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木洩れ日抄 85 歌謡曲雑感──森昌子の魅力

2022-01-29 20:05:20 | 木洩れ日抄

木洩れ日抄 85 歌謡曲雑感──森昌子の魅力

2022.1.29


 

 フェイスブックで、「今日の1枚」と称して、毎日、昔撮った写真をアップしているのだが、先日、法善寺横丁の写真をアップした際に、コメントとして、「藤島恒夫」の「月の法善寺横丁」って歌がありました、などと書いたのだが、その原稿を書いているとき、「藤島恒夫」のところを「藤島一郎」って書いてしまった、あれ? そうだっけ? と思って、試しに「藤島一郎」で検索したが、お医者さんは出てくるけど、歌手はおろか、俳優も出てこない。やっぱり違うんだと思ったが、それにしても、「藤島一郎」って俳優がいたはずだけどと思いつつ、あてづっぽうに検索を続けたら、なんと、俳優は「有島一郎」だった。そうだった、そうだった。あんなに有名な俳優なのに、私としたことが、「藤」と「有」の取り違えるとはと思いつつ、そういえば、昔、「有島一郎」と「有島武郎」をよく取り違えていたなあと懐かしくなった。文学史の試験なんかで、よくそういう間違えがあったような気がする。

 と、そのとき、なんで「藤島一郎」と最初書いてしまったかが、なんとなく分かった気がした。「有島一郎」「有島武郎」「藤島恒夫」あたりが頭の中でごっちゃになってしまったのだろう。

 しかし、「藤島恒夫」って、「ふじしまつねお」だったっけ? とふと疑問に思った。もう記憶が曖昧すぎて、なにがなんだか分からないけれど、「つねお」っていうんじゃなかった気がする。それで、再度検索したら、なんと、「藤島桓夫」だった。「恒」ではなくて「桓」。桓武天皇の「桓」だ。Wikipediaには、丁寧に、「藤島恒夫と表記されることがあるが誤り。」と書いてある。よほど注意しないと、「恒」と「桓」とを区別することは難しいし、そもそも「桓」なんて字は、桓武天皇以外にはほとんど目にしないし、今では、人名漢字表にもない。

 そんなこんなで「藤島桓夫」について調べているうちに、フェイスブックでは、「月の法善寺横丁」が大好きだみたいなことを書いたのに対して、教え子が歌は聞いたことがあるけど、歌手までは知りませんでしたとコメントしてきたので、調子に乗って、「お月さん今晩わ」なんてのも有名ですよ、みたいなコメントをしたが、「それはわかりません」ということだった。自分でも、そういえば、どういう歌だったっけ? とYouTubeで聞いてみたら、やっぱり馴染みの歌だった。そのYouTubeで、関連動画として、森昌子の「お月さん今晩わ」があったので、聞いてみた。うまい! 福田こうへいの歌もあり、それはそれでうまいけれど、森昌子は絶品だ。すると、今度は関連動画で、森昌子の「矢切の渡し」があった。へえ〜、森昌子の「矢切の渡し」なんて珍しいなあと思って聞いてみたら、これがまたうまいのなんのって。

 「矢切の渡し」という歌は、今まで何度か書いたことがあるけれど、細川たかしの歌ではない。あれはカバーである。「矢切の渡し」は、ちあきなおみの歌なのだ。しかも、発売当時は、シングルのB面で、ヒットしなかったのだが、それが、テレビドラマの名作「淋しいのはお前だけじゃない」の中で、旅役者役の梅沢富美男が舞台で踊るときに流れたのがきっかけで、急に注目されるようになったのだ。

 というか、ぼくが、その曲にびっくりしたのだった。その当時の女形としての梅沢富美男の美しさもさることながら、そこに流れるちあきなおみの聞いたこともない歌に、すっかり魅了された。いったいこれは何という曲なのだろうと調べ、シングル版も買った。そういうぼくみたいなのが全国に大勢いて、この曲はよく知られるようになり、やがてA面になったというわけなのだ。

 しかし、やがて、細川たかしがカバーすると、これがもう大ヒットとなり、今ではこの曲が細川たかしの曲のように思われる始末である。ちあきなおみが切々と情感を込めて歌った名曲を、細川たかしは、ただただ声を張り上げて、民謡で鍛えた小節と声質を自慢するかのように笑顔で歌う。これでは、ひっそりと駆け落ちする男女の心情がどこかへふっとんでしまう。ちあきなおみの歌には、いつも「櫓の音」が通奏低音として聞こえていて、寒々とした細い川が北風に向かって進んでいくが、細川たかしの歌では、モーターボートをぶっ飛ばして、大きな川を渡っていくようなもので、情緒のかけらもありゃしない。

