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100のエッセイ・第9期・70 贅沢な時間

2014-03-14 14:16:51 | 100のエッセイ・第9期

70 贅沢な時間

2014.3.14


 

 石川淳が、永井荷風の晩年の随筆は、愚かな老人の愚痴にすぎないと、こきおろしている。その原因として、本来、随筆を書く基本的な条件は、本を読む習慣があることと、金に困らないことの二つをあげている。晩年の荷風は、ろくに本も読まずに、精神は硬直してなんの柔軟性もないと断じているわけである。金のことに関しては、ちょっと複雑なのでここでは触れないが、特に西洋のエッセイというものは、「読書」なしには生まれないのだということは注目に値する。確か、このようなことは、他の誰かも言っていたように思う。

 石川淳はさらに、「本のはなしを書かなくても、根底に書巻をひそめないやうな随筆はあさはかなものと踏みたふしてよい。」と断じている。

 どうして、本を読まないと「あさはかな」随筆になるのかというと、石川流に言えば、精神が硬直して、柔軟性を失うからだということだろう。いくら年の功とはいえ、自分の信念に凝り固まった老人が、今の世の中を嘆く随筆を書いても、結局は「老人の愚痴」にしかならないということだろう。

 ぼくも調子にのって、えんえんとこんなエッセイを書き続けているが、石川淳に言わせれば、きっと「愚かな老人の愚痴」ということになってしまっているに違いない。せめてそのことだけでも自覚して、少しでもそうならないような努力はしたいものだとは思う。

 だからというわけでもないが、最近読んだ本の中から、ちょっと気に入った文章を紹介したい。最近読んだとはいっても、文章は古いものである。井上靖の「とりとめもない時間」という随筆から。これは、「一年の計は何か」というアンケートに触発されて書かれたものらしい。

 今年、もう一つ自分に課していることは、少しでも時間ができたら、古いものの収められている博物館や美術館に足を踏み入れるということである。こうしたところには、特別の展覧でもある時以外、なかなか出掛けて行かないが、考えてみればもったいない話である。
 昨年の暮れに久しぶりで東京博物館に行って、二時間ほど館内を歩いた。特別な催しもののある時ではなかったので、館内は閑散としていて、自分の足音が気になるような静けさであった。
 私は館内をゆっくりと歩きながら、めったにこれだけ贅沢な時間の過ごし方はないだろうと思った。見たいものは見、見たくないものの前は素通りする。たいへんわがままな自分本位の見方であるが、こういうことのできるのは、博物館とか、美術館とかいったところだけである。こうした自分本位の、誰からも犯されない時間が流れている場所は、ほかにはなさそうである。外国の美術館でも同じであるが、この場合は、めったに来ることはできないと思うので、一応何でも見ておこうといった気持ちになる。日本の場合は、それほど欲深い気持ちにはならない。
 美術品というのは、ただ見るだけである。こちらが語りかけない限り、いつも黙っている。その替わり、こちらが語りかけて行けば、いくらでも向こうから語りかけて来る。その前にいつまで立っていようと、すぐそこから離れようと自由である。音楽を聞くにも、演劇を見るにも、書物を読むにも、時間が必要だが、その点美術品というものは少しもこちらを束縛しない。
 そうしたものが並んでいる博物館とか、美術館といったところは、現代で最も有難い贅沢な場所である。そこに居る限り、ひどく上等なものに取り巻かれているが、いささかも犯されることはないのである。

作品社「日本の名随筆・91 時間」所収。


 ぼくも、特別展があるときは、東京国立博物館などへはよく行くのだが、そうしたときに、特別展がないときに、ゆっくり東洋館だの、法隆寺国宝館だのを見るのもいいなあと思ったことがある。昨日、この文章を読んで、そうだ、この手があるなあと思った。

 とにかく、「定年後」が思いがけず1年前倒しでやってきて、「ほとんどまったく自由な時間」をどう過ごすかが、おおきな問題となってきている。もちろん、いろいろとやりたいことはあるのだが、それでも、もう少し何かないかと思っていたので、「これはいける」と思ったわけだ。

