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木洩れ日抄 100 大阪の「お粥さん」

2023-01-25 10:22:52 | 木洩れ日抄

木洩れ日抄 100 大阪の「お粥さん」

2023.1.25


 

 宇野浩二の随筆「大阪」は、さすがに食い物については特に詳しく語っていて、読んでいて倦むことを知らない。こんなに細かい知識は、他の文章ではそうそう手に入るものではないし、この文章も今では「宇野浩二全集」以外では読むことができないようなので、長くなるのを承知で紹介したい。(今回は、漢字は新字に改めて引用する。)

 「色色の食い道楽──大阪人の食意地のこと」と題した文章は、次のように始まる。


 俗に『京の着だふれ、大阪の食ひだふれ』といふが、これは京都人が着物のために財産をつぶすとか大阪人が食物のために財産を傾けるとか云ふ意味ではない、また、俗に『京の着道楽、大阪の食道楽』と云ふ意味でもない。これから述べようと思ふのは、さういふ言葉に似て非なるもの、さういふ言葉に似て近いもの──主として、大阪人の食意地(くひいぢ)といふやうな題目で、思ひ浮かぶままに書いてみよう。──


 このことからして新鮮だ。「食いだおれ」という言葉はよく聞くのだが、その意味をちゃんと考えたことはなかった。あったとしても、宇野の否定している「大阪人が食物のために財産を傾ける」あるいは傾けかねないほど、食物に金をかける、というような意味で考えていたと思う。しかし、宇野は「食意地」という言葉を持ち出す。それが、この後を読んでいくと、実にぴったりなネーミングなのだ。

 金をかけるのではなくて、安くて旨いものをとことん追究するという情熱、といったらいいだろうか。

 

 大阪人は『京の着道楽』の例として、京都の人は滅多に豆さん(大阪人──殊に大阪辺の女は、どういふ訳か、豆と芋と粥に限つて「さん」を附ける。)を食べない。それは、豆を食べるには一つづつ皿から口に運ばねばならぬ、そのために着物の袖口が痛むから、と云ふのである。併(しか)し、これは京都人が着物を大事にするといふ譬で、却つてこんな事を云ふ大阪人の方が、豆さんやお芋さんやお粥さんを好んで食べてゐることを白状してゐるのかも知れない。何故なら、豆の事は暫らく傍(そば)において、生粋の大阪人は毎朝、東京人及び東京に住む人が毎朝かならず味噌汁を常食にするやうに、朝飯に粥を食べ、冬になるとその粥に芋を入れる習慣があるからだ。併し、この朝飯に粥を食べるのは、大阪ばかりでなく、私の知る限り、河内、和泉、大和(或ひは山城)の人たちは大抵朝飯に粥を食べてゐる。物識(ものしり)の話に依ると、大阪の粥と、河内の粥と、和泉の粥と、大和の粥は、同じ粥でも、それぞれ特徴があると云ふ。それは本当で、私は、和泉の粥だけは、和泉の岸和田は母の里でありながら、知らないが、大阪は勿論、河内の粥も、大和の粥も、一通り食べたが、何処の国の粥も茶粥(番茶を煮出した汁で炊いた粥)である点では一致してゐるやうであるが、大阪のは普通で、河内の粥が一番まづく、大和の粥は一番特徴がある。それは大和の粥だけが『大和粥』といふ名を持つてゐることでも分る。
 『大和粥』の炊き方は、先づ大きな釜に水を殆(ほとん)ど一ぱい入れ、その中に、番茶を入れた布切の袋を入れて煮る、程よく茶の味が出た時分に茶袋を取出すと共に成るべく少量の米を入れる、その米は、ざつと研いだのにかぎる、つまり糠が残ってゐる方がいいので、釜の蓋を明けたまま、番をしてゐる者が、始終杓子で掻き交ぜながら、根気よく炊く、さうして「顔がうつる」(水七分米三分の割だから)と云はれる『大和粥』が出来あがるのである。この粥を、大和の在所では、朝たべ、昼前たべ、昼たべ、御八(おやつ)にたべ、晩たべする。これは普通の粥より水分が多いから腹にもたれないからでもあらう。つまり、『大和粥』といふ名が特にあるのは、粥そのものが普通のと変わつてゐる上に、このやうに粥を不断に食べる習慣があるからであらう。──