 なんて、悪口を書くと、細川ファンの方に叱られそうなので、この辺にしておくが、とにかく、「矢切の渡し」は、ちあきなみの歌なのだ、ということは再度強調しておきたい。

 話がちっとも本題に入らないが、森昌子である。

 桜田淳子、山口百恵とともに、「花の中三トリオ」と呼ばれたデビュー当時は、森昌子がもっともぱっとしなかった(あくまで個人の感想です。)顔もちっともかわいくないし(ぼくだけの好みか?)、歌も、「せんせい」なんて、気持ち悪かった。(ぼくが先生なだけに。)山口百恵もなんだか暗くて、顔も地味で、これもぱっとしなかったし、あんまり人気もなかったように思う。つまり、そのころは、圧倒的に桜田淳子だったのだ(と思う。)なにしろ、いちばんカワイイのは彼女だったし、音程は実に不安定で、歌もうまくなかったが、「私の青い鳥」はいい歌だった。しかし、その桜田淳子にしても、いきなりファンが押し寄せたわけではない。彼女がデビューしたのは、1973年で、ぼくはすでに就職して2年目だったわけだが、その頃、伊勢佐木町のレコード店の店先で、サイン会をやっていたことがある。しかし、そこには誰も並んでいなかった。ぼくも、お! っと思ったけれど、結局サインをもらいにはいかなかった。そんなものだったのだ。

 ちなみに、ちあきなおみも、売れる前は大変で、いつだったか、銀座のデパートの婦人服売り場の片隅に小さなステージを作って、そこで歌っているのを見かけたことがある。そのときは、誰? この人? ってな感じで、立ち止まりさえしなかったことが、あとあとまで悔やまれることとなった。(桜田淳子にサインもらわなかったことも。)

 山口百恵が、爆発的に売れ出したのは、ぼくの記憶では、東大生が騒ぎ出して以来のように思う。今でこそ、東大生がアイドルを追っかけたって別に不思議でもなんでもないが、やはり当時は「あの東大生が?」というところがあって、漫画や劇画だって、東大生とはいわず「大学生が読んでる」ということが、格を上げたように思うのだ。平岡正明の「山口百恵は菩薩である」なんていう本が飛ぶようにうれたらしく、あっという間に、山口百恵は「別格」となっていった。

 そういう中で森昌子は、相変わらずの野暮ったさで、「東大生が森昌子を聞いてる」なんて話は聞いたこともない。(もちろん、聞いていた人も多かっただろうけど。)

 ぼくはといえば、へんてこな東大コンプレックスがあったから、そんな山口百恵には違和感があって、積極的には聞かなかったけれど、テレビをつければ出てきたので、だいたいは聞いてきたのだが、桜田淳子に至っては、途中で新興宗教に走ってしまうし、森昌子のほうは、「歌がうまい」なんてことにも気づかずに、まだ歌ってるのか、程度の認識だった。それでも「悲しみ本線日本海」あたりで、ぐっときたものの、「越冬ツバメ」で、そんなツバメがいるか! って腹をたてて(実際には、「越冬せざるを得ないツバメ」はいるらしいから、ぼくの腹立ちは間違いだったのだが)、それ以来あまり聞かなくなってしまっていたのである。

 それが、それが、である。彼女がこんなにも、多くの曲をカバーしているのかと、今回、愕然とした。YouTubeの「矢切の渡し」などは、再生回数が55万回である。知ってる人は知っていたんだなあと、つくづく不明を恥じたことである。

 女性歌手(演歌系)で、歌がうまいと思ってきたのは、第一に美空ひばりで、第二位がちあきなおみだが、この二人の特徴は、声の多彩さだ。とくに、美空ひばりは、まるで万華鏡のように声が変化し、その声を自在に操る、なんてことを今更書いてもしかたのない常識だろう。ちあきなおみも、美空ひばりほどの声の変化はないにしても、その低音域の声に恐ろしいほどの奥行きがある。それが歌に限りない陰影を与える。

 それに比べて、ぼくが第三位として推したいと今更ながら思いはじめた森昌子の声は、一筋の線である。絹のようにはりつめた、つやのある、一筋の線である。その一筋の線で、すべてを歌いきる。すべての感情を歌いきる。これは考えてみればすごいことではないか。

 それに加えて、森昌子には、嫌みがない。あっさりとしていて、うまい。酒でいえば、純米吟醸酒のようなものである。そこへいくと、美空ひばりは、嫌み満載だ。(ついでに言えば、細川たかしは「嫌みのてんこ盛り」だ。)ぼくは、彼女が存命中は、大嫌いだった。今おもえば、うますぎたのだろう。そのうまさを隠さなかったのだろう。それが「嫌み」に聞こえたのだろう。ちあきなおみには、そうした嫌みはないにしても、ちょっと感情を掘り下げすぎるところがあって、それが時として鼻につくときもある。これもまたうますぎる故だろう。

