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100のエッセイ・第10期・60 題名だけのエッセイ

2015-11-01 11:06:20 | 100のエッセイ・第10期

60 題名だけのエッセイ

2015.11.1


 

 前回のエッセイで、三國一朗の『肩書きのない名刺』という本のことに触れて、読んでもいないのに、勝手な憶測を書いたが、名前や顔を知っているからといって、その著書の内容を憶測ですませていいものだろうかと何となく気がとがめて、あのエッセイを書いたあとに、その本をネット古書店で買い求めた。

 さっそく目次を見て、「肩書きのない名刺」という題名のエッセイを探したのだが、これがないのだ。意外だった。エッセイ集の題名というのは、別にその中に収録したエッセイの一つにするものだなんて規則めいたことはないが、最近のエッセイ集そういうものが多い。たとえば、ぼくが持っている堀江敏幸のエッセイ集でも、8冊中の6冊までの題名がそうなっている。そうなってないものは、例えば『本の音』という題名で、これはエッセイ集全体が「本」に関してのものなので、そういう包括的な題名となっているわけである。

 『肩書きのない名刺』という題名は、どう考えてもそうした包括的な題名とは思えない。何か、一篇のエッセイとして書かれていることをどうしても予想させる題名ではないか。これはどういうことだろうと不思議に思いつつ「あとがき」を読んでみた。ぼくが買ったのは中公文庫版だから、「文庫版のあとがき」だが、そこにこんなことが書いてあった。絶版の本なので、引用しておく。


 自分の雑然たる文章を集めた一冊の本に、「肩書きのない名刺」などという名前をつけたのは、それまでの私の生活が、本人の好むと好まないとに拘らず、いかに「肩書き」に縁の深いものであったか、その一つの現われではないかと思います。
 「肩書き」のある名刺を多用したのは、やはり麦酒会社の営業部につとめていた十年近い歳月の間だったでしょう。会社も業界も全部が上わ向きで、活気にみちた時期でした。私のような下っ端でも、日に日に手持ちの名刺の減っていくのがよくわかりました。もっとも仕事が広告で、社外の人たちとの交渉が多かったからかもしれませんが……。
 この雑文集のそもそもの初版が出ることになり、本のタイトルを決める段に到ったときのことを、いまでも憶えています。
ある日、銀座に用があり、いつものように自分の車で出かけました。皇居のお濠のふちの道を半蔵門から日比谷へむけてゆっくり走る。あの、駐日大使だったころの詩人のポオル・クローデルが愛したといわれる景観のコースです。
 途中、祝田橋の大きな交叉点の手前で、信号が赤にかわりました。ふと、そのとき頭に浮かんだのが、「肩書きのない名刺」で、私は目の前の信号が赤から青にかわるまでの短い何十秒間かに、その八文字を胸のポケットから出した手帖に書きとめることができました。それというのもあの交叉点の信号は、車の流れの調整のため、ゆっくり変わるからなのですが……。

 

 この後は、中公文庫に収められることが嬉しいという話題に移っていってしまうから、これ以上の説明はない。これはこれでまた不思議な話である。いろいろなエッセイを集めて本を出すことになった。そのタイトルをどうしようかと考えていたとき、ふと車で信号待ちをしている何十秒かの間に思いついた。それが「肩書きのない名刺」の8文字だった、というのだ。

 自分のそれまでの生活が「肩書き」に縁の深い生活だったから、「肩書き」とは関係のない生活に憧れていたということなのか、現在の自分が様々な仕事についているので、「肩書き」の書きようがない生活をしている、ということなのか、そのへんが曖昧で、よく分からない。このエッセイ集全体を読んでみれば、その辺の三國一朗の「気持ち」が分かるのかもしれないが、いずれにしても、この題名を持つ三國一朗のエッセイが「ない」ことだけは確かなのである。

 「題名のない音楽会」ではないけれど、「題名だけのエッセイ」という言葉がふと浮かぶ。

 「肩書きのない名刺」というエッセイがあると思いこみ、それが何十年と続き(そもそもこの『肩書きのない名刺』という本の初版は、昭和55年(1980年)で、日本エッセイストクラブ賞を受賞している。ぼくはいつこの本を知ったのか記憶にないが、おそらく30年ほど前だろう。)その内容を憶測しつづけ、そして、いざ内容を確かめようと本を買ってみたら、そのエッセイがない。内容がない。実に宙ぶらりんな、不思議な感覚である。

