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100のエッセイ・第10期・70 吉田類、火野正平、そして、ワタシ

2016-01-10 17:09:09 | 100のエッセイ・第10期

70 吉田類、火野正平、そして、ワタシ

2016.1.10


 

 『吉田類の酒場放浪記』を見だしていったい何年になるだろうか。放送が始まったのが2003年らしいから、当初から見ていたら13年になるわけだが、もうちょっと後からのような気もする。下町の酒場を放浪するような趣味はぼくにはないし、出てきた酒場に行ったこともないのだが、なぜか見てしまう。家内などは、酒を飲まないのに、面白がってずっと見ている。

 見始めてしばらくしてからだろうか、彼の生まれ故郷が高知県で、しかも仁淀村だということが、「ファン」を決定的なものにした。というのも、家内の母の故郷がこの仁淀村からちょっと離れた越知町で、しかも家内の母の弟が今も仁淀村で病院をやっているからなのだ。

 吉田類は、高知県の出身であることを番組でもたびたび口にするし、高知でもレギュラー番組を持っているらしい。で、数年前に、法事で高知へ行った折、偶然泊まったホテルで、彼に遭遇した。家内は、仁淀村の叔父のことも話すし(あ、その病院、かかったことありますって言ってたらしい)、ぼくはぼくでちゃっかり二人で写真に収まったりして(その時撮った写真が残念ながらどうしても見つからない)、夫婦そろってのミーハーぶりを存分に発揮したということもあって、ますます親近感が深まったというわけである。

 しかも、実はこれがいちばん肝心なのだが、吉田類もぼくも家内も、同学年だということである。彼と話したときも、同い年だということでちょっと盛り上がったりしたのだった。ぜんぜん関係のない人でも、同い年だということになると、なぜか急に身近に感じるのはフシギなことだが、特にぼくらのようないわゆる「団塊の世代」というのは、なにか独特な「共有物?」があって、それが親しみとして感じられる原因なのだろう。

 今でも、寝る前には必ず録画しておいた『酒場放浪記』を夫婦そろって1本見るのが「しきたり」のようになっている。最近ではBS-TBSで月曜日に1回に、過去のも含め4本まとめて放送しているので、そのうちの1本を見るわけだ。当然のことながら、過去の放送分は見たことがあるのだが、「あ、これは見た見た。」なんて言いながら、それでも見る。中には、2回以上見たものもある。こういう番組で、「何回でも見ることができる」というのは珍しい。

 何を見ているのかというと、主に、吉田類の「酔い方」「食べ方」である。一昨年から去年あたりの放送分は、もう酒場に行く前から飲んでるらしくて、酒場に着いて数分で(もちろん編集されているからそれ以上に時間が経っているわけだろうが)もう泥酔状態だったりする。ヤキトンやらヤキトリを食べるときにカラシを塗る。これがいつも多い。で、辛い! といって口を押さえる。あ~あ、とぼくらは笑う。煮込みを食べる。口に入れすぎる。熱い! といって立ち上がる。まったくどういうんだろうなあ。学習しないよね、この人。わざとやってる風でもないしなあって言って笑う。最後に、酒場を出て、感想を述べるのだが、たいてい泥酔しているので、何を言いたいのかさっぱり分からない。酒場で飲んでるときも、わけの分からないシャレを言ったりする。ナレータの河本さんが突っ込む。このやりとりも面白い。

 放送10周年のときだったろうか、どういうノリだったのか知らないが、番組でよく使われる「バッド・バッド・ウイスキー」とかいう歌を「録音」した。CDも出したらしい。これが、ものすごく下手なのだ。ほとんど音程があっていない。それなのに、ぜんぜん、気にしていない。下手でハズカシイというような謙遜の言葉も出ない。ひょっとして、けっこうイケてるって本気で思っているのかもしれない。

