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100のエッセイ・第10期・75 ダブルブッキング

2016-02-21 12:11:42 | 100のエッセイ・第10期

75 ダブルブッキング

  

2016.2.21


 

 ぼくが所属している書道団体は現日会というのだが、毎年夏と春に書展がある。その書展に毎回出品するのが半ば義務のようになっているので、ぼくも当然のごとく毎回出品しているわけだが、出品までがけっこう大変で、師匠の指導を受けながら、ああでもないこうでもないと作品作りを1~2ヶ月続けたあげく、師匠からこれでいいでしょう、と出品の許可がおりると、ほんとヤレヤレと安心する。安心する間もなく、次の書展への出品作をどうするかを考えることになるので、これが日常化すると、肝心の書展がいつだったのかすらはっきり意識しないということにもなるわけで、特に、ぼくのような浮ついた日々を送っているウッカリ者は、作品の審査がいつ行われ、書展がいつからいつまで開催され、懇親会がいつ行われるのかということが意識の中にはっきり定着していないという事態がほぼ常態となる。

 今年の春季書展への出品作の制作は、去年の12月がいろいろと忙しく、一度も師匠に作品を見ていただく機会もなかったために、1月の末近くになってようやく完成して出品になんとか間に合った。2月に入り、現日の春季展ももうすぐ始まるなあなどと思っていたのだが、去年の夏の書展のときなどは、審査日が気になっていたのに、今回はそんなこともすっかり忘れてノウノウと日を送っていた。そんなある日、ちょうど一週間ほど前に、突然、今回の作品が「同人格奨励賞」を受賞したとの知らせが入った。師匠も喜んでくださり、19日の授賞式は、18時から始まるので、15分前には着席していてくださいとの指示もメールでいただいた。

 現日会には、「準同人」「同人格」「同人」という序列のようなものがあり、その「同人格」に、ぼくは一昨年なったばかりで、その「同人格」で賞をいただくなどということはそれこそ先の先、ぼくが生きている間にはないんじゃないかぐらいに思っていたので、すっかり舞い上がってしまった。

 家内も喜んでくれたが、19日の授賞式ということを耳にした家内は、「その日は、お芝居があるんじゃないの?」と言う。あわててカレンダーを見ると、確かにその日には「スターダス 14:00~」とあり、現日会懇親会(授賞式はこの中で行われる)とは書いてない。しかも、この懇親会には出席のハガキも出し、会費も収めてあるのである。それなのに、カレンダーにも手帳にも予定を書いてない。

 「スターダス21」は、ここの俳優養成所で、キンダースペースの原田一樹と瀬田ひろ美が「先生」をしているところで(註)、去年キンダーの芝居を見たあとの打ち上げで、ここの「生徒」二人と一緒になり、こんど卒業公演をするんですと言うので、じゃあ、見に行くから日程が決まったら教えてねと言っておいたのだ。ぼくの教え子瀬田ひろ美の教え子だから、いわば「孫教え子」みたいなものだし、男女二人がとても素直で、ぼくの長ったらしい話も真剣に聞いてくれたりしたものだから、是非見たいと思ったのだ。しかも、チェーホフの『かもめ』をやるという。

 そして後日、日程が知らされた。2月19日の14時半と、20日の18時半だという。やっぱり昼間のほうが何かと楽なので、躊躇なく19日の14時半を予約した。それが1月12日のことだった。(ちなみに、現日会の懇親会の参加通知は去年の12月に既に済んでいたのである。)