 題名だけ知っていて、まだ読んだことがないということはよくある。よくあるどころのサワギではなくて、そんな本だらけである。けれども、題名だけ知っていて、何十年かたってから読もうとしたら、題名だけだった、なんてそんなことは滅多にないのではなかろうか。

 逆に、何十年も題名だけは知っていたということは、それだけその題名にインパクトがあるからだ、ともいえる。「内容の喚起力」が優れているということだろう。とすれば、「肩書きのない名刺」の8文字は、俳句よりも更に短い「詩」といってもいい。ぼくが憶測したような「お説教」の「内容」を持つより、いっそ「ない」ほうが、いろいろと考えられていい、とも言えるからだ。

 ぼくも、いつかこんな「題名だけのエッセイ」を書いてみたいものだ。だらだらつづく「内容」なんかいらない、そんな思いに誘う題名だけのエッセイを。それなら「読む」のも楽だし、「書く」のも楽だ。



 


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100のエッセイ・第10期・59 肩書きのない名刺

2015-10-26 17:18:42 | 100のエッセイ・第10期

59 肩書きのない名刺

2015.10.26


 

 「肩書きのない名刺」というエッセイがあったような気がして、おそらく向田邦子だろうと思っていたのだが、ネットで調べたら、三國一朗のエッセイ集だった。それなら読んだことはない。読んだことはなくても、題名だけはよく知っているという本や作品というのは数知れないわけだが、題名だけでも知っているということは決して悪いことではない。

 高校生の頃、国語で文学史の知識問題のテストがあって、作者と作品を結びつけるというものだったが、50題ほどのクイズみたいなその試験で、ぼくはクラスで一番だったか二番だったか、とにかく「よくできた」ことを覚えている。それは、それほど読書家でもないのに、新潮文庫とか岩波文庫の解説目録が好きで、そればっかり「読んで」いたからだ。その時覚えた、ゾラの「ナナ」とか、モーパッサンの「脂肪の塊」だとか、メルビルの「白鯨」とかは、50年たってもまだ読んでない。読んでなくても、名前を知っているから、そのうち読むきっかけにはなる。文学史の丸暗記なんて意味のない勉強だというのが、昨今の一般的な考え方だろうが、案外そうでもないのである。

 「肩書きのない名刺」というエッセイだか本だか(たぶん、エッセイの題名を本の題名にしたのだろう)を読んだことがないのに、その題名を思い出すことが昨今多いのは、自分の名刺が、まさに「肩書きのない名刺」になってしまったからである。

 教師なんて仕事では、名刺はそれほど必要なものではない。主な「顧客」が生徒ないしはその親であるわけだから、私はこういう者ですといってわざわざ名刺を渡すことなどないのである。だから、ぼくが勤めた三つの学校では、いずれも、学校が名刺を作ってくれることはなかった。もっとも、生徒指導部長とか、校長とかいった役職につけば、作ってもらえるらしかったが、ぼくは42年間の教師生活を通じて、そういう「役職」や「管理職」に一度もついたことがなかったから、学校に名刺を作ってもらったことも一度もなく、すくなくない金を払って名刺はいつも自分でハンコ屋に作ってもらっていた。

 そのうち、パソコンで簡単に名刺が作れるようになると、自分で勝手に作っていた。それほど使う機会はないとはいっても、年をとるにつれて、学校以外での仕事やら趣味の世界やらも増えてきて、それなりに使用頻度もあがっていった。

 肩書きは、「栄光学園中学高等学校教諭」だった。これを渡すと、栄光学園がそれなりの「有名校」なので、少なくとも神奈川県に住んでいる人などには「お!」といった顔をする人も少なからずいて、悪い気はしなかった。そういうときに、肩書きが「教諭」なんかじゃなくて、「教務部長」とか「進路指導主任」とかいったものなら、もっとよかったのになあと思わないことがなかったわけではない。

