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木洩れ日抄 80 劇団キンダースペース公演「ママ先生とその夫」を観て

2021-10-14 09:54:54 | 木洩れ日抄

木洩れ日抄 80 劇団キンダースペース公演「ママ先生とその夫」を観て

2021.10.14


 

 久しぶりに芝居を観た。といっても、生ではなくて、「配信」だ。

 劇団キンダースペース公演「ママ先生とその夫」。岸田國士作。演出は劇団のベテラン女優深町麻子だ。今回観たのは、Aキャスト。

 最近は、主宰の原田一樹さんは、演出家の養成にも力を入れているとのことで、深町さんも、その薫陶をうけている一人だ。
コロナ以来、キンダーの芝居もなかなか見に行くことができなかった。そういう中で、「配信」された芝居は以前にもあったように思うが、ログインがうまく行かなくて諦めてしまったことがあったような気がする。(いや、配信はなかったのだっけ? 最近は記憶がすぐに曖昧になる。いや、最近どころか昔からのことだけど。)

 今回は、ログインもなんとかクリアした。できれば、大きなテレビ画面でみたいといろいろと調べてみたけれど、どうもダメみたいなので、書斎のパソコンで観た。パソコンといっても、24インチ画面なので、まあ、そこそこの大きさだ。
見始めてびっくりした。

 「配信」の画像には正直なところ期待していなかった。画像は暗くて粗いだろうし、カメラはズームなどを繰り返して落ち着かないだろうし、とても直に見るようにはいかないだろうと思っていたのだ。

 実際、もちろん、「直に見る」ようにはいかなかった。しかし、画像は鮮明だったし、カメラはほとんど固定され、常に舞台の全体を映し出していた。時に、役者がかぶることはあっても、カメラは動かなかった。おそらく一台のカメラで写し、編集もしなかったのだろう。それが「まるで直にみている」かのような臨場感をもたらした。

 舞台は、キンダースペースのアトリエなので、その小ささがかえって幸いした。大きな劇場の舞台だったら、やっぱりカメラは、寄ったり、ひいたりしないと役者の表情や、舞台上の様子を伝えることはできない。これは、小劇場の大きなアドバンテージだ。キンダーの得意な「モノドラマ」などは、更にぴったりの方式だ。過去の上演作品の映像があれば、配信してほしいものだ。
前置きが長くなったが、芝居はとにかく、面白かった。岸田國士ってこんなに面白い戯曲を書いたの? って思った。去年の6月に上演された「岸田國士の夢と憂鬱」も面白かったが、3本短編の連続上演だったので、まとまった印象に欠けてしまったが、今回は、実によくできた戯曲で、なんか独特のユーモアがあって、パソコンの前で、なんども声を出して笑ってしまった。

 その笑いは、深町さんの演出によるものも多かった。特に、次のシーン。

 

富樫  そこで、ひとつ、先生にお願ひがあるんですが、なんとかして、あの人の魂を入れ替へさせていたゞけませんか。もつと真面目な態度で、この試練を受けるやうに導いて下さいませんか。
朔郎  (苦笑しながら)そいつはどうも、僕の力ぢや……。
富樫  宗教の方でも駄目ですか。
朔郎  僕には、さういふ信仰はありません。
富樫  でも、先生はクリスチャンでせう。
朔郎  さう見えますか。
富樫  でも、さうぢやないんですか。
朔郎  さうぢやありませんな。
富樫  さうでしたか。僕はまた……さうだとばかり思つてました。失礼しました。
朔郎  いや。

 

 これ、ふつうに黙読したら、実に平凡なやりとりだ。なんで、富樫が、朔郎をクリスチャンだと思ったのか、分からないのだが、そう見えたことは確からしい。それにしても、これを深町はどう演出したかというと、「でも、先生はクリスチャンでせう。」「でも、さうぢやないんですか。」という富樫のセリフを大声で叫ばせたのだ。これには参った。大笑いした。実際の会場でもきっと笑い声が起きただろう。

 なんか、とても、可笑しい。なんで可笑しいのか分からない。あえていえば、ここでは、朔郎がクリスチャンであるかどうかということは大きな問題ではないのだ。叫んで質問しなければならないほどの重大性はない。それなのに、富樫という若者は声も枯れよとばかりに叫ぶ。発せられた言葉の意味を超えて、ここでは声の大きさ、切実さが、富樫の内面のどうしようもない混乱ぶりを表現しているからだ、と言えるかもしれない。でも、どうしてそれが「笑える」のかをうまく説明できない。

