goo blog サービス終了のお知らせ 

Yoz Art Space

エッセイ・書・写真・水彩画などのワンダーランド
更新終了となった「Yoz Home Page」の後継サイトです

一日一書 1722 寂然法門百首 70

2022-08-07 15:47:01 | 一日一書

 

心懐恋慕渇仰於仏

 

わかれにしその俤(おもかげ)の恋しきに夢にも見えよ山の端の月

 

半紙

 

【題出典】『法華経』64番歌題に同じ。


【題意】 心懐恋慕渇仰於仏

心に恋慕を懐き、仏を渇仰して


【歌の通釈】
別れてしまったあなたの(仏の)その面影が恋しくて、夢にだけでも現れてくれ、恋人よ山の端の月が昇るように(仏よ霊鷲山に)


【考】
恋人との死別。残された者は、せめて夢の中だけでもその姿に会いたいと願う。釈迦に先立たれた我々も同様の心になるではないか、と言った。『法華経』のこの場面を恋の情趣豊かに詠んだものとして、「思ひねの夢にもなどか見えざらんあかで入りにし山の端の月」(月詣集・釈教・心懐恋慕の心をよめる・一〇六三・殷富門院大輔)は影響歌。また、『発心集』第五・四「亡妻現身帰来夫家事」は、澄憲の語ったという、夫の強い心ゆえに亡妻が姿をあらわしたという話しを引き、「凡夫の愚かななるだにしかり。況や仏菩薩の類は、心をいたして見んと願はば、其の人の前にあらはれんと誓ひ給へり」と評する。これは、この左注の説き方と極めて類似している。長明や安居院の説法に、この『法門百首』が影響を与えている一端を窺うことができる。


(以上、『寂然法門百首全釈』山本章博著 による。)

 


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

一日一書 1721 寂然法門百首 69

2022-07-22 14:07:27 | 一日一書

 

但念寂滅不念余事

 

いづくにか心を寄せん浮波のあるかなきかに思ひ沈めば

 

半紙

 

【題出典】『摩訶止観』四・下


【題意】 但念寂滅不念余事

但だ(涅槃)寂滅を念じて余事を念ぜず


 
【歌の通釈】
どこに心を寄せようか、漂う波の底に沈むように、有るのか無いのかも分からないくらい思い込んでしまったので。

【参考】ことわりやかつわすられぬ我だにもあるかなきかに思ふ身なれば(和泉式部集・人の久しう音せぬに・二一〇)

 

【考】
我が身が消え入りそうなほど恋の思いに沈潜する心と、ただ安らかな悟りの境地に心を沈めることを重ね合わせた。
悟りの境地にいる心境は、恋に一心に沈む心境に通じていく。「あるかなきか」という句は、『法華経』随喜功徳品の、「世智不牢固、如水沫泡焔」を詠んだ「かげろふのあるかなきかの世の中にわれあるものと誰たのみけむ」(発心和歌集・四二)や、維摩経十喩を詠んだ「夏の日のてらしもはてぬかげろふのあるかなきかの身とはしらずや」(公任集・此身かげろうふのごとし・二九一)のように、世の中や我が身のはかなさを表す句として多く詠まれてきたが、左注のいうように、中道の理に思いを沈めるという、むしろ肯定的な意を持たせているのが新しい発想。


(以上、『寂然法門百首全釈』山本章博著 による。)

▼恋人への思いに駆られていると、自分の存在が「あるかなきか」という感じになってしまうというわけですが、このように「自分」というものが、案外はかないもので、恋などするとどこかに消えてしまうような存在として考えられているということは、ヨーロッパ文学や哲学では、普通のことなのだろうかと、ふと思います。
▼西欧の思考では、デカルトの「我思う、故に我あり」といったふうにどこまでいっても「自分」は、疑い得ないそんざいだということを懸命になって証明しようとしてきたのではないでしょうか。「我が身のはかなさ」を、西欧の人は、どう考え、どう表現してきたのだろうと、改めて思います。

 

 


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

一日一書 1720 寂然法門百首 68

2022-07-06 20:38:20 | 一日一書

 

未嘗睡眠

 

夢のうちにまどふ心を嘆きつつつゆ目もあはでいく夜明かしつ

 

半紙

 

【題出典】『法華経』序品(30番歌題に同じ)


【題意】 未嘗睡眠

未だ嘗て睡眠せずして


 
【歌の通釈】
夢の中では迷う心に嘆きながら、少しもまぶたを合わせることもなく、いくつの夜を明かしただろうか。

【参考】ぬる夜なく法を求めし人もあるを夢の中にて過す身ぞうき」(発心和歌集 未嘗睡眠……二五)