 これで見事にダブルブッキングが成立したわけだが、そのことをぼくはその時知る由もなかったのである。

 で、当日どうなったかを詳しく書いているとキリがないので、当日のフェイスブックへの投稿を引用しておく。

★これから、スターダス21の『かもめ』を見る。はやく着きすぎて、公園でのんびり。暖かくて気持ちいい。(19/13:30)
★さて開場して、入ったのだが、終演時間を聞いてビックリ。17:30だという。実は、今日は、現日会の懇親会の前に表彰式があるのだ。今回、受賞するなどと夢にも思ってなかった私は、懇親会に出席の申し込みをしていたにもかかわらず、すっかりいつだったかを忘れてしまっていて、芝居のチケットを予約していたのだ。そのことに気づいたのは受賞がわかった後。しかし芝居は14:30からだし、受賞式は18:00だから、余裕で間に合うと思っていたのだ。芝居は長くても2時間ぐらいだろうと思っていたのだ。ところが、これじゃあ間に合わない。途中で退場することも考えたが、やっぱり全部見たい。で、明日また来ることにした。3時間余った。今、小竹向原の変な喫茶店で、コーヒー飲みながら、これを書いて時間をつぶしている。いつものことながら、お粗末なことである。それにしても、この喫茶店の客層って、、(19/14:40)

 こうして、なんとか余った時間をつぶして、懇親会に出席し、授賞式にも参加でき、おまけに受賞のスピーチまでするはめとなり、おきまりの「長すぎるスピーチ」となり、それでも、最高に幸せな時間を過ごしたのだった。

 それで、昨日、改めて「スターダス21」の卒業公演『かもめ』を観た。2時間40分という長い芝居だったが、飽きることはなかった。時間が短く感じられるほどだった。もちろん、卒業公演ということで、ベテランの俳優が演ずる芝居には遠く及ばなかったけれど、若い人達が懸命になって演ずるチェーホフは、かえって芝居の骨格が鮮明に浮かびあがり、改めてチェーホフの芝居の素晴らしさを実感したのだった。

 ひいき目かもしれないが、ぼくの「孫生徒」、近藤絵梨佳さんと宮西徹昌君の演技が際だってよかったなあなんて思いながら、夜の電車に揺られていた。


 



(註)これを書いてアップした後、調べたところ、「スターダス・21」で先生をしているのは、正確に言うと原田一樹さんだけで、瀬田ひろ美さんは「声優」所属でした。ただ今までそう思い込んでいたぼくの「ドン・キホーテ的思いこみ」ということで、訂正せずにこのままにしておきます。

詳しい情報は、こちらのサイトをご覧ください。



 


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100のエッセイ・第10期・74 『田端抄』を読みながら

2016-02-10 10:35:31 | 100のエッセイ・第10期

74 『田端抄』を読みながら

2016.2.10


 

 ここのところ、矢部登著『田端抄』という本を読んでいる。金沢にある亀鳴屋さんが出版している本である。亀鳴屋さんは、個人出版社で、実にユニークな本を続々と出している。およそ商業ベースにはのらないような地味だが貴重な本が多く、企画もさることながら、造本も凝っていて、絶対に「自炊」などする気にならない本ばかりだ。

 そもそも、ぼくが「自炊」などという無粋なことに手を染めたのも、本の置き場に困ったからであって、置き場さえあれば、多少老眼で読みにくくても、紙の本を撫でながら読みたいわけである。特に趣味的な本は、なおさらそうだ。

 この『田端抄』は、田端生まれの著者が、折に触れて田端にかつて住んだ作家や芸術家をしのんで散歩しながらの感慨を淡々と綴った随筆集である。まさに、「随筆」の名にふさわしい、回想が回想を呼び、いつのまにか、現代から大正、昭和へとタイムスリップしていく書きぶりで、思わず本の中に引き込まれる思いである。

 田端はぼくにとっては、ずっと通過地点で、駅を降りて歩いたこともなかった。が、去年の春、かつての「田端文士村」を一度は訪ねてみたいと殊勝にも考えて、半日かけて歩き回ったのだが、芥川龍之介の旧居あとさえ見つけることができずにがっかりしたのだった。けれども、今回この本を読んでいくうちに、ああ、あのあたりだったのかとか、ああ、そこは行ったことがあるとか、結構、実はいろいろ収穫のあった「文学散歩」だったのだということがわかっておもしろかった。

 実際に歩いているときは、さほどの感慨がなくても、後からしみじみ回想するということはあるもので、そういう意味では、ほんのちょっとでも体験するということは大事なことなのだ。中学生を奈良や京都へ連れて行ってもただ鹿にセンベイやったり、舞子さんにキャーキャー言ったりするだけだから意味ないなんて思う人もいるかもしれないが、奈良の仏像を一度でも見たのと見たことがないのとではずいぶん違う。大げさに言えば、日本の文化に対する認識の深さにかかわるわけだ。