 そうしたことが、森昌子にはいっさいない。これもまたすごいことではないか。こうした嫌みのなさ、あっさり加減でいえば、島倉千代子がいた。彼女は、一種の「へたうま」で、ちょっと聞くとすごくへたなのに、よく聞くとすごくうまい、としかいいようがない不思議な歌手だ。

 美空ひばりがオーケストラだとすれば、ちあきなおみは弦楽四重奏。そして、その伝でいけば、森昌子は、バイオリンのソロとなるだろうか。いや、バイオリンよりももっと音色の変化の少ない楽器、そうだなあ、三味線とか、三線とか、そんなことになるのだろうか。そんなことを、無責任に、勝手に、つらつら考えるのもまた楽しいものである。

 

 


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木洩れ日抄 84 ぼくのオーディオ遍歴 その7(最終回) ── CDの出現と衰退、そして…

2022-01-20 14:44:19 | 木洩れ日抄

木洩れ日抄 84 ぼくのオーディオ遍歴 その7(最終回)── CDの出現と衰退と、そして…

2022.1.20


 

 結局のところ、良きにつけ悪しきにつけ、CDの出現が大きかったなあと思う。

 初めてCDを見たのは、上大岡駅の京急ストア(その頃はまだ、京急百貨店がなかった)のレコード店だったように思うのだが、レジの脇に、変な機械が置いてあって、その中で垂直にセットされた銀色の円盤がすごいスピードでまわっていた。どうやらこれがレコードに変わっていくらしいが、この小さい円盤を、どうやって店頭に並べるのかなあとそれが心配だった。

 CDが出る前の段階で、レコードでも、デジタル録音というのがやはり出していた。DENONのPCM録音とかいうのが有名だったはずだ。ぼくがレコードで初めてデジタル録音を聞いたのは、たしか、ロンドンレコードから出た、ウイーンフィルのニューイヤーコンサートだったと思う。それを聞いて一番驚いたのは、「拍手」の音だった。一人一人の掌、いや一本一本の指が目に見えるようなクリアな音だった。写真でいえば、非常に解像度が高いという表現になるが、とにかく、不自然なほど、解像度が高かった。

 ぼくは、音でも映像でも、解像度が高い、シャープなものが好きだが、しかし、この初めてのデジタル録音は、その「不自然さ」ばかりが目立ち、音楽に集中できなかったように思う。「自然さ」は何においても大事なのだ。

 CDになっても、その解像度のよさは、変わることなく追究されていったのだろうが、それがスタンダードになると、もうLPには戻れなくなっていったのは当然である。

 なにしろ、LPレコードには苦労した。すぐに傷がつく。傷がつけば、パチパチと雑音が入る。埃はたまるし、カビも生える。その埃やカビを取ろうとして、クリーナーを使うと、それがレコードの溝に溜まったりする。どうしても、そういったゴミがとれないと、乱暴な人は水で丸ごと洗ったりするという涙ぐましい努力が繰り返された。とにかく、ぼくも、「雑音との戦い」には、疲れ果て、うんざりしたものだ。

 それがCDになったとたん、すっかり消えた。これほどの朗報はなかった。これで、あの面倒なメンテナンスから解放されたと思うと天にも昇る思いだった。

 気がつけば、レコード店から、LPレコードは姿を消した。店頭にCDがずらりと並ぶ姿は、そうか、こうするのかと、以前の「心配」もばからしくなった。そして、ぼくの部屋にはCDがあふれかえることとなり、LPレコードは、数枚を除いてすべて売却してしまった。

 ところがである。その後にやってきたのが、アップルのiTunesである。(他のサービスもあったが、ぼくはアップルしか使ってこなかったので)そこから音楽を曲単位で買えるようになった。初めは何のこっちゃと思ったし、日本の演歌なんぞは、ほとんどリストになかったから、たいしたことだとは思わなかった。演歌では、大石円という駆け出しの女性歌手が、リストにあった、カバーソングだったがチューリップの「サボテンの花」なんかを買ったりした。(ちなみに、この大石円──今は「大石まどか」──は、今ではかなり活躍している。)

 それと同時に、iTunesを使えば、CDをパソコンに取り込める(リッピング)ことが分かった。本棚に溢れるCDがだんだん邪魔になってきていたので、しばらくそれに熱中して、2000枚(いや3000枚か?)ほどあったクラシックやジャズのCDをリッピングして、本体のCDはみんな売却してしまった。

 そして、今、ぼくの部屋には、50枚ほどのCDと、数枚のLPレコード(そのうちの1枚は、南沙織の「南沙織ポップスを歌う」であることはいうまでもない。)だけを残すのみとなった。