 言葉の「意味」が空中で分解してしまうからかもしれない。あるいは演じた宮西のうまさかもしれない。

 深町さんにどういう演出意図があったかは分からないが、なにか、天才的な直感、みたいなものを感じる。

 戯曲の随所にも、思わず笑っちゃうセリフがちりばめられていて、それを深町さんは敏感に感じ取って、生かしていた。
朔郎が、若い女教師の「告白」を聞く朔郎の妻の意外な反応。その女教師に出したラブレターを、読みながら、いちいちその「言葉尻」を捉えて確認していく妻の発する言葉の可笑しさ。


道代  順序が変ですけれど、この手紙を先に見ていたゞきたいんですの。(封筒から中身を出して渡す)
町子  (黙読する)
道代  お驚きになつちやいけませんよ。
町子  (愕然として)なんです。これは……朔郎の手紙ぢやありませんか。朔郎が書いたんですか。朔郎があなたに寄越したんですか。
道代  御覧になる通りですわ。
町子  (両手を膝について、ぢつと道代の顔をのぞき込む)
道代  (次第に顔を伏せ、つひに畳の上に泣き伏す)
町子  この手紙の内容を、先づ二つに別けて、一つ一つ解決をつけて行きませう。
道代  (突つ伏したまゝ)どうぞ。
町子  第一に、これです。──「先日は、あんなことをして失礼しました。しかし、あなたは、最初、僕の与へるものを拒まうとなさらなかつた。その点、僕は、自分の心があなたに通じたものとして感謝してゐます。ところが運悪く、あの婆ばゞあがはひつて来ました。あなたが、その時、突然僕に加へられた皮肉な刑罰は、聊か僕を面喰めんくらはせました。何れにせよ、あなたの超人間的機転は、あなたを、不幸な汚名から救つたのです」これは、どういふ意味でせう。
道代  (涙声で)その先をお読みになつて……。
町子  その先はその先で、あとから……。まづ、この一項の説明を聴きませう。
道代  説明の必要はございません。その通りなんです。
町子  その通りとは……?
道代  あの方が、あたくしに……。
町子  何を与へたんです。
道代  唇ですわ。
町子  あなたが、それを……。
道代  拒むことができなかつたんです。
町子  なぜね。
道代  お察し下さいませ。
町子  よろしい、それはお察しすることにしませう。それから、この「皮肉な刑罰」といふのは……。
道代  それは申上げられません。
町子  どうして?
道代  あんまり恥かしくつて……。
町子  恥かしいこと……。何んでせう。
道代  女らしくないことですわ。
町子  どこか蹴りでもしたんですか。
道代  いゝえ、かうして、おぶちしましたの。
町子  何処をね。
道代  お顔を……。
町子  朔郎先生の……? やれやれ、可哀さうに……。それで、朔郎は面喰つたと……。よろしい。ところで、それがあなたを、不幸な汚名から救つたといふのは……?
道代  ママ先生のお耳にはひつても、あたくしの方は……。
町子  被害者ですむといふわけですね。それが今日まで、あたしが知らずにゐて、結局、朔郎が殴られ損をした。それで、第一項はよくわかりました。第二項にうつりませう。──「僕は今、自由な旅を続けてゐます。ママ先生は、恐らく、僕が例のマダムの御機嫌を取つて、日を暮してると思ひ違ひをしてゐませう。その点は、あなたから弁明をしておいて下さい。成る程、僕は、一時義侠心を起して、彼女を自暴自棄の生活から救ひ出さうとも考へた。しかし、それは、余計なおせつかいだといふことに気がついたんです。それよりも、路傍に忘れられた野菊のやうなあなたに(道代の顔をちらと見て)満腔の愛と、力ある慰めを与へ得てこそ、僕は生甲斐があるのだと覚りました。これからすぐに、僕のところへいらつしやい。ママ先生には、少し気の毒ですが、あの人は、自分の仕事をもつてをり、自分で自分の力を信じてゐる人です。心配しないで、僕のところへおいでなさい。それから、将来のことをゆつくり御相談しませう。」
道代  どうしたらよろしうございませう。
町子  泣かなくつてもよろしい。えゝと、「その点は、あなたから弁明しておいて下さい」……これはもうわかりました。「成る程、僕は、云々」も、よしと……。この「路傍に忘れられた野菊」はどうです。あなたのプライドは、この形容詞を受け容れますか。
道代  野菊だなんて、勿体ないくらゐですわ。
町子  「路傍に忘れられた」はどうです。
道代  それに違ひございませんもの。この年になるまで、男性の方から、さういふ優しいことをおつしやつていたゞいたことは、一度だつてございませんわ。
町子  「満腔の愛と力ある慰め」……。
道代  どちらも、あたくしに必要なものですわ。
町子  それで、あんたは、これからすぐに、あの人のところへ行く気がありますか。
道代  ママ先生さへ許して下されば、あたくし、参りたいと思ひますわ。
町子  あたしは、「少し気の毒ですが」、「自分の仕事をもつてゐる」さうですし、「自分で自分の力を信じてゐる」さうですから、それはかまひますまい。(唇をふるはせながら)さ、行つてらつしやい。(手紙を投げ出す)
道代  (それを拾ひながら)ほんとによろしうございますか。
町子  いゝですとも……。
道代  すみません……。(手紙を懐へしまふ)
町子  あやまらなくつたつてよござんす。
道代  お清書の点を、まだ半分ほどつけ残してございます。
町子  かまひません。
道代  では、これで失礼いたします。ママ先生も、おからだをお大事に……。
町子  あなたもどうぞ……。