 田端は、その昔、大学の卒業論文で室生犀星を扱ったときから、その名をよく耳にしていたのだが、そのころは、東京の大学に通っていたにもかかわらず、そして時間は湯水のようにあったにもかかわらず、かつて犀星が住んだ田端を歩いてみようなんて一度も思ったことがなかった。「文学散歩」なんて、ジイサンのやることだぐらいにしか思っていなかったのだ。文学をそのテキストの分析によって理解し解釈していこうとする当時の流行(?)の中で、作家がどこに住もうと、誰とどこで飲もうと、そんなことは重要じゃないと思っていたのだろう。

 そのこととは直接関係はないが、その当時だったと思うのだが、曾野綾子が、「風呂敷に資料を抱えて歩く〈郷土史家〉」をバカにして、ああなったらオシマイだとか、あんなのは歴史とは関係ないとかいったようなことを書いていたことが今でも鮮明に記憶に残っている。ぼくはたぶん「我が意を得たり」とばかりに共感したのだろうと思う。けれども、今それを思い起こすと、曾野綾子の誤りは、すでにそんなところに胚胎していたのだと納得できる。曾野綾子を研究したわけでも、愛読したわけでもないが、昨今の彼女の言動を耳にするにつけ、いつも思い出すのはこのことなのだ。

 ひとりひとりの個人が、時代の中で何を思い何をしたのかという細々したことよりも、大きな歴史の流れの方が大事なのだといった考え方こそが、人の道を過たせる。大事なのは、これも最近読んでいるウナ・ムーノあるいはセルバンテスのいうところの「肉と骨を持った人間」だ。「普遍」に還元されない「肉と骨を持った個人」こそが、すべてだ。だとすれば、その個人が、どこに住み、誰と語り、何を思い、何をしたか、そういうことで意味のないことなどひとつもない。

 しかしそれにしても、こんなことを思うようになったのは、ぼくが歳をとったせいだろうか。寒さ、暑さの中を、かつての文人の後ろ姿を追いながら、田端の町に杖をひく矢部さんの姿に共感するなんて、やっぱり昔のぼくには想像もつかないことだった。

 ところで、この「杖をひく」という言い方は、この本に何回も登場するのだが、改めて辞書でその意味を調べたところ、「散歩する」という意味で、実際に杖をつかなくてもいいのであるということを確認した。けれども、この言い方には「老い」が感じられる。それほどジイサンでもないのに自らを「翁」と好んで称した芭蕉もこの言葉を使っていたように思う。ふと矢部さんはいくつなのだろうと、巻末を見て驚いた。ぼくよりひとつ歳下であった。





この本は限定508部。書店では取り扱っていません。

ご用命の方は、こちらから。

 


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100のエッセイ・第10期・73 違いの分かる男

2016-02-02 16:17:36 | 100のエッセイ・第10期

73 違いの分かる男

2016.2.2


 

 何十年前のことだっただろうか、ネスカフェのCMで「違いの分かる男のゴールドブレンド」っていうコピーがあった。遠藤周作なんかもこれに出演していたのだから、相当昔のことだが、このコピーは今でも気に入っていて、何かというと「違いが分かる」ことが大事なんだと、授業でも言ってきたような気もするし、その手のエッセイも何度か書いたような気がする。

 けれども、昨今では、どうして「違いが分かる」のが「男」なのか、と文句がでそうな雰囲気があって、そう考えてみると、なぜこの場合「男」だったのだろうかと疑問にもなる。「違いの分かる女のゴールドブレンド」だってよさそうなものなのに、なぜ「男」なのか。その頃、コーヒーを飲むのは男が多かったのだろうか。紅茶というと、女の飲み物という感じも確かにあるし、紅茶専門店には圧倒的に女性が多い。とすればコーヒーは男の飲み物だったのかもしれない。