 そんなわけで、この人を見ていると、なぜだか、ほんとに安心してしまう。だから寝るまえには、もってこい、なのだ。

 吉田類のこうした「わけの分からなさ」が、実は、「団塊の世代」の特徴なのかもしれないと、ずっと思っている。こういう世代論は、問題を単純化するからほんとは嫌なのだが、でも、そうかもしれないと思っていることは否定できない。

 というのも、NHKの『こころ旅』の火野正平も、ぼくや吉田類と同学年なのだということがあるからなのだ。この火野正平の「わけの分からなさ」は、吉田類ほどではないけれど(つまり、番組の中では酒を飲まないからかもしれない)、なぜか、高い所を非常に怖がる。自転車で全国を巡る番組なのだが、当然、川を渡らなければならないことがある。すると、本気で怖がるのだ。その怖がりかたが面白い。自転車を降りて、押しながら、へっぴり腰で橋を渡る姿なんて、心の底から笑える。

 吉田類と火野正平の共通点は何か。それは「自分を全部さらけ出して恥じない」ということだ。もちろん、テレビ番組だから「全部」さらけ出しているわけではないはずだ。けれども、たとえば今の若い芸能人が、相当自分をさらけ出したつもりの番組をやったとしても、ここまで自然にはできないだろうと思う。どこかで、「コイツ、実は違う面、あるんじゃないの?」っていう感じが出ると思うのだ。

 さらに共通点は、その驚異的な粘り強さである。『こころ旅』などは500回を越えたし、『酒場放浪記』に至っては、とっくに500回を越えている(と思う)。偉大である。

 ま、いろいろあるわけだが、ぼくも、この二人と同い年ということで、「お仲間」のつもりでいる。彼らほど「自分をさらけ出して」はいないし、彼らほど「粘り強い」わけでもない。けれども、どこか、心の深いところで共感しているような気がしているのだ。ぼくらの心のどこかに、「時代」が落とした「影」とか「傷」のようなものがあるのではないだろうか。それが同じ「匂い」として、漂っているのではなかろうか。そんな気がしてならない。





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100のエッセイ・第10期・69 まねっこコジキ

2016-01-06 12:27:10 | 100のエッセイ・第10期

69 まねっこコジキ


      パステル画との「コラ書」

2016.1.6


 

 去年の正月には、いったい何を書いていたのかと思ったら、「ささやかな決意」と題して、今年は「絶対無理だろうけど」と但し書きをつけたうえで「水彩画を100枚描きたい」といったようなことを書いていた。そうか、そんなことを思っていたのか。覚えていないものである。

 とはいえ、その「ささやかな決意」は、もちろんその通りには行かなかったけれど、去年は久しぶりに水彩画を描いた。それもよせばいいのに、「水曜日は水彩画」などというシリーズをブログに作ったりしたので、ある程度は続いたが、やはり30回にも満たないで休止状態になってしまった。まあそれでもやらないよりはよかったわけで、今年も途切れ途切れではあっても、続けていきたいと思っている。

 定年退職後というのは、なんともとりとめのないもので、時間の枠がないという、現役のころには夢にまでみた境遇なのだが、下手をすると、そのとりとめのなさが無限大に広がってまさに茫漠たる砂漠のような時間にもなりかねない。そうなったらそうなったでいいのかもしれないが、どうも「何かやってないと気が済まない」性格というか、そんなものがあって、それはまた、中高時代の「イエズス会教育」(最近、スタンダールの『赤と黒』とか『パルムの僧院』とかを読んでいるのだが、スタンダールはこのイエズス会教育をまともに受けたことで、とんでもない「性格」を形成したようだ。ま、しかし、その頃と現代では、まるで事情が違うから、ぼくがスタンダールのような人格形成を余儀なくされたということではない。)が災いしてか、さらに増幅されて「世のため人のために頑張る」以外に生きる目的はないというような強迫観念が心の奥深くに根付いているらしく、ぼんやりしていると、「悪いことをしている」みたいな気分になるのである。だからといって、定年後の同級生などがよくやっているボランティア活動なんかにはてんで興味がなくて、とにかく「好きなことだけしていたい」という、エゴイズムだけが強烈に働く始末なのだ。

