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日本近代文学の森へ (112) 徳田秋声『新所帯』  32 ぼくらの上には空がある

2019-05-26 09:24:11 | 日本近代文学の森へ

日本近代文学の森へ (112) 徳田秋声『新所帯』  32  ぼくらの上には空がある

2019.5.26


 

 とうとう最終回。小説としては終わるが、中の人物たちの人生は少しも終わらない。新吉もお作もお国も、みずからの中に形成されたシコリをこじらせたまま、それを抱え、あるいはそれを増殖させて、これから生きていかねばならないのだ。いったい何という人生だろうか。



  しばらくすると、食卓(ちゃぶだい)がランプの下に立てられた。新吉はしきりに興奮したような調子で、「酒をつけろ酒をつけろ。」とお作に呶鳴った。
「それじゃお別れに一つ頂きましょう。」お国も素直に言って、そこへ来て坐った。髪を撫でつけて、キチンとした風をしていた。お作はこの場の心持が、よく呑み込めなかった。お国がどこへ何しに行くかもよく解らなかった。新吉に叱られて、無意識に酒の酌などして、傍に畏(かしこ)まっていた。
 お国は嶮しい目を光らせながら、グイグイ酒を飲んだ。飲めば飲むほど、顔が蒼くなった。外眦(めじり)が少し釣り上って、蟀谷(こめかみ)のところに脈が打っていた。唇が美しい潤いをもって、頬が削(こ)けていた。
 新吉は赤い顔をして、うつむきがちであった。お国が千葉のお茶屋へ行って、今夜のように酒など引っ被って、棄て鉢を言っている様子が、ありあり目に浮んで来た。頭脳(あたま)がガンガン鳴って、心臓の鼓動も激しかった。が、胸の底には、冷たいある物が流れていた。



 新吉はお作に「酒をつけろ」と怒鳴る。お作は、何がなんだか分からず相変わらずドギマギしながら「無意識に」酌をする。お国は顔を蒼くして酒をグイグイ飲んでいる。

 新吉はこの目の前で酒をあおるお国の行く末に、頭が痛くなり心臓もバクバクする思いを味わうが、「胸の底には、冷たいある物が流れていた。」という。

 新吉という男の心の底に流れるこの「冷たいある物」の正体はいったい何だろう。お国が千葉にいって苦界に身を沈めようとしているのに、表面上ではそれを押しとどめようとはしても、心の底では舌を出して「ざまあみろ」とでもいいかねない冷たさ。それはいったいどこから来るのだろう。

 新吉のこの「冷たさ」は、この小説を読んでいる間中ずっと頭から離れなかった。それについて書くまえに、まずは、この小説の終幕を見ておこう。



「新さん、じゃ私これでおつもりよ。」とお国は猪口を干して渡した。
 お作が黙ってお酌をした。
「お作さんにも、大変お世話になりましたね。」とお国は言い出した。
「いいえ。」とお作はオドついたような調子で言う。
「あちらへ行ったら、ちっとお遊びにいらして下さい……と言いたいんですけれどね、実は私は姿を見られるのもきまりが悪いくらいのところへ行くんですの。これッきり、もうどなたにもお目にかからないつもりですからね。」
 お作はその顔を見あげた。
 酔漢はもう出たと見えて、店が森(しん)としていた。生温いような風が吹く晩で、じっとしていると、澄みきった耳の底へ、遠くで打っている警鐘の音が聞えるような気がする。かと思うと、それが裏長屋の話し声で消されてしまう。
「ア、酔った!」とお国は燃えている腹の底から出るような息を吐いて、「じゃ新さん、これで綺麗にお別れにしましょう。酔った勢いでもって……。」と帯の折れていたところを、キュと仕扱(しご)いてポンと敲(たた)いた。
「じゃ、今夜立つかね。」新吉は女の目を瞶(みつ)めて、「私(あっし)送ってもいいんだが……。」
「いいえ。そうして頂いちゃかえって……。」お国はもう一度猪口を取りあげて無意識に飲んだ。
 お国は腕車で発った。
 新吉はランプの下に大の字になって、しばらく寝ていた。お国がまだいるのやらいないのやら、解らなかった。持って行きどころのない体が曠野(あれの)の真中に横たわっているような気がした。
 大分経ってから、掻巻きを被(き)せてくれるお作の顔を、ジロリと見た。
 新吉は引き寄せて、その頬にキッスしようとした。お作の頬は氷のように冷たかった。

                       *     *     *

「開業三周年を祝して……」と新吉の店に菰冠(こもかぶ)りが積み上げられた、その秋の末、お作はまた身重(みおも)になった。



 この別れは、お作でなくともよく分からない。喧嘩別れでもないようだ。お互いにどこか未練を残しつつ、それでもこのままじゃどうしようもない、といった諦めが生んだ別れのようだ。「帯の折れていたところを、キュと仕扱(しご)いてポンと敲(たた)いた」お国は、蓮っ葉だけど、その気っぷの良さは魅力的だ。新吉の未練たらしさもよく分かる。しかし、ひとりその場から取り残されたようなお作には、明るい人生は待っていない。

 「お作の頬は氷のように冷たかった。」というのは、お作の死を暗示する。「* * *」として省略された月日の果てに、お作はまた妊娠するのだが、それがお作の命取りになるだろう。