 この後も、粥をめぐるエピソードが続くわけだが、「粥」でこれほど多くのことが語られるということに驚いてしまう。

 横浜の下町に育ったぼくには、粥というものは、病気のときに食べる「お粥」か、「おじや」以外には知らなかった。(「おもゆ」とか「くずゆ」というものも病気のとき食べた、もしくは食べさせられた。)つまりは、お粥と病気は切っても切り離せないもので、したがって旨いものであるはずもなく、毎度の食事にはもちろん食べたことなぞない。

 大人になってから、鍋を食べたあとの「雑炊」というものがあるのを知ったが、これとても、旨いことは旨いが、汚らしい感じがして実はあんまり好きではないのだ。

 もっと大人になってからは、中華街で供される「中華粥」なるものがあることを知ったが、これも数回食べたことはあるが、常食にはほど遠いし、第一、家では作れない。

 それが大阪では、常食で、しかも、大阪と、河内と、和泉とでは、粥の味が違うというのだから驚く。それを「一通り全部食べた」という宇野という人にも驚くが、粥にそんなにも「地域性」があるものだろうか。あるものだろうか、なんて間抜けな感想を述べてもしょうがない。あると言ってるのだから、あるのであろう。

 「大和粥」の説明にいたっては、おもわず笑ってしまう。宇野という人は、どうも、物事を克明に説明しないと気が済まない性格らしく、自分が岸和田に住んでいたころの長屋の説明をするのに、どうも言葉では説明しきれないといって、図を描いているくらいだ。「大和粥」の作り方をそんなに詳しく説明する必要があるとも思えないのだが、知っていることはとことん説明しないと気が済まないのだ。

 でも、この説明のおかげで、今でも誰でもが「大和粥」を作ることができる。しかし、この「大和粥」なるものは、どうみても、旨そうではなくて、宇野も旨いとかまずいとか言わずに「一番特徴がある」としか言わない。きっとまずいのだろう。「顔がうつる」なんて、まるでスープで、「腹にもたれないから」一日中食べることができるのは確かだろうけど、一日中食べなきゃ腹がいっぱいにならないのだろう。大和の貧しさを意味するとしか思えないのだが、そんなことを言ったら大和の人に怒られるだろうか。

 まあ、今でも、奈良の食べ物は旨くないというのは、ぼくにとっては何度も経験したことで、それなら、「大和粥」のほうがマシだろうと思ったりもする。

 今までぼくが食べてまずかったもののベストスリーに、奈良が2件はいっている。一つは、大学時代に長谷寺の近くの食堂で食べた「ラーメン」と、20年ほど前に法隆寺に行った帰り、大和郡山駅の近くの食堂で食べた「冷やしうどん」である。(参照「奈良はまずい」)この二つは、この世のものとも思えぬまずさであった。「大和粥」を知らなかったのはうかつだった。

 ぼくは昔からあまり食べ物については興味がなく、どちらかといえば、食べずにすませたらどんなに楽だろうかなんて考える方だったから、今でも日々の生活で、旨いものを追究する姿勢はほとんどないのだが、そんなぼくからみると、大阪人の「食意地」は、途方もないものに見えるのだ。

 宇野は、この後、「食通」についての考察をしてから、大阪の蒲鉾についての説明に入っていくのだが、それはまた次回のお楽しみ。

 宇野浩二に乗っかってると、どこまでも、いつまでも、書ける。

 

 

 

 


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木洩れ日抄 99 もっさりした名前

2023-01-24 15:02:46 | 木洩れ日抄

木洩れ日抄 99 もっさりした名前

2023.1.24


 

 宇野浩二の随筆集に、「大阪」(昭和11年刊)というのがあって、こと細かに、大阪について語っていて無類におもしろい。「宇野浩二全集」第12巻所収の「大阪」の小題を並べてみると、「木のない都──昔のままの姿」「さまざまの大阪気質──或ひは大阪魂の二つの型」「色色の食道楽──大阪人の食意地のこと」「様様の大阪風の出世型」「様様の大阪藝人」となっていて、そのひとつひとつが異常といっていいほど詳しいので、大阪ってずいぶんと変だなあなどと、横浜を出て暮らしたことがないぼくなんか常々思ってきたわけだが、へえ、そういうことかあと、1ページ読むごとに讃嘆である。

 全部紹介したいくらいだが、この中の「様様の大阪風の出世型」に出てくる小林一三に関しての、彼が創始した宝塚歌劇団についての一くだりを紹介しておきたい。宝塚歌劇団の女優の名前に関してである。

