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100のエッセイ・第10期・10 懐かしむ権利

2014-11-30 14:10:14 | 100のエッセイ・第10期

10 懐かしむ権利

2014.11.30


 

 過去ばかり振り返って懐かしがっていてはダメだと、ずっと言われ続けてきたような気がする。月光仮面じゃないけれど、どこの誰が言ったのかしらないが、誰もがみんなそう言われてきたと思っているのではなかろうか。

 じゃ、過去を振り返って懐かしがるのをやめて何をしろと言われてきたのかというと、前を見て進め、ということだったのだろうか。輝かしい未来に向かって前進せよ、ということだったのだろうか。中学、高校を過ごした栄光学園の校長グスタフ・フォス神父は、何かというと、「張り合いをもってガンバレ」と言っていたような気がする。「男らしく!」というフレーズも、「ら」をドイツ語風に巻き舌で何度も言っていたような気がする。今そんなことを言ったら、女性に叱られるに違いないが、その頃は、学校にはほとんど女性はいなかった。

 とにかく聞いているほうの耳まで酸っぱくなるほど「やるべきことを、やるべきときに、しっかりやれ」と言われ続けた。そのフレーズの中に「過去を懐かしむ」ことなんて入る余地もなかった。だから、「過去を懐かしんでいてはいけない」と思い込むしかなかったのかもしれない。

 それにぼくの少年期は、高度経済成長期のこととて、ドイツ人でなくても、日本人も、みんなそんな気分だったのかもしれない。

 だからというわけではないけれど、「過去のことを思い出して懐かしむ」なんてことは、「男らしく」なくて、「女々しく」て、「やるべきこと」をほったらかしにしているみたいで、イケナイことなんだと思って、ずっとこれまで生きてきたような気がどうもするのである。

 今、介護保険証をもらうほどの「高齢者」になって、「やるべきこと」も、それほどなくなり、まして「やるべきとき」もぼんやりとしていつだかわからなくなって、いつでもいいやなんて思うばかりで、まして「しっかりやれ」と言われても、千代の富士じゃないけれど、気力・体力ともに衰え、ほとんど限界を感じている身としては、「過去を振り返って、シミジミ懐かしがる以外に何があるってんだ。」って開き直りたい心境である。

 「思い出作り」という言葉が嫌いで、「これから思い出づくりに旅に出かけます」なんてセリフを耳にすると、なにいってやがる、センチメンタルもたいがいにしろ、っていつも怒っていたし、今でもその言葉は嫌いだが、生まれてこのかた65年という歳月によって「思い出」は自然に作られてきたことに間違いはない。その「思い出」も、苦いものが多くて、それを思い出すともう幸福感でいっぱいになるものなんてほんの数えるほどしかないけれど、それでも何にもないわけではない。

 けれどもそんな幸福感に満ちた思い出だけが、思い出ではなくて、あ、1枚の古い写真を見て、ああこんな風景もあったなあという、ちょっとした「懐かしさ」でも、今ではずいぶん貴重に思えるし、フォスさんだって、修道院の自室でひとり居るときは、そんな思い出に浸っていなかったという保証はない。

 思えば、ぼくらの「過去」こそは、「無尽蔵」(仏語。尽きることのない財宝を納める蔵。無限の功徳を有することをたとえていう。──日本国語大辞典)である。未来は、「未だ来たらず」がゆえに、何もない。何もない未来に向かって進むことは、それほど努力しなくても、誰にでもできる。朝起きただけで、「進んでいる」ことに一応はなる。もっとも、冬の寒い朝に、ベッドから出ることには、それ相応の努力はいるが、死ぬほどの努力ではないだろう。

 「ぼくの前に道はない。ぼくのあとに道ができる。」というのは、勇ましい言葉のように受け取られがちだが、何のことはない。ただ事実を言っているだけなのだ。どこをどう歩いても、道はできる。自然にできてしまうのだ。

 ぼくも、「道を切り開く」という意気込みで歩いてきたのではなく、脇見をしながら、あちこちほっつき歩いてきただけだ。それでも、ぼくの歩いたあとには、ぼくだけの道ができたはずだ。その道が、あるいはその道ばたが、過去というものだとすれば、それを「懐かしむ権利」だけは、すくなくともぼくには、ある。


 


 

  ■本日の蔵出しエッセイ シベリアのドイツ人(7/33)

ドイツ人気質について

 




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