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100のエッセイ・第9期・65 とまどう確率

2014-02-20 13:01:09 | 100のエッセイ・第9期

65 とまどう確率

2014.2.20


 

 検査にも、同意書にサインを求められるものとそうでないものの2種類がある。同意書というのは、実は詳しく読んだことはないが、要するに、この検査のリスクを承知の上で、つまり同意して、検査を受けますという書類である。これは、コンピュータのソフトをインストールするときなども、必ずといっていいほど現れるもので、珍しいものではない。

 前回書いた「心臓カテーテル検査」は、ぼくだけではなく、家内のサインまで求められた。しかし、たとえば、胸や腹のレントゲン検査や、採血などは、同意書などない。そんな検査で死ぬことなんてまずないからである。しかし、採血などは、死なないまでも、血を採られている間に気分が悪くなってしまう人は結構いる。ぼくも1度だけ、気の遠くなるような気分になったことがある。でも、「採血中に気分が悪くなっても文句なんか言いません。」などという同意書など書かない。レントゲン検査なんて、ただ立っているだけだから、問題はないはずだが、しかしよく考えてみると、一定量の放射線を浴びるのだから、なんの問題がないわけではないわけだが、それでも、「私はこのレントゲン検査による被爆についてよく知っており、それによって将来なんらかの病気になるリスクをよく知ってこの検査を受けます。」なんて同意書は書かない。

 CTスキャンの検査も同意書なしだが、これが、造影剤CTスキャンになると、ちゃんと同意書にサインを求められる。その前に、検査の担当医師が説明をする。数字はよく覚えていないが、造影剤にアレルギー反応を起こす人がいて、千人に1人ぐらいが、軽いアレルギー症状(たぶん湿疹など)を起こし、1万人に1人ぐらいが、アレルギー反応で血圧が低下し、そして10万に1人ぐらいが死にます、とかいう説明を義務的に淡々とするのである。

 手術の前にこの検査を受けたときには、10万人に1人が死ぬと言われても、何とも思わなかった。そんな確率は問題にならない。何しろ、ぼくのこれから受ける手術は、20人に1人は死ぬと言われたのだ。(つまり死亡確率5パーセント)そんな手術を受ける人間が、10万人に1人死にますけどいいですか、と言われてビビるわけがないではないか。

 ところが、20人に1人が死ぬと言われる手術を無事に終えて、退院の話もチラホラ出始めたころ、血管や心臓の最終チェックとして、もう一度この造影剤CTスキャン検査を受けることになった。その前日、病室に検査の担当医がやって来て、同意書にサインしてほしいと言う。例によって、リスクの確率を機械的に説明した後、「まあ、年末に1度受けていらっしゃるのですから、たぶん大丈夫なんですけどね。ただ、ときどきいらっしゃるんですよ。前に受けた検査で、抗体ができたりすることが稀にあるんです。」なんて言う。スズメバチも、二度目に刺されると危ない、なんてことが瞬間的に思い出され、急に不安になってしまった。何もそこまで言わなくてもいいじゃないか。「たぶん大丈夫」なら、それでいいじゃないのって思ったが、まあ医療現場というものは、念には念をいれるのだろう。しかしまた、随分前の話だが、胆石の造影剤検査で亡くなった知人がいたことも思い出され、ますます嫌な気分になっていった。

 翌日、その検査を待っているときも気分は最悪だった。せっかく20人に1人は死ぬという危険な手術が成功したのに、確認のために受けた造影剤CTスキャン検査で死んじゃったらマヌケだよなあ、とつくづく思った。20人に1人だろうが、10万人に1人だろうが、患者にとっては、生きるか死ぬかの五分五分ではないか。10万人の中の1人にぼくが絶対ならないなんて保証はないんだ。そんなことを思って、思い切り落ち込んだ気分で、検査に呼ばれるのを待った。

 そんなことで落ち込むなんてオカシイと思う人も多いだろうが、しかしそれなら、10万人に1人も当たるかどうか分からないジャンボ宝くじを買って、「当たったら何を買おうか。」なんて浮かれてる人だってよっぽどオカシイではないか。ぼくは宝くじなんて絶対に当たらないと思うから1枚も買ったことはないが、こうしたケースになると、ほんのわずかな確率でも無視できず、結局宝くじを買って夢見る人と同じことになってしまう。

 それはそうと、この造影剤CTスキャン検査というのは、ちょっと怖いところがある。もちろん今回初めて経験したわけだが、普通のCTスキャン検査は、カマボコみたいな巨大な機械の中に入って写真を撮られるだけで痛くも痒くもないが、こっちの方は、その前に点滴で造影剤が注入される。その注入される速度が猛烈に速く、胸のあたりから全身にかけて、急にカアッ~と熱くなる。「急に熱く感じるので、皆さんびっくりされますが、それは正常なことで、大丈夫ですからね。」とちゃんと事前に説明があるので、ジタバタしないですむけれど、これを説明なしでやられたら、それこそ気を失うかもしれない。いずれにしても、説明は、大事である。