 まずは、宇野浩二自身の感想はこうだ。ちなみに、宇野浩二は少年時代の14、5年を大阪の岸和田で暮らしているが、生粋の「大阪人」ではないと自分を規定している。

 


 小林が最も力を入れてゐる少女歌劇について云ふと、先づ彼女等の名は、慣れると何でもないやうであるが、併し、天津乙女、雲野かよ子、春日野八千代、宇知川朝子、美空(みそら)暁子などといふ、大阪言葉で云ふと、《もつさり》した名ばかりである。この《もつさり》した感じは彼女等の不断の服装や髪形にも現れてゐる。それは、私の見た範囲では、女学生とも女工ともつかない服装、(委(くわ)しく云ふと、銘仙の着物に羽織、それに橄欖(オリーブ)色の袴を胸高に着け、裾は白足袋がすつかり見えるやうに穿いてゐる、)さうして髪は大抵思ひ切つて短く切りそれを男のやうに分けてゐる。それが彼女等を『女優』と呼ばずに『生徒』と云ひ習はす所以であらう。

《  》は傍点部をあらわす

 


 宝塚歌劇団の女優の名前に関しては、ぼくもずっと違和感を感じ続けてきた。もちろんとっくに慣れてしまって、え? この人、元宝塚だったの? って思う人もいるわけ(例えば黒木瞳、例えば月丘夢路・・・)で、宇野も「慣れると何でもないやうである」と言っている。「慣れると何でもない」のだが、よく考えてみると、なんじゃこりゃ、よくこんな名前を臆面もなくつけるよなあと思わずにはいられなくなるのである。

 なんじゃこりゃと思っても、なぜそういう名前なのかについては、深く考えたことはないのだが、そこに「大阪」があるというのである。

 ちなみに、宇野が傍点付きで言っている「もっさり」は、関東では今でも使わない言葉だが、「やぼったい」「あかぬけない」という意味らしい。

 宇野は生粋の大阪人ではないからといって、大阪に通じているとされる大阪人ならぬ谷崎潤一郎をひいてくる。『私の見た大阪及び大阪人』(昭和7年初出)から。

 


 先きに述べた少女歌劇の女優の名に就いて、谷崎潤一郎は次ぎのやうに述べてゐる。
 「大阪式のイヤ味を諒解するのには、あの寶塚少女歌劇の女優たちの藝名を見るのが一番早分りであると思ふ。たとへばあの中のスタアの名前に、天津乙女、紅千鶴(くれなゐちづる)、草笛美子(よしこ)、などゝ云ふのがある。かう云ふ名前の附け方はいかにも大阪好みであって、こゝらが東京人から見て大阪人の感覺が一本抜けてゐるやうに思はれる所である。兎に角東京の女優にはこんな垢抜けのしない、一源氏名のやうな、千代紙のやうな、(中略)そして又一と昔前の新體詩のやうな、上ツ調子の名を持つてゐる者は一人もあるまい。」

 


 関西が好きで、関西に移り住んだ谷崎潤一郎だが、根が東京人なのだろうか、宝塚歌劇団の女優の名前には強烈な違和感を感じているわけである。

 その名前を半ば罵倒するかのように並べた比喩がおもしろい。「一源氏名のやうな」は、確かにそうだ。次の「千代紙のやうな」は、なるほど千代紙というのはそういうものかと気づかされる。とにかくきれいにきれいにと作った紙だということだろう。(その後の「中略」のところにどういう比喩があったのか知りたいが。)いちばん興味深いのは「一と昔前の新體詩のやうな」だ。「新體詩」というのは、近代文学史では必ず出てくる、明治の初期に出現した新しい詩のことだが、谷崎にとっては、その「新體詩」が、宝塚の女優の名前のようだと感じているわけである。

 これは、当時の(昭和11年ごろ)文学状況の中で、「新體詩」がどのように受け取られていたかをリアルに伝えてくれている。そのすぐ後には、「上ツ調子の名」とあって、「新體詩」の表現や言葉が、「上ツ調子」であるという認識にもつながっていることが見て取れる。

 谷崎は、自分の大阪好き、関西好きも顧みず、宝塚の女優の名付けをくさしたのだが、ここに宇野はもう一人の、「大阪人」を連れ出してくる。宇野と親しかった画家の鍋井克之である。鍋井克之は、大阪生まれで、宇野によれば「生粋に近い」大阪人であるらしい。(この画家のことを、今日まで知らなかった。)

 