 なんで、東京教育大学という、教師の世界ではエリート校を出ているのに、42年間も「ヒラ」だったのかは、話していると長くなるからやめるが、最初の学校に勤めたときに、先輩の教師から、「死ぬまでヒラ教師を通すなら、よほど自分に自信がないとダメだぞ。」って言われたことをよく覚えている。彼は、権力を嫌い、絶対に管理職になんかつかない、って言っていたのだが、その後、どういう事情からか、一度だけ「教頭試験」を受けたことがあり、それをすごく恥ずかしそうにぼくに打ち明けたことがある。結局教頭にはならなかったが。

 彼は、「自分にはこれがある」という自信がないのにヒラの教師のままでいると、きっとミジメな思いをする。それなら、せめて、教頭とか校長になるしかない、というのだった。当時の東京都の教師の中では絶大な勢力を誇っていた茗渓閥(東京高等師範・東京文理大・東京教育大学の同窓会で作る教育界の派閥のようなもの)の一員として、うかうかしていると、どうしても「管理職」にさせられてしまう、それがいやなら「自信を持てる世界」を持てというのが彼の忠告だった。ぼくは、その忠告を片時も忘れずにその後の教師人生を過ごしたような気がするのである。結局のところ、「管理職」にはならずにすんだものの、そうかといって「自信を持てる世界」も持てなかったが。

 まあ、そんなこんなで、42年もヒラの教師で過ごし、肩書きも、ヒラなりに「教諭」でよかったのだが、退職後は、何も書くことがない。まさか「元教諭」というわけにもいかない。まさに「肩書きのない名刺」を持つしかない状態になったわけだ。

 三國のエッセイは、たぶん、「肩書き」なんかで虚勢をはるのではなく、「人間そのもの」で勝負しろ、それを象徴するのが「肩書きのない名刺」だぞ、っていうことを言っているのではなかろうか(読んでないうえに、内容まで邪推するなんてもってのほかだが)。けれども、それは、たいそうな肩書きのある人間が、あえて「肩書きのない名刺」を持つからカッコイイというか、見上げた心根というか、そんなものの象徴になるわけで、もともと肩書きのないヤツが、「肩書きのない名刺」をもっていても、だれも褒めてくれない。

 別に褒めてもらうために名刺を渡すのではなくて、話のきっかけになればそれでいいのから、なんでもいいじゃないかとも言えるのだが、趣味で絵を描くからといって「画家」とも名乗れないし、エッセイを書いているかといって「エッセイスト」というのもおこがましい。ましてまだ始めて10年もたっていない書で「書家」というのはもっとおこがましい。

 そんなわけで、去年、退職とともに「肩書きのない名刺」を自分で作って、ブログやホームページのアドレスを入れるぐらいが関の山という始末となった。そうなると、渡すときに、「もう退職してますから、肩書きもなんにもないですけど。」なんて変な言葉が口をついてでる。これもなんかどこか言い訳じみていていやだ。おもしろくない。

 そんな微妙な体験を重ねて、ようやく最近「名誉教授」という「称号」がなぜあるのか分かった。ずっと昔「名誉教授」は無給だと聞いて、それなら意味ないじゃんと思ってきたのだが、なんだ、名刺に書くためか、と思い至った次第だ。最近あるサイトで、東京教育大学の家永三郎教授が、退職後、大学が「名誉教授」にしようとしなかったのだが、弟子達が奔走してやっと「名誉教授」になれたという記事を読んで、はたと「名誉教授」の「意味」が分かったような気がしたということもある。

 それなら、「名誉教諭」ってのがあってもいいんじゃないかなんて思うが、そうなると「査定」がムズカシイなあ。退職者は全員「名誉教諭」とか、「名誉講師」とかすればいいんじゃないかとも思うが、それだと「希少価値」がないから、だれも「お!」って思わないしなあ、なんてバカなことを考えていたら、ふと、それより、ちょっとキレイな名刺を作ってみようと思った。キレイというか、ちょっとデザインをして、もらった人が、これなに? って思えば、何にもないよりマシだというわけだ。それで、ちょっとは話のきっかけとなるかもしれないではないか。その試作品が冒頭に載せたものである。こんなのならいくらでもできそうで、おもしろそうだ。何はともかく、おもしろければそれでいいと思う昨今である。