 枕が長くなったが、本題の手術である。この大動脈瘤の手術というのは、他の手術と較べて、奇妙なところがある。手術というのは普通は、どこか痛いところ、苦しいところがあって、それを取り除くために行うものである。ところが、大動脈瘤というのは、ほとんどの場合何の症状もない。(ぼくもなかった。)これがあっても破裂さえしなければ、まったくの健康体なのである。その健康体にメスを入れ、一種の病人にしてしまうのだから、そして場合によっては死に至らしめるのだから、とても奇妙な手術なのである。医師も、この手術だけははどうも気が進まないと思う人が多いようだ。

 この奇妙さは、この手術が確率を相手にしているところからくるのだろうと思う。問題は、いつ破裂するかなのだ。最初に診察してくれた益田先生は、大動脈瘤がいつ破裂するかなんて、それこそ「神のみぞ知る」なんですよ、と言っていた。ある限度(だいたい5センチ)を超えると、破裂する確率がどんどん高くなっていく。その確率と、手術をして死ぬ確率を比較して「どっちがお得か?」という話なんですとも言っていた。昔は、ものすごく危険な手術だったので、それこそ「イチかバチか」で手術をしたらしい。耳鼻科の医者だった家内の伯父によれば、「50年程前までは、手術もできない、お薬もないという、とても怖い病気でした。」とのことだ。それがここ半世紀の間に、事情が劇的に変化したのだ。だからもちろん今回のぼくの手術も決して「イチかバチか」の手術ではなかった。

 それでも、この手術の死亡確率は5パーセント。心臓のバイパス手術の死亡確率は1パーセントというから、その5倍にもなるわけで、相変わらず危険な手術であることには変わりはないのである。今は何の痛みもなく、普通の生活をしているのに、どうしてそんな危険な手術を受けなければならないのか。それを納得するのは難しい。

 けれど、見つかった以上、そしてそれが破裂する確率が今も高く、今後も時間の経過とともに確実に高くなっていくことを知ってしまった以上、それをそのまま放置してこれから暮らすなんてことは、小心者のぼくにはとてもできない。手術を受けるしかないと思った。

 その決意を決定的にしてくれたのは、執刀医の鈴木先生の説明だった。先生は、ぼくの大動脈瘤の画像をモニターに映し、紙に絵を描き、懇切丁寧に説明してくれた。アメリカに留学していたころの手術の体験や、それ以後の日本の医療技術の驚異的な進歩についても説明してくれた。日本では、手術の前に、全身にわたってありとあらゆる検査をして、少しでも手術のリスクを減らす努力をしていること。そういうこともあって、この手術の成功率は、日本が世界のトップクラスにあること。そうした説明もあった。

 でも、やっぱり、という気持ちは残る。「それでも亡くなるというケースはやっぱりあるんですよね。」とぼくが聞いたかどうかは記憶にない。そんなことを聞きたいような顔をしたのかもしれない。それを察したのか、「私が執刀したこの手術で、亡くなった方はひとりもいませんよ。」と先生は小さな声で言った。「ま、運がよかっただけかもしれませんけどね。」そう言って照れたように笑った顔には、自信とやる気があふれていた。

 そうか、リスクが5パーセントだといっても、20人に1人が死ぬといっても、それは、この、鈴木先生が執刀した手術で、20人に1人が死んだということを意味しているわけではない。あくまで、世界全体(あるいは日本全体?)での統計的な確率なのだ。鈴木先生がそう言うなら、死亡確率は限りなくゼロに近いということだ。ぼくは、すべてをこの先生、この病院にお任せしよう、それでも命を落とすならそれはもうぼくの運命というものだ、そう思ったのだった。

 


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100のエッセイ・第9期・64 ジタバタ「心臓カテーテル検査」

2014-02-15 17:46:21 | 100のエッセイ・第9期

64 ジタバタ「心臓カテーテル検査」

2014.2.15


 

 検査入院をしたのが、12月18日で、その日から立て続けにいろいろな検査をしたけれど、週末は検査も行われないので、20日の金曜日から22日の日曜日までの3日間は外泊となった。23日は祝日だったが、翌24日の心臓カテーテル検査の準備のために夕方に病院に戻った。