 肝心のオーディオ機器といえば、JBLの巨大スピーカー事件以来、まあ、何種類かの機器を買い換えたけれど、本格的な趣味とはならずに、テレビのサラウンド用に買ったDENONのセットをオーディオ用として使ってすでに15年以上になる。そして、音楽は、主として、Apple Musicか、リッピングいた音源を、MacからDENONのセットのほうへ飛ばして聞いている。

 こうした経緯を振り返ってみると、つくづく感じるのは、かつて「音楽鑑賞」とか「レコード鑑賞」とかいっていた行為が、日常化して、特別感を失ったということだ。現に、ぼくなどは、ジャズでもクラシックでも演歌でも、スピーカーの前に座ってビクターの犬みたいにじっくり耳を傾けるということはここ数年まったくない。いつも、「ながら」聞きだ。

 だからこその「LP復活」なのだろうと思う。レコードジャケットからレコードを取り出して、レコードプレーヤーのターンテーブルにのっけて、針を落として、といった一連の動作が、愛おしくなるのだろう。そして、かつてはあれほど耳障りだった「雑音」すら、懐かしさを誘う「いい音」となるのだろう。そしてさらには、「LPレコードの方がCDより音がいい」「LPの音のほうが柔らかい」といった言説が、あたかも疑いない事実であるかのように拡散していくのだろう。

 ぼくは、基本的に「懐古主義」は好まないから、「昔はよかった」的な言説には、常に警戒心をもっている。しかし、「LPレコードのほうが音がいい」という説には、懐疑的だが、自分で今確かめてはいないから、「ひょっとしてそうかもしれない」程度の認識だ。しかし、今、Mac経由で、スピーカーから流れてくる音が、かつてのデジタル録音初期の、「不自然な解像度」を感じさせるものではなくて、ずっと進化していることは間違いないのだ。
LPレコードであっても、CDであっても、配信であっても、「機械」から流れてくる音であることに変わりはない。どっちが「いい音」かという判断は、あくまで「好み」の問題だろう。とすれば、最終的には、「録音」か「生」かということになるわけだが、それすらも、「好み」の問題であって、「絶対に生がいい」ということにはならないだろう。

 「録音」は、「生音の再現」だから、「生」のほうがいいに決まってるじゃないかという人もいるだろうが、「録音」を「再現」とはとらえずに、「表現」と考えれば、そんな議論もふっとんでしまう。

 こんなふうに今までの「オーディオ生活」(ぜんぜんたいしたもんじゃないけど)を振り返ってみると、音源が「録音」であれ、「生」であれ、そこにあった「音楽体験」こそが大事だったのだという、当たり前の結論になる。

 ぼくがまだ20代のころだっただろうか。神奈川県立音楽堂に、当時人気だった、フランスの「パイヤール室内管弦楽団」がやってきたのを聞きにいったことがある。そのとき、バッハの「バイオリン協奏曲」をジェラール・ジャリのソロでやったときの体全体が宙に浮き立つような感動を今も鮮明に思い出す。そうした「音楽体験」は、他にもいくつも思い当たるわけだが、それらのほとんどが「生」であることを思うと、やっぱり生の演奏こそが、他の何ものにも代えがたい貴重なものなのだということは言えそうである。

 

 

 


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木洩れ日抄 83  ぼくのオーディオ遍歴 その6 ── JBLのスピーカー

2021-11-22 09:53:05 | 木洩れ日抄

木洩れ日抄 83  ぼくのオーディオ遍歴 その6 ── JBLのスピーカー

2021.11.22


 

 町田の奥のほうの新設2年目の都立忠生高校から、都心の青山高校に異動したのは、1977年。秩父宮ラグビー場の真ん前にあるという、とてもオシャレな環境だったが、そのころ、忠生高校での想像を絶する「心労」がたたって、疲れがどっと出たのか、心身の不調は頂点に達していて、そのオシャレな環境を楽しむことすらできなかった。

 7年間の勤務の間、学校から5分ほど歩けばすぐに行けるのに、あの有名な外苑のイチョウ並木にも行ったことがなく、いやそれどころか、どこにあるのかすら知らなかった。(知ったのは、それから30年以上経ってのことだった)とにかく、授業が終われば即帰るという日々で、原宿だの青山だの渋谷だので、飲んで遊ぶなんてことは、ほとんどなかったのだ。

 そのかわり、昼食は、学校を出て、近くのレストランなどを30カ所以上も巡った。

 そのレストランで実に魅力的な音に出会ったのだ。これが三つ目である。

 その音は上から降ってきた。見上げると、吹き抜けの天井の梁に小さなスピーカーが置かれていて、そこからキレイで粒だちのいいジャズが流れてきていたのだ。それがJBLのスピーカーだった。そのころは、件のダイアトーンを家に設置していたころだったはずだが、それとは比べものにならないくらい小さいスピーカーなのに、出てくる音色は、艶があって、キレがよくて、心地よかった。

