日本近代文学の森へ 226 志賀直哉『暗夜行路』 113 人間の「美しさ」とは何か? 「後篇第三 十二」 その4
2022.9.5
結婚の第一歩がこんなにして始まった事は幸先(さいさ)き悪い事のような気がした。しかし何よりも悪いのはやはり自分だと彼は思った。自制出来ない悪い習慣──そういって自身いつも責任を逃がれる気はないが、もしかしたら祖父からの醜い遣伝から自分は毎時(いつも)、裏切られるのだ。そんな気も彼はするのであった。何しろ慎もう。今日の事は今日の事だ。これから本統に慎み深い生活に入らなければ結局自分は自分の生涯をそのため破滅に導くような事をしかねない。そして結婚後は殊にこの事は慎まねばならぬ。そう考えた。彼はこの何度でも繰返す、そしていつも破れてしまう決心をこの時もまた繰返した。
「見合」のとき見た直子が自分が思っていたほど美しくなかったということはあったが、謙作は芝居を見ている最中に、「性欲の発作」に襲われる。もちろん、志賀直哉は「性欲の発作」なんて下品な言葉を使っていないが、それを抑えることができずに、「どうにも統御出来ない自身の惨めな気分」になるのだ。
それは更に尾を引いて「自制出来ない悪い習慣」と書き続ける。この「悪い習慣」とは、具体的にはどういうことなのかがよく分からないが、おそらく「性的な妄想」のことだろう。それしか考えられない。目の前に直子の姿を見て、ああこの女とはやく性的な交渉をしたいと、そればかり思ってしまうということだろう。そのことを、謙作は、深刻にとらえる。「結婚の第一歩」がこんなことでは「幸先が悪い」と思うわけだが、それは自身への反省に導く。そしてそれは、あの忌むべき祖父からの「醜い遺伝」なのだとまで思うに至るのだ。どこまでも、祖父の「性的放縦」が謙作の身に蛇のようにまとわりついて離れない。
「何しろ慎もう。今日の事は今日の事だ。」と反省する謙作。そんなに悩むこともないだろうにと思うのだが、自身の性欲にどこまでも敏感で、それ故に、なんとかしてそれを抑制しなければならないという思いで一杯になる。そして、結婚後に、自分にも祖父のような「醜い遺伝」によってとんでもない過ちを犯すことは絶対にあってはならないと決心するのだ。
そういえば、最近読んでいる西村賢太の絶筆となった小説「雨滴は続く」は、この「性欲」の問題を、「問題化」することもなく、とにかく、真正面からぶつかっていく「私小説」だ。志賀が「反省」しているのが「妄想という悪い習慣」だとしたら、その「妄想」だけで、数百ページ書いてしまうという凄まじさだ。その西村を根本から脅かすのは、志賀のいう「醜い祖父」どころか、性犯罪で刑務所に入っていたという父の影だ。上流階級の典型のような志賀直哉と、社会の底辺に生きる西村賢太だが、結局、人間というのは、どうにも愚かしいものである。だからこそ面白い。
それにしても、結婚当初から、こんな思いにとらわれるなんて、思えば謙作も気の毒な男である。
彼が直子と結婚したのはそれから一週間ほどしてからであったが、その前一度直子ら親子三人が彼の寓居を訪ねて来た事がある。曇った寒い日の午後だった。仙が台所で何か用事をしている時で、彼は石本と信行に出す端書を出しに二、三町ほどある、ボストまで出かけて行くと、彼方(むこう)から歩いて来る親子三人を遠くから見た。母だけ一足後れに、直子は先に立った兄にその大きな身体(からだ)を寄添うようにして何か快活に喋っている所だった。見違えるほど美しく、そして生々して見えた。謙作は心の踊るのを覚えながら立止まって待った。
思ったほど美人じゃなかった直子が、こんどは「見違えるほど美しく、そして生々して見えた。」印象的なシーンである。
美人とか美人じゃないとかいうけれど、生きている人間は、時に美しく、時に醜い。写真は、その「美しい」瞬間を切り取ることができるが、現実の人間には「瞬間」というものはない。流れていく川のようなものである。ドラマや映画でも、人間の美しさが際立つ場面があるが、それも「瞬間」ではなくて、「流れ」として認識される。
しかし、小説のこうした場面は、映像とはまったく異なった印象を与える。写真のように切り取られた「瞬間」でもなく、映画のような「流れていく映像」でもない。それはおそらく「映像」ですらない。
「見違えるほど美しく、そして生々して見えた。」直子は、その「瞬間」において捉えられているのではなく、最初に見たあの時から、謙作の勝手な妄想を経て、初めて相対した「見合」にいたり、そこでがっかりして、その挙げ句、よこしまな妄想に苦しめられたという謙作の心理的なプロセス全体を「すべて」包含して目の前に現出している「直子」である。
うまく言えないが、言葉によって表現される小説と、映像によって表現される写真や映画とは、「まったく違う」表現なのだということだ。
謙作も至極気持が自由だったし、万事気持よく行き、皆、愉快そうにしていた。仙もこの女主人公のために出来るだけの好意を見せたがり、そのため、焦っていた。謙作は久しく出した事のない手文庫の写真──亡き母、同胞、母の両親、お栄、その他学校友達などの──を出して見せたりした。
ここに「女主人公」という言葉が出てくるが、以前、謙作のことを「主人公」と書いてあることを問題としたが、やはり、ここでは「女のご主人さま」という意味となることが分かる。
それにしても、「仙もこの女主人公のために出来るだけの好意を見せたがり、そのため、焦っていた。」という描写は、仙という女の可愛らしさをさっと一筆で描きだしていて、感心する。「焦っていた」が効いている。