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100のエッセイ・第10期・65 わが「師」の「恩」

2015-12-09 12:15:15 | 100のエッセイ・第10期

65 わが「師」の「恩」

2015.12.9


 

 教師というのは、つくづくフシギな職業だと思う。

 「先生と呼ばれるほどの馬鹿でなし」という言葉をいつ覚えたのか知らないが、教師をしている間、そしてやめてからも、この言葉が頭のどこかで響いている。ちなみに、『大辞林』によればこの言葉の意味するところは、「〔先生という敬称が必ずしも敬意を伴うものではないことから〕先生と言われて気分をよくするほど、馬鹿ではない。また、そう呼ばれていい気になっている者をあざけって言う言葉。」とあるわけだが、しかし、いい気になるかどうかは別として、教師を呼ぶのに「先生」以外の言い方が日本語にはないのだからしょうがない。

 「恩師」という言葉もまたそうである。卒業生がかつての先生をなんと表現すればいいのか考えてみると、どうしても「恩師」しかないことが分かる。「この方は、私の『先生』です。」と言うと、今習い事などを教えてもらっている人かと思われてしまいかねない。「恩師」と言えば、そういう誤解はなくて、ああ、かつて、どこかの学校で教師をしていたんだなと分かってもらえるというわけだ。だから、「恩師」という便利な言葉を使うのだが、だからといってその言葉を使う人間が、対象たる教師に「恩」を感じているかどうかはまた別の問題なのである。

 かつての教え子に「恩師」と言われると、どうにも居心地が悪いのは、どう考えても、ぼくは「恩」を感じてもらえるような教師ではなかったからだ。でも教え子の中には、あなたは「恩師」以外のなにものでもないのだ、と断言する人もいるわけで、そうなると、もうぼく自身がどう思うかにかかわりなく、教え子の方で「恩」としかいいようのないものを感じているのだろうと最近では納得することにしている。

 卒業式が近づいてくると、都立高校時代は、毎年のように、「仰げば尊し」を歌わせて欲しいという要望が生徒から出たものだ。そのころのぼくはいわゆる「アラサー」だったので、超生意気盛りで、かつ超ヒネクレ者だったから、「冗談じゃない。『尊し』なんてこれっぽっちも思ってないくせに、そんな歌は聞きたくないぜ。あのセンチメンタルなメロディに酔って泣きたいだけなんじゃないの!」って言って突っぱねたものだ。今から思うと、ひねくれすぎである。センチメンタルになって泣きたいだけだって、それはそれでいいじゃないか。思う存分泣かせてあげればよかったのだ、と今なら思う。たぶんぼくは、そんな彼らの「青春」のありかたに嫉妬していたのだと思う。

 ところで、「恩」とは、「目上の人から受ける感謝すべき行為。」(日本国語大辞典)の意だが、ここにも如実に表れているように、どこか「上」の者から施された行為であり、それに対して「感謝すべき」だと規定されているニュアンスがある。つまり、おれはお前にこれだけの「感謝すべき」ことをしてやったんだから、そのことを忘れるな、っていう「上から目線」の感じを持つ言葉なのだ。それがぼくが「恩師」と教え子から言われたときに、どうしても居心地が悪い思いをする原因のようだ。

 ぼくは、今でも、教え子たちに謝りたいことだらけで、「感謝しろ」なんていえることなんてほとんどない。(ちょっとだけある。)太宰治は『人間失格』で、その主人公たる大庭葉蔵(ヨウゾウ、である)に「恥の多い生涯を送ってきました。」と言わせ、寅さんは、「思い返せば恥ずかしきことの数々」といつも言っていた。それこそ、ぼくのためにあるような言葉である。

 「恩」だとか「師」だとか「先生」だとかいう言葉が、どうしても人間の「上下関係」に根付いてしまうのは、たぶん、封建的な時代の名残なのだろうが、封建主義的道徳の根源のように言われる儒教も、「論語」をきちんと読めばそれほど上下関係を重視していないところもある。

 孔子は、「三人行えば、必ず我が師あり。」と言っている。つまり、「上下関係」なんてどうでもいいんで、どこにでも「師=学ぶべき人」はいるよ、といっているのだ。何かを学ばせてもらったこと、それこそが本当の意味での「恩」だ。とすれば、「恩」というのは、それを感じる人の感性の問題だということになる。空にうかぶ雲を見て、なにかを「学んだ」とすれば、ぼくらは雲に「恩」があるということになるわけだ。雲はなにかを「教えよう」とはしていない。それでも、そこから「学ぶ」人はいる。