 ぼくは思わず、レジの方へ近寄って、アンプを確かめた。不確かな記憶だが、マッキントッシュのアンプだったと思う。音源がレコードだったのか、CDだったのか覚えていない。CDの普及は1980年代だったはずだから、まだLPだったのかもしれない。

 これ以来、JBLのスピーカーは、憧れの的となった。けれども、薄給の教師としては、そうそうオーディオに金をかけてもいられない。無理だよなあと諦めていたころ、知人から耳寄りな話が舞い込んだ。

 JBLのスピーカーをもらったのだが、自分の家には大きすぎて困ってるのでもらってくれないかということだった。それはもちろん、即OKである。しかし、やってきたそのスピーカーを見て仰天した。でかい。でかすぎる。高さが90センチぐらい、幅も奥行きも60センチぐらいある。一個置くと、それだけで部屋が狭くなる。家内は渋い顔をしていた(はずだ)が、夢中になると他にはまったく目がいかないぼくのこととて、諦めていたのだろう。

 しかしそのスピーカーから出てくる音は、圧倒的だった。特に、ヴォーカルが厚みがあって深くて暖かくて、ダイヤトーンの音とは根本的に違っていた。これはすごいものを手に入れたとしばし悦に入っていたのだが、何日か聞いているうちに、異変に気づいた。

 ロン・カーターのアルバムを聴いているときだった。ベースの低音がズーンと響くときに、ビリビリという変な雑音が入ることに気がついたのだ。これでは台無しだ。どうしたんだろうと、スピーカーの前の網みたいなのを外して見ると、巨大なウーファーのエッジのゴムみたいな部分が劣化して、破れていた。ボロボロである。これが変な振動を起こして、雑音となっていたのだ。

 スピーカーも古くなると、こういう部分が劣化するのだ。では、これをどうしたらよいのか。もちろん自分で直せるシロモノではない。

 で、伊勢佐木町のほうにあったオーディオ専門店に出かけて聞いてみると、張り替えしかないけど、5万ほどかかるという話だった。そんな金を払えるわけがない。こうなると、いくらJBLのスピーカーだといっても、まさに無用の長物でしかない。しかし捨てるにしても、あまりに大きすぎてどうしたらいいかわからない。

 その窮状を聞いて、件の知人がいろいろと行く先を探してくれて、あるレストランだか料理屋だかで、修理して店に置きたいという人を探してきてくれた。しかも、家にとりにきてくれるという。残念なことだったが、しかし、この巨大なスピーカーをリビングにこれからも起き続けることなんか非現実的このうえもないことなので、ほっとしたことも事実だ。家内も喜んでいた。

 そんなわけで、JBLのスピーカーは、ぼくの「オーディオ人生」においては、幻と終わったのだが、つい最近、このJBLのスピーカーがペアで3万円代という信じられない安さで出ていることを知った。食指はタコの如く動いたが、今書斎に鎮座しているDENONのS301を大型ゴミで捨てるなんていう悪逆非道な行いはできないから、諦めた。

 それはさておき、この青山のレストランのJBLのスピーカーも、その「置き方」にポイントがあったわけだ。太い梁に乗ったスピーカーは、空中にあるようなもので、これもまた理想的な設置法だろうと思う。床に共鳴しないから、とことん抜けのいい音になるわけだ。クラシックをじっくり聴くには向かないだろうが、環境音楽として、「音に包まれる」ような感じを出すにはいい。

 そういう意味では、アップルの「HomePod」に、今、ちょっとだけ食指が動いている。まったく、きりのない話である。

 

 


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木洩れ日抄 82 「犬のいる庭」あるいは「リアル」について──劇団キンダースペース ワークユニット2021 中間発表公演

2021-11-09 11:09:43 | 木洩れ日抄

木洩れ日抄 82 「犬のいる庭」あるいは「リアル」について──劇団キンダースペース ワークユニット2021 中間発表公演

2021.11.9


 

 6畳ほどの部屋がある。右奥は、部屋に食い込むように障子がはめ込まれた壁があり、その障子を開け放つと、四角い庭が現れる。その庭の片隅に、どうやら犬小屋があるらしく、そこに黒い雄らしい犬がつながれているらしい。部屋の右(上手)には、大きなのれんが掛けられ、その奥が台所で、玄関につながっているらしい。左手(下手)は、どうやら風呂場らしい。部屋には、ちゃぶ台やら、茶箪笥などがならぶ。それが、この芝居の舞台装置である。