 そういうこともあるかもしれないが、どうも男というのは「違い」に鈍感なのではないかと最近思うのだ。近ごろの若い男は、たぶん、そんなことはないのだろうが、ぼくらの世代、(言いたくないが)「団塊の世代」などは、いろいろなこと、特に食べ物に、あんまり「違い」を感じる余裕もなく、ただガムシャラに生きてきたのではないかという気がする。

 昭和20年代の前半なんて、戦争が終わってまだ数年といったところだから、飢えた経験こそないけれど、それほどウマイものを食べて育ってきたわけじゃない。給食に出たクジラの味が忘れられないなどとオジサンたちは言って、世界のヒンシュクを買いながらも嬉しがってクジラステーキなんかを高い金出して食べてるけれど、そんなにウマイもんじゃない。ただ、あの当時ウマイと感じただけの話で、センチメンタルな味覚にすぎないのだ。

 ぼくらは(と言って一括りにしてはいけないけど)、ほとんどマズイものばかり食べて育ってきたから、ウマイモノが出現したときの驚きというか、喜びというか、それはもう大変なもので、ぼくの場合でいえば、フランスパン、トワイニングの紅茶、ピザ、しゃぶしゃぶ、クリームコロッケ、などなど枚挙に暇がないほどで、それらを初めて食べた時のことを今でも鮮明に思い出せるほどの衝撃をもって体験してきたのである。しかし、例えばピザにしても、その頃は一種類でもう満足してしまっていたわけで、その後続々と出てきた数限りないピザのバリエーションをいちいち楽しんで味わっている余裕なんか、少なくともぼくにはなかった。

 だから、その当時の、ごく一般的な男は、たぶん「違い」なんて分からなかったんじゃなかろうか。それに対して、女は、たぶん、「違い」がよく分かっていて、自分で作る料理にも自分なりの味を出そうと努力して作ってきたわけなのだろうが、なんのことはない、男の方はその「違い」なんか目もくれずに、さっさと食べて感想のひとつも言わなかったに違いない。男たるもの、食べ物にいちいち感想などを述べるものではないという武士道だか何だかしらないけれどヘンテコな価値観を心のどこかに持っていて、それでいいと思っていたのではなかろうか。少なくともぼくの場合はそうだったような気がする。

 そういう中に投じられた一石が、「違いの分かる男のゴールドブレンド」というコピーだったのではないか。つまり、これからの男は、たとえインスタントコーヒーだろうと、その味の違いに敏感じゃなきゃだめだ。そういう鋭敏な味覚を持つことこそカッコイイんだよというメッセージだったのではなかろうか。

 それと同じ頃だったかどうか知らないが、「男は黙ってサッポロビール」というコピーがあった。こっちの方は、それまでの男の価値観そのもの、あるいは武士道的な価値観への回帰という意味あいが強かったから、ビールを黙って飲むのがそんなにエライかという反発を感じこそすれ、ぼくにとっては、なんら新鮮なメッセージたりえなかったし、つまらなかった。

 「男」はこうで、「女」はああで、といった話は、おそらく間違いだらけ、偏見だらけだろうが、その単純さによって、話のネタにはなりやすいし、盛り上がりやすい。だからこそ警戒しないといけないのであって、このエッセイも、男女のことを論じるつもりで書き始めたのでは実はなかった。

 じゃ、何を書こうとしたのかというと、「違いが分かる」ことは、やっぱり大事だね、とか、やっぱり楽しいよね、ということだった。書こうとしたら、「違いの分かる男のゴールドブレンド」というコピーのことがつい頭に思い浮かんだので、横道に逸れてしまったというわけだ。

 どうしてそんなことを書こうとしたのかというと、最近二つのことについて「違い」が分かるようになったからだ。一つ目は、内藤晃のピアノを聞いて、ピアノの音の「違い」が分かるようになったということ。二つ目は、たくさん持っていたカメラのレンズの表現の「違い」について、すごくよく分かるようになったということ。この二つである。

 これらについてこれから書くと、「ナイツ」の自己紹介ネタ(註)みたいになってしまうので、またいつか。

 



(註)漫才の「ナイツ」のネタのひとつに、自己紹介をしますと言って、延々と横道にそれた話を続け、時間切れのころになって「そんなぼくたちの漫才をこれから聞いてください。」というオチになるのがある。それをぼくは勝手に「自己紹介ネタ」と言っているだけのことである。