 外泊の日の日曜日、同居している次男夫婦と一緒に食事をしたときに、「心臓カテーテル検査って、どんなふうにやるのかなあ。麻酔をかけるって言ってたけど、全身麻酔じゃないみたいだし、痛くないのかなあ。」と言ったら、次男が「血管には痛覚がないから、全然痛くないと思うよ。だって、その検査を編み出した人って、自分で自分の血管にチューブを入れて、どこまで入るかってやったんでしょ。命がけだったらしいけど。」なんて言う。そんなこと、はじめて知ったが、そうか、まあ痛くないならいいかということで話は終わったが、どうもどういう検査なのかいまいちよく分からず、不安ばかりがつのっていった。

 これが手術ともなれば、こと細かに医師からの説明があるのだが、検査となると詳しい説明はない。手術のリスクを減らすために、心臓の周りの血管に異常がないかどうかを調べるための検査だということは鈴木先生から聞いていた。しかし、検査を担当する医師は別の科の医師で、その医師は検査の前日に挨拶には来たけれど、検査の具体的な仕方についてはあまり詳しく説明してくれなかった。ぼくの方も、根掘り葉掘り聞くのも何かカッコ悪いような気がして質問もしなかったから、とにかく手首あたりの血管からカテーテル(柔らかい管)を入れて、そのカテーテルを心臓の方まで押し込んで行くらしい、ということぐらいしか分からなかった。しかし、そんなことができるものなのだろうか。実に複雑に入り組んでいると思われる血管の中を、一本の管がどこまでも、道を間違えずに心臓まで到達するなんてことが果たしてできるものなのだろうか。

 それよりなにより、どうしてこの検査は2泊3日を必要とするのだろう。いったい何時間かかるというのだろう。それもおおいに疑問だった。

 病気の発覚より数ヶ月ほど前だったか、家内の友人のご主人が、この検査をした時に、途中の血管がグルグル渦を巻いていて、カテーテルが先に進まなかったという話を家内から聞いたことがあった。その時、医者は「先へ進まないなあ。」なんて言って笑っていたというが、その後、どうなったのかよく分からないままで話が終わってしまった。しかし、いずれにしても、そういう人もいるくらいなんだから、やっぱりそう簡単にカテーテルっていうのは心臓には到達しないんじゃなかろうか。やっぱり、相当道に迷うのではなかろうか。そう考えるのが素人というものだろう。少なくともぼくはそう思った。

 検査の前日、夜中ごろから絶飲食となった。当日の朝も絶飲食である。よく覚えていないが、点滴も始まったような気がする。そうか、それで、前の日から入院する必要があるんだなと、それはそれで納得した。検査は、お昼過ぎだったと思う。看護師が付き添ってくれて検査室へ入った。

 その部屋に入った瞬間、ぼくはすっかり動転してしまったのだった。

 それまでの検査室は、カーテンで仕切られた部屋とか、ごくありふれたレントゲン室とか、MRIの場合はかなり大がかりな機械が置いてある部屋ではあったが、検査技師は1人か2人だった。それが、いったいこれは何としたことか。全体に濃いブルーの近代的な色調の、ものすごく広い部屋の真ん中の床から一段も二段も高いところに手術台のような細長いベッドがあり、そのベッドのそばには、畳1畳ほどもあろうという巨大なモニターが天上から吊されている。そして、ベッドの周辺にはさまざまな機械類がぎっしり並んでいる。まるで、最新鋭の宇宙船の中みたいだ。そして何より度肝を抜かれたのが、ぼくを出迎えた医師や看護師の多さである。担当の医師はもちろん、助手の医師、看護師、麻酔の医師などなど、正確に数える余裕などなかったが、総勢10名ほどが、勢揃いして、みんなニコニコして(と思われた)ぼくを見て、「いらっしゃいませ!」と言ったような気がした。まさか、「いらっしゃいませ!」と言うはずはないが、何か、これからすごいことが始まるんだというただならぬ雰囲気が漂っていた。とにかく今までの検査とは、まるで違う緊張感なのだった。

 ぼくは、看護師にうながされるままに、ベッドに横たわった。するとどうだろう、そこにいた人たちが一斉にぼくに襲いかかり(と思われた)、ぼくの手足をベッドに縛り付けた。あっという間に左の腕には血圧計がまかれ、圧力が加わりはじめる。右手首は完全に固定される。足も固定され動かない。胸の上には分厚いゴムのシートのようなものがかけれらる。これではまるで、小人につかまったガリバーではないか。ぼくはもうわけも分からない恐怖に襲われて、ジタバタした。ジタバタしたといっても、ベッドの上で暴れたわけではない。暴れようにも身動きがとれない。身体的にではなく、心理的にジタバタしたのである。それは血圧の上昇や、手足の発汗として現れたのだろう。看護師たちは慌てるやら、呆れるやらで、「山本さん、山本さん、落ち着いてくださいね。まだ処置は始まっていないんですよ。大丈夫ですよ。先生も、ここにいますから。」と懸命に繰り返した。「山本さん、ね、落ち着いてくださいね。あらあら、こんなに汗をかいちゃって。」看護師もあまりのぼくの取り乱しように、思わず笑ってしまいながらも懸命になだめてくれたのだが、どうしようもなかった。今思えば、これこそまさに「独り相撲」で、ベッドに寝かされただけで、こんなにジタバタする男というのも、そうはいないのではなかろうか。まったく「バッカじゃなかろか!」である。