 ようやく手に入れた自由な時間なら、できるかぎりその時間を「贅沢」に過ごしたい。しかし、その「贅沢」とは、「ほんとう贅沢」でありたい。ありがねはたいて、世界一周のクルーズに出掛けるだけが「贅沢」ではなかろう。何が、「ほんとうの贅沢」なのかを見極めるためには、世俗的な価値観によってすっかり硬直しきった精神を解きほぐし、柔軟な思考をめぐらし、「自分本位」の価値を見いだすしかないということだろうか。


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100のエッセイ・第9期・69 脱いだ背広をどうするか

2014-03-12 19:12:53 | 100のエッセイ・第9期

69 脱いだ背広をどうするか

2014.3.12


 

 テレビドラマを見ていて、いつも気になるのは、刑事でも、サラリーマンでもいいが、とにかく亭主が家に帰ってきたとき、背広も脱がず、ネクタイもはずさずに、奥さんとしゃべったり、喧嘩したり、御飯を食べたりすることである。どうしてまず着替えないのだろうと、いつも気になるのだ。

 ぼくは、いわゆるサラリーマン生活から、とうとう引退してしまったけれど、つい最近まで、学校から家に帰ってくると、何はともあれ着替えたものだ。ネクタイはめったにしなくなっていたが、それでも、学校用のシャツは一刻もはやく脱ぎたかった。それを着がえもしないで、そのまま食卓につくなんて考えられない。

 テレビドラマの場合は、ひょっとしたら、時間を節約するために、わざわざ着替えるシーンを入れないということなのだろうが、その割には、つまらぬギャグをえんえんと入れたりしているから、時間の節約というよりは、衣装代の節約なのかもしれない。そうやって、細部のリアリズムを無視するから、日本のテレビドラマは、いつまでたってもレベルが低いのかもしれない。

 このところ、ヒマにまかせて、戦前から戦後にかけての、小津安二郎の映画を立て続けに見ているのだが、ほとんどの映画に共通したシーンがあって、それはそれで、テレビドラマとは違った意味で、気になってしかたがない。

 小津の映画では、亭主が家に帰ってくると、女房がいる場合は(いない場合は娘だったりするが)、必ず女房が、茶の間で、亭主の着がえを手伝う。それは「サザエさん」でも同じことで、会社から帰った波平はタンスの前で必ず着物に着替える。それを舟さんが必ず手伝う。ただその場合、詳しく分析的に見ているわけではないから正確には言えないが、ほとんど着物に着替えた波平が描かれ、波平が背広を脱ぐシーンはないように思う。

 小津の映画の場合、ぼくが気になってしょうがないのが、亭主が背広やズボンを脱ぐシーンだ。そのシーンでは、ほとんど98パーセント(100パーセントと書けないのは、シャツを手渡すシーンがどこかに一カ所あったからである。)亭主は自分の脱いだ背広やズボンを、すぐ近くにいる女房に手渡さないで、畳の上に落とすのだ。まるで、そら拾え、それがお前の仕事だと言わんばかりの仕草に見える。

 これには、びっくりする。同じ作品のどのシーンでも、別の作品でも、必ずといっていいほどそうなのだ。女房は立っているから、それをわざわざ腰をかがめて拾わなければならない。それなのに、女房は、文句も言わずに畳の上に放り投げられた背広やズボンを拾いあげて、かたづけるのだ。ちょっと手を伸ばせば、脱いだ背広やズボンを女房に手渡せるのに、それをしないのは、なぜなのだろうか、と思って見ていると、あまりの男の横柄さに腹が立ってくる。それが、夫婦喧嘩の真っ最中なら、そういうこともあるだろうと納得もできる。しかし、ぜんぜん喧嘩などしていなくて、むしろ、仲睦まじく話をしているシーンでもそうなのだ。ほんとに気になる。

 あれは、当時の一般的な習慣を、小津監督が忠実に再現しているのだろうか。それとも、小津監督の意図的な演出なのだろうか。それとも、小津監督は独身だったから、夫婦ってそんなもんだと思っていたのだろうか。でも、それなら、周囲の人が、監督、それはおかしいですよ、普通は手渡しますよ、とか意見を言ってもよさそうなものだが、そんな余計な口は一切挟ませなかったのだろうか。小津の研究をしているわけではないから、よく分からないが、誰かがこの件について、どこかで論文でも書いていないだろうか。