 大自然が「師」となることもあり、生徒が先生の「師」となることもある。いや、あるどころではない。かつての教え子に、今、ぼくはどれほどの「恩」を感じていることだろう。

 孔子はこうも言っている。「六十にして耳順う」と。六十歳になって、やっと人の言うことを素直に聴けるようになったというのだ。ということは、六十歳になるまで、孔子でさえ、他者から学ぶことは容易ではなかったということになる。人一倍生意気で、ヒネクレ者だったぼくもこの「耳順」を遙かに越えてしまったが、ようやく「耳順」の境地に到達できたような気がする。

 あとは七十歳の、「心の欲するところに従いて矩(のり)を喩(こ)えず。」という境地が待っているらしい。やりたい放題やっても、人の道をはずれることはない、というわけだが、さて……。




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100のエッセイ・第10期・64 「不在」について

2015-12-01 17:51:24 | 100のエッセイ・第10期

64 「不在」について

2015.12.1


 

 原節子が亡くなったということを聞いてから、しきりに「不在」ということを考えている。

これから私は貴女を知ってから初めて「原節子不在の世界」を生きることになります。何が変わるわけでもございません。ただ、車や電車で、あるいは徒歩で北鎌倉~鎌倉辺りを通る時、貴女がこの近くに今も存在しているのだ! という熱い思いの代わりに、貴女の不在を噛み締めねばならない、というそれだけのことです。 (見上陽一郎)

 フェイスブックから勝手に引用させていただいたが、見上君は、青山高校時代の教え子。

 鎌倉へはよく行くのだが、ここにあの原節子がまだ生きて暮らしているんだと、ふと思うことが何度もあった。けれども不思議に、会ってみたいとは思わなかった。見上君は、「貴女がこの近くに今も存在しているのだ! という熱い思いの代わりに、貴女の不在を噛み締めねばならない」と言うが、ぼくにはそれほど「熱い思い」があったわけではない。けれども、確かに、こうして実際に原節子が亡くなったと聞くと、「貴女の不在を噛み締めねばならない」という言葉は心に染みる。

 そんなことを思っていたら、田川未明さんのブログにこんな言葉があった。

一昨日。寝る前に目を通したツイッターで、原節子さんの訃報を知った。『原節子さん 9月に死去していた 95歳「東京物語」「晩春」』
そうか、と思った。ついに、とも。でも、なんだか違和感を覚えた。安らかに、と書きかけて、指がとまる。ちがう、そうじゃない。今の想いは、そうじゃなくて…。胸の中をのぞきこんで探り当てたのは、知りたくなかった、という言葉だった。(田川未明・ブログ「トルニタリナイコト」

 こちらも勝手な引用だが、「知りたくなかった」という思いにも、とても共感を覚えた。原節子は確かに、つい最近まで生きて、鎌倉に住んでいたけれど、まったく消息が伝わってこなかったので、すでに「伝説の女優」だった。ひょっとして、もう亡くなっているんじゃないかとすら思ったこともある。そこへ訃報だ。しかも95歳。そして既に、9月に亡くなっていたというのだ。それなら、いっそ「知りたくなかった」とぼくも思う。知ったところで何が変わるのか。見上君の言うように「不在を噛み締める」ことになるのかもしれないが、「存在」への思いと、「不在」への思いに、それほど大きな違いはないような気もするのだ。

 身近な人を失うと、人はその「不在」に苦しめられる。けれども、どんなに苦しめられても、次第に「時」がその苦しみを和らげてくれる。もちろん、何十年たっても「悲しみを新たにする」ことはあるが、失った直後の苦しみとは明らかに違うだろう。少なくともぼくにとってはそうだった。

 66年も生きてくれば、それこそ、数え切れないほどの「別れ」を経験し、その「不在」に苦しめられてきた。けれどもその苦しみや悲しみは、必ず、いつも和らいできたし、それぞれの「不在」をなんとか受け入れることができてきたような気がするのだ。

 思うに、「存在」の反対は「不在」なのではないだろう。「ある」の反対に「ない」があるわけではない。というのも、「ない」ものをいくらひっくりかえてしても「ある」にはならないからだ。