 ほんとうに、オレはいったい何がしたいんだ、こんなことやっていていいのか、と、日々自問自答(ほんとは「自答」はない)しているわけだが、「やりたいこと」は、なぜだか知らないが、降るようにやってくる。どうしてかというと、これは少年のみぎりからの顕著なぼくの性向なのだが、「人がやっていると、それを無性にやりたくなる」のだ。昔のコトバでいうと「まねっこコジキ」だ。

 小学生のころだったか、ちょっと人まねをすると、すぐに「まねっこコジキはよしとくれ!」ってみんなはやしたてたものだ。このコトバがどこから来たのか知らないが、いつ子どもたちの中から消滅したのだろうか。これが生き生きと生きていたら、昨今の「パクリ問題」も少しは軽減していたのかもしれない。

 「まねっこコジキはよしとくれ!」とぼくが言われた覚えはないが、とにかく、人が何かやっていると、すぐに「あ、いいな。」って思って、すぐに自分もやる。

 その中で一番スゴかったのが、やっぱり昆虫採集だった。中学2年のころに、栄光学園の生物部の先輩、浜口哲一さんのご自宅に伺い、膨大な甲虫(こうちゅう)の標本箱を見せていただいた。その瞬間から、ぼくの昆虫採集狂いは始まり、高校生になるまで続いた。この1年半ほどが、ぼくの生涯のもっとも輝かしい時代だったということは、今まで何度も書いたように思う。それほど楽しかったし、幸福だった。しかしそれもたった1年半で終わってしまい、以後、趣味的な放浪生活を送ってきたわけだが、「まねっこ精神」だけは依然として旺盛で、去年の中頃から急にやり始めた「パステル画」も、岩本拓郎画伯の個展に行って(これも水沢勉さんのマネだった)、その技法を直接教えていただいたことがきっかけだった。

 そもそもこの「100のエッセイ」自体が、別役実が戯曲を100書いたって書いてるのをみて、始めたことだったのだ。

 ことほどさように、「まねっこ」であるぼくに、さて、今年は何が降りかかってくるのだろうか。それを全部「まねしよう」と思っているわけではないが、いいものは取り入れ、マネできることはマネしたい。自分の中から生まれてくるものなんて所詮たかがしれている。何をどうマネするか。そしてあわよくば、そこから発展・展開させて、自分独自のものを作りあげていけるか、それが勝負ということだろう。といっても、「勝負」するつもりなどさらさらないのだが。

 

 

 


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100のエッセイ・第10期・68 年末所感・2015

2015-12-29 17:33:28 | 100のエッセイ・第10期

68 年末所感・2015

スーパーベルズ ミニライブ@京急百貨店・上大岡 2015.12.29

2015.12.29


 

 あっという間に年末となった、というのは、常套句でおもしろくないが、それしか言葉がみつからない。

 今日、たまたま京急百貨店のポスターで知った「スーパーベルズ」のミニライブを見に行ったら、司会のオネエサンが出てきて、「みなさん、よくいらっしゃいましたあ~。もう、今日は『晦日』じゃないですかあ~。」というので、あ、今日は30日なのか、って一瞬思った。家に帰って家内に聞くと、29日だという。じゃ「晦日」じゃないじゃん。そもそも12月31日は「大晦日」だが、12月30日は「晦日」というのだろうか。「晦日」というのは、月の最終日のことをいい、12月31日は年の最終日だから「大晦日」というのではなかったろうか。まあ、そんなことはどうでもいい。もうすぐ「大晦日」であることには違いない。司会のオネエサンは「晦日=年の暮れ」と思っているのかもしれないし。

 去年の今ごろは何を思っていたのかと、去年の12月28日に書いたエッセイを読んでみた。大動脈の大手術後、1年しか経っていなかったので、なかなか真面目に書いている。ぼくにしてみれば「生きるか死ぬか」の大事件を経験したのだから、生活態度も何か「変わった」のではないかと検証している。けれども、どこがどう変わったのか、結局確かなことは分からないといった感じでそのエッセイは終わっている。