 まあ、それにしても、昔の女性は大変だったんだなあと、しみじみと思う。よく耐えたものだなあと、しみじみ思う。今、この日本に、会社から帰ってきた亭主の着がえを手伝いにくる妻などというモノがいるだろうか。万一いたとしても、その目の前で、脱いだ背広だのズボンなどを、床に放り出そうものなら、亭主の方が家から放り出されるに違いない。いい時代になったものである。

 

 


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100のエッセイ・第9期・68 「何ができるか?」の呪縛

2014-03-05 16:10:36 | 100のエッセイ・第9期

68 「何ができるか?」の呪縛

2014.3.5


 

 中学生のころ、「倫理」という教科があった。栄光学園はカトリック校だから、「宗教」の時間もあったのだろうと思う人が多いかもしれないが、「宗教」ではなくて、あくまで「倫理」という名称にこだわっていたようだ。宗教そのものは、あくまで自由に学ぶべきものであり、押しつけたくないという考えが、はっきりとあったのである。だから、教室に十字架が飾られているわけでも、朝のお祈りがあるわけでもなかった。

 その「倫理」という教科は、宗教そのものを教えるわけではないが、カトリックの世界観に基づいて、人間の生き方を考えるという教科だった。

 ぼくは、なぜか、小学生の頃から「人間は何のために生きるのか」というような問題に関心があったので、この「倫理」の時間は大好きだった。

 中1だったか、中2だったか、それとも中3だったか忘れたが、「人間は何のために生きているのか。」がダイレクトに話題になったことがあった。答えは「人の役に立つために生きているのだ。」ということに落ち着いた。これは、今でも、栄光学園の最高の校是「マン・フォー・アザーズ(他者のために人間)」として脈々と生きている考えだ。

 しかし、その授業では、さらに深い展開があった。人は元気で、力いっぱい働けるときは、「人の役に立つ」ことができる。しかし、病気で、たとえばベッドに寝たきりになったような場合はどうなのか。それでも何か「人の役に立つ」ことができるのか、という問いかけが、神父からあった。(教科担当はだいたい神父だった。)ベッドに寝たきりで、動くことも、話すこともできない、ただただ人に迷惑をかけることしかできないような人間でも、なにか「人の役に立てる」のか、考えよというのだ。ぼくがその時、どう考えたかは、もちろん覚えていない。ただ、深い疑問として残ったことだけは確かだ。いまだにその授業を覚えているのだから。そして、神父が言った「結論」も、よく覚えている。それは「人のために祈ることができる。」という答えだった。

 その時、ぼくは、まあ、お祈りを唱えることは確かにできるな、という程度で納得したのだろうか。それとも納得できなかったのだろうか。もちろん覚えていない。しかし、その時、そう納得すれば、「分かった」ということで、質問そのものも忘れてしまうものだ。けれども、質問そのものが鮮明に残っているということは、あまり納得できなかったからだと考えることもできる。

 今回の病気は、「なぜ人は生きるのか」を考えざるを得ないような体験だったわけだが、いま、何となく思うのは、「他者のための人間」という考え方は、どこか、「人のために尽くす」という積極的な行動の価値を強く強調しすぎているのではないかということだ。イエズス会という、カトリックの中でも、もっとも社会的な行動を重視する修道会のかかげる理念だから、当然といえば当然なのだが、どこか欠けている視点があるのではないか。

 例えば、大雪が降る。家の前はもう歩けないほどの積雪だ。何とかして除雪しなければ家族が怪我をする。近所のお年寄りも大変だ。そうした場合、「他者のための人間」は、積極的に外へ出て雪かきをするだろう。そのとき、手術後のぼくは、雪かきなんてできない。(実際には少しだけしたけれど。)まして、寝たきりの老人は絶対にできない。じゃあ、そのとき、その寝たきりの老人は何ができるのか。それは「雪かきをしている人が怪我をしませんように。」と祈ることだということになるのか。それはそれで間違ったことではない。でも、こういうものごとの並べ方、問いの立て方はどこか間違っているように思えてならない。