 この一節に封して鍋井克之は次のやうに評してゐる。
 「あの文章(谷崎の『私の見た大阪及び大阪人』)中最も私に興味のあつたのは、寶塚少女歌劇女優の藝名を非難した点であるが、なるほど、天津乙女、草笛美子、また紅千鶴の諸嬢の藝名は大阪人である私にも一寸背中がむずむずした感じは昔からしてゐた。が、これ等の藝名は大阪式にいへば道理のたたぬものではなく、従って不成功ではない。人を押しわけても成功せねばならぬ努力家としての大阪人が、一番人の記憶に便利な藝名をつけるのは尤もなことで氣恥しいとは考へてゐられないのである。現に数多い女優の中から天津乙女等を谷崎が呼び上げることが既に成功であるといふ風に大阪人は考へたがるのである。ものの名を東京式に表面美しくつけないのが大阪式である。(中略)大阪の商業主義は、名を一聞してその内容がぴつたりと来るやうでないと承知しない。『あんまの瓶詰』とか『びつくりぜんざい』は一目すぐ内容が分るのである。東京の大衆的しるこ屋は皆『三好野』となってゐるが、これを大阪の『びつくりぜんざい』(大阪のぜんざいは東京ではしるこ)と比べると物の名をつける大阪式の心持がよく分る。大阪のお茶屋の名が富田屋とか大和屋とかで場末の木賃宿にも同名のある不粋なのに比べると、なるほど東京のは松葉とか蔦紅葉とかいふ風な昔の新體詩好みの優しい物慾のない名になつてゐる。谷崎氏はこんな名なら東京人の人氣に適するといふのであらうか。つまり東京は物質的に成功しない所以である。」

 


 つまり、宝塚の女優の名前が「もっさり」していて、「背中がむずむずした感じ」を持っているのは、ひとえに、「人を押しわけても成功せねばならぬ努力家としての大阪人」の気質がしからしむるところだというのだ。売れるためには、とにかく人に覚えてもらわなければならぬ。そのタメなら恥じも外聞もないというわけなのだ。

 なるほどそういう意味では、吉本新喜劇の役者たちの名前も「もっさり」している。その点では宝塚と同列なのだ。

 そして、ここでも興味深いのは、「松葉とか蔦紅葉とかいふ風な昔の新體詩好みの優しい物慾のない名」というところだ。「物慾のない名」という表現は初めて目にしたが、これは、「生きるためのエネルギーに乏しい名」というような意味ではなかろうか。

 そんな乙にすました言葉を並べて、粋をきどっている(ちなみに、「粋な」を、東京では「イキな」と読むが、大阪では「スイな」と読むのだと宇野は言っている。)うちに、「物質的」には成功しない──つまりは儲からない──のが東京だというわけである。

 現代の世の中は、西も東もごちゃまぜで、こんな東西比較は無意味のように思われがちだが、しかし、案外世の中変わっていないもので、こんな比較を読みながら、こころのどこかで、そういえば、とか、そうだったのか、とか、いちいち頷いたりしている自分がいることも確かだ。

 

 

 

 


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木洩れ日抄 98 庭の幸せ 【課題エッセイ 5 庭】

2023-01-23 14:11:11 | 木洩れ日抄

木洩れ日抄 98 庭の幸せ 【課題エッセイ 5 庭】

2023.1.23


 

 この「課題エッセイ」も、最初は、「日本の名随筆」の順番に書いていくつもりだったが、さすがにそれはキビシイ。前回、前々回の「猫」とか「釣」とかは、ぼくの領分じゃないから大変だった。大変なことは最初から分かっていたけど、だからこそチャレンジしがいがあるんじゃないかと思っていたが、やっぱり、自分で自分の首を絞めたところで、ストレス以外の何ものでもないし、そんなストレスを好き好んで抱え込む必要がどこにあるのかと、馬鹿らしくなった。

 「100のエッセイ」と題して、エッセイを週1回書くことに決めて、その第1回目を書いたのが、1998年の3月で、その時は、毎回800字と厳密に決めて、一字たりとも越えないことにしたわけだが、それは、ひとえに、文章を書く練習だったからだ。800字でどれだけのことが書けるか。そして、どれだけオリジナリティーのある文章を書けるかを、試したかった。だから、当たり前のことはなるべく書かないようにしたし、文章的にも技巧を凝らした。(というほどのものじゃないけど。)しかし、800字というのは、おそろしく短くて、いつもなんか物足りなかったので、20編目ぐらい書いたあたりから、1000字以内に変更した。これでようやく書きたいことがほぼ書けるようになった。(と言ってもいい文章が書けるようになったわけではない。)

