俗に「末期の眼」はものを美しく見せるといふが、それは必ずしも現実の死にのぞむまでもなく、ものとの触れあひが慌しく過ぎて行くときにもなりたつものであらう。いはんや、現代は高齢化の時代であり、現実に老後の時間が延びるとともに、ひとびとが「余生」の時間を深く味はひ、それをいつくしむ時間も延びることになった。運命の偶然と環境の流動を痛切に感じる時間のなかで、ひとびとは孤独な自己の姿を見つめなほす機会を増やし、それと同時に、他人とともに満足を味はふ、幸福な自己の姿を確認する機会をも求めるはずなのである。
★山崎正和「柔らかい個人主義の誕生」中央公論社 1984
今からおよそ30年前に書かれた本。「求めるはずなのである。」という予見は、さて、当たっているのかどうか。
それはそれとして、最初の2行にいたく共感した。