 「ない」が、「ある」に先だつということは決してない。「原節子のいない世界」というのは「原節子のいる世界」を前提にしてしかありえない。原節子がかつてこの世に存在しなかったとしたら、「原節子のいない世界」は存在しようがないからだ。

 むずかしい話になってきたが、要するに、人間がこの世に生まれて、生きた、つまり「存在した」ということは、その「存在」が、その「生死にかかわらず永遠である」ということだ。原節子が生き、映画に出演したということは、原節子が長生きしようが、亡くなろうが、決して消えることはない。それは映像に彼女の姿が残っているとか、人々の心の中に生きているとか、そういうことではなくて、とにかく、原節子が「存在した」以上、世界はもう「原節子がいなかった世界」へと戻ることはできないということなのだ。

 こういうことを哲学ではなんというのか知らないが、少なくとも多くの宗教が説く「永遠の命」というのは、こういうことを言っているんじゃないかとぼくは思うのだ。「天国」とか「あの世」とかいうものも、こういうことの別の説明の仕方なのではないかと思うのだ。訃報を聞いて「不在を噛み締めるしかない」と思い、「知りたくなかった」と思うのも、実は、このような世界のあり方をどこかで感じている、あるいは知っているからではないのだろうか。

 そんな感慨に浸っていると、また訃報が飛び込んだ。水木しげる、93歳。そして我が家にも、今続々と「喪中葉書」が届いている。

 死んだら人間はゴミになると言った人がいる。とんでもない話だ。生きようと、死のうと、人間はゴミではないし、ゴミになんかなりはしない。生きていればもちろんだが、死んでしまっても、いつか、どこかで、必ず笑って会える。「あなたのいない世界」は「あなたのいた世界」と、断絶なんかしていない。ずっと地続きなのだ。

 

 

 


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100のエッセイ・第10期・63 分からなくてもいいんじゃないの?

2015-11-23 17:06:03 | 100のエッセイ・第10期

63 分からなくてもいいんじゃないの?

2015.11.23


 

 ヒマなもんだから、日常的に、絵を描いたり、書を書いたり(という表現はちょっと変かな)、写真を撮ったりしているのだが、それぞれがバラバラな活動のようでいて、いずれも大げさに言えば「芸術的表現」を求めた活動のわけだから、どこかでつながっているような気がしたとしても、それほど不思議なことではない。

 書の方は、まだ初めて10年と経っていないわけで、いわゆる書歴というものが圧倒的に不足していて、臨書などをやろうものなら、ほんとに未熟者ゆえの四苦八苦である。そこから逃げているわけでは決してないが、もともとのぼくの癖字がかえって「味」になっているらしいということで、主に「現代詩文」とか「調和体」とかいわれるジャンルを中心にして制作している。

 つまり、「漢字」とか「仮名」とかいった伝統的なスタイルではなく、現代の詩文を、漢字と仮名交じりで書くというジャンルで、戦後とくに盛んになったらしい。もっとも、日本の伝統的な書の世界でも、漢字と仮名が交じっているなんてことはごく当たり前のことで、たとえば、和歌にしても、俳句にしても、それを書くとなれば、漢字と仮名は交ざるわけである。しかし「現代詩文書」などといった場合には、原則として「変体仮名」は使わない、とか、そういった「決まり」のようなものがあるにはある。

 まあ、専門的なことはよく分からないから、省くとして、書、それも現代的な書になると、「読める」か「読めない」かがよく問題になる。ぼくは、「読めなくてもかまわない」と思っているわけだが、「読めなきゃ意味ないじゃん。」という人がたぶん圧倒的に多いだろう。

 この前も、知人に「読めないような書って、じゃあ、どう見ればいいの?」って聞かれた。で、ぼくは、「それじゃあ、何が描いてあるか分かんない抽象画はどう見てるわけ?」って聞き返したら、あんまりそういう絵も見ないらしく、「う~ん」ってうなっていた。で、ぼくは続けた。

