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100のエッセイ・第9期・75 好奇心と虚栄

2014-04-20 11:11:29 | 100のエッセイ・第9期

75 好奇心と虚栄

2014.4.20


 

 パスカルの『パンセ』という本のことは、高校時代の友人Hから聞いた。何やら哲学めいた高級そうなそんな本を同級生が読んでいるなんて驚きで、さっそくその本を買ったような気がする。それ以来、折りに触れて読んできたが、通読したことはない。パスカルがその本の中で批判していた(と記憶する)モンテーニュの『エセー』の方がむしろ最近ではお気に入りだった。

 先日、久しぶりにある本で、パスカルの「気晴らし」についての考えが引用されていて、懐かしくなり、『パンセ』をパラパラと読んでみたところ、こんな文章に出くわした。

 好奇心は虚栄にすぎない。ひとは大抵のばあい、話のたねにしようとしてのみ知りたがる。そうでないならば、人は海の旅などに出ることはあるまい、そのことを決して話さないというのであるならば、またそのことをつたえる希望はなくただ見る喜びだけのためにというのであるならば。(津田穰訳・新潮文庫・1952)

 そんなことはないだろうと思いつつも、そうだよなあとも思う。こんな短い文章なのに、相反する感想をもたらし、思索の小径へと運んでくれる。貴重なことだ。そうだ、そうだと単純に共感できる文章も悪くないが、それではそこで思考はとまってしまう。とまってしまう思考はあまり意味がない。新しい発見を生み出さないからだ。

 「好奇心は虚栄にすぎない。」とパスカルは言い切る。若さを保つ秘訣は、好奇心を持つことです、てな類の意見は、巷にあふれかえっている。そしてそれは決して間違ってはいないだろう。何に対しても旺盛な好奇心をもって接する人が、生き生きとしていることは確かなことだし、何にも興味を持つこともなく、一日中ぼんやりコタツに入っている老人はボケるのも早そうな気がする。

 けれども、この言葉には、苦いトゲがあって、それが心をチクチクと刺すのである。早い話が、ブログである。ぼくが使っているこのgooブログだけでも、何と200万のブログが存在する。200万である。200万人の人が、ブログを作って公開しているのだ。いったい何のためなのか。

 パスカルなら、自慢したいためだ、と吐き捨てるように言うことだろう。今日は湘南海岸にサーフィンに行ってきましたとか、今日はあのラーメンを食べに2時間もかけて横浜の上大岡というところに行ってきましたとかいうのは、一見好奇心に溢れた人間の記事に見えて、実は、そういうアクティブな自分をアピールしたいという魂胆が丸見えなのだ。まして、大きな手術をしてまだ3ヶ月しか経っていないのに、連日お天気のいいのに誘われて鎌倉を散歩してきました、なんて書くヤツは、自分に酔ってしまって、どうだすごいだろと体力を自慢しているにすぎないのだ。

 埼玉からわざわざ横浜の上大岡まで出かけてきて、たった一杯のラーメンを食って帰った人間が、そのことを誰にも言わないなんてことは、考えられない。腹が減ったから家の近くの食堂でラーメン食ったということなら、むしろ誰にも言わないだろうが、そんなのは好奇心の発露とは言えない。テレビのクイズ番組だって、好奇心から見るけれど、「へえ~」って思ったことは、絶対に人に言いたくなる。なぜ言いたくなるかと言えば、「そうなんだあ!」と言ってもらいたいからだろう。つまり虚栄だ。その点で、パスカルはまったく正しいというほかはない。

 しかし、それでも、「そのことを伝える希望はなくただ見る喜びだけのために」海に旅立つということは、本当にないだろうか、という疑問は残る。パスカルは「ない」、と言いきるが、それはやっぱり「ある」のだと思う。あるのだが、海から帰ったときに、誰かにどうしても語りたくなる、というのが本当なのではなかろうか。「本当」というのは、いいかえれば、大昔はということだ。本とか、テレビとか、インターネットとかいったいわゆるメディアのない時代には、好奇心は「純粋」だったはずだ。好奇心が先にあり、虚栄が後から追いかける、という時代。