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100のエッセイ・第10期・58 スピーチっておもしろい

2015-10-20 10:34:46 | 100のエッセイ・第10期

58 スピーチっておもしろい

2015.10.20


 

 同窓会で「恩師」を呼んで、スピーチをしてもらうとなると、たいていは話が長くて、聞いている「元生徒」がうんざりしてしまうのがオチである。その「恩師」がご高齢だと、長いうえに、何を言っているのかとりとめもなくなってしまい、うんざりに拍車をかけてしまうことにもなる。

 ご高齢というほどもでもないが、どう考えても「老人」に分類されるぼくとしては、同窓会でのスピーチは、できる限り簡潔にといつも思うのだが、なかなかむずかしい。

 つい先日、都立青山高校時代の教え子の同窓会があった。青山高校には7年間いたが、最初の1年は担任なし、2年目に1年生を担任して卒業させた。その後にすぐまた1年生を担任して卒業させたのだが、彼らが卒業すると同時にぼくも「卒業」してしまった。つまり浪人の面倒をみないで、さっさと栄光学園に行ってしまったというわけで、いまでも、申し訳なかったと思っているのだが、今回はその後の方の卒業生だった。

 同窓会では、昔の教え子に会えるだけではなくて、昔の同僚の先生に会えるという楽しみもある。青山高校では当時ぼくはほとんど最年少だったから、同僚といっても、みんな歳上である。今回もぼく以外の3人とも、ぼくよりずっと、あるいは、かなり、ご高齢だった。中でも、N先生は、御年86歳ということで、ぼくの母と3歳しか違わない。その先生が、ちゃんと出席なさっている。これだけでも感激である。

 で、そのN先生がスピーチをしたのだが、先生は、おれはこういうところで話すと長くなって、どんどん横道にずれていって元に戻らなくなるから話すべき項目をこれに書いて来ましたといって、その紙を手にしながら、これを全部話すとこの会が終わってしまいますから、3つだけにしますといって話し始めた。このとき、すでに「え? 3つも?」という不安げな声がどこからか聞こえたが、その不安はみごとに的中する結果となった。

 1つ目、車、といってN先生は本題に入った。なるほど、N先生と車は、もう切ってもきれない縁だよなあとぼくは期待に胸をふくらませた。東京郊外に住んでいた先生は、毎日車で通勤していた。ぼくはそのころ、電車に乗るのがコワイという今でいうところの「パニック障害」の症状に悩んでいたので、すごく羨ましかった。あるとき、どうして電車で通勤しないのですかと伺ったことがある。その時、先生は、「いやあ、オレはさあ、気が短いからね、すぐに電車の中で喧嘩しちゃうんだよ。車はひとりだからいいよ。」と答えたのだ。非常に温厚にみえる先生の答えとしてはかなり意外だったが、話はそれで終わってしまい、その後、青山高校を離れてからも、N先生のことを思い出すたびに、「それにしても、なんで電車の中で喧嘩になっちゃうんだろう。」というギモンが、頭の片隅にヒラヒラと浮かぶのだった。

 ぼくはね、青山高校に来るまえに、秋川高校という全寮制の学校の教師だったんだ、と話が続く。(これはぼくの余談だが、柳家喜多八という落語家がいてぼくは大ファンなのだが、あるとき、喜多八師匠と話をしたことがある。その時に、喜多八師匠の師匠、小三治師匠は、青山高校の卒業生ですけど、ぼくは青山高校で昔教えていたんですよと言うと、喜多八師匠は、へえ~、そうですか、ぼくが習った先生が青山高校へ転勤していったなあと言うので、え? 何と言う先生ですか? と聞くと、それがなんとN先生だったのだ。喜多八師匠は秋川高校の卒業生だということもびっくりしたが、彼が、N先生の教え子だったということはもっと衝撃的にびっくりした。)話を戻す。N先生は話す。