 この部屋に、最初に入ってくるのは、郵便局員風の40代ぐらい(30代?)の男で、玄関からじゃなくて、障子をあけて、つまり庭から入ってくる。どういうわけか、ずかずかと部屋に上がり込み、なんだかんだとブツブツ言ってるうちに、別の中年のサラリーマン風の男が入ってくる。これも、庭からだ。郵便局員風の男と、サラリーマン風の男は、会話をするが、どうにもかみ合わない。それぞれの人物の「背景」がちっとも見えてこないからだ。この家に女が住んでいることは、郵便局員風の男のセリフから分かるが、では、サラリーマン風の男がその女の亭主かというと、どうも違うらしい。かといって、サラリーマン風の男の行動は、「この家」の住人風で、明らかに、郵便局員風の男の「他者性」とは一線を画している。

 といったようにこの「犬のいる庭」という90分ほどの芝居は始まる。脚本は原田一樹、1997年の作。当日のパンフレットから原田一樹の言葉をここに引用しておく。

 

今回の演目「犬のいる庭」は97年、うえだ峻さんの依頼で書き下し、その後キンダースペースでも狭間鉄さんを迎えて上演した作品です。四半世紀前でも生な感触は残り気恥ずかしく、正直描き切れていないと思われる作品ですが、演劇の可能性は本にばかりあるものでもありません。今回の俳優たちが、この設定の中で「何か」を魅せてくれることを期待します。とはいえ、作品について当時考えていたことを少し申し上げると、台本の表に現れる「ドラマ」はあくまで「作り事」であり、その背後に流れる、或いは舞台の現実的な時間のずっと以前に流れる、俳優の、つまり「人間」の「ドラマ」にこそ「演劇」があるのではないか、という事です。テレビや映画ではその「ドラマ」が観客の目の前で起こる。「演劇」の場合は登場人物を通してその「ドラマ」を、観客が想像する。もちろん、その企みがうまく機能するかどうかは、その時の座組にかかっています。平安期の今昔物語などを読むと、女は家にいて男が通う。そこにすれ違いや、心の乱れが生まれる。というようなことも考えていた。……ような気もします。頼れるものの少ないドラマは、きっと座組の試練となるはずです。

 


 ここに書かれているように、単純に言えば、「女」のもとに通ってくる3人の男の「すれ違い」や「心の乱れ」が描かれた芝居ということになるわけだが、それ以上に重要なのは、「台本の表に現れる『ドラマ』はあくまで『作り事』であり、その背後に流れる、或いは舞台の現実的な時間のずっと以前に流れる、俳優の、つまり『人間』の『ドラマ』にこそ『演劇』があるのではないか」という言葉だ。

 冒頭部から続く会話の「かみ合わなさ」、人物設定の「わかりにくさ」は、観客に「想像すること」を強いてくる。その「たくらみ」にまんまとはまり、始まってから、ああでもあろうか、こうでもあろうかと、ひとり想像を巡らせたのだが、その時間が実に楽しかった。
こんなことを言うと原田さんは嫌がるだろうと思うが、ふと別役実の芝居を見ているような気分にもなった。しかし、それはあくまでも「気分」で、この芝居と別役実の芝居とは、はっきりと違う。

 どこが違うのかを少し考えてみたい。

 別役の芝居というのは、登場人物の「背景」は、あまり問題にならない。もちろん、140を越える戯曲がある別役実だから、「背景」を色濃く背負っている芝居もたくさんある。けれども、ざっくり言えば、別役の芝居では、その人物の人間としてのリアリティは追究されず、むしろ、その登場人物が発する言葉がその人間を離れてどんどん展開していき、まったく別の「現実」を形成してしまうところにおもしろさがある。

 言葉と言葉はあくまで論理的につながっていくのだが、それが論理的であればあるほど、不条理な世界が出来上がってしまう。過剰な論理展開とでもいうべきだろうか。そしてその出来上がった架空の不条理な世界が、この不条理そのものの現実世界の本質を指し示す、それが別役の芝居の本領だと、ぼくは勝手に思っている。

 それに対して、原田はあくまでリアリストである。彼が日頃よく語っているように、どこまでも、リアリズムを追究していく。それこそが原田の本領だろう、と、これもぼくの勝手な判断である。

 この芝居も、出てくる人物の会話は、別役よりも「非論理的」だ。別役が、論理的でありながら、不条理に向かってしまうのにたいして、原田の脚本のセリフは論理的につながらないのに、芝居は「リアルな人間」に向かって行く。

 それは、ここに登場してくる4人の男女それぞれが、それぞれの人生を抱え込んだ「リアル」な人間だからだ。しかし、その「リアルさ」は、舞台にはなかなか現れない。原田の言うように、まさに「舞台の現実的な時間のずっと以前に流れる、俳優の、つまり『人間』の『ドラマ』」に観客が思いを馳せなければ、至り着かないものだからだ。