 しかし、メディアの発達によって、それが逆転した。パスカルの生きた時代は、まだそれほどメディアが発達していなかったのに、すでに虚栄が先走っているとパスカルは感じていた。だとすれば、現代という時代では、あらゆるシーンで虚栄が先走っているのは当然であろう。そしてだからこそ、「そのことをつたえる希望はなくただ見る喜びだけのため」の好奇心、言い換えれば、自分だけのささやかな喜びを発見する心が、限りなく貴重で、魅力的に思える。

 発見しても、それを人に自慢げに語らない人、ましてブログなど作ろうとも思わない人、そんな人こそ魅力的だ。魅力的だけれど、そういう人を「発見」することは決してできない。だって、何にも言わないのだから。

 


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100のエッセイ・第9期・74 PATNTING AS A PASTIME

2014-04-12 11:55:53 | 100のエッセイ・第9期

74 PATNTING AS A PASTIME

2014.4.12


 

 この4月にとうとう無職となった。毎朝決まった時刻に起きて、仕事に行かなくていいというのは、やっぱり相当な快感である。それが困るという人もいるだろうが、ぼくは、昔からこういう生活に憧れていたから、ちっとも困らない。困らないけれど、あまりにヒマが続くと、どういうことになるのかという不安がないわけではない。

 ヒマならヒマでいいけれど、昔から「ヒマつぶし」という言葉があるように、ヒマはつぶさないと困るものでもあるらしい。

 「ヒマつぶし」というと、思い出す英語がある。「pastime」という単語である。英和辞典では「気晴らし」「娯楽」「趣味」などと訳されているが、「pas+time」だから、「時間を過ごす」つまりは「時間をつぶす」ということになるだろう。ちなみに英語には「kill time」というオソロシイ表現もある。殺される「時間」というのは、きっと「退屈な、ヒマな時間」にちがいない。

 それはともかく、「pastime」という単語をどこで知ったかというと、高校3年の時の英語の授業だった。英語の文系選択授業だったと思うのだが、その担当のA先生が読解のテキストとして、かの英国宰相だったウインストン・チャーチルの「PAINTING AS A PASTIME」という本を使ったのだ。大学の教養課程で使うテキストで「絵を趣味として」と訳された本だったが、「暇つぶしとしての絵」というほうがいいような気もする。

 この本の全文をひたすら読んでいくという授業で、ぼくにはとても興味深く、その授業が楽しみだった。絵が好きだったこともあるが、それ以上に、高3という受験勉強一色に染まった日々に、こういう本をゆっくりと読めるということが嬉しかったのだ。

 その頃、国語の、やはり文系選択の授業では、毎回古文の演習問題をやっていたのだが、その担当のA先生(こちらも偶然頭文字がAだった。)が、「こんなことは、ほんとうはやりたくないんだ。ほんとうは、江戸時代の文学なんかをゆっくりと読みたいんだけどなあ。」と呟いたことがある。その時、ぼくは、心の中で叫んでいた。「先生、どうしてそうしないんですか。こんな演習問題なんてちっとも面白くないし、受験勉強なんて自分でやりますよ。」ほんとうにやりたいことをやらないで、ブツブツ言っているだけなんて、と怒りにも似た感情さえわいたことを、今でもはっきりと覚えている。もちろん、今なら、その先生の気持ちはよく分かるし、むしろ、そんな本音を言わずにいられなかった状況もすごくよく理解できる。けれども、その当時のぼくは、高3になって、周囲がとにかく受験に向けて血眼になっていることに耐えられないほどの嫌悪を感じていたのだ。

 「PAINTING AS A PASTIME」の授業も淡々と進み、中程までさしかかったころだろうか。一つの忘れられない「事件」が起きた。一緒に授業を受けていた同級生の数名が、この授業に不満を抱き、こんな本を読んでも受験には役立たないから、やめさせてほしい、と校長に訴え出たのだ。もっと受験に直結した授業をこの教師にさせるように命じろというわけだ。この話をどういう経路で知ったのか覚えていないが、直訴した連中が自ら話したのではないかと思う。

 ぼくは、その時、心底怒りを感じた。なんてヤツラだ。こんなに面白い授業に興味を持てないなんて。こいつらの頭の中は受験しかないのか、と思って、彼らをはげしく憎んだ。それにも増して許せなかったのは、不満があるなら、直接A先生に言えばいいのに、それをしないで、校長という権威者に直訴したことだ。当時の栄光は、フォス校長の独裁といってもいいくらい、何でも校長が決めていたところがあるから、校長に言いつければ、自分たちの思い通りになると思ったのだろう。最低の行為である。今でも思い出すと腹が煮えくりかえる思いだ。