 で、今ならどうか。変わったようでもあり、変わんないようでもある。今年も結局、きちんとしたことは言えない。

 現役の時と違って、学校へ行かなくていいし、採点もしなくていいのだから、断然ヒマになった。それは事実である。だからといって、そのヒマを満喫しているという実感はまったくない。何かに追われて、せかせか生きている、というのがむしろ実感である。

 もちろん、退職後の唯一の「仕事」(ぼくが「仕事」というのは金銭的な報酬があるモノを指す)である、高校国語の教科書の編集が、思いの外大変だったということもある。けれども、今年が特別際だって大変だったわけではない。(いや、かなり大変だったか。。)

 むしろ、自分で自分に課した「義務」のようなものが、ぼくを追い立てた感が強い。

 「一日一書」は、ブログに毎日何か「書作品」をアップするというもの。最初のうちは、看板の字を写真に撮ってのっけたり、師匠の作品を許可を得て載せたりしていたが、最近では、ほとんど自作である。これが毎日となると結構辛い。毎日とはいっても、抜ける日もあるのだが、週に5回ぐらいは必ずアップしてきた。これが今では770にもなっている。

 「100のエッセイ」は、1998年の3月からだから、もう18年近く続けてきたことになる。これはほとんど抜けることなく、週に1回のペースだった。もちろん、入院中は抜けたけど。これが今では通算にして、967編となっている。これは最初のうちは、1000字以内と決めていたのが、震災以来、タガをはずしてしまってからどんどんダラダラ長いものになっている。この分で行くと、来年中に、1000編到達ということになりかねない。始めたころは、100編で終えるつもりでいたのに、どうも信じられないことだ。これも、もう、義務として絶対に書くことに決めてしまっていて、今更、やめられない。最近では、長いので、書くのに2時間ぐらいかかることも稀ではない。

 これらは、「病気以前」からの継続だが、去年の年末から始めたことに、「世界の長編小説を読む」という課題がある。これは、長いことプルーストの『失われた時を求めて』全巻読破を志しながら、何度も挫折してきたのを、ここでもう一度チャレンジしようということで始めたのだった。ただ今までと決定的に違ったのは、ヒマがあったこと以上に、フェイスブックに「今日は何ページまで読んだ。」という「報告」を義務付けたことだった。これがあったので、どんなに忙しい時でも読まないわけにはいかなくなった。その成果は、下に表を載せたから見ていただきたいが、これだけ読んでも、どこか「自分が変わった!」という実感に乏しいのが情けない。「読んだぜ」っていう自慢にしかならないなら、こんなの意味がないと思うのだが、まあ、自慢できないよりマシかもしれないから、その辺は深く考えないことにしている。

 美術展にも行ったし、芝居もかなり観たし、ライブにも参加した。退屈しているヒマなどなかったのだが、それでも、どこか、「地に足をつけて生きている」という感じがない。フワフワ浮いているような感じだ。それは、やはり、まだあの大手術の余波ではなかろうかと思っている。

 あの時、ぼくは、「死」とまともに向き合った。幸いにも死ななくて済んだ。けれども、それで「死」がぼくと無関係になったわけではない。むしろ、「死」はますます身近なものとして感じられる。「追い立てられるような感じ」は、おそらくそこから来るのだろう。

 結局、何がなんだかわけも分からずに、アタフタと暮らしてきた1年だったような気がする。もともとぼくは、落ち着いて、じっくり物事に取り組んだり、のんびりとくつろいだりすることが出来ない性分なのだから、「悠然として南山をみる」的な心境とは無縁なのだ。