 じゃ、これから始めます、という男の声が聞こえた。担当医らしい。このあたりから、さすがのぼくも、ようやく少しだけ落ち着いてきた。麻酔注射はちょっと痛かったが、その後は、何にも痛くない。痛くないけど、今何をやっているのか全然分からない。右手首に何やら水のようなものが流れる。これは血か。手首を切られたのか。目を開ければ、モニターに何かが映っていたのだろうが、とても目を開ける勇気はない。カテーテルはどこまで入ったのだろうか。血管は、途中でグルグル回っていないだろうか。あらゆる想像が頭の中を駆け巡る。

 そのうち、医師が、「はい、ニトロ○○ミリリットル」とか、「○○を、もう少し。」などと落ち着いた声で指示を出し始めた。しばらくすると、今度は「はい、じゃあ、山本さん、これから写真を撮りますから、指示に従ってください。」「じゃあ、息を吸って、はいそこで止めて。」などと言う。何だか肺のレントゲン検査みたいだ。そうか、この検査は、心臓まわりの血管のレントゲン写真を撮るのが目的なのか。カテーテルを入れるのは造影剤を入れるためか。はたと、そう気づいた。カテーテルによる手術ではないのだから、当然そういうことなのだろうが、ぼくはちっとも理解しておらず、ただただ「何をしているんだろう。」と想像しては怯えていたのだ。全身麻酔でやってもらえればいいのにと思ってもいたが、息を吸ったり吐いたりしなければならないのだから、全身麻酔じゃどうしようもない。第一、全然痛くないのだから、そんな必要はないわけだ。

 そんなことを思いつつ、それでも、何とかはやくこの検査が終わってくれないものかとひたすら不安に耐えていると、ベテランとおぼしき看護師さんが、ぼくの耳元で、「山本さん、検査は順調に進んでいますから安心してください。今、半分ぐらいまできましたからね。」と落ち着いた声で、ささやくように言った。この言葉で、全身の力がすっと抜けた。地獄で仏とは、こういうことを言うのだろう。この一言以後、ぼくは急速に落ち着き、一時間ほどの検査は無事に終了した。「あ、血圧も120まで下がってるね。」という声が聞こえた。ジタバタしているときは、いったいどれくらい高かったことだろう。

 ベッドから降りて車いすに乗った時は、もう全身これ以上はないというくらい疲れ果てていた。やっぱりこれじゃ、日帰りの検査なんてできないはずだとようやく完全に納得できたのだった。

 それでも、カテーテルを入れる血管を取り出すために、右の手首を切開したのだと思い込んでいたぼくは、その日、友人にそのことをメールした。友人は「麻酔注射が先か、それとも切開が先か?」って聞いてきた。「麻酔が先に決まってるだろ。切開が先だったら痛くてたまらないよ。」と返事をした。そうしたら友人は、「それならいいけど。そうじゃなきゃ卒倒もんだ。」なんて返事をくれた。翌朝、血圧を測りに来た看護師さんに、「ね、そこ、切開したんだよね?」って聞いたら、彼女はプッと吹き出して、「切開なんてしてませんよ。手首なんて切開したら、山本さんみたいに血圧の高い人は、血がピューて飛んじゃいますよ。血管から、カテーテル入れただけですよ。」と言った。なんだ切開してないのか。それならあの時、右手首にどくどく流れていた液体はいったいなんだったのか、などと思ったが、結局何だか分からなかった。後で右手首の絆創膏をとってみたら、ほとんど見つからないほどの小さな針の跡があるだけだった。いったいこんな小さな穴から入るカテーテルって、って思ったけれど、もう分からないことは考えてもしょうがないので、考えるのをやめ、とりあえず「手首、切開なんてしてないんだってさ。」と友人にメールして、暮れの26日、病院をあとに、年末気分で賑わう巷へとトボトボ帰っていった。


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100のエッセイ・第9期・63 検査嫌いの検査漬け

2014-02-11 11:07:40 | 100のエッセイ・第9期

63 検査嫌いの検査漬け

2014.2.11


 

 そもそもぼくは検査というものが大嫌いである。臆病なので、結果を知るのが怖いからだ。そのぼくがこともあろうに「検査入院」をしたのだから、それはもう大変だったことはいうまでもない。