 ぼくはねえ、教師だから、つまり授業は闘いだから、よし今日も闘うぞって思いで電車に乗ってね、立川から乗り換えて学校へ向かうわけです。するとね、え~っと、何ていうのかなあ、ああ、ショルダーバッグってあるでしょ。いや、発音が違うな、Shoulder bag、だ。それをね、かけたヤツがね……。あ、そうそう、授業のことだけど、あれはほんとに闘いなんだ……。

 どうもあやしくなってきた。話がショルダーバッグのところから、青山高校に移ってきたときの生徒の印象の方へ話が行ってしまい、もう「車」のテーマには戻らなかった。

 でも、ぼくは、ここまでの話で、長年、そう、もう40年近くもあたためてきたギモンが氷解するのを感じて、こころの中で「そうだったのか!」と叫んでいた。先生の話はどんどん横道にそれていって、とうとう詳しく話されなかったけれど、それで「喧嘩」の原因がわかった。

 自分は、これから緊張感を持って「職場」に向かう。そこには一筋縄ではいかない生徒たちが待ち構えている。その生徒たちに何とか英語の力をつけるように今日も頑張ろう、そう思って「五日市線」の電車に乗るのに、ショルダーバッグを背負った若いヤツ(あるいは高齢者)が、山登り、つまりレジャーのために電車にのってはしゃいでいる。(五日市線なら秋川渓谷、青梅線なら奥多摩へと向かう人たちがたくさんいたのだろうことは容易に想像できる。秋川高校は既に廃校となっているが、最寄り駅は五日市線の秋川駅だったはず。)そして、そのショルダーバッグがオレの肩に当たったりする。頭にくる。喧嘩になる。そうだ、そういうことだったんだ!

 おれは働きにいくのに、こいつらは遊びにいく──だからといって、なにも喧嘩しなくてもとは思うけれど、それはN先生の気の短さというよりも、仕事への熱い思い入れの証しだろう。(これもぼくの余談だが、青山高校に勤めていたころは、昼食をとりに、よく目の前のボーリングセンターのレストランに行ったものだ。すると、ベンツやらBMWやらで乗り付けてボーリングを習っているマダムが若い男のコーチと一緒に楽しそうに食事する姿をよく見かけたものだ。その度に、オレたちは、こんなに苦労して働いているのに、こいつらときたら! と何度心の中で叫んだかしれない。まあ、これは単なるヒガミにすぎず、ぼくの「教育への熱い思い」を立証するものではない。)

 N先生の話は、青山高校の生徒の優秀さから、昨今の英語教育の問題点へと果てしもなく続いてゆき、いつ果てるともない不安感が会場に漂い始めたころに、幹事の必死の「努力」によってなんとか収束にむかったわけだが(ぼくは、できることなら、そのいつ果てることないお話を、いつ果てることもなく聞き続けていたかったのだが)、それでもぼくのこころの中には、かつて青山高校で先生と机を並べて働いたころの先生の姿が鮮明によみがえっていた。毎日生徒が提出する山のようなノートに、細かく赤ペンで添削している先生の姿だ。万事面倒くさがりで、できるだけ手を抜いて「仕事」を減らすことしか考えていなかったぼくのような教師もいれば、ここまで生徒のために時間と労力をさける教師もいるのだと、いつも感嘆して眺めていた。よし、ぼくもそういう教師になろうとは一度も思わなかったが(それは思ってもなれっこないことを骨身にしみて自覚していたからだ)、その後の30年に及ぶぼくの教師としての生活の中で、教師の姿の理想型として存在し続けたのだった。

 改めて、N先生に感謝申し上げ、ご健勝を祈りたい。

 


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100のエッセイ・第10期・57 嫌な匂い

2015-10-13 14:37:05 | 100のエッセイ・第10期

57 嫌な匂い

2015.10.13


 

 以前はそうでもなかったはずなのだが、最近どうも匂いに敏感になってきたような気がする。特に深夜の電車がいけない。

 都内の王子あたりで深夜まで仕事をすることがあって──これは学校を退職したあとに残っているただ一つの仕事なのだが──たとえば、夜の10時ごろに王子駅から京浜東北線の大船行きに乗ったりすると、乗り込んだときはガラガラだが、上野あたりまで来るとだんだん混んできて、東京駅に着くころにもなれば、満員電車になってしまう。