 しかし、そうはいっても、人間、いくつになっても「成長」はしたいものだ。肉体は衰えるばかりだが、精神的な成長は可能だろう。何かを必死に求めているとか、夢見ているとかではないが、せめて、若いひとをがっかりさせたくないものだ、なんて近ごろ特に思う。若い人には、がっかりするようなことばかりの現代だが、その若い人が、ああ年をとるとあんなになっちゃうのか、って思うのでは申し訳ないではないか。

 コンビニのレジで大声でどなるジイサン、席を譲ると怒り出して若者を困惑させるジイサン、口を開けば病気と年金のことばかりのジイサン、せめて、そういうジイサンにはならないように、人間としての「成熟」を目指したい。

 なんてカッコイイことを口にしなければ、おさまりがつかない、年末の所感である。


 



 

【備忘】この1年の長編小説読書記録 2014.12.4~2015.12.29

 

★プルースト「失われた時を求めて」を読む 【ちくま文庫版・井上究一郎訳】

 

第1巻 2014.12.4~12.22
第2巻 2014.12.23~2015.1.10
第3巻 1.11~1.30
第4巻 1.31~2.24
第5巻 2.24~3.18
第6巻 3.19~4.9
第7巻 4.10~5.6
第8巻 5.7~6.15
第9巻 6.16~7.9
第10巻 7.10~8.12

 

★トルストイ「アンナ・カレーニナ」を読む 【岩波文庫版・中村融訳】

 

上巻 8.13~8.27
中巻 8.28~9.20
下巻 9.21~10.11

 

★ドストエフスキー『白痴』を読む 【河出文庫版・望月哲男訳】

 

第1巻 10.12~10.19
第2巻 10.20~10.30
第3巻 10.31~11.7

 

★ゴンチャロフ『オブローモフ』を読む 【岩波文庫版・米川正夫訳】

 

上巻 11.8~11.15
中巻 11.16~11.27
下巻 11.28~12.3

 

★スタンダール『赤と黒』を読む 【新潮文庫版・井上正訳】

 

上巻 12.4~12.17
下巻 12.18~12.29




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100のエッセイ・第10期・67 「エロジイ」の真実

2015-12-21 17:17:45 | 100のエッセイ・第10期

67 「エロジイ」の真実

2015.12.21


 

 昔の教え子によく言われることは、授業の内容は覚えてないけど、こんなこと覚えてます、あんなこと覚えてますってことで、その「こんなこと」や「あんなこと」は、みんな授業とは関係ない雑談で話したことばかりである。

 昔の教え子どころか、現役の頃だって、ぼくは雑談ばかりえんえんとやっていて、いったいこの人いつになったら授業をやるんだろうという不安に生徒を何度もおとしていれていたのだから、「雑談しか覚えてない」というのも、あながち生徒のせいばかりではなさそうである。もちろん「雑談しかしなかった」というわけではない。ちゃんと国語の授業もしたつもりである。いや、雑談そのものが授業なのだと、生徒に言ってきかせたこともある。

 現役最後の頃は2年続けて中学1年生を教えたのだが、中1の国語なんて何をどうやっていいのか分からないから、ひたすら面白い話ばっかりしていたら、とうとう生徒はぼくの授業を「国語」ではなくて「雑談力養成講座」と名付ける始末だった。ぼくの授業で「雑談力」が身につくなら、それはそれで立派なものだが、生徒諸君にほんとうに「雑談力」がついたのかどうかははなはだおぼつかない。

 と、また前置きが長くなってしまったが、今回は前回の「つづき」である。つまり「エロジイ」のことである。

 まったく「エロジイ」なんて失礼千万なアダナを付けたヤツはいったい誰なのだと思うのだが、ぼくらが教わった時にはもうとっくに「エロジイ」って呼ばれていたのだから、先輩の誰かであることは確かなのだ。

 「エロジイ」は、本名(というのも変だが)は小山頼彦という化学の先生だった。(「エロジイ」という失礼なアダナをここで連呼するのも畏れ多いから、この後は小山先生と呼ぶことにする。)ぼくらが教わった頃に何歳だったのかは分からないが、50代後半だったのではなかろうか。頭はすっかり禿げ上がり、後頭部に残った髪の毛も白髪で、丸いメガネとあいまって、どこか「つるん」とした印象のある先生だった。