 ここ数年のぼくの健康上の問題で、いちばんやっかいだったのは、高血圧だ。この高血圧は、祖父、父と続いてきた遺伝なのだろうが、すでに30代の頃から高血圧は医者に指摘されていて、40代以降は降圧剤を飲んできた。しかも、検査嫌いの一環なのか、いわゆる白衣高血圧でもあって、とにかく医者に測られると異常に高くなってしまうのだ。それで、もう何十年も前から自宅で測れる血圧計を持っていて(この血圧計も何度買い換えたか知れない)、自分で測っていたのだが、自分で測ると正常値という時期がかなり続いていたこともあった。ところが、3年程前から、自分で測っても高い値が出るようになってしまった。それも、安静時の血圧が高いというのとは違って、「血圧を測る」ということに対して、もうバカみたいに緊張してしまって、脈拍が異常に速くなり、血圧も必ずといっていいほど170を超えてしまうという事態になったのだ。これじゃ怖くて測れないし、いったい普段の血圧がどれくらいか全然分からない。あしかり先生も、これにはほとほと困ってしまって、「何かのきっかけがあるといいんだけどねえ。」などと呟くこともあった。こうしたことが長く続いていたので、先生も降圧剤をもっと強いものに変えたほうがいいかなあと言っていた矢先のことだったのだ。

 検査入院をしてみると、もう「血圧を測るのが怖い」なんて言ってはいられない。毎日何回も看護師さんが血圧を測りにくる。いやもおうもない。「ぼくは、ダメなんですよ。測られると高くなっちゃうんで。」と言い訳を言っても、「あ、そうなんですか。」と言うだけで、測るのをやめてはくれない。初めのうちは、やっぱり170、160といった数値が出ていた。その度に、ぼくはがっかりしていたが、入院して何日目かの朝、まだ寝ぼけているうちに血圧を測られた。すると、140ぐらいの値が出た。なんだ、案外いけるじゃないか、これに慣れていけばいいんだ、そう思って、思わず「お、いいねえ。いい数字だなあ。」と言ったら、看護師さんも、いいですね、とにっこり笑ってくれた。

 それでも、朝など血圧測定に来る看護師さんの足音が聞こえてくると、やっぱり緊張してしまう。「山本さん、血圧を測らせてくださいね。」なんて言いながら、血圧計を腕にまく。ぼくは、なるべく気持ちを落ち着けてだまって深呼吸をする。それなのに、「あ、体温はどうでした?」なんて話しかけてくる。それに答えずに、目をつぶっていると、「あ、ひょっとして、集中してました?」って言うから、「そうだよ。必死で気持ちを落ち着けてるのに、話しかけちゃダメじゃん。」って言うと、「あ、ごめん、ごめん。でも、ほら、145。大丈夫ですよ。」なんて言う。そうか、こんな軽い会話がかえって気持ちを落ち着けているのかもしれないな、なんて思ったりした。そうかと思うと、今日は気持ちも落ち着いているから、きっと低いだろうなんて思っていると、160を越していたりすることもあった。

 こうやって、毎日何回も測っていくうちに、「血圧を測る」ということへの変なプレッシャーも次第に解消されていった。この後の、手術のための入院の間に、やはり血圧がかなり高いということで、医師は次々と薬を変えて試し続けてくれた。退院した今では、毎日朝と晩に、きちんと血圧を測り、その結果も、だいたい120前後という理想的な数値におさまるようになった。これは今までのぼくにとっては考えられないことで、嬉しくてたまらない。何しろ、手術前のぼくときたら、ヨドバシカメラの血圧計売り場でさえ避けて通っていたほどだったのだから。

 あしかり先生の言っていた「何かのきっかけ」は、思いがけない形で訪れたのだった。

 しかし、「血圧を測る」などということは「検査」のうちに入らない。そのために検査入院をしたわけではない。そこで行われた検査は、レントゲン検査、血液検査、心電図、脳のMRI検査、心臓のエコー検査、全身のCT、動脈硬化の検査など実に様々なものがあった。

 この中で一番意外だったのは、動脈硬化の検査だった。いったいどうやって動脈硬化があるかないかを調べるのか読者の皆さんはご存じだろうか。何か血管にチューブでもいれて、血管の硬さを測るなんて思っているのではないだろうか。それがまったく違うのだ。ベッドに仰向けに寝かされて、両足(ふくらはぎ)と両腕の4カ所に血圧計を巻かれ、同時に血圧を測られるのである。この4カ所の血圧の差で、動脈硬化のあるなしや、血管のしなやかさなどが分かるらしい。4つの血圧計が同時に作動すると、かなりの圧力がかかるので、ウギャーという感じになる。(感じだけです。痛いわけじゃありません。)片腕の血圧を測れられるのさえ恐怖だったぼくが、もう、十字架にかけられたイエスみたいな格好になっているのである。(あくまで「形」の比喩です。「形」も正確じゃないですが。)まだ、検査入院した直後の検査だったので、これにはほんとうにびっくりした。「血圧を測る」ことが恐怖でできなかったぼくには、この最悪とも言える検査で、なんだか憑き物が落ちたような気分になったような気もする。あんなものすごい血圧測定に較べれば、片腕に血圧計巻いて測るなんて、カワイイもんだというわけである。