 

 著作権が切れているので、調子に乗って「青空文庫」から長々と引用してしまったが、実に面白い。この一連のセリフを、いちいち演出しながら、役者がそれを舞台の上に発してゆく。演出家とは、そして役者とは、なんと面白い仕事だろう!
以前から書いて来たことだが、近年の、キンダーの役者達の充実ぶりはめざましい。ベテランと新人のバランスもいいし、うまくかみ合っている。

 脚本に書き付けられた「言葉」を、役者が自身の内部に取り込み、それを肉体とともに、「役の言葉」として空間に放出することで、そこに「劇的な空間と時間」が創出される、というのが、演劇というものだと思うのだが、この芝居に関わるキャスト・スタッフが、そのひとつひとつの過程に、丁寧に、徹底的に取り組んでいることがありありと分かる舞台だった。

 その舞台を生で観ることが理想的であることは間違いないことだが、こうした「配信」で観ると、その過程がさらに細かく伝わってくる。そのうえ何度でも繰り返しみることができる。この繰り返し観ることができる、ということは、下手をするとそれに甘えて「一回限りの時間」への集中力を欠くという弱点ともなるわけだが、それでも、生ではできない見方も可能になるというメリットもあるのだ。

 「配信」は、2021年10月11日〜2022年2月1日まで。視聴券は3000円(Aキャスト、Bキャストは別払いとなる。)。視聴券に「満席」があるのかどうかは、今、ちょっと分からないが、少なくとも今のところは「余裕あり」だ。

 「青空文庫」で、脚本を読んでから観るもよし、観てから読むもよし、読みながら観るのもまたよし。ぜひ、多くの方にこのまれなる舞台を観てほしいものだ。心からおすすめしたい。

 

こちらから、「配信予約」へと進めます。

★劇団キンダースペースのホームページはこちら

 


 

 

 

 

 

 

 


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木洩れ日抄 79 ぼくのオーディオ遍歴 その4 ── 相鉄ジョイナスでの出会い

2021-09-29 15:01:20 | 木洩れ日抄

木洩れ日抄 79 ぼくのオーディオ遍歴 その4 ── 相鉄ジョイナスでの出会い

2021.9.29


 

 卓上電蓄のターンテーブルからはみ出るLPレコードだったが、EPレコードはぴったりだったから、いろいろと買ったような気がする。ソノシートで持っていた曲も、何枚か買いなおした。しかし、如何せん、卓上電蓄では、学校の音楽室で聞いたようないい音は望むべくもない。

 卓上電蓄を買ってもらったのが中学生のころだったはずだが、その後の中高生活は、音楽といえば、生物部の部活の最中や、体育館の掃除当番などのときに、やたら歌っていたワイルド・ワンズだの、ヴィレッジ・シンガーズだののフォークソングで、クラシックとは無縁だった。