 


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100のエッセイ・第10期・72 顕微鏡とスキャナー

2016-01-25 16:31:06 | 100のエッセイ・第10期

72 顕微鏡とスキャナー

父に買ってもらったオリンパス・ミック。いまだに捨てられない。

2016.1.25


 

 去年の1月に、ということは、ちょうど1年前ということになるが、デジタルの顕微鏡を買った。きっかけは、岩波書店の広報誌「図書」の表紙に、顕微鏡写真が載ったことだった。それは、シャボン玉の表面を撮影したもので、その見事なカラーにおどろき、そうか顕微鏡写真というものがあったなあと思ったのだった。

 顕微鏡写真ということになると、ぼくの中では歴史が非常に古い。小学生の時から理科が大好きだったぼくは、顕微鏡を買ってくれろと父に頼み続けた。ペンキ屋をやっていた我が家では、いろいろと借金などもあって家計は火の車だったらしいのだが、そんなこととはまったく知らなかったぼくは、しつこく「買って。買って。」と言い続けた。父はしぶって、なかなか買ってくれなかったが、半年後ぐらいだっただろうか、突然、顕微鏡を買ってきてくれた。それが、安物ではなかった。オリンパスミックという、当時としては学生用の最高級のもので、ぼくが買ってくれといっていた安物とは雲泥の差だった。父は、どうせ買うなら最高のものをと思って半年も待たせたようだ。(このことについては、すでにこういうエッセイを書いています。「切ないほど欲しいモノ」。)

 これは優れもので、高校生になっても愛用し続けたが、確か中3のころだったか、何とかこれを使って顕微鏡写真が撮れないものだろうかと考えた。で、そのころ持っていたフジペット35というカメラを、顕微鏡の接眼レンズのところにくっつけて、シャッターを切ってみた。とはいえ、いったい、顕微鏡の中というのは、焦点距離がどう設定していいかわからないので、取りあえず無限大に設定し、露出も適当に決めて何枚か撮った。撮れるわけがないと思っていたのだが、現像してみて驚いた。ちゃんと撮れている。ピントもしっかり合っているのである。それから1年もしないうちに、今度はオリンパスペンというカメラを手に入れたぼくは、同じことをやってみた。今度は、カメラのレンズ部と、顕微鏡の接眼レンズ部のサイズまでぴったりだ。やっぱり撮れた。

 その写真を、学校の生物部の部室に張っておいたところ、生物部の顧問の浅野明先生の目にとまった。(先生は、当時、顕微鏡写真でフジカラーカコンテストで優勝し、賞品として自動車一台をもらうという快挙を成し遂げた。今でも富士フィルムのシンボルカラーの緑色のツートンカラーのクルマが目に焼き付いている。)「これ、誰が撮ったんだ?」というから、「ぼくです。」と答えると、どうやって撮ったのかを聞きたいという。詳しく説明すると、こんどオレが出す本に、その話を載せてもいいかというので、もちろんかまいませんと答えた。その話は、補足をして先生は自著に載せ、ついでにぼくが撮った写真も載せた。つまり、中学生のぼくが撮った写真が、講談社ブルーバックスの1冊『ミクロの世界』に載ったのだった。

 その後、先生は、ご自分が使っていた顕微鏡写真の本格的な撮影機材を学校で自由に使っていいといってくださり、高校生のころは、顕微鏡写真に凝りに凝ったのだった。もちろん、お小遣いもそうそうなかったから、写真はモノクロだったのだが。

 しかし、理系ではなく大学の文学部へ進学せざるを得なかったぼくは、顕微鏡写真はそれっきりとなってしまったのだった。植物や鳥の写真は、その後も、折りに触れて撮ってきたのだが、顕微鏡写真までは手が回らなかった。それに、自宅に高価な撮影機材を買う余裕ももちろんなかった。