 別役との違いをもうひとつ。

 別役の芝居というのは、舞台そのものが「閉じられている」。登場人物の吐き出す言葉によって形成される世界は、舞台の「外側」に向かって開かれていない。つながっていない。いや、もちろん、そうではない芝居だってたくさんある。しかし、別役の芝居に登場してくる人物の「背後」つまりは、その兄弟とか、親とか、住んでいる場所とか、あるいは生きている時代とか、そういったものを想像する気持ちになれない。というか、想像したってしょうがないという世界が多いのだ。

 これに対して、原田のこの芝居では、サラリーマン風の男は、どうやら女の夫(あるいは恋人)だったらしく、復縁をせまり、明日から旅行に行こうなんて誘っていて、さて、どういう事情で音信不通になり、どんな事情でまた戻ってきたのだろう、その気持ちはどんななんだろうとか、この郵便局員風の(というか郵貯の職員)男は、女のことをどう思っているんだろうとか、どんな悩みがあるんだろうとか、いろいろと想像することになる。あるいは、サラリーマン風の元夫みたいな男の会社の部下だということが芝居の真ん中ぐらいにきて明らかになる若い男は、女のことが好きなんだろうなあとか、じゃあ、この女は、誰が好きで、どうして引っ越すなんて言っておきながら、結局「犬がいる」からという理由でここに止まることにするのか、など想像はつきない。

 で、この芝居の題名である「犬のいる庭」が問題になる。

 この芝居の中で、はじめからはっきりと存在しているのは、「見えない」犬なのだ。なんで犬がいるか分かるかというと、芝居の始まりが、障子の向こうで、男が犬にむかって語りかけているからで、「鳴き声」が聞こえてくるわけでもないし、まして姿を現すわけでもない。だからひょっとしたら「犬」なんていないのかもしれない。けれども、この「犬」は、実在感がある。郵便局員風の男が、後半で、犬に向かって泣き叫ぶように「おまえはいったい何をしたいんだ」と言うところがある。ここに郵便局員風の男の「内面」がいわば吐露されるわけだが、その「内面」を受け止めるのが「犬」なのだ。

 「犬」は、いわば、この部屋の「外側」にいるもので、登場人物に直接関わってくるものではないが、彼らと「外側」の世界をつなぐものなのかもしれない。

 つまりは、別役の芝居が「閉じている」の対して、この原田の芝居は、「開かれている」あるいは「外側の世界とつながっている」のである。

 「犬」よりももっとはっきりとそのことを感じさせるのは「道」である。雨がバシャバシャ降っているなかを帰ってきたサラリーマン風の男は、靴下がびしょ濡れになり、床を塗らしてそれを拭くのに大変だったのに、同じように庭からやってきた若い男の足はぜんぜん濡れていない。「おまえ、どんな道を歩いてきたんだ?」というサラリーマン風の男のセリフは、家の外の道と、庭との複雑な構造を思い描かせ、ひょっとして「秘密の通路」があるんじゃないの? といった疑念すら観客に生じさせる。

 あるいは、家の前で始終ブルンブルンと鳴らされるバイクのうるさい音は、この街の喧騒を思わせ、また同時に登場人物たちの心のいらだちをかきたてる。「うるさいぞ!」とどなる若い男(だったっけ?)の、鬱憤がここでも、外に向かって発せられる。

 そして、最後の方では、周りがどんどん開発されていって、こんな一軒家はここだけになった、というサラリーマン風の男のセリフで、小さい部屋のささいな人間の心の葛藤が、突然のように、「社会」「時代」の広がりの中に位置づけられる。

 そして、この芝居が、ある特定の時代の、特定の生きた人間たちの「ドラマ」をリアルに描いたものだということが深く納得されるのだ。

 この芝居は、キンダースペースが長年手がけてきた「ワークユニット2021」(「ワークユニット」とは、「意欲ある演劇表現者のための研修の場」)の、中間発表公演である。演出はキンダーの女優瀬田ひろ美、スタッフは劇団員が担当している。

 原田の「今回の俳優たちが、この設定の中で「何か」を魅せてくれることを期待します。」という「期待」に、俳優も演出も十分のこたえるものだったと思う。ぼくが感じた「何か」を書いてきたわけだが、それはすべて、脚本を読んでのことではなくて、この芝居を生で見てのことだったことが、それを証明していると思う。

 


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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木洩れ日抄 81  ぼくのオーディオ遍歴 その5 ── 「ペーパームーン」の「ダイヤトーン」

2021-10-27 11:26:56 | 木洩れ日抄

木洩れ日抄 81  ぼくのオーディオ遍歴 その5 ── 「ペーパームーン」の「ダイヤトーン」

2021.10.27


 