 ぼくのオーディオ生活が一変したのは、おそらく大学に入ってからだったのだろう。当時は、スピーカーとプレーヤーが一体化した家具調の「ステレオ」がはやりだしたころだったと思うのだが、そんな大きなものを自分の部屋に置くことはできなかった。そんなとき、たしか、「モジュラーステレオ」とかいうステレオ装置が発売されていた。アンプとプレーヤーが一体化したものと、2つの分離したスピーカーの3点セットだった。どこの製品だったか忘れたが、これを買った。いくら払って、どこで買ったのかも覚えてないが、とにかく、この装置を部屋に設置して、電源を入れた瞬間に鳴った雑音が、心に響いた。ブツンというような音だったが、その音は、深みがある低音で、卓上電蓄からは間違っても出てこない音だった。すごい! と感動した。雑音に感動したのだ。これこそが、ぼくのオーディオ趣味の原点だった。

 まあ、その後、経済的には恵まれた生涯ではなかったから、いわゆるハイエンドのオーディオマニアの環境とはほど遠かったわけで、常に、B級のオーディオ生活でしかなかったのだが。

 大学時代、そして、教師時代と続くその後の生活で、時系列に語ることはとうていできないのだが、オーディオについては、3つの忘れられない思い出がある。

 まずは、ひとつ目。横浜駅隣接の相鉄ジョイナスに、名前は忘れたが、オーディオ機器を売っている店があった。というより、レコード店が、オーディオ機器も売っていたということかもしれない。

 あるとき、その店に立ち寄ったところ、女性の歌が流れているステレオ装置があった。普段あまり聞いたことのない洋楽なのだが、どれも親しみ安いポップスの曲で、英語で歌われているのだが、どこか微妙な下手さがあった。だれが歌っているのか見当もつかなかったが、どこか聞いたような声でもあった。しかし、それよりも、ぼくがそこに釘付けになったのは、そのスピーカーから流れてくる「音」だった。

 音のことを言葉で表現するのは難しいが、今はあまり使わない言葉だが「メロウ」という感じだった。とにかく柔らかくて、包み込むような気持ちのいい音だった。アンプがソニー製だったことはよく覚えているのだが、スピーカーやプレーヤーはどこの製品だったか覚えていない。ぼくはしばらくそのステレオ装置の前に立ち止まって聞き惚れていた。聞けば聞くほど心をひかれた。それにしても、これは誰のレコードだろうということが気になってしかたがなかった。

 それで、思い切って店の店員のところに行って、今流れている曲はなんというレコードなんですか? と聞いたところ、「南沙織ポップスを歌う」というLPレコードであることが分かった。え? 南沙織だって? ぼくは絶句した。

 何を隠そう、ぼくは、南沙織の大ファンだったのである。そうか、だから、聞き覚えのある声だったんだ。だから、英語も、なんか微妙に下手だったんだ。だから、歌の音程も微妙に外れてたんだ、と、納得するばかりだった。

 そのレコードをすぐに買ったのはいうまでもない。その店ですぐに買ったのか、別の日だったかは忘れたけれど、その後、そのレコードをどれだけ聴いたことか。

 「TOP OF THE WORLD」も、「ROSE GARDEN」も、「SWEET CAROLINE」も、「 AN OLD FASHIONED LOVE SONG」も、みんな南沙織の調子外れの舌足らずの英語のカワイイ声で覚えた。だから、「SWEET CAROLINE」を本家のニール・ダイアモンドの野太いオジさん声で聞いたときは、飛び上がるほどびっくりした。今でも、南沙織の「SWEET CAROLINE」の方が好きだ。まるで、尾崎紀世彦の「また会う日まで」を浅田美代子が歌ってる(そんなのないが)ようなもんだが。

 ちなみに、このレコードはその後CD化されることはなかったようで、長いことカセットテープにダビングして聞いていたが、やがて、パソコンを使うようになってから、自分でCD化した。今では、パソコンに入れてあるが、ほとんどすべてのLPレコードを処分した中で、たった1枚だけ今でも手元に残っているLPレコードである。

 この音になんとか近づこうとその後、やや高級なステレオ装置を買ったが、やはり、この時の音と同じ音を再現することはできなかった。それはステレオ装置の問題であるというよりは、「環境」の問題なのだろう。雑音の多い店舗の中で、そこだけ異空間のような音の場ができていたとぼくが感じたのも、「音質」の問題だけではなくて、そこに流れていた曲──それは、忘れもしない「やさしく歌って」だった──、そして愛する南沙織の声、そんなものが相乗的に生み出した極めて特殊な音場だったのだ。

 


 

 

 

 


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木洩れ日抄 78 ぼくのオーディオ遍歴 その3 ──「屈辱」のソノシート