 抽象画の場合は、「リンゴ」だとか「自画像」だとか、そういう題がついてちゃんとそれらしきものが描いてあると、「あ、リンゴだ。」「あ、この人の顔なんだ。」って、それで「分かった」ということになって、その人は、あとはちょっとその絵をみて、次の絵に行ってしまうよね。でも、抽象画だとそれができないから、「なにこれ? わかんない。」って言って、見ることもしない。でも、それが「何」かどうかはさておいて、色とか形とか、画面の大きさとか、画面から感じられる雰囲気とか、いくらでも見て、そして感じることっていっぱいあるわけでしょ。それが、抽象画を見るということだと思うよ。

 書も同じだよね。書の場合は「何が書いてあるか」というより、「何て書いてあるか」が問題になっちゃうから、もっと大変だ。だからまず「読める」ことが絶対条件になってしまう。書でも前衛書とか、墨象とかいったジャンルがあるけど、そこではもう「字」を書かない。字を書かないで書といえるのかっていう問題もあるけど、「読めない書」から「墨象」への距離はほんの一歩だよね。まあ、それはともかく、書でも、「何て書いてあるか」ってことを、ひとまずおいといて、墨の色とか、カスレ方とか、線の太さとか細さとか、空白の形とか、全体から受ける印象とか、それこそキリがないほど「見る」ものはあるよね。

 それでも件の知人は、納得いかないふうなので、ちょっときれかかって、続けた。

 じゃあ、音楽はどうするのさ。ベートーヴェンの「月光」ソナタを聴いて、「あ、これは月の光を音楽にしたんだあ。」って思えば、それで音楽を味わったことになるかい? そうじゃないでしょ。そもそも「月光」なんて題はベートーヴェンがつけたもんじゃないってことは有名だけどさ、ソナタ第何番なんてそっけない第の曲がほとんどなのに、それをどう聞くわけ? それは、もう、音とかメロディーとかリズムとか、それこそ、数え切れないほどのものを耳で聴いて味わっているんでしょ。それと同じに考えればいいんじゃないの。抽象画とか、「読めない書」なんかも、それと同じことなんだと思うよ。

 なんてごく当たり前のことをエラソウにしゃべり散らしたが、知人は、それで納得したのかしないのか、話題は別のところに飛んだのだけれど、案外、こういうことって、それほど「当たり前」のこととしてみんなが納得しているわけではないことを改めて確認したのだった。

 それより、「読めない書」あるいは「読めなくてもいい書」を書こうとしているからか、絵の方も、抽象画の方が面白くなってきてしまった。ぼくの場合、絵を描くといえば、水彩で風景とか植物を描くことしかしてこなかったのだが、ここへ来て、クレパスを使った抽象画に突然目覚めて、その面白さにはまっている。

 あげくの果てに、写真まで「何が写っているのか分からない写真」が面白くなってきている。「写真」は「真」を「写す」ものだから、「抽象写真」というようなジャンルはあまりメジャーではないけれど、ないことはないと思う。ぼくの場合は、そこまで行かないけれど、一見すると、ほとんどボケていて、「失敗じゃん」と思われるような写真だけど、よく見ると、どこか一カ所だけ、妙にピシッとピントがあっていて、どうやら草らしいなんてわかるような写真。そういうのが面白くなってきた。

 中井精也の「ゆる鉄」と呼ばれる写真も、電車をくっきり、しかも先頭から最後尾の車輌までを写す写真(「編成写真」と呼ばれるみたい)が本道とされる鉄道写真の中では極めて異端だ。全体が菜の花の黄色でほとんどボケなのに、隅のほうに、ちっちゃく電車が見えてそこにちゃんとピントがあっている。たぶんぼくの変な近ごろの写真もこの「ゆる鉄」の影響下にあって、「ゆる草」とか「ゆる花」とかいったものなのかもしれない。

 文学の世界では、これにあたるものはあるのだろうか。「抽象小説」なんてあまり聞かないが(ないことはない)、ぴったり当てはまるのは「詩」だ。それも「現代詩」だ。詩も「何言っているんだか分かんない」から、教室でも敬遠される。教師からも生徒からも敬遠される。

 でも、ほんとに最初から最後まで何言ってるんだか全然わからないような詩でも、どこか一カ所が、キラッと光るような詩が、あるいは全体がしぶく光を放っているような詩がある。どれだ? って聞かれても困るが、そんな詩があったような気がする。そしてそんな詩が、いつまでも心のどこかに残っているような気がするのだ。