 この先生の授業が、とにかく、「雑談ばっかり」だったのだ。確か、高1か高2だったと思うのだが、ぼくはとにかく数字に弱いのがたたって、数学はもちろんのこと、物理、化学はおろか、歴史まで苦手というどうしようもない有様だった。それでも生物が好きで、生物学の学者を志したりするという矛盾に苦しんでいたのだが、そのぼくがこの先生の化学の授業が楽しみでならなかった。

 化学の話をしなかったわけではないと思うのだが、とにかく、授業の80パーセントから90パーセントは「雑談」だった。その雑談が、ぼくのような馬鹿話ではなくて、ものすごく高度で超がつくほどマニアックだったのだ。そこに惹かれた。

 話題は、主に、奈良のことと、古書のこと、写真のことだった。奈良の築地塀がどのように作られているかを図入りで説明するかと思うと、こんどは、学校の図書館に行くとこういう本があると言って「彳亍氏雑纂」と黒板に書く。読めない。これは「テキチョク・シ・ザッサン」と読むんだよ。「彳亍」というのはね、この本の著者が「行雄」(雄だったか、夫だったか、別の字だったかは忘れた)というので、その「行」の字を分解したわけだね。「雑纂」というのは「ざっさん」と読んで、これはいろいろな雑文を収めた本というぐらいの意味だな……。

 覚えているのはここまでである。その本に何が書いてあって、何が面白かったのか、いろいろそのあと話したのだろうが、覚えていない。でも、ぼくはすぐに図書館に行って、その本を手に取ったことは覚えている。

 それよりも、「行」の字を分解して、それぞれに「読み」がある立派な漢字なのだということにいたく感動して、ちょうどそのころ、俳句なんぞをひねったりしていたものだから、「洋三」の「洋」の字を分解して「水羊」とし、俳号を「水羊子」と名乗ったりしたのだった。まあ、この俳号は、「なんだ、それは、羊水みたいじゃないか。」と友人にケチをつけられ、やめてしまったが。今なら「羊水で何が悪い。そこで人間は育つのだ。井上陽水だっているじゃないか。」って突っぱねるところだが、陽水はまだデビューしてなかった。

 化学の方は、それこそ皆目分かるものではなく、「log」が何のことか分からなくて「10gって何ですか?」って聞いたらしいから(「聞いたらしい」と書くのは、こういう事情があるからです。こちらをどうぞ!)、テストなんてほとんどあってる所なんてなかったんじゃなかろうか。分かるも分からないも、「化学の授業」があったのかも分からなかったわけで、そのことについて、後年、同級生に聞いてみると、化学の得意だったヤツは、「あれは、すごい授業だったのだ。雑談がおわって10分ほど化学について説明したんだけど、それがものすごくまとまっていて、分かりやすかった。」などとほざくのであった。知るか! そんなこと。毎回、10分しか「化学の授業」をしなかったなんて考えられるものか、と思っていたが、こうやって回想をしてい今、はたと気づくのは、結局、オレの授業のルーツは、この「エロジイ」(もとい!)小山先生にあったのではなかったかということである。

 卒業式の日、登校途中、校門の前で、歩きながら小山先生と話したことがある。話しているうち、先生は、ちらっとぼくを見て、小さな声で、「君は……あっちの人?」って聞いたのだった。先生の指は修道院を指している。(校門を入ってすぐ左手の坂を登るとイエズス会の修道院があった。)つまり、君はカトリックの信者かい? ってことだってことはすぐに分かった。いえ、違います、と答えたら、「ふ~ん、いや、あっちの人が多いもんだからね。」といって、それでオシマイだった。「あっちの人が多い」って何のことだろうと気になりながら、卒業式に出たら、なんとぼくは「栄光賞」という賞を受賞したのだった。(ぼくがカトリックの信者になったのは、30歳過ぎてからです。今は不良信者ですけど。)