 それほど心の中で怒り狂いながらも、ぼくは、彼らにくってかかることもなく、事態の推移をハラハラしながら見守っているしかなかったような気がする。あるいは、彼らと議論したのかもしれないが、記憶にない。できれば、議論ぐらいしてほしかったと思うのだが、過去の自分じゃどうしようもない。

 さて結果はどうだったのか。校長は、その直訴を却下した。校長がどういう思いで却下したのかは知らないが、とにかくこの結論にぼくは安堵とともに、校長への尊敬の念を新たにした。フォス校長の考え方には、至る所で反発したが、同時に尊敬もしていたのだ。

 それと同時に、受験のことしか頭にない同級生への反発は、ますますエスカレートしていったのだった。

 



よほど大事な本だったのでしょう、

今でも、当時使った本を持っています。

書き込みなどもあって、最後まで授業でやったことが確認できます。



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100のエッセイ・第9期・73 ゴーストライター問題

2014-04-05 15:17:44 | 100のエッセイ・第9期

73 ゴーストライター問題

2014.3.28


 

 ひとしりき世間を騒がせた佐村河内問題も、最近では話題にもならなくなってきたが、あれにはかなりびっくりした。それというのも、去年の3月に放映されたNHKスペシャルを見て、ひどく感動したからだ。感動というか、こんな人もいるのかという驚きだった。とにかく聴覚障害というのは、耳が聞こえないだけではなく、轟音が一日中鳴り響くのだと聞いて、これは大変だなあと思ったのだ。自宅の廊下を這って作曲する部屋に行く姿などは、今から思えば演技だったらしいが、それにしても迫真の演技で、完全に騙されたわけだ。交響曲の方は、時間がなくて聞かなかったし、CDも買わなかったが、聞いていたら、どんな感想をもっただろうか。もっとも、クラシック、特に現代曲はよく分からないので、感動しなかったかもしれないが、それでも、あの状況に置かれている人が作ったということがおおいに影響して、感動したかもしれない。

 ゴーストライターの新垣氏の記者会見は、ちょうどその頃は、家で寝ているしかない状態だったので、最初から最後まで全部見た。文春の記事も読んでいなかったので、へえ~、そうなのか、と驚くことばかりだった。その後の、佐村河内氏本人の会見は、リアルタイムでは見なかったが、ニュースでその姿を見て、またびっくり。髪を切って、サングラスを外すと、あんなに人間は違って見えるのか、と驚いた。

 この件に関しては、いろいろな人がいろいろなことを言っていて、それぞれもっともらしいが、そもそもゴーストライターって何なのかということに踏み込んで話す人はあまりいなかったように思う。

 芸能人の自伝のようなものは、だいたいゴーストライターがいるということは常識なのだろうが、案外、世の中の人はそういうことすら知らないのかもしれない。山口百恵の自伝「蒼い時」は、編集者の残間絵里子のプロデュースで世に出たことは有名だが、つまりは、山口百恵の話を聞いて、残間絵里子が書いたということだろう。これはもう公然のことで、だれもそれを非難しない。そういうものだということだ。

 今回の佐村河内氏の行為について、有名な作詞家が、テレビで、これは芸術に対する冒涜ですよと、とくとくと語っていたが、それでは彼の詞は、全部自分の作かというと、そんなことはない。そんなことはない、とほぼ断言するのは、ぼくは、彼のゴーストライターをやったことがある人から直接話を聞いたことがあるからだ。当時としては結構な値段で、その詞を彼が買ってくれたということだ。もちろん、そのゴーストライター氏は、自分で書いた詞を彼に売ったのだから、そこには完全な合意があり、怒っているということでは全然なかったけれど、そのことを聞いて以来、作詞家というものは、きっと何人ものゴーストライターを抱えてるに違いないとぼくは思っている。阿久悠が奇しくも言ったように、歌謡曲の歌詞は、芸術や文学じゃないんだということなら、別に誰が作ろうとかまわないし、売れればいい。無名の人の作詞では売れないなら、有名な人の作として売ればそれでいい、ということになる。