 しかし、これらの「検査」は、実はまだメインの検査ではなかった。この検査入院のメインイベントは、「心臓カテーテル検査」だった。これは、単体でやったとしても2泊3日を要する検査であり、心臓周辺の血管に細くなっているところがないかどうかを調べる検査だということだった。しかし、なんで、2泊3日を要するのだろう。手首の血管からカテーテルを入れて、心臓にまで達するというが、いったいそんなことができるのだろうか。調べればすぐに分かるのに、それも怖いから、すべては謎のベールに包まれたまま、その検査を受けることになった。12月24日、巷ではクリスマスイブで賑わっている日のことだった。



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100のエッセイ・第9期・62 すべてはつながっている

2014-02-06 17:32:04 | 100のエッセイ・第9期

62 すべてはつながっている

2014.2.6


 

 家内が「とにかく、悦ちゃんに電話。」と言ったとき、ぼくは狼狽の中で、かろうじて現実に戻ったと言っていい。あしかり先生が言っていた、「どこか専門の病院」を探すことが当面の課題であることに気づいたのだ。あしかり先生に任せれば、当然CT検査を行った神奈川県立循環器呼吸器病センターで受診・手術ということになったろう。結果的にはそれでもよかったのかもしれない。けれども、この「悦ちゃん」によって、事態は急速に展開したのだった。

 ぼくら夫婦は「悦ちゃん」などと気安く呼んでいるが、この人は、宮城悦子といい、横浜市立大学医学部産婦人科の准教授で、同時に化学療法センター長でもある。学会でも活躍がめざましく、テレビの健康番組にも何度か出演したこともある医師である。そしてこの宮城悦子先生は、ぼくが青山高校で教師をしていた頃の教え子なのだ。高3の時は担任をしたこともあって、彼女の結婚式にも招かれて行った。この結婚式では、びっくりするようなことがあった。ぼくは新婦の恩師として出席したわけだが、その席に、栄光学園の同僚(その頃には、ぼくは青山高校をやめて栄光学園の教師として母校に戻っていた。)とばったり出会ったのだ。新郎は、何と、その同僚の中高時代の友人、つまり栄光学園の卒業生だったのだ。

 そんなわけで、宮城先生とはなみなみならぬ縁があったのだが、20年程前に家内が病気をしたときに、この宮城先生にとてもお世話になり、家内もぼくもそれ以来、「悦ちゃん、悦ちゃん」と呼んで、テレビに出てくると「あ、悦ちゃんだ。」雑誌に載ると「あ、悦ちゃんだ。」と、何かにつけて話題にしていたのである。

 ぼくの病気は産婦人科とは関係がないけれど、「悦ちゃん」なら、きっと助けてくれるに違いない。そう家内は思ったのだった。その夜、さっそく宮城先生に電話をした。ご帰宅が遅いということだったが、翌日の朝、宮城先生は電話をしてきてくれた。ぼくは学校へ行っていたが、家内から、とにかく一刻も早く紹介状を持ってうちの病院に来てください。心臓血管外科部長の益田宗孝先生という方をよく知っているので、紹介状をその益田先生宛に書いてもらうように、ということだったとのメールが入った。ぼくは、昼休みに、宮城先生に電話をした。先生は、「先生、大変じゃないですか。とにかく早く、紹介状を持って、来てくださいね。直近の外来の日に来て、早くカルテを作ってください!」と叫ぶように言った。心の底からぼくのことを心配している声だった。

 直近の心臓血管外科の外来診療は1週間後の12月17日だった。ちょうどその日の前日が、期末試験の答案返却日で、2学期の最後の授業だった。生徒に試験を返しながら、ひょっとしたら、これが最後の授業になるんだろうなと思っていた。生徒は、もちろんそん、ぼくがそんな気持ちでいることなぞ、想像すらできなかっただたろう。

 17日、はじめて横浜市立大学医学部付属病院の心臓血管外科を受診した。診察室に入ると、益田先生がにっこり笑って「宮城先生の恩師なんですってね。あ、栄光の先生なんですね。ぼくは、広島学院の出身なんですよ。」と言う。広島学院は栄光学園の姉妹校で、交流も盛んだ。「高校時代だったかなあ。関根神父に習ったことがあります。」関根神父は、前の栄光学園の校長だが、昔は広島学院で英語を教えていたのだ。