 この1000字という枠の中で、2011年の3月まで書き続けた。そこで、東日本大震災が起きた。687編目(第7期・88)がその時のことを書いている。(「どうなるのだろうか」)この非常事態に、週1回などと悠長なことを言っていられなくなった。混乱と不安の中で、書かずにはいられなくなった。だからもう翌日には書いた。(「大災害の中で」)1000字なんて、どうでもよくなった。書きたいだけ書いた。練習はもう終わったのだ。

 それ以来、週1回、1000字以内という枠は撤廃した。そしてそのまま連載を不定期に続け、2016年9月25日に、1000編に到達したというわけだ。

 その後は、もうエッセイの連載は止めようと思ったのだが、なんとなく物足りなくて、「木洩れ日抄」として、再出発した。まあ、このエッセイの連載にも、こんな歴史がある。変更、変節の歴史だ。だから(というのも変だが)、「日本の名随筆」の順番どおりで書くと決めても、それを止めて自由に選んで書くと変更しても、何の問題もないのだ。問題を感じるとしたら、ぼくの中にある変な「律儀さ」だ。そんなものはとうに捨てたと思いたいのだが、なかなかどうして頑固なものだ。

 さて、今回選んだテーマは「庭」である。これなら書くのは簡単だ。ぼくは今までの人生の中で、幸か不幸か、「庭のない家」には一度も住んだことがない。ぼくは植物が好きだから、庭があるということは「幸」には違いないのだが、昔から腰痛持ち(今も腰が痛くて、さっきマッサージを受けてきたばかりだ。)なので、庭の手入れが大変で、それが「不幸」にあたる。しかし、とにかく、庭があると、いろいろな楽しみがあるし、生まれ育った横浜の中心地の家にも、それなりの庭があり、父がそこでいろんな植物を育てていたので、思い出もたくさんある。

 というわけで、書きたいことは山ほどある。けれども、そのすべてを書いていたら、いくら1000字という枠を撤廃しているからといって、10000字も書くわけにもいかない。ただでさえ、近ごろのぼくの書くものといったらダラダラと長くて、昨今のウエブ記事の常識を遙かに超えるから、読者がちっともついてきてくれないのだ。

 だから、簡単に書く。あの東日本大震災の翌日、庭に出たときの印象が今でも強く心に残っている。なにか、空気がすっかり入れ変わってしまったような空のもと、わが庭に、フキノトウが出ていたのだ。ああ、こんな大災害が起きているのに、自然はまったく変わらずにこうして営みを続けているんだと、この後、さまざまな震災を振り返る文章の中で繰り返されてきた感慨が、その時のぼくの心にも湧いたのだ。

 庭があって幸せだったと、その時、確かに思ったはずだ。

 

 

 


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木洩れ日抄 97  最後の道楽 【課題エッセイ 4 釣】

2023-01-10 13:39:02 | 木洩れ日抄

木洩れ日抄 97  最後の道楽 【課題エッセイ 4 釣】

2023.1.10


 

 暮れに、ご近所から釣ったばかりのタチウオを2匹いただいた。なんでも、親戚の子がさっき大量に釣ってきたからお裾分けだということだった。6、70センチはあろうという立派なタチウオで、さっそくその晩、焼いて食べたのだが、実に旨かった。

 魚というのは、新鮮ならいいというわけのものでもないだろうし、新鮮だからといって生で食べるとアニサキスにやられたりするから油断はならないが、このタチウオの焼いたやつはスーパーで買ってくるのとは雲泥の違いで、日本酒を飲みつつ、じっくり味わった。ほんとに旨かった。

 新鮮な魚で旨かったという思い出は、もう一つある。30年以上も前のことだが、まだ小学生だった二人の息子たちを連れて、母の郷里の糸魚川(旧青海町)へ遊びに行ったときのことだ。

 家のすぐ近くの浜で息子たちが石を投げたりして遊んでいたところ、近くに置いてあったボートがスッと出ていった。そして、ものの30分もしないうちに戻ってきた。ボートから下りたオジサンが、息子たちに、ぼうやこれあげるよ、と言って魚をくれた。見ると、まだ生きているタラである。40センチほどだったろうか。息子がそれを腕に抱えると、まるで、温泉のCMのようにタラは腕のなかでピチピチと跳ねた。