 佐村河内氏のやったことは、こういう芸能界とか歌謡界とかの通例にのっとって、「芸術」の分野で壮大な詐欺的行為を働いたということだろうが、それが、広島とか、被災地とかを巻き込んだ、あまりにもえげつないものだったので、大問題となったということだろうか。

 芸能界や歌謡界だけではなく、もっと身近なところにもゴーストライターはいる。

 もう何十年も前のことだが、家内の父が、随筆を書くのが好きで、その挙げ句、随筆集を自費出版したいと言い出した。その相談を受けて、ぼくは、横浜の丸善の自費出版部の人と話をしたことがある。だいたいの値段と、手順を知りたいと思ったからだ。その話の中でぼくは驚くべき言葉を聞いた。彼は言ったのだ。「で、原稿はあるんですか。なければ、資料とか、テープとかでも、ちっともかまいませんよ。こちらでリライトしますので。」

 随筆集を出したいと言っているのに、「原稿はあるか?」とは何事か、とその時、一瞬ブチ切れそうになったが、よく聞いてみると、功成り名を遂げた会社の社長さんなどが、自伝を出版したいというような話がよくあって、そういう場合は、たいてい、資料やら、談話のテープやらを提出してもらって、後はリライターが文章に仕上げるのだということだった。リライトというのは、つまり「書き直し」ということだが、自伝などの場合は、社長自身が書くより、文章のプロが書いたほうがより内容が伝わりやすくなるわけだから、けっして悪いことでもなんでもない。ぼくだって、リライトでもやろうかと思ったことがあるくらいである。

 ただ、ことが「芸術」となると、やはり、「個人」が問題になる。家内の父は、自分の文章が芸術だとは思っていなかったかもしれないが、文章に対する拘りは非常に強かったから、もちろん、リライトなんてとんでもない話だった。丸善で作るのはやめて、ぼくがパソコンで版下を作り、知り合いの印刷屋に頼んで出版したのだった。



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100のエッセイ・第9期・72 認印

2014-03-31 20:59:48 | 100のエッセイ・第9期

72 認印

2014.3.31


 

 先日の「つれづれフォト006」で、ぼくの認印の写真を載せて、そこに「昔読んだ詩に、出勤簿用に使っていた認印が、何だか血の滲んだ指先のように見える、ということを書いたものがあって、それは、確かに石垣りんの詩だとずっと思ってきたのですが、今回、石垣りんの詩集にあたっても、どこにもない。おかしいなあ。いかにも、石垣りんらしい、どこか陰惨な趣のある詩だったと思うのですが。」と書いたのだが、やっぱり、どう考えも、石垣りんの詩以外に考えられない。それでためしに、ネットで検索してみた。「石垣りん」「認印」の二つの言葉で検索すると、たったひとつのブログに、こんなことが書いてあった。

 私の小学校の国語の教科書だったと思うのですが、石垣りんさんのエッセイを勉強しました。それは、石垣りんさんが卒業記念に学校から貰った象牙の印鑑をずっと使い続けるうちに、朱肉が象牙に染みて桃色だか色が変わり、幾年の思いに馳せる…。そんな件(くだり)だったと思います。

 そうか! エッセイだったのか。それで、手持ちの「現代詩文庫 石垣りん」に載っているエッセイを見たら、ありました、ありました。それは「詩を書くこととと、生きること」と題されたエッセイで、初出は、一九七一年の「図書」。小学生の頃から現在に至る自分の暮らしと、詩作の経過を綴った文章である。その中に、問題の記述があった。それにしても、こんな大人の文章が、ほんとうに小学校の教科書に載っていたのだろうかという疑問は拭えないが、それはそれとして、「問題の記述」はこうである。

 私が就職したとき、象牙の印鑑を一本九十銭で、親に買ってもらいましたが、毎日出勤簿に判を捺している間に、白い象牙がすっかり朱色に染まりました。この間、印鑑入れを買いに行きましたら、これも年配の古い店員さんが「ずいぶん働いたハンコですね」と、やさしく笑いました。お互いにネ、という風に私には聞こえました。
 それにしても一本のハンコが朱に染まるまで、何をしていたのかときかれても、人前に、これといって差し出すものは何ひとつありません。
 一生の貯えというようなものも、地位も、まして美しさも、ありません。わずかに書いた詩集が、今のところ二冊あるだけです。綴り方のような詩です。
 ほんとに、見かけはあたりまえに近く、その実、私は白痴なのではないかとさえ、思うことがあります。ただ生きて、働いて、物を少し書きました。それっきりです。