2021-09-10 13:19:42 | 木洩れ日抄

木洩れ日抄 78 ぼくのオーディオ遍歴 その3 ──「屈辱」のソノシート

2021.9.10


 

 中学1年だったのか、2年だったのか、定かではないのだが、音楽の授業で、先生が、こんど音楽鑑賞をするから、家から自分の好きなレコードを持ってきなさいと言った。

 持ってきなさいといったのか、持ってる人は持ってきなさいと言ったのか、その辺は定かではないが、たぶん後者だったのだろう。みんながみんなクラシックのレコードを持っているような時代ではなかったはずだ。

 民謡ばっかり歌う変なところがあるとはいえ、相当まじめな中学生だったぼくは、レコードは持ってないけど、ソノシートなら持ってると思って、「ウイリアムテル序曲」の入った黒っぽいソノシートを持って行った。
最初の回でも書いたように、この曲とか、「魔弾の射手序曲」とか「詩人と農夫序曲」とかを、風呂に入りながら聞くほど好きだったので、これを持参したわけだ。

 同級生の何人が持っていったのか覚えてないが、とにかく、ぼくのソノシートの「ウイリアムテル序曲」がステレオにかけられた。ステレオ装置がどのようなものだったかも覚えていないが、学校の音楽室に設置されていたわけだから、いくら貧乏な学校とはいえ、まあ、ある程度の大きさの、ある程度の高級なものだったのだろう。

 しかし、その曲がステレオから流れてきたとき、驚きのあまり、耳をふさぎたい思いにかられた。あまりに音がひどすぎたのだ。家の卓上電蓄で聞いたときは、その音に十分に満足していたのに、友人が持ってきたLPレコードの音を聞いたあとでは、ぼくのソノシートから流れ出てくる音なんか、一つ一つの楽器の音が分離せず、すべての音がまるで饅頭のように、おにぎりのように、固まってしまって、メロディーすら分からなくなるような代物だったのだ。

 今考えると、ソノシートの音がそれほどひどいとも思えないのだが、やはりLPレコードとの差は歴然としていて、ぼくは、驚くとともに、なんともいえない恥ずかしさにおそわれた。はやく終わってくれと、ただひたすら心のなかで念じた。

 ソノシートなんか持っていかなければよかった、と思った。ひどい屈辱感だった。大好きな曲だから、みんなにも聞いてほしいと思って持って行ったのに、出てきた音があんなひどい音だったなんて。それに引き換え、あのLPレコードから出る音のなんという美しさだ。ああ、「ウイリアムテル序曲」も、LPレコードだったらどんなに素敵な音で鳴り響くことだろう。そんな思いでいっぱいだった。

 あの授業にレコードを持ってきた生徒はたぶん数人だったはずだ。鎌倉あたりから通ってくる金持ちの同級生だったに違いないと思っていたけど、それはぼくの偏見かもしれない。ただ、私学だけあって、同級生には金持ちの家の者も多く、ぼくみたいな下町の職人ふぜいの子どもとは、身にまとう雰囲気も違っていた(はずだ)。

 ぼくが、味噌汁のことを「おつけ」というと、何それ? 「おみおつけ、でしょ」とか、食膳のことを「ちゃぶだい」というと、「おぜん、でしょ?」とか言って、ロコツに馬鹿にするヤツもいたので、よくけんかしたものだ。今だったら、おまえ落語も聞いたことねえのかと言って反論するところだけど、そんな知恵もなかった。

 結局のところ、貧富の差、そして教養の差が、ぼくらの中には歴然としてあって、中高6年間を通して、そのなかで、ぼくはもがいていたような気もする。もちろんそれは深刻なものではなかったし、それどころか、生物部の活動に熱中していて、そんなことはすぐに頭の隅に追いやられたが、しかし、それは、根深くぼくの心のなかに巣くっていてその後も消えることはなかったし、今でも、消えてはいない。

 何人かが、LPレコードを持ってきたのに、ぼくが持って行ったソノシートを、先生は、ちゃんとかけてくれたのだが、「ああ、これは音がよくないから、やめとくね」とはさすがに言えなかったのだろうか。あきらかに質のよくないソノシートを、あえてかけたのは、ぼくの気持ちに配慮したからなのか。それとも、単なる無頓着だったのか。それは分からない。ただ、なんとなく、先生は、ぼくがソノシートを差し出したとき、ちょっと困ったような表情を浮かべたような記憶がかすかにある。