 王子を9時ちょっと過ぎぐらいに乗れれば、品川で京急に乗り換えて、「ウイング号」に乗れば、200円で(もうすぐ300円になるという噂がある)必ず座れてしかも品川の次は横浜をすっ飛ばして上大岡停車という、まさにぼくのための電車のような快適さであり、しかも、我が家のすぐ近くに止まるバスの最終に乗れるわけなのだが、王子を9時半すぎてしまうと、「ウイング号」はもうないから(品川発10:05が最後の便)、結局京浜東北線に乗り続けて、磯子まで行くことになる。王子から磯子まではだいたい1時間5分ほど。ずっと京浜東北線の固いイスに座っているのも難儀なのだが、電車はもう、途中で乗り降りはあるにしても、ずっと満員で、しかもそのほとんどが酔っぱらいである。この酔っぱらいの匂いにだんだん耐えられなくなってきているのである。

 先日などは、それほど混んではいなかったのだが、品川あたりから乗ってきてぼくの前に突っ立って、つり革にぶら下がるようにしている40がらみの男から、もつ焼きだか、焼酎だか、焼き肉だか、なんだか分からないが、そんなものが雑然と渾然と混じり合ったような匂いが断続的に襲ってきて、気持ち悪くなりそうだった。

 もっとも時間によっては、ぼくも酔っぱらいになっていることもあり、そんな時は、こっちだってろくなものを食ったり飲んだりしてるわけではないから、文句も言えないし、第一、匂いも気にならない。しかし、こっちがシラフのときは、ほんとにたまらない。

 「女性専用車」ってのがあるくらいなんだから「シラフ専用車」ってのがあってもいいんじゃないかと思うほどだ。

 「ウイング号」なら快適かというと必ずしもそうではなくて、稀に、隣に座ったヤツがビールなんか飲み始めることがある。(ウイング号は、二人席)先日も、30代とおぼしき男が、品川を出るやいなや500ミリリットルのビールを飲み始めた。当然のことながら、おつまみも持参していて、ビニールの袋からなにやら取り出して、食っちゃ飲み、食っちゃ飲みしている。当人にしてみれば、至福の時間なのだろうが、ときどき、つまみの匂いがこっちに漂ってくるのだが、それがなんか変な匂いなのだ。それほど特殊な、クサヤとかトウフヨウとか、そんな変なものを食べているふうでもなく、普通のおつまみらしいのに、ビールの匂いに混ざって漂ってくると、不快極まりない。でもまあすぐに終わるだろうと思っていたら、30分たっても終わらない。ビールも二本目に突入というところでぼくは上大岡で降りることになったのだが、200円損した気分だった。

 300円になったアカツキには、飲食禁止にしてもらいたいものだ。「禁煙車」があるのだから「禁飲食車」があってもいいじゃないか。

 こんなことを考えるというのも、歳をとるとともに、段々人間が不寛容になってきているからだろうか。子どもの頃は、排気ガスの匂いが好きで(ぼくだけではない、友だちはだいたいそうだった)、トラックやバスが走りさるとその後を追いかけて、排気ガスを胸一杯吸い込んだりしたものだが、しかしそれは寛容というよりはバカだっただけの話で、そんな子どもでも、歳とともに「いい匂い」と「わるい匂い」をきちんとかぎ分けられる人間に成長したということなのだろうか。よくわからない。




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100のエッセイ・第10期・56 怠らず修業しよう

2015-10-06 10:10:06 | 100のエッセイ・第10期

56 怠らず修業しよう

2015.10.6


 

 読書の楽しみのために、やってはいけないのは「自分で書く」ということだというようなことが、ヴァレリー・ラルボー『罰せられざる悪徳・読書』という本に書かれていた気がするので、確かめようと本棚を探したが、見つからない。もちろん、「自炊本」も検索したが、ない。こういうことが最近多すぎて始末が悪い。

 そんなわけで確かなことではないのだが、そんなことをラルボーは言っていたはずだ。30年以上も前に読んだ本だが、妙に印象に残っている。

 世界には「読むべき本」があふれているのに、「書く」ことで貴重な時間を失ってはならない。「書く」ヒマがあれば「読む」べきなのだというその考えは、その後も、ぼくの頭の中に間歇的に立ち現れてきた。