 つまり「寝たきりの老人に何ができるか?」という問い自体が間違っているのではなかろうか、ということなのだ。人間というものは、「何ができるか」で、その価値が判断されるのではないのではないか。もし「祈ることができる」というのが最終的な答えなら、祈る言葉すら失った病人は、いったい「何ができる」というのだろうか。

 ぼくの年下の友人で、あるカトリック校の校長をしている人がいる。その彼が、今年の卒業式の式辞で、こんなことを語ったという。(詳細はこちらをどうぞ。)

 一人ひとり固有の価値と使命をいただいているあなた方は、既にそのことによって、そのことを引き受け、生き続けることによって、神様に愛されています。

 この言葉に、ぼくは深く心を動かされた。ここには、「何ができるか?」という問いはいっさいない。ただ、人間は、ひとりひとりが与えられた人生を、引き受けて生き続けるだけでいいのだということなのだ。「何ができるか?」と問われるのではなくて、「もうすでに、生きていることで、(神に、あるいは人に)愛されている。」という意識あるいは認識。これが、ぼくらの人生をどれだけ豊かに、そして楽にしてくれることか。「何ができるか?」の呪縛にとらわれる前に、ぼくらは、このことをしっかりと考えておかねばならない。

 ちなみに、この式辞を聞いていた教職員の何人かは、泣いた、という。ぼくもその場にいたら、きっと泣いたろう。

 


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100のエッセイ・第9期・67 ICUは夢空間

2014-03-02 16:19:10 | 100のエッセイ・第9期

67 ICUは夢空間

2014.3.2


 


 ICU(集中治療室)というと、何だかすごく怖いイメージがある。サスペンスなんかだと、たいていは、ガラス張りの部屋で人工呼吸器をつけている患者がひとりいて、「今夜が峠です。」とか医者から言われた家族が、その姿を廊下みたいなところかハラハラしながら見守るといったシーンが頻繁に出てくるので、そんな部屋なのだろうと思っていた。手術が手術なだけに、手術が終わった後はICUに入っていただきます、という説明が事前にあって、手術前に「見学」をしたときもドキドキした。

 実際に見てみると意外に広々とした部屋で、6床ほどの(もっと多かったか?)ベッドがカーテンで仕切られてずらっと並び、その一番奥に、完全な個室の病室があった。ここがいちばん重症な患者が入る部屋で、そこにはありとあらゆる事態に対応できるように様々な医療器具が揃っていた。この個室の中で、説明を担当医師から説明を聞いた。たぶん、山本さんは、あちらのカーテンで仕切られたベッドだと思いますが、まあ、とにかく、何日かこちらで過ごしていただくことになります。ここを出られれば、まずひと安心ということになりますね、と小柄な男性医師が言った。そうか、出られないということもあるのだなあ、そういう場合は、この個室で死ぬということか、とふと思ったが、そんなに深刻には考えなかった。

 ここには、専属の医師が必ず常駐しています。また患者さん二人に対して一人の看護師も常駐してお世話をします、と言いながら、ずらっと並んだベッドのある部屋を見て、あそこに並んでいるのは、どんな症状にも対応できる薬です、と言う。ベッドが並んでいる側の向かい側に、大きな長いカウンターがあって、その向こうに、看護師や医師の姿がチラホラ見え、その背後の壁一面にぎっしりと薬が並んだ棚がある。テレビでおなじみのICUとはまるで違っていた。

 そのICUで、ぼくは、麻酔から目覚め、鈴木先生と握手をし、家内と携帯で話したのだと思う。その日を含めて、2日間、ICUにいたのだが、ここで過ごした期間は、あらかじめ医者にも「ICUでは、少し麻酔をかけて、うつらうつらという状態にさせていただきます。」と説明を受けていたとおり、非常に不思議な体験をしたのだった。