 これを読んで驚いたのは、ぼくは「出勤簿用に使っていた認印が、何だか血の滲んだ指先のように見える」と書いているのに、原文には「毎日出勤簿に判を捺している間に、白い象牙がすっかり朱色に染まりました。」としか書いてないということである。とすると、「何だか血の滲んだ指先のように見える」というのは、ぼくのまったくの想像だったということになる。石垣りんの「シジミ」という詩などは、今でも高校の教科書に載っていることがあり、日常生活を描きながら、その言葉から立ち上ってくる、女の恨みというのか、生活苦のゆえの妄執というのか、どうにもやりきれない闇のような感じに、果たしてこういう感情が今どきの高校生にどのように受け取られるのだろうかといつも疑問に思ってきたのだ。だから「認印が血の滲んだ指先のように見える」というのも、いかにも石垣りんらしい表現だと、ぼくはずっと思ってきたのだった。

 その後の記述を読むと、怖いというよりは、むしろ穏やかで慎ましい思いが淡々と書かれているが、「それにしても一本のハンコが朱に染まるまで、何をしていたのかときかれても、人前に、これといって差し出すものは何ひとつありません。」という感慨は、今のぼくにも何だかとてもよく分かるのだ。もちろん、詩人としての石垣りんは、今でも教科書に載るくらいだから、素晴らしい「業績」を残すことができたわけで、この言葉が謙遜であることは誰の目にも明らかだ。けれども、ほんとうにこの言葉は謙遜なのかと考えると、どうもそうではなくて、案外本心なのではないかとも思えてくるのだ。

 石垣りんは、特別に貧しい家に生まれたわけではないが、ちょっと複雑な家庭の事情もあって、高等小学校を出てすぐに、15歳のときに銀行に勤めた。その頃のことを、このエッセイの中でこんなふうに書いている。

 つとめする身はうれしい。読みたい本も求め得られるから。
 そんな意味の歌を書いて、少女雑誌に載せてもらったりしました。とても張り合いのあることでした。
 と同時に、ああ男でなくて良かった、と思いました。女はエラクならなくてすむ。子供心にそう思いました。
 エラクならなければならないのは、ずいぶん面倒でつまらないことだ、と思ったのです。愚か、といえば、これほど単純で愚かなことはありません。
 けれど、未熟な心で直感的に感じた、その思いは、一生を串ざしにして私を支えてきた、背骨のようでもあります。バカの背骨です。
 エラクなるための努力は何ひとつしませんでした。自慢しているのではありません。事実だっただけです。機械的に働く以外は、好きなことだけに打ち込みました。

 女性の社会進出の重要性が叫ばれている昨今では、何を世迷い言をと思う人も多いだろう。けれども「エラクならなければならないのは、ずいぶん面倒でつまらないことだ」というのは、若い頃のぼくの直観でもあった。ぼくは教師になって、42年間勤めたけれど、「エラクなるための努力」は、やっぱり何ひとつしてこなかった。この42年間で、「長」と名のつく役職は、「演劇部長」ぐらいなものだった。石垣りんなら「女でよかった」と言えるが、男のぼくは、「女ならよかったのに」としかいいようがない。

 石垣りんは、学歴や財産のないゆえの苦渋をその人生で嫌というほど味わったのだが、それでも銀行での業務は「機械的に働く」というふうにまとめられるものだったゆえなのか、「毎日出勤簿に判を捺している間に、白い象牙がすっかり朱色に染まりました。」という穏やかな表現になり、その後で、おそらくは女性店員との働く女性としての共感へと話を進めている。けれども、ぼくの中では、それが「血の滲んだ指」に変換されたのは、先ほど述べたように石垣りんの他の詩からの影響でもあるだろうが、ひょっとしたら、教師の仕事が、時として血の滲むような苛酷さを持っていたからなのかもしれない。

 いずれにしても、詩であれ、エッセイであれ、言葉というものは、時として、長く人の心に生き続け、場合によっては多様に変換されながら、その人の心の糧となっていくものであるらしい。

 