 つまり、「表現・創作」と「受容・鑑賞」のどちらが大事かってことだ。絵でも書でも同じことだが、素晴らしい作品を観て感嘆することと、下手でも自分で創作する喜びを味わうのと、どっちがシアワセかってことだ。

 そんなの、決められないというのが答である。正確に言えば、「人それぞれ」ということになる。

 他人の作品には興味がないという天才的な作家もいるだろう。しかし、そういう作家も、駆け出しのころはやっぱり他人の作品を読んだり見たりして存分に影響を受けたはずだ。生まれてから一度も本を読んだことのない人間が小説を書けるとも思えないし、一度もモーツアルトやショパンを聴いたこともなくいきなり作曲を始めたという作曲家もいそうにない。

 出発点はなんらかの模倣から始まり、やがてその人独自の世界を発見すると、もうその世界をひたすら掘り進めるということになるのだろう。そういう芸術家の姿は、傍目にみてもうらやましい。当人にとっては苦しい日々なのかもしれないが、やはりぼくには至福の日々に見える。

 ラルボーの言葉が間歇的に蘇るのは、ぼくが実にどっちつかずの人間だからである。小説こそ書かないけれど、詩を書いたり(過去のことだが)、絵を描いたり、書を書いたり、写真を撮ったり、手当たり次第といった感じで手をつけてきた。「受容」だけではどうしても満足できないタチなのだ。けれども自分の「作品」に満足したことなど一度もない。たまには、「お、これいいかも。」なんて思ったり、「オレは天才かも!」と叫んで家内の失笑をかったりすることはあるけれど、なんかイマイチ感をどうしても拭えない。

 それならいっそ「受容」オンリーに徹してしまったほうが、生活もどんなに豊かになるかしれない、とふと思うわけである。

 いろいろ手をつけて来たなかでも、もっとも「経歴」が浅いのが書なのだが、始めたころからすれば「上達」したことは確かなようだが、どう考えても「書家」と名乗れるほどの域に達しそうにないのは事実で、だからもういい、もうやめたということでは決してないけれど、死ぬまで「上達」を目指してひたすら自分の世界を掘り進めるという「至福」の時間には恵まれそうにない。(ぼくには、ひとつのことに一生をかけて打ち込む人がもっともシアワセな人に見えるのだ。これは、中学生以来変わらない「信念」のようなもので、その頃から、そういう人に憧れ続けてきた。そういう人がぼくからはもっとも「遠い人」だったからだ。今でも、それはちっとも変わらない。)

 書を始めて、ちょうど9年になるが、ぼくにとっては、「少しずつ上達してきた」という喜びよりも、「書を見て、楽しめるようになってきた」ことの方が、嬉しい。スゴイ作品を見て、スゴイと思えることが嬉しいのだ。その喜びに比べれば、自分の作品の出来不出来なんて、実はどうでもいいことのように思えるのだ。

 前にも書いたが、『マルテの手記』の冒頭ちかくにあるこの文章が、最近ますます身近に感じられてきている。

 僕は見る目ができかけている。自分でもどういうのかよくわからないが、なにもが今までよりも心の深くへはいりこみ、いつもとどまる場所よりも奥へはいる。きょうまで自分でも知らなかった心の隅があって、今はなにもがそこまではいりこんで行くのだ。その隅でどんな事が起こるかは知らない。(『マルテの手記』リルケ・望月市恵訳)

 けれどもまた「書を見て、楽しめるようになってきた」、つまりは「見る目ができかけている」のも、自分で書いてきたからこそでもあるのだ。それを思えば、9年もの長い間(飽きっぽいぼくにとっては、9年というのは、奇跡的に長いのである。)書を習い、書を書いてきたことは、ほんとうに豊かな実りをもたらしてくれているのだ。『マルテの手記』にはこうも書かれている。

 僕はもう書いただろうか? 僕は見る目ができかけている。そうである。僕は目が開き始めた。まだ少々おぼつかない。怠らずに修業しよう。

 さあ、ぼくも、怠らず修業しよう。


 



 

 

 

 


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