 家に持ち帰ると、叔母だったか、祖母だったかが、さっそく煮付けにしてくれた。これが旨かった。実に旨かった。

 それまで、タラという魚は、鍋ものに入れてしか食べたことがなかったが、たいして味もなく、そのうえ、パサついて、旨くもなんともなかった。それが、このタラの煮付けは、しっとりと柔らかく、しっかりとした風味もあった。その時、日本酒も飲んだかどうか覚えていないが、とにかく、後にも先にも、こんなに旨いタラは食べたことがない。

 そういえば、ぼくが中高生のころにも、よく糸魚川の家には行ったものだが、そのとき、隣の魚屋から買ってきたという、カレイの刺身とか、タイの刺身とか、名前は忘れたが白身魚の刺身がお皿いっぱいに出たものだ。そのころは、もちろん酒など飲まないから、そんな刺身にそれほど感動もせず、それほど旨いとも思わずに食べたものだが、今思えば、もったいないことをしたものである。

 まあ、そんなわけで、タチウオにしてもタラにしても、釣った直後に、釣った人からもらって食べたという経験は、そうたくさんはないが、いずれも忘れがたい印象を残している。

 件のタチウオは、どこで釣ったのか分からないが、おそらく三浦半島のどこかだろう。京急には、クーラーボックスと釣り竿を持ったオジサンがよく乗っている。金沢八景なんぞ界隈は、その昔、映画「釣りバカ日誌」のロケ地としてもおなじみなくらいで、その金沢八景まで電車で15分とかからない上大岡に住んでいるぼくなんぞは、釣り好きからすれば、いいところに住んでますなあということになるのだろうが、これがまたどうしたことか、ぼくは、釣りをしたことがないのである。

 一度もない、ということでもなさそうなのだが、記憶が曖昧だ。たしか次男が釣りをしたいというので、本牧の方へ車で連れていったことがある。その時、次男は、ギンポとかいう小さな魚を1匹釣っただけだったが、ぼくは見ていただけで、釣り竿を垂れた覚えがない。

 丹沢にあった中高の山小屋近くに、ニジマスの養魚場に釣り堀があって、そこで遊んだこともあるが、その時、釣りをしたかどうかの記憶がない。
わずかな釣りの記憶が、せいぜいそんなことしかないということは、「釣りをしたことがない」と言ってもいいということだろう。
チャンスはいくらでもあったのに、親戚にも渓流釣りに凝ってる者もいて、その凝りぶりを身近に見てきたのに、どうして自ら釣りをしてみようと思わなかったのだろうか。

 思い当たることがひとつだけある。それは「釣りは最後の道楽だ。」という言葉だ。誰の言葉かしらないが、いやたぶん、誰の言葉というほどのものではなくて、よく言われること、ぐらいのところなんだろうが、これが、学生時代から頭に片隅にいつもあった。「最後の道楽」なら、今やっちゃいけない。最後までとっておかなくちゃいけない、と、どうも思い込んでしまったらしい。あらゆる道楽をし尽くして、行き着いた果てにある道楽、それが釣りだ、と。

 なんで釣りが「最後の道楽」なのか。ぼくが勝手に想像したのは、次の二点だ。一つは、ものすごく金がかかるということ。そしてもう一つはものすごく高尚であるということ。しかし、いずれも、妄想の域をでない。それでも、そう思い込んでしまった。

 確かに、釣りはそれなりの金がかかるだろう。けれども、道具もそれほど凝らず、近場の海とか渓流とかで、チマチマ釣っている限りでは、身上を潰すほどのことはないだろう。他に金のかかる道楽はいくらでもある。素人目には金のかかりそうもない書道だって、それで身上を潰す人だっている。要は、どう金を使うかだ。

 もう一つの「高尚」ということ。これはもう、ほとんど現実離れした妄想でしかない。しかし、実にまた文化的な妄想なのだ。つまりは、中国の「山水画」の世界での話だ。

 柳宗元の「江雪」という詩が有名だ。


千山鳥飛絶
万径人蹤滅
孤舟蓑笠翁
独釣寒江雪

千山鳥飛ぶこと絶え
万径(ばんけい)人蹤(じんしょう)滅す
孤舟(こしゅう)蓑笠(さりゅう)の翁(おう)
独り釣る寒江(かんこう)の雪


 雪の降りしきる川で、たったひとりで釣りをするジイサン。これが、山水画の重要な題材となっているのだ。

 山水画というのは、山や川や海の景色を描いたものではない。いや描いているのだが、実景ではない。いや、たとえ実景であっても、描こうとしているのは、そこにあるリアルな風景ではなくて、ひとつの「理想郷」なのだ。