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100のエッセイ・第9期・71 ありがとう

2014-03-22 14:32:27 | 100のエッセイ・第9期

71 ありがとう

2014.3.22


 

 この3月20日、勤務先の栄光学園の終業式の際に、同時に教職員の離任式も行われた。離任式といっても、おおげさなものではなく、退任教職員が校長から紹介されて、お辞儀をするというだけのことだが、これで、ぼくも正式に、学校の教師を辞めたわけである。

 本当は、もう1年勤める予定だったのだが、1年はやく辞めることにしたのは、去年の12月、病気の発覚直後のことだった。術後の経過がどうなるか予測できなかったし、その後の手術の説明の中でも、術後に声が出にくくなる可能性も指摘されていたので、それらを考え合わせて、学校には今年度で退職したいと申し出ていた。結果的には、それが正解だった。術後の経過は順調だけれど、声がかすれて話しにくいという症状はまだ続いていて、今後これがどうなっていくかは、これもちょっと予想ができない。少なくとも、今の状態で授業はとても無理なことは確かなので、12月の判断は非常によかったといえるだろう。

 それはそれとして、紛争で荒れに荒れた大学を逃げるように卒業して、都立高校に勤めてから42年の歳月が経ったとは、月並みだが、まるで夢のようである。創立2年目の都立忠生高校が最初の勤務校で、そこに5年。その後、都立青山高校に移ってそこで7年。そして栄光学園になかば強引に戻ってからちょうど30年。よくもったなあとつくづく思う。もっとも、最後の最後で、3ヶ月の休職を余儀なくされたのだから、「もたなかった」というべきかもしれないが。

 この42年間にわたる教員生活で経験したことを書いたら、それこそ、今回の「入院シリーズ」の何十倍にもなるだろう。卒業生に会うと、名前も覚えてないし、そもそもその子を教えたことがあるかどうかも分からないくせに、何だか妙にはっきりと覚えていることも山ほどある。それぞれについてさんざん今まで書き散らしてきたような気もするが、まだ書いてないこともどうやら多そうである。多そうであるなどとアイマイな書き方しかできないのは、この「100のエッセイ」も今回で通算871回目で、これだけ多くなると、いったい今まで何を書いてきたのかを調べるのは容易ではないからである。いちおう、何か書くときは、「前に書いたかな?」と思って検索をかけてはいるのだが、それでも見逃している可能性も大きいだろう。日常の会話でも、「オジイチャン、その話は100回目ですよ。」と言われることはないまでも、「あ、それ、もう聞いた。」とはしょっちゅう言われることなので、このエッセイでもそんなことは多いに違いない。

 このエッセイがいったいいつまで続くかは「神のみぞ知る」だが、学校に行かないぶん、話題も激減するだろう。そうなるとネタ切れになって、「昔話」が必然的に多くなるのもやむを得ぬところ、とご勘弁いただいて、おいおい「昔語り」もしていこうかと思っている。

 20日の終業式では、式場の講堂から外へ出るときに、生徒たちが盛大な拍手をしてくれて、みんな笑顔で送ってくれた。その後、廊下ですれ違うと、何人もの生徒が照れながらも「ありがとうございました。」と言ってくれた。そんな言葉が彼らの口から自然に出るなんて、ちょっと予想していなかったので、感動してしまった。ぼくも彼らのひとりひとりに心の中で「ありがとう」を言った。ほんとうに生徒あっての教師である。結局それが42年間の教師生活を通じての実感だといっていい。

 その夜の教職員の送別パーティでは、かすれた声で、挨拶をした。話がどうしても長くなってしまいがちなぼくだが、声がよく出ないので、かえって簡潔(?)にまとまったかもしれない。とにかく、声がかすれているから、いきなり「こんばんは、森進一です。」と言って始めたら、うけてしまって、後は嬉しくて、思いつくままに話したが、酔っぱらっていたので、内容はよく覚えていない。ただ、とにかく、ぼくはその場に立つことができて、何十人もの職場の仲間の顔を直接見ることができたことが幸せでならなかった。そこにいる人たちの笑顔が、宝物のように輝いて見えた。ただそのことだけを伝えたかった。

 話の最後に、「詳しくはウェブで。」と言ったら、これも妙に受けた。受けたついでに、どうぞ、ときどき覗いてやってください。このブログは、今後のぼくの「主な仕事場」となるはずですから。


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