 そんなことは書いてないが、しかし、この小説のモデルとなった夫婦は、妻が産後の肥立ちが悪くて死んでしまうのだ。しかし、秋声はそこまで書かずに、こういう形で小説を終えた。

 それは、お作の死を書くことよりも残忍な気もする。どんな形であれ、死はひとつの浄化だ。敢えていえば救いだ。しかし、「身重になった」ということで、その先に死が予感されるとなると、どこにも救いがない。読者は、お作の生涯を見届けることなく、お作の不幸をずっと抱え込まなければならない。それが残忍だということの意味である。

 お国が出て行ったあと、新吉は「持って行きどころのない体が曠野(あれの)の真中に横たわっているような気がした。」とある。

 新吉が宿痾のように心の中に抱え込んでいた「冷たさ」。それと、ランプの下で新吉が味わったこの「曠野の真中に横たわっているような気分」は一続きだ。そして、それは実は、新吉だけではなく、お国もお作も抱えていた宿痾なのだと今は思える。

 その宿痾を「神なき人間の悲惨」と言ってみる。

 ここでいう「神」とは、別に特定の宗教における神では必ずしもない。何やら「人間を超える存在」といった曖昧なものでいい。あるいは「存在」ですらない、「美」とか「善」とか、あるいは「無常観」というような観念でもいい。とにかく、人間の幸福感というものは、そのような「人間を超えるもの」とのつながりから生まれてくるのではないかということだ。そうした「人間を超えるもの」とのつながりがまったくない人間は、幸福感を抱くことはできない。それがぼくの直感だ。

 人間というものは、どんなに幸福を望んでも、それが成就することはない。それは人間がいつかは必ず死ぬ存在だからだ。どんなに激しい恋をしても、その恋は永続することはない。死によってそれが終わるということもあるが、それよりも、様々な人間的な軋轢は、恋をいつかはさましてしまう。ぼくらが人間関係の中に、幸福をみつけることができたとしても、それは結局いつかは醒める夢にすぎないだろう。

 ぼくらの幸福というものは、人間関係を「通して」得られるものが多いけれども、その人間関係を通して、その喜びを通して、「なにか分からないが人間を超えるもの」との接触を感じることで、その幸福は永遠に接続するものとなりうる。

 たとえば、恋人と肩を並べて見た星空。その時感じた「あるもの」。それは、その恋人と別れたあとも、消えずに残る。幸福は、「人間を超えるもの」とのつながりから生まれるというのは、そういうことだ。

 この『新所帯』という小説に出て来る人間は、一人としてこうした「人間を超えるもの」とのつながりを持っていないようにみえる。たとえていえば、「二次元」の世界の住人である。二次元の世界の住人が「迷路」で迷うと、なかなか脱出できない。垂直の次元がないから、上に動いて「壁を越える」ことができないのだ。

 新吉もお作もお国も、みな二次元の迷路のなかで迷っている。そして出口が見つからない。彼らは永久に幸福にはなれないだろう。

 「曠野(あれの)の真中に横たわっているような気がした」新吉の真上には、実は巨大な空が広がっている。その空とつながることで、新吉は自分の存在の意味を知ることができるかもしれない。お作も、その「空」とつながることで、新吉とお国しかいない狭い世界から脱出できるかもしれない。お国も、その「空」とつながることで、「千葉で身を落とす」以外の生き方を知ることができるかもしれないのだ。

 けれども、秋声はそうした道筋を彼らに与えようとしない。「人間関係」のもつれの中で出口のない生き方しかできない人間の姿をじっと見つめているのだ。

 ぼくらはそうした「悲惨な人間」の姿を知れば知るほど、人間をとりまく「別の次元」に気づかされる。人間は、人間だけで生きているわけではないこと。人間は自然の中で生きているということ。人間はひょっとしたら「人間ではないもの」「人間を超えるもの」に愛されているのかもしれないということ。つまりは、ぼくらの上には空があるということ。それが分かれば、迷路は抜け出せるはずだということ。そういうことに気づかされるのである。


 何の気なしに読み始めた『新所帯』だが、思いがけず長丁場になってしまった。

 今から20年以上も前にこの小説を初めて読んだのだが、その時は、あまりの救いのなさに驚き呆れ、なんというひどい小説だろうとしか思わなかった。明治の女性がどんなにひどい扱いをされたかは、この小説を読めば分かるとさえ思った。

 今回改めてゆっくりと読んでみて、徳田秋声の文章の見事さに感嘆した。と同時に、悲惨なのはお作だけではなく、新吉もお国もみな悲惨だと思った。この悲惨さはどこから来るのかを考えた。いちおうの結論めいたことは書いてみたけれど、これが最終結論であるということではなく、あくまで、今の時点でこう思ったということに過ぎない。

 秋声の小説が読むに値することは、はっきり分かったので、この後も続けて読んでいきたい。しかし、このシリーズでは、趣向を変えて、次回からは、志賀直哉の代表作『暗夜行路』を読むことにしたい。この傑作とも失敗作とも言われる巨大な小説に、どういう形で取り組んでいくかは、目下思案中である。きっと暗闇の中に行き惑うことになるだろうが。





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