 そんな話があった後、本題に入ったが、診察の前に撮った造影CTの3D画像は、はっきりと「大動脈瘤」を映し出していた。その画像は、まるで血管だけの実物の模型のようにあらゆる角度から「大動脈瘤」を見ることができた。怖いというより何だか感動的ですらあった。ぼんやりとしたレントゲンの画像から、輪切りの形でしかみえなかったCTスキャンの画像へ、そしてこのカラーの3D画像へと「事実」は確実な姿でぼくの前に現れてきた。

 「大動脈瘤」には診断の三つのポイントがあるんです、と益田先生は言った。「大きさ」「形」「スピード」の三つです。大きさは、5センチを超えると手術の対象となります。山本さんのは5.3センチです。この大きさは、瘤自体の大きさではなくて、血管全体の太さということです。心臓に近い大動脈の直径は約3センチですから、そこから2.3センチ膨らんでいるということです。形というのは、血管の両側が膨らんでいるか、片側が膨らんでいるかです。同じ5センチでも、両側が膨らんでいる形だと、瘤自体は一つが1センチということになりますが、山本さんのように片側だと2センチということになりますね。後はここまで大きくなったスピードですね。

 ぼくはその時は言えなかったが、このスピードには思い当たる節があった。あしかり先生は言っていた。3年前にはなかった、と。それなら、たった2年で、これだけ大きくなったということだ。すべてが最悪だった。

 後で鈴木から、──あ、それこそ彼は栄光の卒業生ですよ──詳しく説明があると思いますが、いずれにしても、手術をお勧めすることになると思いますと、益田先生は言った。その後、何かの検査をして、再び診察室に入ると、もうひとりの先生がニコニコ笑って座っていた。「栄光の27期の、鈴木伸一です。」と言う。27期生が在学中は、ぼくは都立高校の教師をしていてこの鈴木先生を教えたことはないのだが、それでも彼は、ぼくを先生と呼び、全力を尽くしてがんばりますと言い、ぼくの病状に関して詳しく説明してくれた。

 益田先生の言っていた「大きさ」「形」「スピード」以外で、「瘤」の「位置」が問題であること。ぼくの場合は、心臓に極めて近いところにあり、そこは、脳などへ向かう血管が集まっているところでもあるから、最近行われるようになったリスクの少ないステントグラス(血管内治療)が行えず、開胸して、人工血管と置き換える手術しかないとのことだった。この手術は、昔はそれこそ大変危険な手術だったけれど、今では非常に進歩していて、特に日本のレベルは今や世界のトップクラスにある。しかし手術での死亡リスクは5パーセントであり、その他の後遺症などのリスクも含めると更に2~3パーセントのリスクが上乗せされる。けれども、手術の前に、全身にわたっての詳しい検査をするので、リスクは最小限に抑えることができます、といったような明晰で熱のこもった説明を聞きながら、ぼくはすっかり安心していた。こんなにも自信に満ちた先生が手術をしてくれる、しかも、同窓生の先生が手術をしてくれる、これ以上ぼくはいったい何を望むというのだろう。すべてをこの先生に任せよう。そう思った。

 ぼくは、その場で、手術をすることに決めた。その後は、驚くべきスピードでことは進んだ。その日の翌日から検査入院をすることになったのだ。年末に向かう慌ただしい時期に、様々な事前の検査を効率よく行うことができるように、鈴木先生は手を尽くしてくださったのだ。

 「悦ちゃん」に電話してから、すべては不思議としかいいようのないほどの縁ですべてがつながっていった。見ず知らずの病院へ入院し、生死をかけた手術をするというときに、その病院に一人でも知り合いがいればどれほど心強いことだろう。それが一人どころではない。何人もの先生たちが、「知り合い」だった。この後知ったことだが、ぼくの治療チームの若手医師の一人渡辺医師は、ぼくの栄光の教え子だった。そして入院中、何人もの栄光の卒業生の医師や学生が見舞ってくれた。ぼくは、世界一、幸せな患者だった。


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100のエッセイ・第9期・61 そして「予感」はあたった

2014-02-02 17:50:41 | 100のエッセイ・第9期

61 そして「予感」はあたった

2014.2.2


 

 あしかり先生の紹介状を持って、12月10日、神奈川県立循環器呼吸器病センターという長ったらしい名前の病院へ向かった。この病院は、かつて長浜結核療養所として設立された病院である。父の弟が、若い頃しばらくここで療養していたことがあったからよく知っていた。でもまさか自分がここを受診する日が来るなんて思ったこともなかった。京浜急行の能見台駅(昔は、谷津坂駅といった)のすぐ近くにある。余計なことだが、この駅のすぐ近くには、高校野球で有名な横浜高校もある。