 ところが、去年の1月、久しぶりに顕微鏡を買おうかと思って調べたら、デジタルで簡単に写真も撮れるものが3万円を切る値段で出ていることが分かり、さっそく買ったのだった。さあ、これで、何でも自由自在に撮ってやるぞと意気込んだのだが、どういうわけか、数枚撮っただけで、顕微鏡はお蔵入りになってしまった。なにしろ、やりたいことが次から次へと出てきて、そのうえ、やらなければならない仕事も相当にあって、手が回らなかったのだ。

 1年たって、つい最近、仕事も一段落し、それじゃあ、ちょっと撮ってみるかという気になって、何枚か撮ってみた。冬なので、適当な素材がないが、それでも咲いている花の花粉とか、種とかを撮ってみると、さすがにカラー写真だけのことはあって、面白い画像ができる。

 けれども出来た写真をよく見ると、どうしても画素が少ないために、普通のデジタル写真の足もとにも及ばない解像度である。これじゃ、観察にはいいが、写真としてのクオリティに欠けるなあ、と不満が残った


 そのうち、そうか、実体顕微鏡というのがあったっけ、と思い出した。普通の顕微鏡は、素材をスライスして、光を透かして見るのが原則だが、そではなくて、たとえば花なら花を、そのまま立体的に看ることのできる顕微鏡で、双眼顕微鏡とも呼ばれる。これに、カメラを取り付けられるものがあるのだ。調べてみると、顕微鏡本体と、カメラアタッチメントを合わせると、10万円をちょっと超してしまう。迷った。

 もし、それで、すごくシャープな映像が撮れるなら、10万円は決して高くない。ところが、アマゾンの「評価」に、たった一人だけれど、コメントを書いている人がいて、それによると「ピントが甘くて使い物にならない。」とすげない。本当だろうか。ニコンの製品だが、10万円もして、ほんとに使い物にならないくらいピントが甘いのだろうか。これをどうやって検証したらいいのか。

 こういう時はやっぱり検索である。実際に撮った画像のサンプルをネット上で探した。やっぱりあった。数枚のサンプル画像がある。それをみると、確かにピントが甘い。ぼくが求めるシャープさとはほど遠い。これじゃダメだ。シャープな画像となると、数十万する業務用となるだろう。そんなわけで諦めた。

 ところが、その時、ふとひらめいたことがあった。去年、古いネガとかポジのフィルムをスキャンして復元作業をしたとき、スキャナーの解像度はやたら高く設定していた。あれと同じぐらいに解像度を上げてスキャンすれば、実体顕微鏡と匹敵する画像が得られるのではなかろうか。

 普通、絵などをスキャンする時には、だいたい360dpiに設定している。これを最高の12800dpiでスキャンしたらどうなるだろうか。これだけの高解像度となると、スキャンにかかる時間もかなりのもので、切手1枚分ぐらいの大きさをスキャンするのに、1分以上かかる。けれども、結果は上々だった。これなら使い物になる。スキャナーは、実体顕微鏡でもあるのだ。

 とまあ、ちょっと話が専門的になってしまったが、こういうことに興味のある人の参考になれば幸いである。


 




高解像度でスキャンしたクレマチスの種



上の写真を、ここまで拡大しても粒子は荒れない。

つまり顕微鏡と同じということ。


 




1966年刊

講談社ブルーバックス B-67



ぼくの話をもとに、先生が補足して書かれた原稿。

120pに載っているハエの複眼の写真がぼくの撮影した写真です。






 


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100のエッセイ・第10期・71 「100」という区切り

2016-01-19 12:24:13 | 100のエッセイ・第10期

71 「100」という区切り

2016.1.19


 

 この「100のエッセイ・第10期」も、71となった。第1期から数えると、通算で971編目のエッセイとなる。1000編まで残りわずかとなってきたわけである。

 「100のエッセイ」の第1期と第2期は、自分で版下を作成して本として自費出版したのだが、第3期は版下まで作ったのだが、かかる費用のことをつらつら考えて、断念したのだった。その第2期を収めた「第2集」のあとがきに、こんなことが書かれている。