 そのころの栄光学園というのは(ということはグスタフ・フォス校長がということだろうが)、賞を出すのが好きで、6年間の成績が特に優秀な者には、「栄光優等賞」というのが出た。学年でせいぜい5人ぐらいだ。これは誰でも納得のいくものだったが、もうひとつの「賞」があって、それが「栄光賞」だった。これは成績とはぜんぜん関係なくて「栄光学園に貢献した」とかいうものだったらしい。その選考をたぶん校長あたりが独断的に行ったもんだから、小山先生は、ぼくが選ばれたのを不審におもったのだろう。だから、きっと信者なのに違いない、だからえこひいきされたのだとでも思ったのかもしれない。ぼくも不審だったが、もらえるものを拒む気持ちもなかったし、親に誇らしい思いを味わわせてこなかった6年間の最後にその「誇らしい思い」を味わってもらえたことを嬉しく思ったものだった。

 小山先生は、「君が受賞したよ」って言いたかったのかもしれないけど、秘密にしなきゃいけないから、あんなことを言ったのかもしれないなんて今は思うが、まあ、最後の最後まで印象的な先生だったわけだ。

 その小山先生は、栄光学園を退職した後、趣味がこうじて茅ヶ崎で古書店を始めたという噂を大学生の頃に聞いた。そのころ、大学からの帰りに東海道線の車内でばったり小山先生に会ったことがある。先生は神田の古書店へ買い出しに行ってきたのだといって、大事そうにおおきな風呂敷包みを抱えていた。嬉しそうだった。

 それから20年ほどたった1988年に、先生は亡くなられた。

 高校時代、カラー写真の現像を自分でやってみたと言うので、写真好きのぼくはもう夢中になって化学準備室に飛び込んでいって、その装置を見せてもらったこともある。そうそう、ぼくが奈良に死ぬほど行きたいと思ったのも小山先生の話のおかげだった。大学生になってその夢を果たし、奈良の古道を歩いているとき、ばったり小山先生に会ったこともある。先生とは奇遇だらけだ。

 何にでも、興味を持って、どんどん実行する。そういった人生のスタイルにも、ぼくは憧れを感じていたのかもしれない。ぼくの中では、小山先生のどこを突っついても「エロジイ」は出てこない。額の輝きが、「エロく」見えた先輩がいたのかもしれないが、ぼくには、やはり「希望」であった。

 

 

 


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100のエッセイ・第10期・66 アダナのハナシ

2015-12-16 17:20:18 | 100のエッセイ・第10期

66 アダナのハナシ

       高3のときの、ぼくの進路相談。

2015.12.16


 

 昔の学生というのは、よく教師にアダナを付けたものである。漱石の『坊ちゃん』などでも、みんなアダナがついていて、まともに○○先生などと本名で呼ばれていない。最近では、どうなのだろうか。ぼくが教師をやってきた間に仲間の教師にアダナがついているのは、たいてい年配の先生だったような気がする。

 ぼく自身は、小さいころから、アダナというほどのものは付いたことがなくて、幼き頃は「よー坊」だったし、小学校では「山ちゃん」なんて居酒屋みたいな呼び名だったし、栄光学園に入ったら、「山本」姓が5人もいたので、自然と下の名の「ヨーゾー」って呼ばれるようになった。いずれも、姓名の一部をとった呼び名だからアダナとは違って、「呼び名」程度のことである。教師になってからも、山本姓が多かったせいか、ほとんど「山本先生」と呼ばれたことはなく、「ヨーゾー先生」とか、「ヨズ先生」とか「ヨズ」とか呼ばれていた。