 あしかり内科から予約済みなので、待つこともなく、胸のCTスキャン検査も5分ほどで簡単に済んだ。あとは、担当医が所見を書くから30分ほど待って下さいというので、待合室で待っていると、10分もしないうちにデータ(CD)の入った袋が届いた。これを持って、あしかり先生のところに行くという手はずである。30分かかると言っていたのに、10分ですんだということは、結局何もないということではないか、何か重大な所見があるなら、もっと時間がかかるはずだもの、などと考えながら、小高い丘の上にある病院を出て、駅へ向かう坂道をくだった。空がきれいだった。

 ぼくのそのときの気持ちは、妙に澄んだものだった。きっと、何でもなかったんだ、そうに決まっている。あしかり先生も「安心のため」って言っていたんだから。そうだ、何もないんだ。明日からは、また普通の今までの生活に戻れるんだ。明るい冬の空の下、そんな気持ちが支配していた。

 能見台駅から京急に乗った。やって来たのは、2000系の古い塗装バージョンである。たった、1編成しかないこの電車に乗れたというのも、縁起がいい。やっぱり何もないんだ。そう思う反面、では、あの「モヤモヤ」はいったい何だろう。何にもないなら、あしかり先生があんなに拘るわけがないじゃないか。きっと何かがあるんだ。やっぱり肺がんなのではないか? それとも何か別の腫瘍か? そういった不安がまたわき起こってきた。妙なことに、ぼくは、あしかり先生が呟いた「大動脈瘤」という言葉をそれほど気にとめていなかった。むしろ、肺がんなのではないかという不安が大きかったのだ。

 上大岡駅から、あしかり内科に直行して、順番を待った。名前が呼ばれた。データはすでに渡してある。どうか先生が、「あ、山本さん。よかったね。何にもありませんでしたよ。」と言ってくれますようにと、祈るような気持ちだった。

 しかし、診察室に入ると、あしかり先生は、茶色い封筒を開け、所見を見ながら言った。「残念ながら、ぼくの予感があたってしまいましたねえ。」ぼくは、あまりのことに舌も引きつり「え? やっぱり肺がんなんですか?」と聞いた。「肺がんじゃありませんよ。大動脈瘤です。だいたい5センチぐらいの大きさのようですね。」と言いながら、データの画像を見て、「でも、よかったね。」と小さい声で言った。

 この後ぼくが放った言葉は、実に恥ずかしいトンデモナイ言葉だった。「だって、先生、ぼくは大動脈瘤の手術で死んだ人を知っているんですよ。」と言ったのだ。これは正確なことではない。ただ、ある著名な書道家が、大動脈瘤の手術の2日後に死んだということを知っていたというだけのことだ。2006年のことである。ただこの簡単な記述だけでは「手術で死んだ」とは言えない。けれども、大動脈瘤の手術はそれほど簡単なものではないということは何となく知っていたのだ。ぼくは手術の恐怖におののいた。

 あしかり先生は、なんとも言えない困ったような顔をしてぼくを見ながら、「そうですか。でもねえ、これは放っておくことはできませんよ。専門の病院の診察を受けなければね。もっと正確にわかる造影検査もしなければ。」と諭すように言った。「どこの病院にするかも考えないとね。」という先生の言葉も耳の奥には届かなかった。

 診察室を出て、待合室に茫然として座っているぼくに、ここのベテランの看護師さんが「山本さん、よかったじゃないの。はやく見つかって。」と声をかけてくれた。それでも、ぼくには「よかった」とはとうてい思えなかった。

 ぼくは絶望感にただただうちひしがれて家に帰った。いったい今日は、何という一日なのだろう。これはほんとうのことなんだろうか。ぼくは悪い夢を見ているんじゃないだろうか。

 家内は買い物に出かけていて家にはいなかったが、しばらくして帰ってきた家内に、その絶望感をぶつけた。大動脈瘤だった。ひょっとするとこの手術で死んじゃうかもしれない。どうしよう。などといった言葉が次から次へとぼくの口から繰り出され、家内を困惑させた。

 ぼくは、いつだってこうなのだ。自分の不安をぐっとこらえて、妻に余計な負担をかけまいとするというような男らしい態度をとることができない。これじゃまるで子どもだ。還暦をとうに過ぎたというのに、ほんとうにナサケナイったらありゃしない。医者がせっかく病気を見つけてくれたというのに、それに対して感謝の言葉を言うこともできず、恐怖と不安だけをぶつけ、そしてまた妻にも心配をかけるようなことしか言えないなんて。

 どんな言葉をどれだけ家内に言い続けたか覚えていない。しばらくぼくの言葉の嵐に耐えていた家内は、突然ぼくの言葉を遮ってきっぱりと言ったのだった。「とにかく、悦ちゃんに電話! そこからよ、なにもかも。」

 

 


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