 何はともあれ、その「屈辱」の経験は、わりとすぐに、LPレコードあるいはEPレコードへと向かうきっかけとなったことは確かだ。

 今度は、もう、民謡じゃない。クラシックだ。それもLPレコードだ。

 そんなぼくが、初めてクラシックのLPレコードを買ったのは、高校に入ったころだったろうか。クラシックに関する知識もほぼ皆無だったが(ぼくは、高校で芸術科目の授業を受けたことがない。この事情を話すと長くなるので省略するが。)、どこでどう知ったのか、ドビュッシーの「交響詩『海』」と「牧神の午後への前奏曲」が入ったLPレコードだった。ユージン・オーマンディ指揮、フィラデルフィア管弦楽団の演奏だった。その大きなLPレコードは、卓上電蓄のターンテーブルをはるかにはみ出したが、それでも、ちゃんと聴けた。

 

 

 

 

 


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木洩れ日抄 77 ぼくのオーディオ遍歴 その2 ──ソノシートで民謡を聞いた

2021-08-14 21:04:30 | 木洩れ日抄

木洩れ日抄 77 ぼくのオーディオ遍歴 その2 ──ソノシートで民謡を聞いた

2021.8.14


 

 初めて自分のものとして買ってもらった卓上電蓄で、「軽騎兵序曲」だの「魔弾の射手序曲」だのを、悦に入って聞いたいたのだが、そのうち、中2のころだっただろうか、何を思ったのか、「ビクター少年民謡会」(今では演歌歌手の長山洋子もかつてはこの会員だったらしい。)のソノシートを自分で買った。そしてそれを聞きまくった。聞いているだけでは物足りなくて、歌いまくった。なんとかうまく歌いたいと、何度も聞いた。さすがに、その会に入ろうとは思わなかったが。

 それにしても、なんで中学生が民謡なのか。それも東北とか、九州とか、地方の中学生ならそういう文化的土壌に育まれてということもあるだろうが、横浜の下町のペンキ屋の息子が、どうして民謡なのか。

 答は簡単だ。それは、幼い頃から、一緒に寝ていた祖母と祖父が、いつも、枕元のラジオで聞いていたからだ。民謡だけではない、むしろ、浪曲の方が多かったはずだ。浪曲の方は、あまりに難しくて、ソノシートを買うような気を起こさずにすんだのだが、民謡は、「少年民謡会」なんてのがあるくらいだから、子どもでも歌えるわけだ。これが浪曲だと、子どもには無理だ。「コロンビア少年浪曲会」なんてちょっと想像できない。

 落語の「寝床」じゃないけれど、自分で歌って満足していればなんの問題もないわけだが、何事でも、行くつく果てに「発表会」というものがある。それも、修業を積んだ人が、それなりの指導を受けて、それなりの「発表会」に参加するならまだしも、自分で勝手に企画して、人を集めて「発表」なんてされたひにはたまったものではない。被害甚大である。

 ぼくの民謡は、もちろん、大店の旦那芸じゃないから、「発表会」を企画して人を集めるなんてもんじゃなかったのは当然としても、ある意味、それよりタチが悪かった。(「寝床」の場合は、食事がふるまわれた。)

 ぼくが「発表」の場として選んだのが、遠足のバスの中であり、夏の海の合宿のキャンプファイヤーだった。これはもともとぼくの歌が要請されているわけではない場なので、いわばぼくは闖入者であり、乱入者だった。

 中3の夏の海のキャンプファイヤーで、ぼくは、指名されてもいないのに、真っ先に手をあげて、「花笠音頭」だか「北海盆唄」だかを得意になって歌ったものだ。

 後年、ぼくが、母校に教師として戻った直後、恩師の国語科のF先生と話したおりに、先生が「いやあ、君は16期だよね。16期は、ぼくが赴任して最初に受け持った学年なんだけどさあ、えらく変わった生徒がいてねえ、びっくりしたんだ。」というので、どんな生徒でした? って聞いてみると、「それがさあ、海のキャンプのキャンプファイヤーでね、民謡を歌ったヤツがいるんだよ。もうびっくりしたなあ。変わってるなあって思ってさあ。」と感に堪えないといった風情で遠くを眺めるのだった。「先生、それ、ぼくですよ!」って言ったときの、F先生の驚愕の表情を今でも忘れることができない。
そういうぼくだったから、高校生になっても、遠足があると、バスの中でも率先して民謡を歌った。その頃には、「花笠音頭」とか「北海盆唄」とかいった入門的な歌ではなくて、もうちょっと高度な「ひえつき節」とか「南部牛追唄」とかいった歌を朗々と歌ったものだ。