 俗世間を遠く離れた理想郷では、人は、家の中で、碁をやっていたり、琴を弾いていたり、橋の上であたりの景色を眺めていたり、舟に乗って釣りをしたりしている。その誰もが、こころの中に得も言われぬ充足を感じている。何の欲望も、何の不安も焦燥もない、「無の充足」を感じている。そして、中でも、舟で釣りをする人こそ、その充実の完全な姿なのだろうと思われるのだ。

 釣りが「最後の道楽」だというのは、ほんとうはもっと別の意味なのかもしれないが、ぼくはなぜかそう信じてきて、そうか、まだまだ道楽が足りない、釣りは最後までとっておこうと思っているうちに、「途中の道楽」にかまけてばかりで、なかなか「最後の道楽」に辿りつけないのである。たぶんもう間に合わない。ぼくは、山水画の中に、釣り人のこころを求めるしかないようだ。

 


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木洩れ日抄 96  「猫好き」問題  【課題エッセイ 3 猫】

2022-12-20 15:34:40 | 木洩れ日抄

木洩れ日抄 96  「猫好き」問題  【課題エッセイ 3 猫】

2022.12.20


 

 「100のエッセイ」と題して、第1期から第10期まで、およそ18年かけて合計1000編のエッセイを書き継ぎ、それが終わったあと、これでもう終わりと思ってほっと一息ついたのだが、やがて、「何にも書かなくてもいい」状態に退屈しだして、それじゃ続けてみるかと「木洩れ日抄」と称して書き始めたのが、2016年。それから6年経って、気づいたら100編になっていた。こちらは、第1期とかいった分け方はせず、いつ終わるともしれないが、それにしても、その記念すべき「100」の題が「猫」とはなんの因果であろうか。

 

 と、最初の投稿のとき(12/20)書いたのだが、今(12/21)見直しみると、ナンバリングが「94」のときから間違っていて、これは「96」だった。まあ、いずれ「100」になるだろうから、文章はこのままにしておきます。

 

 猫については、書くべきことがないのである。まるで、例の「作文コンクール」の第1回で、いきなり「窓」という題を出されて途方に暮れたときのようだ。あのとき、ぼくは、まだ中2だった。心の窓がどうのこうの、と、聞いたふうなことを書き連ねてお茶を濁した覚えがあるが、そのとき、優秀作として、入選作品集のトップに載っていた高3のSさんが書いた作文は、もう信じられないほどの高みにあって、圧倒された。朝、学校に来て、いきなり「窓」という題で作文を書けと言われて、「シャガールの窓」をパッと思い浮かべて、さらさらと書けちゃうなんて、同じ空気を吸っている人間とは思えなかった。いまだに、あの衝撃は、心の深部にトラウマのように残っている。

 なんてことを書いて、さっそくお茶を濁しにかかっているが、「猫」のことだ。どうしよう。

 別に猫が嫌いというわけじゃない。好きかと聞かれると、子猫は好きだ、というしかない。いままでたった一度だけ、親戚から頼まれて子猫を数日預かったことがある。それはそれは可愛かった。ずっとこのままなら、猫を飼いたいとも思ったくらいだ。でも、その後、猫を飼ったことはない。

 ぼくが子どもの頃は、猫というものは、ネズミを退治してくれるもので、そのために猫を飼う人がほとんどだった。我が家も、戦後の焼け野原に祖父が親戚の大工と一緒に作った掘っ立て小屋のような家だったから、とうぜん、屋根裏にはネズミが住んでいて、毎夜「運動会」が盛大に開催されていた。

 この「運動会」のことは、年配の人ならだいたいは経験しているだろうが、今の若い人にはおそらく想像がつかないだろう。夜中に、ふと目が覚めると、天上裏を何やら走り回る音が聞こえる。端から端まで、ダーッと突進だ。たまには、チュウチュウという鳴き声も聞こえる。うるさいわけではない。むしろ、楽しげだ。だから「運動会」と呼ばれたのだろう。

 しかし、ネズミは衛生上よろしくない。ペスト菌を媒介するから危険だ。だから、そういうネズミをなんとか退治しようと、「猫いらず」という薬剤をまいたりしたものだが、その薬のネーミングからしても、どれだけ「猫」が活躍したか分かろうというものだ。