 何よりも印象的だったのは、夜の照明である。いろいろな処置をしなければならないので、あまり暗くはしませんと言われてはいたが、この照明がものすごくお洒落なのである。どういう器具を使っているのか知らないが、最高級の間接照明のような感じで、濃いブルーのなかにうっすらとオレンジ系の光、という感じだったろうか。ベッドからは、カウンターが見えるのだが、そのカウンターの中に立っている看護師や医師は、バーテンダーのように見え、その後ろの壁の棚にぎっしりとならんだ薬は、ありとあらゆる種類の酒に見えた。スコッチウイスキー、バーボン、シェリー、ブランデー、ラム、といった洋酒系のイメージだ。しかも、ベッドの合間を、看護師がゆったりと歩いて患者の世話をしている。まるで、銀座の超高級クラブのようではないか。(行ったことはありません。あくまで勝手に描いているイメージです。)こんなICUがあったのだ。これで体さえ何ともなければ天国だ。

 体さえ何ともなければ、なんて、バカな仮定にもほどがあるが、ここではこの体が一番の問題なわけだ。ぼくの場合は、痛みはまったく感じなかった。大きなキズが出来ているのだが、痛みどめの点滴で完全に痛みはない。いちばん辛かったのが、口の中の渇きだ。とにかく渇いて舌が引きつる。我慢できないと、看護師さんを呼ぶと、すぐに来てくれて、水を飲ませてくれる。口をしめらす程度だが、それでもすごく楽になる。でもすぐにまた渇く。また看護師さんを呼ぶ。看護師さんは、何度でも来てくれる。

 口は酸素吸入マスクで覆われている。半分朦朧としているのだが、それでも眠ろうとする。ところが、眠れない。そのうち、酸素吸入マスクから聞こえてくるゴボゴボという音が妙に気になりだした。そのうち、どうも、何か言っているように聞こえてきた。ちょうど、AM放送のチャンネルを回していくと、雑音に混じって北朝鮮だかなんだかしらないが、そっちの方の放送らしきものがとぎれとぎれに聞こえてくることがあるが、そんな感じである。こうなるともう気になって寝られない。そのうち、言葉がはっきりと聞こえるようになった。「ザーザー、ゴボゴボ、ニッポンガンバレ、ゴボゴボ、ゲンパツゼロ、ザーザー、ソウダガンバレ、ニッポンバンザイ、ゴボゴボ、ザーザー、ゲンパツゼロ………」これが無限に繰り返される。いろんな言葉が聞こえたが、とにかく「ゲンパツゼロ」だけは、繰り返しはっきりと聞こえる。

 ぼくはもう耐えられなくて、看護師さんを呼んで「ねえ、この酸素吸入器、うるさいんだけど。何か言ってるよ。どこかのラジオの電波と混線してるんじゃないかなあ。」とあえぐような声で言うと、さすがに看護師さんも、首をひねって、そうですかあ、というばかり。しかし、あまりに何度も同じことをぼくが訴えるので、とうとう違うタイプの酸素吸入器に交換してくれた。こんどは、まったく音のしないものだった。それにしても、酸素吸入器のゴボゴボ言う音に、どうやってラジオの電波が混線するというのか、そんなことはあり得ないことなのに、結構まじめにそういうこともあるんじゃないだろうか、と思ったのも、麻酔によって頭が混乱していたからだろう。

 混乱には、もう一つ、びっくりするようなことがあった。それは時間感覚である。病院の夜というものは、いくら銀座の高級クラブのような雰囲気だといっても、心地良いものではもちろんない。できれば、早く夜があけて、次の日を迎え、出来れば一刻もはやくこのICUを出たい、そう思うのが自然の人情だろう。だから、夜、目が覚めているときは、時計をよく見た。ベッドから丁度正面に壁時計が見えた。ところが、この時計がちっとも先へ進まないのだ。もちろん、止まっているわけではない。けれども、たとえば、家で寝られない夜に、何とか目を閉じていて、さあどのくらい経ったろうと時計を見て、まだ30分しか経っていないと思ってがっかりするということがあるが、それが同じ事をしても、せいぜい1分しか経っていないのである。最初は驚いた。何度目をつぶって寝てみても、時間はちっとも進まない。せいぜい3分とか5分とかしか経たないのである。これも麻酔のせいだろうが、もしも普段の生活で、こんなに時間が進まなかったら、いったい人生はどれほど長く、どれほど耐えがたいものだろうと、朦朧とした頭で考えたのだった。