 ということを、17年ほど前に出版した「栄光学園物語」に、わざわざ1章をさいて書いたら、それを読んだ同級生が、同窓会のときに、「ほんとに馬鹿なヤツだと思った。」って言ってきたのだが、そのときも、まあそうだろうなぐらいに思って、それほどビックリしなかったのだが、それから更に10年以上経った同窓会で、誰かが、「あの頃さあ、遠足にバスでいくたびに、変な歌を歌うヤツがいるから、バス変わりたいって言ってたヤツがずいぶんいたんだぜ。」って言うのを聞いて、そのときは、本気で驚いた。そうか、そんなに嫌がられていたのかあと、初めて認識したからだ。「変わったヤツ」とか、「変なヤツ」とかいうのは、まあ、そこそこの親愛の情がこもっているとばかり思い込んでいたのに、実際はそうじゃなくて、「心底嫌だった」ヤツがいたということに衝撃を受けたのだ。「寝床」の旦那を笑えない。

 そういえば、遠足の後のホームルームで、「バスの中で、人の知らない歌を得意になって歌うのはよくない。」と担任がみんなの前で話したことがあり、それがぼくのことだということはさすがに分かったけれど、心の中では「てやんでえ」って思っていた。こちとらは、ソノシートを懸命に聞いて、一生懸命練習して歌っているんだ。それの何が悪い。そもそもマイクが回ってきても、誰も歌おうとしないじゃないか。だから、オレが場を盛り上げようとして歌ってるんじゃないか、と、腹を立てていたものだが、ひょっとしたら、「心底嫌だ」と思った同級生が、担任に「なんとかしてほしい」と嘆願したのかもしれないなあ、なんて、卒業して50年も経ってから、思ったりしたのだった。

 そういえば(と芋づる式に出てくる思い出だが)、仲のよかった友人が、ある日の休み時間、ツカツカとぼくの前にやってきて、「おまえ、なんであんな泥臭い歌を歌うんだ。やめろ!」と真剣になって怒ったことがあった。「泥臭くて何が悪い! 日本人が日本の歌を歌って何が悪い!」といったようなことを言ってぼくはぜんぜん取り合わなかったけれど、今思うと、彼は、ぼくがみんなに「心底嫌がられている」ことを知っていて、なんとか、助けたいと思ったのかもしれないなあなどと今更ながら思って感謝したりしている。

 なんだか、オーディオとは関係ない話になってしまったが、それもこれも、初めて買ってもらった卓上電蓄の余波だったのである。

 それはそれとしても、どうして、そんなに民謡が「嫌」だったのだろうか。「変な歌」とか言っていたらしいから、彼あるいは彼らは、生まれて初めて民謡を聞いたのかもしれない。鎌倉あたりから通ってくる、お金持ちのボンボンも多かったから、生まれてからクラシック音楽しか聞いたことがないという*葉加瀬太郎みたいなヤツがきっといたんだろうなあ、と思うと、ある意味感慨深いものがある。

 


 

*「葉加瀬太郎みたいなヤツ」に関しては、こちらと、こちらをごらんください。続き物のエッセイです。

 


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木洩れ日抄 76 ぼくのオーディオ遍歴 その1

2021-08-08 20:40:54 | 木洩れ日抄

木洩れ日抄 76 ぼくのオーディオ遍歴 その1

2021.8.8


 

 オーディオに凝っていた時期がある。といっても、貧乏教師だったから、常に、ハイエンドではなくて、「入門編よりちょっと上」レベルの話だが、それでも、けっこうな金を使った。初めのうちは、使った金額だけのレベルアップが確かにあって、そのたびに耳を開かれる思いがした。

 思い起こせば、オーディオ趣味のはじまりは、ほんの幼少期だったのかもしれない。ペンキ屋という、おおよそオーディオなんかと縁のなさそうな家に生まれたのに、なぜか、家の床の間には、幼いぼくの背をはるかに越えた「電蓄(電気蓄音機)」がデンと据えてあった。今思えば、高さはせいぜい1.5メートルぐらい、幅は70センチぐらいじゃなかったろうか。「となりのトトロ」を見たことがある人なら、最初のほうで、トラックから降ろして運送屋のおじさんが運んでくる、あれである。(あれ、一度も使われてないけど。)