 ぼくがほんとうに目指すべきものは、初めから終わりまで、タワゴト以外の何ものでもないのに、いつまでも忘れられない、というようなエッセイなのかもしれない。「タワゴト以外の何ものでもない」という点はとっくにクリアしてるわけだが……。

 


(註)この中に出てくる「知人」との会話は、半分以上フィクションです。「ウソ」という意味ではありません。「対話」のようにしたかったのです。


 

 

 

 


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100のエッセイ・第10期・62 深まりゆく思いと時間

2015-11-16 16:26:26 | 100のエッセイ・第10期

62 深まりゆく思いと時間


2015.11.16


 

 10月の末ごろに、一通の手紙が届いた。青山高校に勤めていたころの先輩のD先生からだった。先生は、ぼくが青山高校勤務の最後の年1983年以来、「青山談話室」という小冊子を自腹を切って出版してこられた。ぼくが青山を去ったあとも、毎年、この雑誌を送ってくださり、寄稿も求められたのだが、1回寄稿するのがやっとだった。

 その「青山談話室」も30号を2011年に刊行して、廃刊となってしまったと記憶する。(手元にある第1号が1984年、第30号が2011年だから、ほぼ年に一回出し続けたということだけでも驚異的なことである。その後、もう1、2号出ていたかもしれないが本が手元にない。)

 廃刊しますというお手紙を先生からいただいたとき、先生もお年だし(とっくに80歳は超えておられるはず)、それに毎回送っていただいているのに、いつもそっけない御礼のハガキですませてしまっていて、ちっとも経済的な支援なども考えなかったものだから、廃刊も仕方のないことだと思った。申し訳ないことだとも思った。そしてそれ以来、先生とは年賀状だけのお付き合いになっていたのである。

 そこへ、そのD先生からの手紙。そこには先生らしい端正な字でこんなことが書かれていた。

前略 春から夏にかけての大暴風雨がしばらく途絶えて、静かな秋が訪れていますが、皆さん、それぞれいかがお過ごしでいらっしゃいますでしょうか。このあたりで、しばらくの晩秋の雰囲気を味わっておられるのではないか、と推察しております。
 そこで、こうした秋の雰囲気の中で、思い浮かべて考えておられる感想の数々をお書きの上で、私のところまで送ってくださいませんでしょうか。多くの方々が、何を考え、どう思っておられるのか、集めて一冊の冊子にしてみようか。
 私の頭に浮かんで来ましたのが、例のくせです。
 そんなわけですので、皆さんの思いが、原稿用紙にして、二~三枚から四~五枚程度にでも、まとまりましたら、どうぞご遠慮なく、お送りくださいませんでしょうか。お待ちしております。
    十月二十五日  署名

 え? また作るんだ。って思ってびっくりしたけれど、それ以上に、ぼくはこの文面に妙に心ひかれたのだった。

 先生がこの手紙を出した相手は、みなぼくよりも高齢である。何しろ、ぼくが青山高校に勤めていたのは28歳から34歳までで、教師の中でもほとんど最年少だった。辞めるころには、ぼつぼつと若い人も入ってきてはいたが、それでも、圧倒的に歳上の先生たちばかり。この「青山談話室」の「執筆陣」も、名前も知らない昔の人も多く、ぼくがなかなか「寄稿」できなかったのも、年齢的なギャップにもよるところが大きかったわけである。

 D先生が手紙を出した相手が、ほとんどが70歳を超えた人ばかりなので、こういう文面になるのである。今の若い人には、こういう発想すらないだろう。こんな面倒なことをしなくても、「多くの方々が、何を考え、どう思っておられるのか」など、フェイスブックやらツイッターやらブログやらで、難なくわかる。分かりすぎるほどだ。

 それに比べて、このD先生の心境はまるで違う。深まりゆく秋の気配を全身に感じながら、縁側の籐椅子かなんかに座って、「ああ、そういえば、みんな、今ごろ、何を考え、どう思っているのかなあ。」とふと思う。そうだ、また、雑誌を作ろう。みんなの思いをまとめて1冊の冊子にしてみよう。そんなことをふと思いついた……。

 「みんなが考え、思っていること」が、D先生の元に届くまでには、それなりの時間がかかる。それをまとめて、編集して、冊子を作ってみんなに配布するまでにはもっと時間がかかる。でも、その「時間がかかる」ことが、とても大事なことのように思えてならない。なにか大切な時間がそこには流れているように思えてならないのである。