 そのうち、今度は、目をつぶるとかえって視界全面がiPadの画面になり、ものすごく綺麗な色で、つぎつぎとよく分からない映像が映し出されるようになった。何の画像なのだか分からないのだが、とにかく極彩色で、これもまた寝られたものではない。目を開けた方がよほど暗いのだから。病棟のベッドでは、携帯の通話は禁止だったが、メールは自由だったので、iPadでメールを書いたり、ネットサーフィンをしていたのがいけなかったのか、とにかく、鑑賞したくなるほど綺麗だった。

 そんなこんなで、眠れない、ある意味幻想的な夜を二晩(意識があったのは一晩だったはず)過ごして、ICUを後にした。

 その後、一般病棟へ移るための様々な処置をするHCUという部屋で2日を過ごし、手術から4日後には、一般病棟に戻ったのだった。

 


 

ながらく連載してきました「入院」シリーズ(?)は、これで、ひとまず完結とします。

今後は、以前のような気楽なエッセイに戻りますので

引き続きご愛読ください。 

 


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100のエッセイ・第9期・66 大きな手

2014-02-24 16:13:15 | 100のエッセイ・第9期

66 大きな手

2014.2.24


 

 手術は、1月10日に行われた。その2日前に、家族も同席のうえで詳細な説明が鈴木先生からあった。ぼくは家内が同席すればそれでいいと思ってそう鈴木先生に言うと、「いや、息子さんにも同席していただいたほうがいいと思います。やっぱり、それなりの手術ですから。」と言う。そうか、そうだよなあ、「それなりの手術」ということは、「決して安全ではない、命にかかわる大きな手術」という意味だろう。それで、長男と次男も同席して、その説明を聞いたのだった。

 詳しいことはとてもここに書き切れないが、とにかく、大動脈瘤のある部分の血管を人工血管と取り替える、そのために、胸を開き、一端心臓を停止させ、人工心肺で置き換え、体温も低くしておいて(ぼくの血液をどれくらいか分からないが抜き取って、それを冷やして再注入することで体温を下げるのだそうだ。)、その間に人工血管と本当の血管を縫い合わせる、というようなことだった。人工血管は、ゴアテックスという素材で出来ていて、大変優秀な製品だということだった。「心臓カテーテル検査」で、卒倒しかかったぼくだが、話がここまで来ると、「いったいそんなことができるのか?」とか、「心臓を一端止めるっていうけど、その間にほんとうに縫い終わるの?」とか、もう無数に出てきそうな疑問も、まるで出てくる余地もなく、ただただ他人事のように、「ほう。」とか「へえ~!」とか、ひたすら感心して聞いているだけだった。

 説明の終わりころに、鈴木先生は、最初のレントゲン写真をしげしげと見ながら「それにしても、この写真で、大動脈瘤を見つけるなんてことは、わたしにはできません。だって、ほとんど何にも見えてないんですからね。」と言った。あしかり先生のすごさを改めて実感したのだった。

 手術の前日は、麻酔科の担当医、手術室の看護師(この方は、宮城先生の知り合いで、宮城先生からもよろしくと言われていますと言っていた。ほんとうにどこまで行っても、つながる縁で、ありがたかった。)などが次々に病室に挨拶に来た。やっぱり、手術ともなればものものしく、ただならぬ緊張感が漂い始めていた。

 手術当日は、朝の8時半に手術室到着ですからと言われていた。直前にベッドで血圧を測られたが、いったいどれくらいまで上がっていることだろうと思ったら、何と130ほどしかなかった。予想に反して、ちっとも、ドキドキしていないのである。まな板の上の鯉よろしく、もう完全に観念したということなのだろうかと、自分で自分が不思議に思えるぐらいだった。

 病棟は7階、手術室は4階。手術室までは、ベッドに寝かされて、半分麻酔で朦朧としながら行くのだろうと思っていたら、あにはからんや、歩いて行くのだという。「5年ぐらい前までは、ベッドで手術室に運ばれたんですけどねえ。近ごろは、歩いて行くんですよ。」と看護師は言っていた。ぼくと家内と看護師の3人で、病室を出て、エレベータで4階まで行き、大きなガラスドアの前で家内と別れ、看護師と2人で手術室へ向かった。