 それはおそらく父の趣味ではなくて、当時一緒に住んでいた(ような気がする)叔父が、勤め先の進駐軍の施設から払い下げてもらったものではなかったろうか。とにかく、ぼくからすればバカでかい電蓄で、一番上にターンテーブルがあったのをよく覚えている。たぶん、ぼくが3歳ぐらいのころだったと思う。その電蓄で、それでSPレコードから流れ出る音楽が好きでならなかったらしい。しかし、何度も何度もかけろと言ってきかないので──これは今同居している孫にそっくり受け継がれているのだが──困り果てた親(たぶん父)は、そのターンテーブルにレコードの代わりに鬼の絵を載せて、ぼくに見せて泣かせたらしい。そんな子どもだましが効いたのかどうか定かではないが。その電蓄で聞いたのは、たぶん、童謡だったような記憶がかすかにある。

 それがぼくのオーディオ事始めだった。そのころ、家から歩いて10分ほどのところにあった伊勢佐木町商店街での「縁日」が毎月、「1」と「6」のつく日にあった。たしか、「一六」とか言っていたはずだ。1と6のつく日なんて、月に6回もあるのだが(そんなに毎回あったっけ? 夏だけだったような気もする。)とにかく、それに行くのが楽しみだった。その縁日に行くと、決まってレコード店の「美音堂」(だったと思う)の前で、流れている音楽に合わせて踊り狂って、なかなかそこを立ち去らなかったらしい。──ああ、これも、孫に受け継がれているなあ──そこには、いったい何の音楽が流れていたか知らないが、クラシックでないことは確かだ。昭和20年代の後半あたりのことだから、ジャズとか、歌謡曲のたぐいだったのだろう。もちろん、そのころは、「音質」なんて分からなかった。ただ音楽があればそれでよかったのだ。

 次は、小学生か。いや、中学生だったろう。小学校の高学年は、ぼくが生涯でいちばん勉強した(させられた)2年間で、音楽どころの騒ぎではなかったから。小学校5年にころに家に来た白黒テレビも、受験勉強のためといって、祖母が(祖母が、ぼくを栄光学園受験へと駆り立てたのだった)押し入れにしまってしまったほどだ。だからもう、小学生前半の記憶はないし、あっても不思議ではない後半は、辛い勉強一色に塗りつぶされており、楽しい思い出などひとつもない。泣きの涙の2年間だった──なんてことはどうでもいいとして、そういうわけだから、オーディオどころじゃなかったことは確かだ。

 となると、たぶん、中学1年のころだろう。買ってくれとせがんだのだろうが、親が「卓上電蓄」を買ってくれた。20×30センチぐらい、高さは10センチぐらいの電蓄で、本体がサーモンピンクだった。どこの製品だか覚えてないが、とにかく、これで自由にレコードが聴けるというのがうれしかった。

 問題はどうやってレコードを手に入れるかである。ターンテーブルは、45回転のEP版しか乗らない大きさだったが、33回転のLP版も聴けるのだった。レコードが電蓄の外にはみ出してしまうけれど、音質には問題がなかった。というか、そもそも「音質」などという代物ではなかったわけだ。
中学生が手頃に買えるレコードというものは、若い人はもう知らないだろうが、ソノシートというものがあって、これは、安価で、雑誌の付録についていることさえあった。「朝日ソノラマ」なんてものがあったような気がする。それで、どういう選択なのか、クラシックの、入門的な曲を買った。それがスッペの「詩人と農夫序曲」だったり、ウェーバーの「魔弾の射手序曲」だったり、ロッシーニの「ウィリアム・テル序曲」だったりした。

 あるとき、何を思ったか、風呂に入りながらそれを聞きたいと思って、風呂場の近くにあったぼくの勉強部屋で、そのレコードをめいっぱい音量をあげてかけて、風呂に入りながら聞いたことがある。短い曲だから、すぐに終わったと思うのだが、なんだか、いい気分だったことを覚えている。
そのスッペの「詩人と農夫序曲」は、それこそ、ソノシートがすり切れるほど聞いた曲で、後年、侯孝賢監督の「冬冬の夏休み」でその曲が流れたとき、あまりの懐かしさに映画館の片隅で滂沱の涙を流したことがある。映画館であんなに泣いたことはない。

(つづく)

 


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