詩歌の森へ(19) 萩原朔太郎・「帰郷」
2020.9.18
帰郷
昭和四年の冬、妻と離別し二児を抱へて故郷に帰る
わが故郷に帰れる日
汽車は烈風の中を突き行けり。
ひとり車窓に目醒むれば
汽笛は闇に吠え叫び
火焔(ほのほ)は平野を明るくせり。
まだ上州の山は見えずや。
夜汽車の仄暗(ほのぐら)き車燈の影に
母なき子供等は眠り泣き
ひそかに皆わが憂愁を探れるなり。
嗚呼また都を逃れ来て
何所(いづこ)の家郷に行かむとするぞ。
過去は寂寥の谷に連なり
未來は絶望の岸に向へり。
砂礫のごとき人生かな!
われ既に勇気おとろへ
暗憺として長(とこし)なへに生きるに倦みたり。
いかんぞ故郷に独り帰り
さびしくまた利根川の岸に立たんや。
汽車は曠野を走り行き
自然の荒寥たる意志の彼岸に
人の憤怒(いきどほり)を烈しくせり。
最初の妻と別れ、二人の子どもを連れて、故郷に帰ったときの心境がここにあるわけだが、実際に帰郷したのは7月だったらしい。けれども、この詩では「冬」としている。やっぱりこの悲痛さには「冬」がふさわしい。
演歌に典型的だけど、失恋して旅に出るのが、真夏だとどうにも具合が悪い。「津軽海峡冬景色」が「関門海峡夏景色」だと、傷ついたこころが簡単に癒やされてしまいそうだ。「悲しみ本線日本海」ならいいけど、「悲しみ本線瀬戸内海」じゃ、なんのことやら分からない。
この詩を引いて、詩人の辻征夫がこんなことを書いている。
前橋へ行くなら、厳寒の候を選んで行くべきだと主張したのは私である。うららかな春の日にも、夏の盛りにも私は行きたくない。できれば最も陰鬱な月、雪が降りしきっているかもしれない二月に行きたい。(中略)とにかくなにがなんでも、初めての前橋には、寒さをついて、気合いを入れて行くべきなのだ。それでなければ私は、前橋には行かない。
「私の現代詩入門」
なんだか、ひとりで息巻いているが、たまたま居酒屋にいた詩人の仲間と急に前橋に行こうという話がまとまって、じゃあ、いついくかという段になり、辻がこう息巻いたというわけである。結局、一月末と決まって行ったのだが、記念館も「質素」で、ちょっとがっかりして「詩人というのはやはり、作品の中にしか生きていないのだという自明のことをもう一度考え」た、とある。
ぼくも今まで何度も前橋行きを企てたことがある。いや、企てた、まで行かず、行きたいと思ったというレベルだ。でも、結局行っていない。といって、辻征夫みたいに、「厳寒じゃなきゃ行かない」なんて思っているわけでもない。むしろ、そんな寒い時には絶対行きたくない。でも、どうせ行くなら辻征夫みたいな悲壮な演出をしなきゃもったいないとも思うのだ。でも、そんな過剰に悲壮な演出で出かけても、肩すかしをくわされるんなら、行かないほうがマシだとも思ってしまう。
まあ、いくら過剰に悲壮な演出をしてみても、赤の他人が朔太郎の心境になれるわけではないし、たとえなれたからといってさしたるトクがあるとも思えない。「砂礫のごとき人生かな!」の思いは、程度の差こそあれ、ぼくにも理解できるけれど、朔太郎の思いの深さには到底達することはできないし、到達したくない気もする。
そういう気がしながらも、どうしてぼくは、「厳寒の時」にわざわざ出かけたいなどという辻の言葉に共感するのだろうか。
なんか、カッコいいってことかもしれない。現実としてはぜんぜんカッコいいわけじゃないのに、なんだか、あこがれる。悲壮趣味なんだろうか。
「まだ上州の山は見えずや」なんて、車窓の景色を眺めながら呟いてみたい。若いころの朔太郎が、「みずいろの窓辺」に向かって、「うれしきこと」を思おうなんて言っていた朔太郎が、こんなさびしい呟きをするに至ったなんて痛ましい限りだが、朔太郎の「夢」と「挫折」をとことん「窓辺」で味わってみたいなんて思うのだ。
何と言っても、この「上州の山」っていうのがいい。「上州の山」といえば赤城山がまず浮かぶが、赤城山といえば、国定忠治だ。やっぱりカッコいい。
これが、「越後の山」だと、なんか落ち着いてしまって迫力がない。犀星の「越後の山もみゆるぞ/さびしいぞ」(寂しき春)が思い出されて、しんみりしてしまう。「上州の山」だと、「赤城の子守歌」から威勢のいい「八木節」まで聞こえてきそうだ。カッコいい。
実際をいえば、妻が男を作って子ども置いて家を出てしまったので、故郷に子連れで帰るという、男としては実に情けない仕儀なのだが、それがこともあろうに「カッコいい」なんて誤解されるのは、ひとえに、言葉のせいだ。この何だかよく分からないが、やたら威勢だけはいい文語のせいだ。そのいわゆる「悲憤慷慨調」の言葉が、情けない現実を、妙に「美化」してしまっている。一種の自己陶酔なのかもしれないが、こういう「美化」をすることで、辛うじて現実に耐えているといった風である。
空疎といえば空疎だ。現実を直視していないと言えばそれまでだ。けれども、朔太郎は、この空疎な言葉の羅列で、現実に刃向かっているともいえる。いわば空砲で、それは現実のたとえ一片でも変えることはできないけれど、自分を鼓舞し、前進させることはできる。やけっぱちの泥酔みたいなもので、その鼓舞も前進も、いっときのもので、自身を救うことはできないが、それでも、何もしないよりはマシだ。激しい二日酔いは残るだろうが、それでも、生きてる実感はあるのかもしれない。
かくして、詩は、空砲として鳴り響く。詩の中の言葉をいくら分析してみても、そこからは何も得られない。その空疎な言葉は、そんな言葉を吐かせる朔太郎という人の心の中の暗闇を指し示し続けるだけだ。