 手術室は、「心臓カテーテル検査」の部屋よりは小さく感じられたが、やはり10人ほどの医師や看護師たちがにこやかに迎えてくれた。こんどはちっともジタバタしていない。冷静そのもの(?)である。名前を聞かれる。(とにかく病院では何をするにも名前を聞かれる。足の裏にも、マジックで黒々と「山本洋三」と書かされた。)「山本洋三です。よろしくお願いします。」としっかり答える。手術台に寝る。さっと何人かがぼくの周りを取り囲む。酸素マスクのようなものが口にあてがわれ、「さあ、新鮮な酸素で肺をいっぱいにしましょうね。」という女性の声がする。そしてそのあと、「じゃあ点滴を入れます。」の声。そしてそれっきり。あとは、まったく知らない。だから細かいことは書きようがない。全身麻酔はこれで2度目だが、ほんとうにすごいとしかいいようがない。

 手術は4時ごろ予定どおり終了したそうだ。約7時間半ほどかかったことになる。その後、人工呼吸器をつけたままICU(集中治療室)に移された。人工呼吸器が外されたのが、夜中の3時ごろ、そして、11日の朝8時ごろぼくは麻酔から覚めた、ということらしい。

 目覚めると、ぼくの真上に、白衣を着た鈴木先生の巨大な体がそびえていた。「山本先生! 手術は成功しました。おめでとうございます!」大きな声でそういって、満面の笑みをたたえた先生は、いきなりぼくに握手を求めてきた。(この時の印象が、「宇宙船に乗って宇宙から帰還したような感じ」として心に強烈に残った。この一連の最初のエッセイで、「宇宙からの帰還?」と題したのも、実はこの感じがあったからだろうと思う。)

 ぼくは朦朧としていたが、それでも先生としっかり握手をした。その手はまるでグローブのように分厚く大きく暖かく固かった。ぼくは驚愕した。こんなに大きな手で、あの繊細きわまる手術をしたのだろうか。その驚愕の中、今度は先生は携帯で家内に電話をして、「今、ご主人が目を覚まされました。とても元気です。」と報告をし、その携帯をぼくに渡した。ぼくはもうわけもわからないままに、携帯で家内に「大丈夫だ。」とか何とか言ったように思う。携帯の向こうで、家内の喜ぶ声がはっきり聞こえた。家内は、昨日からの長時間の手術を待ち、夜、家に帰ったわけだが、心労で、朝はもうめまいがして起き上がれない状態だったという。そのためその日は病院へ来ることもできなかったのだが、ぼくの声を直接聞くことができてとても嬉しかったという。鈴木先生は、その後も、節目節目の大事なことを、いちいち家内に電話をして報告してくれたのだった。

 退院のときに、そのことについて家内がお礼を言うと、鈴木先生は「アメリカに留学していたとき、恩師の教授から教えていただいたのは、何よりも患者さんやご家族との信頼関係が大切だということでしたから。それに人間関係の大切さは、栄光学園で学びましたからね。」と言った。栄光学園の教育も、このように生かされているとしたら、素晴らしいことだが、やはり、そのように教えられたことをきちんと生かす人が素晴らしいのだといったほうがいいだろう。

 それにしても、ぼくには、どうしても確かめたいことがひとつあった。鈴木先生の手はあんなに大きいのだろうか。あれは、麻酔がまだ半分かかっていた故のぼくの錯覚ではなかろうか、ということだった。それで話が一段落した後、「先生、握手してください。」とお願いした。やっぱり大きくて分厚くて固い手だった。「先生、血管と人工血管は、やっぱり手で縫うんですか。」と聞いてみた。「そうです。」「よくそんな細かいことができますね。」「練習です。毎日練習しています。イチローだってそうですよね。とにかく練習をするんです。」

 鈴木先生は、栄光在学時代は、運動部で体を鍛えたのだそうだ。外科医になって以来、自分の病気で病院を休んだことはないんです、医者は体力が何より大事なんですよ、と言う先生の言葉を聞きながら、やっぱりこういう仕事こそ、「本当の仕事」なんだなあ、オレが今までやってきた教師の仕事なんて、舌先三寸の、まったく仕事なんていうには甘すぎる仕事だったなあとつくづく思ったのだった。

 

 


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