 「みんなどんなことを思っているんだろうなあ。」と思うまでに先生の心の中を流れた時間。それはまた秋の深まっていく時間とも重なる。そして、「みんなの思い」が封筒に入れられて先生に届くまでの時間。それはたぶん、秋から冬にかけての時間とも重なるだろう。時間の中に生きていくというのは、こういうことを指すのではなかったろうか。

 などという感慨にふけっている間に、その手紙が届いてからあっという間に20日以上経ってしまった。こんなエッセイを書いている場合ではない。

 このどんどん冬めいていく季節に、ぼくがしみじみ思っていることは、さて、どんなことなのだろうか。


 




「青山談話室」第1号と第30号の表紙。

題字は、知る人ぞ知る、宮崎寿美枝先生の揮毫。


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100のエッセイ・第10期・61 高校演劇っていいなあ

2015-11-08 17:14:22 | 100のエッセイ・第10期

61 高校演劇っていいなあ

2015.11.8


 

 教科書の仕事の関係で知り合った開成高校のM先生が演劇部の顧問をしていると聞いたのは数年前のことだったろうか。今年の9月に、こまつ座の『國語元年』を見に行ったとき、偶然、高校の演劇鑑賞会とぶつかり、トイレにいた生徒に「君たち、どこの学校?」って聞いたら、開成高校ですっていうので、びっくりして、じゃM先生知っている? って聞いたら、ええそのM先生が企画してくださったのですというので、更にびっくりしたということがあったばかりなのだが、この前、仕事の席でそのM先生が、興奮気味に「演劇部が都大会に出場決定しました!」って言うので、またまたびっくり仰天して、「じゃ、見に行くよ。どこでやるの?」って聞いたら、「東京芸術劇場のシアターウエストです。」っていうから、もう死ぬほどびっくりしたのだった。(なんでかというと、ぼくが昔都立高校の演劇部の顧問をしていたころの中央大会の会場は、江古田の日大芸術学部の講堂だったからだ。)

 近ごろ、びっくりするようなことが多くて、それは「出来事」そのものが「驚くべきこと」なのか、それとも年をとったせいで、感情のスイッチが入りやすく(あるいは壊れてもろく)なっているのかとんと分からないのだが、あの名にし負う「開成高校」の演劇部が、都の演劇大会に出る、ってことは、それほど普通のことではないとぼくは思ったわけだ。世間のイメージとしては、「開成」といったら「東大」で、ひたすら受験勉強にイソシム生徒を思い描くだろうから、演劇などというヤクザなものには目もくれないだろうとぼくが思っても不思議ではないだろう。

 その開成の演劇部がどういう芝居をするのだろうかという興味がフツフツを湧いてきたのも無理からぬところで、件のM先生に、日程が決まったら教えてねと言ったのが、何ヶ月前だったろうか。そのうち、大会のチケットはネット予約できるそうですという連絡がM先生から入ったから、ネットで見ると、予約は10月20日からです、なんて書いてある。まだ先だと思っているうちに、20日の当日になった。ネットで見ると、予約開始は午後4時頃を予定しています、なんてある。スタッフが手薄で、困ってるのかなあなどと思って、夜の7時ごろにアクセスしたら、なんと「完売」となっているではないか。またまたびっくりである。なんかの間違いじゃないかと思って、M先生に、「もう完売になってるよ」と連絡すると、先生も「へえ~、そんなことってあるんですかねえ。」とびっくりしている。「完売」とは言っても、無料なのだが、とにかくチケットは全部「予約済み」ということで、これが「受付開始」から数時間の出来事である。それからはキャンセル待ちしかなくて、結局、諦めるしかないと思われた。しかし、数日前、生徒の一人が急に行くことができなくなって、1枚チケットが余っていますけどどうしますか? ってM先生から連絡がきた。どうするもこうするもない、是非お願いしますと頼んだのだった。