 中高時代の友人には、ずいぶんとひどいアダナを付けられたヤツもいる。いちばん印象に残っているのは、中1の時に、担任の先生が、ちょとナヨナヨしたヤツに「なんだお前は『カマジョ』か?」って言った。「カマジョ」っていうのは、鎌倉女学院のことで、要するにお前は女かってことで、今ならたぶん大問題だろうが、当時は平気で先生までそんなことをいう始末。かわいそうに彼は、その後もずっと「カマジョ」って呼ばれて続けた。

 教師はどうだったのか。ぼくの高3の時の担任の先生は、数学の先生で、ちょびひげなんかを生やしていて、温かい人柄だったからか「トッツァマ」と呼ばれ、慕われていた。校長はグスタフ・フォスといったが、これはあまりに怖いので、アダナはつかなかったと思う。ところが副校長になると、「天狗」と呼ばれた。大の山好きだったので、誰が付けたアダナか知らないが、本人もいたく気に入り、「天狗踊り」などといってキャンプの時に披露していたものだ。ウルフ神父は「ウルチ」、ウエーバー神父は「ウエちゃん」と、まあ穏やかなほうだったが、意味不明のアダナもあった。

 数学の先生で、カレーパンというアダナの人がいた。どうしてカレーパンなのか分からなかったが、ずっとカレーパンと呼んでいた。カレーパンばっかり食べてたからだと説明するヤツもいたが、まあ、カレーパンというのは、当時は珍しいものだったから、それを食べているのを見た生徒にはインパクトが強かったのかもしれない。

 生物の先生で山本先生という方がいたが、その先生は、授業の前の「瞑目」(栄光学園では授業が始まる前に、机の上に両手を乗せて目をつぶり、先生が教室にくるのを待つという掟があり、これを「瞑目」と呼んだ。先生が教室に入ってきて、先生が合図をすると生徒は起立し、挨拶をするという寸法である。)をやめよという合図として、たいていの先生は「よし!」とか「はい!」とか言うのだが、山本先生は「うし!」と言った。自分では「よし!」と言っているつもりなのだろうが、どうしても「うし!」としか聞こえないのだ。それで、山本先生のアダナは、どの学年でも「うし」だった。

 そういうヘンテコな意味不明のアダナの中でも、意味不明を越えて、失礼すぎるというか、「人権侵害」とすらいえるアダナがあった。「エロジイ」である。本名は小山先生と言って、化学の先生だった。ぼくは高校時代に教えていただいたのだが、その頃はもう相当なお年で(といっても60歳前だったわけだが)、はげ頭で、後頭部にわずかに白髪を残すのみであった。

 授業でもその他の場面でも、下ネタを言うでもなし、極めて真面目な先生なのに、みんな「エロジイ」としか呼ばなかった。卒業後、彼のうわさ話が出たときも、みんな本名を知らなかったほどである。禿げていたから「エロい」(当時は「エロ」という言葉はあったが、「エロい」という言い方はなかった。)ということだったのだろうか。それじゃ、ぼくも「エロい」ことになってしまう。それではひどい「人権侵害」だ。もっとも、青山高校時代には、源氏物語なんかで性的な場面になると、女子がいるにもかかわらず、やたら必要以上に詳しく説明するので、純真な女子(?)はみんな下を向いてしまうなんてことがよくあって、先生はイヤラシい! ってよく言われたものだ。してみると、ぼくも影では何と呼ばれていたか知れたものではない。

 文学では、セクシュアルな要素は当然あるわけだから、それをいちいち恥ずかしがっていては文学の何たるも分からない。ぼくは、同僚の国語教師と、オレたちの国語は、「青山ロマン国語」だといっておおいに息巻いたものである。(若い方のためにいちおう説明しておくと、これは「日活ロマンポルノ」のひねりである。ついでに言うと、この「青山」というところがなんとも上品な色気があると感じるのはぼくだけだろうか。「青山」のかわりに、他の町名を入れてみてください。差し障りがあるので、ぼくは入れません。)

 このエッセイは、この「エロジイ」こと、小山先生のことを書こうとして書き始めたのだが、いつまで経っても本題に入れない。長くなりすぎるので、本題は次回のお楽しみということで。







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