涙のにじむ思いがしたのは、シベリア抑留者だった父の「がまん」や、もう世間ではほとんど問題にしなくなった「中国残留孤児」やその「親」たちの「がまん」を想起したからでもあった。)

 原田が言うように、ぼくらはもうここ2、30年、いつの間にか「人はなぜ生きるのか」という命題の共有感を失ってしまっている。「借金」を返そうという意識どころか、「借金」をしているという意識すらなくしてしまっている。そして、時代はますます「空疎感」と「実感の欠落」を加速させている。そうした状況の中で、キンダーのこの『赤い鳥の居る風景』の舞台は、時代の空気への激しい抵抗となっている。

 すべてが「空疎」なのではない。すべてに「実感」が欠落しているのではない。「空疎」な「実感」のない「現実」と、そして「言葉」とはどんなものなのか、それをくっきりと舞台の上に現出させた。そしてその「現実」の中で、「本当の生活」は、どのようなものとして認識あるいは実現されうるのか、それを「歯ぎしりしながらの稽古」によって見事に提示してみせたのだ。


 


 

 


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一日一書 650 大吉・金文(コラ書)

2015-07-25 14:28:09 | 一日一書

 

大吉

 

 

漢時代の金文から。

 

 


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