 オーディオについての、三つの忘れられない思い出のうち一つは、相鉄ジョイナスのレコード店で聞いた南沙織のLPレコードだったわけだが、その歌とともに、その「音」に魅了されたのだった。

 二つ目は、下北沢の「ペーパームーン」で聞いた、「ダイヤトーン」のスピーカーである。今ではもうないと思うのだが、この「ペーパームーン」というお店は、若者向きのレストランだった。

 都立忠生高校の演劇部の卒業生が数人で、下北沢の小さな劇場で芝居をやったことがある。1980年ごろのことだ。何の芝居だったか覚えていない。彼らのオリジナル戯曲であったのかもしれないし、つかこうへいの戯曲だったかもしれない。とにかくやたらおもしろくて、ゲラゲラ笑った。その後の打ち上げだったのだと思う。その「ペーパームーン」で飲んだのは。

 そのころは、青山高校に勤務していたが、今思えば、忠生高校時代のストレスが一挙に爆発したのだろうと思えるのだが、一種のパニック障害のような精神状況にあった。青山高校には結局7年間いたのだが、居心地はとてもよかったのに、そのまま青高に勤務し続けることが無理らしい──つまり強制移動が始まるらしい──という状況になってきたとき、ぼくの気持ちは、だんだん母校へと傾いていった。そんな不安定な時期だったわけだが、その「ペーパームーン」で飲んだときのことを書いた詩があるので、ちょっと紹介しておきたい。

 

  ある出発

 

酔ってもいつも
固く閉ざされていたぼくの心が
その時わずかばかり開いて
貝のような赤い肉を
チラリとみせたように思われた

山と盛られたポップコーンを
掌でつかんでほおばりながら
たてつづけに五杯の水割り飲んで
「おやまならあいつにまけない」などと
泣いたり叫んだりする演劇青年に
しきりにあいづちうって
わけのわからぬ愚痴を
わめきちらしたようだ

大声あげて
下北沢のホームで別れてから
とたんに吐き気におそわれて
家までの二時間を耐えに耐え
それでもちゃんと家の便所で吐いた
酒を飲みはじめて十何年
はじめて
吐いた
人の吐いたものを
始末するのが役目だったぼくが

詩をかこうと
思った

 

             「詩集 夕日のように」(1984年自費出版)より


 汚らしくて、お恥ずかしい詩だが、それにしても、このころ、なにがこんなにぼくの心を「閉ざして」いたのか分からない。そこで叫んだ「愚痴」っていったい何だったのかも覚えていない。しかし、この詩を書かせたぼくの心はウソじゃなかったはずだから、なにか、いいようもないものが心のなかにわだかまっていたのだろう。そして、それが、「演劇青年」たちの叫びに共鳴して、はじけたのかもしれない。

 「詩をかこうと/思った」なんてかっこいいこと言って終わっているのに、この数年後に、都立高校をやめて、母校に戻ってから、詩を書くことがほとんどなくなってしまったのも不思議である。

 などと脱線すればキリがないが、オーディオのことだった。

 このとき「ペーパームーン」で、ジャズだったのかロックだったのか知らないが、ものすごく切れのよい音を流し続けていたのが、三菱電機の「ダイヤトーン」というスピーカーだったのだ。そのスピーカーは、板張りの床に、2メートルほどの間隔で、ブロック状のスピーカー台の上に、壁からも離れて置かれていた。この置き方も、理想的ではなかったろうか。

 前にも書いたことだが、オーディオ機器というのは、ただそれぞれの機器のスペックだけが大事なのではなくて、それがどのような環境、空間に置かれるかによってまるで違う音になるのだと思う。

 このときの「ペーパームーン」は、室内が、若者の叫び声やら泣き声に充満していたのに、その混沌たる空間を、まるで切り裂くようにしてぼくの耳に届いた「音」。ぼくはその「音」に酔いしれたのだろう。そして、その「音」こそがぼくの心を解放したのかもしれない。

 音にしても、絵にしても、写真にしても、どうもぼくは、エッジのきいたシャープさが好きなようで、そういう意味でも、このダイヤトーンのスピーカーの音は衝撃だったし、ぴったりきたのだった。

 酔っ払った目でも、しっかりスピーカーが「ダイヤトーン」であることは確認し、それを今でも覚えているわけだが、アンプとかプレーヤー(確かまだそのころはLPレコードだったはずだ。あるいは初期のCDだったのかもしれない。)の銘柄は調べもしなかった。オーディオ機器でいちばん大事なのは、スピーカーだと今でも思っている。

 それから数年後、ダイヤトーンのスピーカーを買ったのだが、当然のことながら、家の中では大音量で鳴らすこともできず、あの「ペーパームーン」の「音」の再現は二度とできなかった。

 何事も「一度きり」である。だから、いい。

 

 


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