「100のエッセイ」の一冊目を出したころ、いつまで書き続けるんだと聞かれ、冗談に「どうせなら千まで書こうかなあ。」なんて言ったりしていましたが、月日の経つのは早いもの、で、あっとう間にまた百たまってしまいました。今の時点で、ホームページの連載は「第3期」目に入っており、それも二十九まで来ています。うかうかしていると、ほんとうに千なんてことになりかねません。考えてみれば、このペースで書いていくと千を書き終わる頃は六十八歳という想像もつかない年齢に達していることになります。まあ、多分どこかでやめてしまうことになるのでしょうが、とにかくたまったものはどうにかしなければなりません。幸い、「こんども本にしないの?」などと催促してくださる方もいて、調子にのってこの「第2集」を出版することにしました。

 この「あとがき」の文章を書いたのが、2002年6月1日。52歳の時だ。そうか、やっぱりその頃は「68歳」なんて年齢は、「想像もつかない年齢」だったんだと感慨もひとしおである。

 「多分どこかでやめてしまうことになるのでしょうが」と書いているが、それがそうならなかったのも不思議である。「何をやっても長続きしない」ことがぼくのアイデンティティだったはずなのに、案外そうでもないということが証明されてしまったような気もする。というか、このエッセイを意地になって書きつづけたことで、ぼくのアイデンティティそのものが変化してしまったのかもしれない。

 「想像もつかない年齢」であった「68歳」にはまだ2年あるが、予想を超えるはやさで、「1000」を達成しそうな勢いだ。あのころ、ひょっとして68歳まで生きないんじゃないだろうかとも、ふと、思ったこともある。その予感は、必ずしも「はずれ」とは言えなかった。これまでに、死んでもおかしくない状況に追い込まれたことが確かにあったわけだから。

 こうなってくると、だらだら書いてないで、さっさと「1000」に到達してしまえという気分にもなる。「1000」は無理なんじゃないかと、不安神経症的なぼくは、つい思ってしまうから、とにかく、さっさと越えてしまいたい。そのあと、しれっと、「第11期」なんて言って始めたい。いや、もう「第11期」とかいわずに、通算の数字でいいかもしれない。変な「区切り」は、精神衛生上よろしくない。ほんとは、もう、区切りをやめて、通算数字にしたっていいのだが、ここまで来て、やっぱりそれはしにくい。いちおう「1000達成!」とかいってはしゃぎたいという気持ちがある。

 しかし、思えば、誕生日などという「区切り」も、若い頃こそ祝うべきことなのだろうが、歳をとったらそれほど嬉しいものではないのだ。66だ、67だ、68だといちいち区切っていって、その果てにあるのは、「終」の一文字だ。それなら、そんな「カウントダウン」的なことはやめたほうがいい。ずるずると、いつ果てるともない日々であるかのように暮らしていったほうが気が楽というものではないか。

 そもそも「100のエッセイ」などと称して、「100」で区切っていく発想というのは、どこか律儀で、強迫神経症的なぼくの性格が生み出したものかもしれない。まあ、それは性格なのだから、今更どうにもならないわけだが。

 ところで、例の「あとがき」はこんなふうに続いている。

 古来日本では、「百首歌」というものが盛んに作られたようです。一人で百首作ったり、百人が一首ずつ作ったり、いろいろだったようですが、とにかく百首というのが一つの単位になっていたのは興味深いことです。この「100のエッセイ」はそれにならって始めたわけではありませんが、何だかそれになぞらえたくなってきました。これはぼくのしがない「百首歌」だというわけです。伝統につながっているんだという気持ちは、悪くないものです。
 ついでにいえば、ぼくはこれらのエッセイを書きながら、「枕草子」と「徒然草」をいつも意識していました。まことに借越なことではありますが、しかし、清少納言や兼好法師の遙か後方を、その影を慕ってとぼとぼと歩いているのだとぼくが勝手に考えたとしても、怒られはしないだろうと思います。

 そうだとすれば、「100」で区切ったり、まとめたりする、というのは日本の伝統でもあるということで、ぼくの性格とは関係ないのかもしれない。あるいはぼくの性格がきわめて「日本人的」だということなのかもしれない。外国文学で、こうした「百首歌」とか「百人一首」とかいった類のものはあるのだろうか。ちょっと興味深いところではある。

 

 


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