 それにしても、いったいいつから、高校演劇の都大会はこんなに人気なんだと不思議に思いつつ(だって、江古田で中央大会をやってたころは、そもそもチケットなんてなかったし、会場も何時行っても余裕で入れたのだから)、出かけてみると、シアターイーストとシアターウエストの前の「広場」は、高校生たちですごい混雑となっている。劇場の前に張ってあるポスターも気合いが入っているし、入場したらしたで分厚いパンフレットまでくれる。しかも、ぼくのように「開成だけ」見る観客は、前の方の指定席である。(一日見る「通しのチケット」は後ろの方の自由席)チケットのもぎりから、会場の案内まで、全部高校生がやっている。すごい。すごすぎる。

 開成高校演劇部は、『花火』という生徒の創作戯曲を上演した。4人の役者の演ずる芝居は、高校生らしい爽やかなコメディーで、いろいろ演技やら演出やらで、未熟なところもあったけれど、とにかく面白くて大笑いしながらみた。芝居をやるのを楽しんでいるかにみえる生徒、思うようにならないセリフや動きを懸命にこなそうとする生徒を見上げながら、ぼくが栄光の演劇部を指導していたころに戻ったかのような気分で心の中で応援していた。あ、そこをもうちょっと強く、とか、あ、そこでちょっと止まって一呼吸おいてからそのセリフを息を吐きながら、とか、もうそういうダメだしも心の中に渦巻いたが、それでも、彼らの緊張感や、突然叫ぶときの解放感やらが、ひたすら羨ましかった。いいなあ、高校生の演劇って。これが演劇の原点だよね、そんなふうに思ったのだった。

 家に帰って、もらってきた分厚いパンフレットを見て、またまたびっくりした。それは、「東京都中央大会上演記録 1947~2014」という10ページにも及ぶ一覧表だった。え、それなら、アレも乗ってるの? とページをめくっていくと、ありましたよ、ありました。都立忠生高校の記録である。1974(昭和49年)都立忠生『綾の鼓」三島由紀夫、1975年(昭和50年)都立忠生『青い馬』別役実、1976年(昭和51年)都立忠生『正午の伝説』別役実。

 都立忠生高校はぼくが赴任した1972年は、創立2年目。その年からぼくは演劇部顧問をやらされて(自分からやらせてくれと言ったわけではなかった)、翌1973年別役実の「マッチ売りの少女」で多摩地区大会に出場するも致命的な失敗をして敗退。その翌年、1974年に三島の『綾の鼓』で多摩地区大会で優勝したのだ。その後、3連続多摩地区大会優勝を果たし、1976年の『正午の伝説』では都大会で4位となったのだった。

 これはぼくの教師生活の中でももっとも「輝かしい」出来事だったし、何も自慢できることのないときは(とにかく自慢したがりの自己愛人間なので)、決まってこのことを持ち出して自慢してきたのだったが(こんなに連続して優勝できたのは、ぼくの力ではなくて、それこそ力のある部員がいたからなのだが──その部員の一人がキンダースペースの瀬田ひろ美である──、それをぼくはすっかり自分の手柄にして自慢してきたのだった。すみません。)、それが、この「表」にきちんと収められていることに深く感動したのだった。

 それは、ぼくの「自慢の証拠」が見つかったからではない。そうではなくて、この大会を運営してきた先生たちが、昭和22年の第1回大会以来、毎回必ずきちんとその記録を残し、しかも、今になっても、それを大事に記録として伝えてくれていることへの感動と、そして感謝である。特に都立忠生高校は、もう廃校となってしまって存在しない学校である。その「栄光の歴史」の一端がこうやって残されているのは、何とも言えず嬉しいことなのだ。

 ぼくは、生来の面倒くさがりによって、大会運営に関しては何もお手伝いをしてこなかったし、青山高校の演劇部は、そもそも東京都の演劇連盟に加盟してなかったから大会に出場することもなかった。栄光の演劇部も20年やったが、一度も神奈川県演劇連盟には加わらなかった。一時熱心な生徒が県大会に出たいと言ってきたが、「中学生と高校生を合わせてやっと何とかなっているんだから、高校生だけの大会になんか出られるわけないだろ。」とはねつけた。そういう理由もあったことはあったのだが、やっぱり、ひとえにぼくの「怠惰」のしからしむるところである。そんな怠け者の教師の対極に、こうして高校演劇を一生懸命支え育んできた先生たちがいたのだ。

 びっくりすることが増えてきたのは、やっぱり、この年になって、「己の拙さ」に初めて気づくことが多いからなのかもしれない。


 



★忠生高校栄光の記録!



そして、今年の出場校


 

 


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