 せっかく猫を飼っているのに、ちっともネズミを捕らないとなると、その猫は「役立たず」だとののしられた。我が家では、どうせ猫なんて飼っても、役立たずだったらどうしようもないということだったのだろうか、猫の導入には至らなかったわけである。

 やがて、住宅からネズミというものが姿を消して、あの懐かしき「運動会」もとんと開催されることがなくなっていったのだが、その頃からだろうか、猫がペットとしての地位を確立した。一方では、「番犬」として飼われていたはずの犬も、ペットとして台頭してきて、いまのように両雄が屹立する事態となったわけである。

 で、世は、「猫派か犬派」かと常にかまびすしい議論を呼ぶに至っているのだが、その中で、前回書いたように「鳥」は、完全に面目を失った。もっとも、野鳥のほうは、「野鳥を飼う」ことから「野鳥を見る」あるいは「野鳥を撮る」ことへとシフトしたので、鳥の人気は高齢者を中心にかつてない高まりを見せているのだが、とうてい猫の、あるいは犬の人気に及ぶところではない。

 ついでだから書いておくが、昨今、野鳥撮影の現場で、ヒマを持て余して、そこそこの小金を持ったバアサンなんかが、野鳥撮影でもしてみようかと300ミリとか400ミリとかいった超望遠レンズを、一眼レフとかミラーレスとかのカメラにくっつけて、「あ、ジョビオだ。」とか「なんだ、ジョビコか。」とか、変な隠語をわざわざつかって、いい気になって撮影しているのを見かけるが、ほんと、嫌だ。家の猫でも撮ってろっていいたくなる。(注:ジョビコ=ジョウビタキの雌のことらしい。ジョビオ:ジョウビタキの雄のことらしい。)

 さて、猫に戻るが、猫好きの人たちの過激さには、オソロシイほどのものがある。野鳥オバサンと違って、社会を動かすパワーがあるのだ。

 今から数十年前のことだが、高校の国語の教科書に、梅崎春生の「猫の話」という短編小説が載っていたことがある。貧乏な男が2階の下宿の窓から道路を眺めていると、車にはねられたらしい猫の死骸が片付けられることもなく横たわっている。男は、その雑巾のような死骸を毎日ぼんやり眺めているのだが、日が経つにつれて、その死骸が、ペチャンコになり、やがて、隅のほうからだんだん小さくなり、最後にはすべての断片がタイヤに運ばれて消えてしまうという話だ。もちろん、その猫に男は現代を生きる自分自身を重ねているのである。

 短くて、文明批評も含まれたいい小説で、ぼくも授業で何度か扱ったものだが、ぼくが教科書の編集委員になった20数年前、この小説のことが話題になったことがある。

 その頃にはもうこの小説は、どこの会社の教科書にも載っていなかったので、ぼくが「あれをまた載せたらどうでしょうか?」と提案したところ、編集部の人が、「いやいや、あれは、ダメです。猫が車に轢かれてペチャンコになって、そのまま放置されて、消えてしまうなんて残酷だと、現場の先生たちの評判が非常に悪いんです。」という。

 猫好きの教師には、この話は堪えられないらしいというのだ。そうなると、この小説が載っているというだけで、現場はこの教科書の採用をしないということになりかねない。それは教科書会社としても困るというわけで、どの会社でも掲載しないようになったらしい。結果的にみれば、猫好きが、この名作を教科書から葬り去った形となるわけで、まことにゆゆしき問題というべきかもしれない。

 こうしたことは、ままあることで、猫に関する小説では、志賀直哉の「濠端の住まひ」が、やはり猫を殺してしまうというところが現場の反感をかったらしく、あっという間に教科書から姿を消した。猫好きの勢いは増しこそすれ、衰えることはないのである。

 ちなみに、「猫の話」で、猫好きの悪評をかった梅崎春生は、実は猫好きだったようである。ただ、その「愛し方」が、尋常の猫好きとは異なっていて、猫に対して腹の立つことがあると、「蠅叩き」ならぬ「猫叩き」で叩いたりするなんてことを書いたものだから、多くの猫好きの反感をかって、もうお前の小説は絶対に読んでやらないぞとか、首をくくって死んでしまえとかいった脅迫めいた手紙が、何十通と自宅に舞い込んだという。それが昭和20年代の話である。(講談社文芸文庫『悪酒の時代・猫のことなど──梅崎春生随筆集』)

 まったく、今も昔も、猫好きにはかなわない。

 


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