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日本近代文学の森へ 248 志賀直哉『暗夜行路』 135  「余白」 「後篇第三  十九」 その3

2023-09-01 14:39:15 | 日本近代文学の森へ

日本近代文学の森へ 248 志賀直哉『暗夜行路』 135  「余白」 「後篇第三  十九」 その3

2023.9.1


 

 丹毒は伝染する恐れがあり、皆も割りに注意深く手先きの消毒をしていた。或る麗(うら)らかな朝だった。謙作と母とが茶の間で食事をしている時に、直子が、廻り縁を静かに寝間着の裾を曳きながら赤児の病室の方へ行った。乳を飲ますためである。
 「あら! ベルや。ベル! いけません」
 「どうしたんだ」謙作は茶の間から声をかけた。
 「ちょっと来て頂戴。ベルが昇汞(しょうこう)を飲みそうにするの」
 謙作は茶の間の前から下駄を穿いて庭へ出た。ベルというかつてこの家(うち)に飼われていた小犬が、喜んで、飛び廻っていた。
 「これを飲みそうにするのよ」更(か)えるために踏石の上へ下ろしてあった、洗面器の昇汞を指して直子がいった。
 「そりゃあ、飲みやしないよ。ただ好奇心で匂いを嗅いでたんだろう」
 「そうでしょうか? 今本統に飲みそうにしてたのよ。こんな水を欽んだら、それこそ、直ぐ死んでしまいますわ」と直子がいった。
 引越の時、手伝に来ていた爺やが貰って来てくれた犬で、しかし直子の妊娠が分ると、同じ年の動物は飼わぬものだというような事で、小屋ごと、一軒措いた隣りの家へやってしまった。しかし犬はそれからも始終遊びに来て、今は何方(どっち)の犬ともつかず、行っり来たりしていた。
 看護婦の林が出て来て、黙ってその昇汞の洗面器を取上げると怒ったような顔をして、どんどん台所の方へ下げて行った。


 丹毒の伝染性について、そしてその対処法についてごく簡単に説明した直後、赤ん坊の部屋へ行こうとする直子の姿がチラッと描かれる。直子はチラッと見えただけで、すぐに姿が隠れたはずだから、声だけが聞こえる。声だけの応答から、謙作は、庭へ出て、直子と話す。そして、喜んで飛び回る子犬へと視線が移る。そして、どうして子犬がそこにいるのかという事情も分かりやすく語られる。

 こうした一連の叙述の流れは、見事という他はない。これだけの内容を、これだけの字数で描くことがどれだけ技術を要することかはかりしれない。昔の小説家志望の若者が、志賀直哉の文章を筆写したというのも、もっともなことである。

 そこに現れる「看護婦の林」も、切れ味鋭い。志賀直哉お得意の、脇役の生き生きした描写である。

 


 謙作たちはこの一っこくなような所のある、勝気な看護婦に信頼していた。林は赤児の事では緊張し続けた。よく健康が続くと思う位だった。謙作はむしろ林の健康のために、もう一人看護婦を頼んだが、林はかえってそれを喜ばなかった。赤児に対する、そ
の看護婦のやり方が気に入らなかった。そして自分は自分で一人の時と全く同じに働き、その人に任かせてゆっくり休養するという事はしなかった。ある時その看護婦が風邪で帰ると、林は「もし私のためでしたら、どうかもうお頼みにならないで頂きます。──だけど私一人で御不自由だと思召(おぼしめ)すんでしたら別ですけど」こんなにいった。
 謙作はもし林に倒れられたら、どんな代りが来るとしても、赤児のためには大打撃だからといったが、林は大丈夫倒れる事はないからといっていた。
 今の場合、赤児のために直子に要求する所は、母であってもらうよりは乳牛になり切っていてもらう事だった。で、乳の時以外は全く赤児に近づけない事にしていたが、しかし赤児としては、生れたてのまだ何も分からない赤児ながら、母乳以上の母愛をも要
求しないとはいえなかった。そう謙作には思えた。そしてこの感情──この母愛に近い感情は他の看護婦ではなかなか求められそうになかった。──とにかく、林のやり方が看護婦としての義務を遥かに越えていた事は謙作たちには嬉しい事だった。

 


 この看護婦林については、志賀は、容貌の説明を一切していない。描くのはひたすら、林の態度・行動であり、言葉だ。それだけなのに、彼女の肉体までもが、生き生きと眼前に立ち現れるような思いにとらわれる。すがすがしいまでに、一本筋が通った人間として、強く印象に残るのである。

 一人の人間について、詳しく描けば描くほど、その人間は捉えどころのない茫漠とした印象を与える人間になりかねない。それほど、人間は複雑な存在だし、様々な側面を持っている。けれども、たとえばこの林という看護婦のように、その職務に携わる姿を簡潔に描くと、このように「一本筋が通った人間」が現れる。

 「暗夜行路」の脇役──女中のお仙、お栄、お才といった人々が、みな生き生きとした個性を発揮して存在感を示すことができるのは、実は、謙作や、直子や、信行といった主役級の人間が、みな底知れない奥行きをもった人間として描かれているからなのかもしれない。そうした人間との対比で、あっさりとしかも的確に描かれた脇役には、「余白」がある。それが気持ちいい。

 この看護婦の林にも私生活というものがあるだろう。家庭はどうなっているのか。どんな悩みを心に抱えているのか、など想像すればきりがない。そこを省略する。すると、その人間の周りに「余白」ができる。物語の風通しがよくなる。

 つまりは「立体感」ということだろうか。赤ん坊の死という切迫したシーンを描く際に、その死を体験する謙作や直子の心理にあまりに近づきすぎると、読者は、とても読んでいられないほどの息苦しさを感じるだろう。けれども、そうした「余白」をまとった脇役や、「余白」そのもののような子犬などが描かれることで、物語を離れて眺める視点が獲得されるのだ。

 


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