 

【考】迷う心を嘆きながら眠ることなく恋人を思い続けることと、迷いの世を嘆きながら仏道を求め続けることを重ねた。右の『発心和歌集』では、睡眠せず修行する菩薩とはかなく夢の中で過ごす人とが対立するものとして詠まれるが、ここでは両者を同質のものとして並行させて詠む。
 季広「法門百首」は「昔よりまどろむこともなきものをいかでうき世を夢と見るらん」(続詞花集・釈教•雑・四四五/今撰集・雑・二〇九)と詠む。昔から睡眠せず修行してきたのに、どうしてこの世を夢と見ているのだろうか。目を覚ませばこのうき世こそ迷いのない世界であるといったもの。必ずしも恋歌として詠まれていないように思われる。


(以上、『寂然法門百首全釈』山本章博著 による。)

 

 


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

一日一書 1719 寂然法門百首 67

2022-06-14 15:48:45 | 一日一書

 

一向求菩提

 


入りがたき門とは聞けど錦木の立つる心はただ一筋に 

 

半紙


金文

 

【題出典】『華厳経』六


【題意】 一向求菩提

一向に菩提を求めて


 
【歌の通釈】
あなたの家は(仏道は)入ることが難しい門とは聞いているが、錦木を立てる(発心する)、その心はただ一筋に真直ぐである
【語釈】錦木=陸奥の風習で。男が女に思いを伝える際、女の門前に木を立て。女が受け入れる場合はそれを取り、受け入れない場合はそれをそのままにしておく。受け入れられなかった場合、男はさらに木を千束を限りに立て続け、その思いの強さを伝えるというもの。錦木はその立てる木のこと。


【考】
初めて発心する人がひたすらに菩提を求める姿と、恋を告白する若者が一心に錦木を立てる姿を重ね合わせた。この錦木を用いて恋と仏道を詠む歌がこの後散見される。「にしきぎを千束立つるをかずとして南無阿弥陀仏と日々にとなふる」(粟田口別当入道集・恋阿弥陀仏といふ心を・一七九)、「あぢきなしいざこり立つる錦木を法のためにとなひかへてん」(林葉集・恋催道心・八八六)、「さりともと立てし錦木こりはててけふ大原に墨染の身ぞ」(月詣集・恋中・加茂卅講五巻日、重保が家にて恋変道心といふことを人々よみ侍りけるに・四七七・澄憲)。いずれも影響下にあるものであろう。またここに見られる「恋阿弥陀仏」「恋催道心」「恋変道心」などという歌題の流行も、この『法門百首』恋部を受けてのものと考えられる。


(以上、『寂然法門百首全釈』山本章博著 による。)

 

 


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

一日一書 1718 寂然法門百首 66

2022-05-30 08:48:18 | 一日一書

 

不自惜身命

 


かりそめの色のゆかりの恋にだにあふには身をも惜しみやはせし
 

 

半紙

 

小篆

 

【題出典】『法華経』寿量品


【題意】 不自惜身命

自ら身命を惜しまざれば


 
【歌の通釈】
はかなさと縁のある恋でさえ、逢うことに身は惜しんだだろうか。ましてや仏に逢うためならば惜しむことなどないはずだ。


【考】

はかない恋のために身を捧げることができるのなら、永遠の仏に会うために身を惜しまず修行することなどたやすいことだろうという趣向。恋心を昇華して仏道を求める心に仕向けようとする。勝命法師の「かりそめのうき世ばかりの恋にだにあふに命を惜しみやはする」(玉葉集・釈教・二六六六)、また法然の「かりそめの色のゆかりの恋にだにあふには身をもおしみやはする」(空華和歌集)と、酷似する歌が見られる。この歌が唱導的な内容であることから、他の高僧のものとして伝わっていったのだろう。また、定家は『殷富門院大輔百首』「寄法文恋五首」の中の「我不愛身命」題で「あぢきなやかみなき道ををしむかは命をすてん恋の山辺に」(拾遺愚草・二九七)と詠んでいて、これも影響歌であろう。そもそもこの「寄法文恋」というような題自体が、『法門百首』恋部の試みに剌激されてのものである。


(以上、『寂然法門百首全釈』山本章博著 による。)


---------------------

▼恋の想いを神への想いに昇華するということは、すでに旧約聖書に見られます。つまり「雅歌」と呼ばれるのがそれです。人間の考えることというのは、実は、みな「同じ」なのかもしれません。結局は「一つの種」なのですから。

 


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする