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木洩れ日抄 105 Nikon Zfcの功徳、あるいは「デキる人」

2023-08-19 20:52:08 | 木洩れ日抄

木洩れ日抄 105 Nikon Zfcの功徳、あるいは「デキる人」

2023.8.19


 

 書道の師匠、越智麗川先生とその仲間の先生のグループ展が今日から開幕。

 ぼくは、作品集を毎回作っているので、作品の撮影をしていた。書作品の撮影というのは、案外難しく、露出の設定やらなにやらが野外で撮るときとは全然違う。会場は野外よりは暗いし、照明も、ムラがある。おまけに、蛍光灯やLEDライトによるフリッカー(撮影ムラ)が生じやすいのでその対策も必要。さらに、なるべく、四角い作品を四角のまま撮りたい。といっても、それはたとえ三脚を据えて撮ったとしても(ぼくは、三脚は使わない)、撮ったままで、ゆがまず四角い写真はまず撮れない。で、どうするかというと、現像ソフト(ぼくの場合は、lightroom)での補正機能を使う。これは超便利で、ほぼボタン一つで、平行四辺形やら台形やらに写った写真が、四角くなる。魔法のようだ。

 撮影にあたっては、どのカメラにするかは、ちょっと迷う。なるべく高画質で撮るということなら、フルサイズのZ6がいいわけだが、小型の作品集なので、DX(APS-C)でも十分な画質が得られる。今回は、ちょっと迷ったが、Nikon Zfcにした。会場でこのカメラで撮るのは、ちょっとオシャレだと思ったからだ。

 撮り始めて間もなく、一人の紳士が「カメラは何をお使いですか?」と声を掛けてきた。「あ、これです。Zfcです。」と答えると、「ああ、Nikonですか。Nikonは最近、大型の一眼レフは撤退したんじゃなかったですか?」と言うので、「いいえ、まだ一眼レフは作っていますよ。」「あ、製産は、日本ではやめた、ということでしたね。」などと、思いがけず話がつながる。これは、相当「デキる人」だと思って、話し続けたら、話題が尽きず、カメラ、レンズ、写真雑誌、写真の思想など、かれこれ1時間ほど話し込んでしまった。横須賀に住んでおられるとのことで、田浦時代の栄光学園のこと(というか長浦湾のこと。彼は、ずっと長浦湾をとり続けているとのこと。)、はては大学紛争のことにまで話が及び、興味が尽ず、楽しい時間だった。なんでも、年齢は、ぼくより2歳年上とのことだった。

 この偶然の出会いのきっかけは、Zfcという、デジカメにしては珍しいレトロな外観を持ったカメラだった。これが当たり前のカメラだったら、きっと声を掛けられなかっただろう。Zfcを持って行ったのは正解だった。

 ほとんどカメラや写真の話で終わってしまい、その人が何を専門としている人なのか分からずじまいで、きっと写真家で、書にも興味があって来られたのだろうぐらいに思っていたが、別れたあと、あの方はいったいどういう方ですかと、師匠に聞いたところ、(師匠も、その仲間も、ぼくが親しく話しているので、その人と知り合いなのか? って不思議に思っていたらしい。)、なんと、偉い書の先生だということだった。ああ、知らなくてよかった。知っていたら、緊張してしまって、あんなに親しくお話しなんかできなかっただろう。でも、なんか、ため口まではいかないけど、ずいぶんと失礼な話ぶりだったかもしれないなあと反省である。

 写真についても「デキる人」だったが、書道に関しては「デキる人」どころじゃなかったわけである。

 

 

 


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木洩れ日抄 104 没入体験──「木枯し紋次郎」

2023-06-03 10:37:12 | 木洩れ日抄

木洩れ日抄 104 没入体験──「木枯し紋次郎」

2023.6.3


 

 先日、中島貞夫監督の「木枯し紋次郎」についてフェイスブックに投稿したら、近くに住む中学以来の友人Hが、これを見ろといってTV版のDVDを貸してくれた。

 市川崑劇場のこのシリーズをどれほど熱狂して見たことか。大学時代のことで、当時中高時代の友人と作っていた同人誌に、このHと、のちに京都に住み、中島貞夫と親交を深めた友人Kの三人で、「誰かが風のなかで」と題する座談会を載せたことがある。今読むと、発言しているのは、HとKばかりで、ぼくは相づちをうっているだけなのだが、とにかく、ぼくらの熱狂ぶりが伝わってくる。

 その中で、Kは、この中村敦夫の紋次郎が、当時の世相を反映して、思想的文脈で語られることが多いのに反発している。おもしろいので、ちょっと引用しておく。

 

K:たとえば映画を批評するのにね、まずあの監督はどうこういう──そんなことはありはしないんだよ。絶対。実際みたらね、たとえば、ジャン・ルイ・トランティニアン(注:コスタ・ガブラス監督「Z」で、予審判事を演じた。主演はイブ・モンタン。1969年。)がやってるとしたらね。
H:(喜色満面で)うん、うん。
K:そこでまずトランティニアンの扮するね、それにシビれてね、その役者としてのトランティニアンを混同した上でね、すばらしい、すばらしい、といっているうちにそこから本当のアレがわいてくるんだよ。
H:そうそうジャン・ルイ・トランティニアンがさ、サングラスをかけてさ、(笑い)検事をやってる、あれがいいんだよ。
K:そうなんだよ。だいたいいっさいの映画ってのはそっから出発するのにね。今のインテリみたいな所はね、その、映画俳優が好きですっていうと、ミーハー的だって軽蔑したりするような所がある奴がいるわけよ。全部がそうだとはいわないけど。それ全然意味ないわけ。まずミーハー的にワーワー騒いでさわいでね。ああすてきだ、キャーキャー言ってね。そうした上で、それをしゃべってくうちに又何かでてくる。それをしゃべる前からね、「ジャン・ルイ・トランティニアン? 関係ありませんね。だいたい『Z』という映画は──」としゃべるなんて、くだらないんだ。全然意味ないと思うよ。たとえば又、紋次郎のTV見てね、「ああ市川崑の映画です。あれはすばらしい。」って言うわけね。関係ないんだな。市川崑であろうと何であろうと紋次郎って人間がいてまずすばらしい、それから普通の神経としたらまず中村敦夫にいくじゃない。で、中村敦夫って何て素敵な俳優だろうってね。それからはじめてカメラがいい、音楽がいい、監督がすばらしいことやってるってわかってくるんであってね、それが逆の見え方をするってのは全然おかしい。


(同人雑誌「拙者 5号」1972)

 

 このKは、後に美学者(映画や演劇が専門)となったのだが、映画に対する基本的な姿勢は、今でもちっとも変わらない。

 そんなこんなを思い出しつつ、このDVD収録の2話を見たが、当時ぼくが繰り返しみてはため息ついたオープニング映像が、カラーで見られることに感動し、中村敦夫のすがすがしい若さに感動し、当時画期的と言われた泥まみれのチャンバラに感動したのだった。

 Kが言いたかったことは、映画は、まず、没入体験があって、しかるのちに、批評的意識が芽生えるものだ。最初から批評意識でガチガチに構えて見たら、見えるものも見えないということだろう。

 今おもえば、ぼくの場合は、幼い頃の映画体験は、東映の時代劇だったわけで、それはそれでものすごい没入体験だったのだが、その後、「暗黒の中学受験期」を経て、中学に入ったころには映画もあまり見なくなり、ひたすら昆虫採集に熱中していたので、こうした没入体験は久しくなかった。大学に入ってから、紛争のあおりを受けて、ものすごくヒマになってしまったので、映画や演劇を見まくったのだが、やはり、「文学部への新参者」意識が根深くあって、Kの言う「逆の見え方」になっていたのかもしれない。

 この年になって、ようやく、映画のほんとうの見方が分かってきたような気がする。

 


 

 


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木洩れ日抄 103 見えない希望へ──劇団キンダースペースの「報われし者のために」(サマセット・モーム)を観て

2023-02-23 10:53:14 | 木洩れ日抄

木洩れ日抄 103 見えない希望へ──劇団キンダースペースの「報われし者のために」(サマセット・モーム)を観て

2023.2.23


 

 見えないものを見えるようにするのが演劇だと原田一樹は言う。矛盾した言葉だ。「見える」ようにしてしまったら、「見えないもの」ではなくなってしまう。「見えないもの」は、「見えるもの」の後ろに隠れてしまう。

 しかし、それを矛盾した言葉ではなくて、ごく正当な言葉だと考えるには、「見る」ものが、「見えるもの」の背後に、或いは奥に「見えないもの」を見なければ、いや、感じなければならないのだ。

 舞台に繰り広げられる役者の肉体や、そこから発せられる言葉の「表面」にとらわれることなく、その向こうに、その奥に「ある」もの、そこをこそ見つめ、耳を澄ませ、全身で感じ取らねばならない。

 この舞台に登場するすべての人間が、大きな問題をどうしようもなく抱え込んでいて、そこから逃れるすべがない姿に、絶望しか感じないとしたら、やはりまだこの芝居を「見た」とは言えないのだろう。だからといって、安易に希望を感じようとしても仕方がない。舞台がそれを許さないからだ。それほど、キンダースペースが作り上げる舞台は、濃密・緊密で容赦のないリアリズムで貫かれている。感嘆の他はない。

 すべての登場人物が「どんづまり」にいて、そこであがきながら生きている。イギリスの田舎町。弁護士の父(レナード・アーズレイ)が君臨する裕福な一家。長男(シドニー)は、戦争(第一次世界大戦)で負傷、失明し、親の家で暮らしている。

 長女(イーヴァ)は、婚約者が戦死し、長男の面倒を献身的にしながら親の家で暮らしているが、実は失明した兄が自分の時間を奪っていると感じている。家に出入りしている元軍人で今は自動車工場を経営し、破綻に追い込まれている男(コリー)に恋をするが、その恋は実らず、そればかりか、その男は自殺してしまい、絶望して長女は発狂してしまう。

 次女(エセル・バートレット)は、親の反対を押し切って農家に嫁入りしたが、夫(ハワード・バートレット)の野卑な言動や酒乱という現実を前にしても自分の結婚が間違っていたとは言えず、親きょうだいの前では、偽りの幸福を演じざるを得ない。

 三女(ロイス)は、そういう兄や姉たちを見て、自分もこの田舎で平凡な人生を終えるのかと思うといたたまれずに、家を出たいと思う。そこへ、この村にやってきてこの一家の者とテニスを楽しんでいる親子ほど年の違う道楽者(ウィルフレッド・シダー)に誘惑されて、出奔することを決意するが、男の妻(グエン・シダー)はそれを許さず、ぜったいに離婚なんてしないと言い張る。

 そのすべてを受け入れ、子どもたちを暖かく見守ってきた母(シャーロット・アーズレイ)は、病を得て、余命いくばくもないと宣告される。死を自覚した母は、すべてから解放されたような気分になり、すべてのことは「他人事」と感じるようになってしまう。

 何事もないのはただ一人、父である。弁護士の父は、何が起きても、それを我が事とは捉えず、家の安泰だけを願い、願っていればかなうと思っているらしい。

 すべては戦争がいけないのだ、ということではない。戦争がなくても、田舎の名家をこうした悲劇が襲うことはある。いや、多かれ少なかれ、生きていくということは、こうした悲劇を体験することだ。ただ、戦争はその悲劇を増幅するだけだ。

 問題は、長女においてくっきりと表現されている。婚約者の戦死という悲劇を、失明した兄への奉仕という行為で乗り越えようとするわけだが、心の中に、兄への憎悪が蓄積していく。それは、「自分の時間を奪われる」というエゴイズムだ。これは正当なエゴイズムであって、誰もそれを非難することはできない。ボランティアにしろ、介護にしろ、こうしたエゴイズムから自由な人間はいない。それでも、そのエゴイズムとどこかで折り合いをつけていくことで、生きて行くしかないのだ。

 けれども、長女には、限界がくる。新たな恋は、新しい献身としての生き方への希望だったが、それもかなわなかったとき、怒りは父へと向かう。男が破産することを知っていながら、なんの支援もしようとしなかった金持ちの父への憎悪。お父さんがあの人を殺したんだと叫んで、狂っていく長女は痛ましい。

 この長女の悲劇をどうしたら防ぐことができたか。もちろん戦争がなかったら、悲劇の出発点はなかった。けれども、婚約者との結婚が、悲劇の出発点ではなかったとは誰にも言えない。次女の悲劇は、まさにその結婚だったわけだ。

 次女についても、三女についても、事態は同じことで、人生は悲劇なのだ、「幸福」なんてものは、人生の中には「ない」のだ。そうモームは言ってるように思える。

 戦争については、直接の被害者である失明した長男によって、するどく抉られる。国家のために犠牲になることを当然のように考える父や国の支配者に対して「彼らは学ばないんだ。」という切実な声は、リアルに観客の心に突き刺さった。この芝居が、単なる家庭劇ではない所以であるし、あえて、この時期にこの芝居を上演するキンダースペースの意図でもあったろう。

 この芝居を見ている観客の心の中には、「ではどうすれば?」の疑問が渦巻くだろう。その解決が「やっぱり戦争はいけないんだ。」でないことは確かだ。戦争はいけないけれど、その戦争はどうしたらなくせるだろう、と考えたとき、結局は人間のエゴイズムという現実に直面する。国家のエゴイズムだけではなくて、人間一人一人のエゴイズムに直面する。そして、こう呟かざるを得ない。「解決は、ない。」

 そう、解決なんてないのだ。けれども、死ぬまでは、生きていかねばならない。そのおおむねは辛く厳しい人生の途上で、たまに出会う安らぎとか感動とかが、「幸福」であろう。だから「幸福」は、懸命に求めるものではなくて、僥倖として降ってくるものだ。だから、それを素直に受け止め、素直に手放さなければならないのだ、きっと。

 この芝居の本質は、おそらく、ラストシーンにある。すべてに解決も見えない崩壊寸前の家族を前に、今までただただ忠実に黙々と働いてきた召使い(ガートルート)が、すっかり旅支度をして、「これでおいとまします。」と言って去って行く。父は、事態をまったく把握できずに、きょとんとするところで終幕となる。

 これは、まるで、舞台全体を、大きな風呂敷でまるごと包んで放り投げるような印象があって、見事だった。ここで、初めて、この舞台全体の出来事が、召使いという「部外者」の目を通して冷たく見つめられていたことに気づく。そして、「いったいこの人たちときたら、何やってんだか。さ、おしまい、おしまい。」という作者モームの肉声を聞く気がした。このやっかいな人生を「外側」から俯瞰する視点の獲得といってもいい。

 モームは、召使いとともに、さっさといなくなってしまうが、風呂敷の中に取り残された人たちは、これからも、実にメンドクサイ人生を生きていくだろうし、その風呂敷の中の人たちと同類である観客も、やれやれと思って、帰途につくこととなる。

 その帰途で、ずっしり重い「人生の問題」を抱えつつも、「やれやれ」というため息が、どこかで、「見えない」人生の秘密に通じていることもまた実感するのだ。

 個々の俳優の好演については、いちいち書かないが、客演は言うまでもなく、キンダースペースの俳優の演技力には、ますます磨きがかかっていて、嬉しい限りだ。俳優だけではなく、音楽、舞台美術、照明、音響、衣装のどれをとっても、繊細で神経の行き届いた素晴らしい舞台だったことは特筆しておきたい。演出のすごさは、今更言うまでもないが、やっぱり原田一樹は、稀有の演出家だと実感した。

 

 

 

 

 

 


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木洩れ日抄 102  こわい夢を見て「課題エッセイ」をやめちゃおうと思ったことについて 【課題エッセイ 6 夢】

2023-02-07 15:48:43 | 木洩れ日抄

木洩れ日抄 102  こわい夢を見て「課題エッセイ」をやめちゃおうと思ったことについて 【課題エッセイ 6 夢】

2023.2.7


 

 久しぶりに、こわい夢をみた。こわいといっても、お化けが出たとかいう類いのものじゃなくて、「締め切りがあるのに、できそうもない」って類いの夢だ。

 現役教師のころは、ずいぶん長い間、演劇部の顧問をやっていたのだが、公演間近になると、決まって、芝居がもうすぐ始まるのに、まだセリフを全然覚えてない、という夢にうなされた。なにも自分が役者として舞台に上がるわけでもないのに、夢の中では自分が役者になっていて、もうすぐ幕があがるという段になって、セリフが入っていなくて焦るのだ。焦っているうちに夢は覚めてしまい、幕が上がってしまったためしは一度もないのだが、それでも、目覚めたときは、心底ほっとしたものだ。

 これに似た夢に、授業が始まっているのに、行くべき教室に辿り着けないというヤツがあって、これは半分は、いやほとんどが「授業が嫌だ」というつね日ごろの気分の反映で、「授業をしたい」という気分では断じてない。この夢も、教室に辿り着かないうちに目が覚める。このバリエーションが、授業に行きたいのだが、持って行くべき教科書がない、というヤツで、これも探すのに四苦八苦するのだった。もっとも、これは、実際にもあったことで、正夢のようなものである。

 で、今朝見たのは、詳しくは覚えていないのだが、とにかく、なぜか2月5日までにやらなくちゃいけないことがたくさんあるのに、今は、もう1月の下旬で、それらをやる時間がぜんぜんないという夢だった。「やらなくちゃいけないこと」の中に、書展に出す作品を作るというのがあったことは確かだが、他にもなんだかゴチャゴチャあった。手帳でその間の予定を見ると(今ではその手帳すら使っていないのだが)、なんと、2泊3日ほどの中学1年生の合宿引率が入っている。ああ、これは外してもらえないだろうしなあ、しかし、そうなると実質使える時間ってほとんどないじゃん、と思って、焦りに焦っているうちに、目が覚めたのだが、いつもと違って、ああ、よかったという気分ではなかった。

 どうして、こんな夢を見るんだろうとおもって、「やらなくちゃいけないこと」を考えてみると、あるにはある。仕事ではないのだが、ブログで「一日一書」として連載している「寂然法門百首」のシリーズ。これは、長男の著書を素材に、百首分を書にするというもので、100枚揃ったら長男に渡すことにしている。(ま、迷惑だろうけど)

 次に、「日本近代文学の森へ」と題したシリーズで、これが「暗夜行路」の回に入ったら、123回も書いているのに、まだ3分の2程度までしか進んでいない。これらは別に期限があるわけではないが、やめるわけにもいかない。そのほか、日常の雑事で、「やらなくちゃいけないこと」はごまんとある。

 そんな状況なのに、なにを思ったか、「課題エッセイ」なんてのを始めてしまったのだが、これがやってみると、なかなか一筋縄ではいかない。題を与えられて何か書くなんて、原稿料でももらわないかぎり、できるわけがない。いや、できないわけではないけど、やる気がおきない。原稿料も出ないのに、作家だか、エッセイストだかしらないが、そんなもののマネみたいなことして何が面白いのか。こんなばかなことをしているから、こんなろくでもない夢にうなされるのだと、つくづく思った。

 それでも、「寂然法門百首」は、毎回どのような字体で、どのような紙に、どのように字を配置するかなどと考えながら書いているので、ちっとも苦痛ではない。苦痛に近いものがあるとすれば、なかなか落ち着いた時間がとれないというストレスだけだ。
「近代文学の森へ」のほうも、毎回、新しい発見があり、「暗夜行路」という作品のすごさが分かってくるし、友人が読んでくれていて、感想をメールしたりしてくれるので、むしろ楽しい。

 それに比べると、「課題エッセイ」のほうは、自由感がないだけに、なんだか重苦しい。中学高校を通じて、ドイツ人の校長に、ことあるごとに「やるべきことをやるべきときにしっかりやれ」と叱咤激励され、というか、なかば脅迫され続けた結果、どこか体の芯に、「義務感への忠誠」みたいなものが埋め込まれてしまったみたいで、それがために、ずいぶんと苦しんできた。高校を卒業してからは、そこからいかにして自由になるかが、ある意味、生きる課題でもあったような気もする。もちろん、仕事をするうえでは、そうした「芯」に助けられたことも多かったわけだが。

 しかし、今は仕事もほとんどない。せっかく仕事をやめたのだから、それこそ自由を謳歌してもバチはあたらないわけで、楽しいことしかしないと決めたはずなのに(と言っても、仕事でも「楽しいこと」しかしないという姿勢はできるかぎり守ってきたが。)いつの間にか自分で自分を苦しめている。「楽しいことしかしない」と決めたところで、実際の生活には「楽しくないこと」が山のように押し寄せてくる。それなら、なにも、自分からすすんで「楽しくない」ことなんてするべきじゃないだろう。そんなことは自明のことだ。

 そのようなわけで、怖い夢から覚めて、それでも「ああ、よかった。」とはならなかったことから、「課題エッセイ」なんてやめちゃえ、という結論が導き出されるに至ったのであった。

 これからは、「木洩れ日抄」の「通常版」で、気が向いたら書いていくつもり。何事も「気楽」がいちばんいいや。

 

 


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木洩れ日抄 101 変わった人

2023-01-29 14:03:50 | 木洩れ日抄

木洩れ日抄 101 変わった人

2023.1.29


 

 「宇野浩二全集」第12巻「随筆」には「大阪」が入っていて、その無類の面白さを前回、前々回で紹介したところであるが、その後に、「文学の三十年」という随筆も収められている。田山花袋の「東京の三十年」に触発されたということで、田山のそれも十分に面白いのだが、宇野のそれは、今ではほとんど名の知られていない文学者や、学者などの素顔が、その独特の文体で生き生きと描かれていて、これまた倦むことをしらない面白さだ。

 宇野は、しばらく、上野桜木町に居を構えるのだが、執筆に専念するために、「菊富士ホテル」に住んでいた。そのホテルとも下宿ともつかない宿は、木造3階建てで、40部屋ほどあったというから、なかなかどうしてたいしたものだ。そこの「住人」の一人増富平蔵という哲学者は(山本注:古書を検索すると、ショーペンハウエルの翻訳書がかなりヒットするが、本人の経歴などはWikipediaにもない。)、最初はごく平凡な人に見えたので、格段宇野の興味を引かなかったらしいのだが、だんだんその人が実に変わっていることが明らかになってくる。そのエピソードである。

 


 私が、初めて、菊富士ホテルに、下宿人として、越した日は或る宮様の国葬が行はれた日であった。その日の午後、私が、上野の家から車で運んだ本箱その他の荷物の始末をしてゐると、突然、二階か(いや、もつと上の)三階あたりで、カンカンといふやうに聞こえる、すこし調子はづれの、実に調子の高い三味線の音が起こつた。それは、長唄の三味線らしいけれど、何かの唄に合はして弾いてゐるのではなく、ただ三味線を鳴らしてゐるといふだけの音であった。後で知ったのであるが、この時、三味線をひいてゐたのは、三階の隅の部屋の住人、ショオペンハウエル学者、増富平蔵であった。
 恥ぢをいふと、私も、その頃、長唄のほかに、歌沢、小唄などを、三味線と一しよに、少しやりかけてゐたのであった。
 さて、増富は、そのホテルに、その頃、もう五年以上住んでゐるといふ、四十何人の下宿人の中の最古参者であった。彼は、その頃、四十歳を越してゐたが、嘗(かつ)て一度も結婚したことがない上に、一人の女をも身辺に近づけたことがないといふ事であった。私は、食堂で彼と顔を合はすやうになってからも、一週間ぐらゐ口をきかずに過ぎたが、いつとなく、三階で、私の部屋の頭の上の二階を一つ越えた三階で、午前に一度、午後に一度、夕方に一度、と、規則ただしく三味線の音を響かせる人がその増富であると知った時分に、ある日、向かうから、突然、「あなたも三味線をおやりになるやうですね、何をおやりになるのです、」と、極めて平凡な話をしかけた。おなじ食堂の中ではあるが、彼と私はかなり離れたところに腰かけてゐたので、その間に席についてゐた他の客たちが一せいに新参の私の方を見たので、私はひどく閉口した。それに、彼の声の調子が、ちやうど三味線の音と同じやうに、すこし調子はづれで、甲高いのにも閉口したのであつた。
 「ええ、別に、これといつて、……」と、私は、彼の、不仕附(ぶしつ)けと、平凡な問ひとに、いくらか軽蔑と、反惑を覚えて、わざと冷淡に答へた。
 しかし、増富は、私の素気のない返事などを少しも気にしないで、自分はやり始めてからかれこれ二年になるけれど、実に、むつかしい、面倒なものである、あなたはさうは思はないか、といふやうな話をつづけた。その話の内容は、別に変つたところがないばかりか、むしろ平凡すぎる上に、その話す声が、前にいつたやうに、甲だかくて、いくらか調子はづれであったから、食堂にゐる他の客たちはときどき笑ひを漏らし、話相手である私も、答へながら、つい吹き出しさうになった。すると、話し手の増富も、話しながら、ときどき、白い歯を出して、笑った。
 そのうちに、彼と私との、遠く離れた席からの、会話を消すほど、他の人々の話し声が盛んになったが、それでも、彼の甲だかい声だけが、他の大ぜいの人たちの声を突き抜けて、響きわたつた。さうして、やがて、彼は、喋りながら、食事をすますと、すぐ立ち上がつて、いつも彼の坐つてゐる食堂の一ばん奥の席から、人々のならんでゐる間を、さつさと通り抜けて行った。さうして、通り抜けながら、まだ終つてゐなかった話を、つづけた上に、それを、彼は、食堂を出て、一階へ上がる階段を踏みながら、まだ止めなかった。しかも、その間、彼は、誰にも会釈をしないのは勿論、一度も振り向かず、話しつづけながら、歩きつづけた。それを此方(こっち)から見てゐると、一階に上がる階段に上がつて行く彼の足が見えなくなるまで、彼の話し声は聞こえた。さうして、彼の姿がまったく消えてしまふと、後に残ってゐた人たちは、顔を見合はし、暫くしてから、やうやく、誰かが、「変つてゐますね。あの人は、」といふと、皆はどつと笑った。
 それから、増富が如何に変つてゐるかといふ話や噂がいろいろ出た。──

 

(山本注:この引用部分だけでは分からないが、食堂は地下室にあり、このホテルの住人はみなこの食堂で食べなければならないという規則があったということが、前の部分に書かれている。)

 


 増富の話す内容は平凡きわまりないが、その「話し方」が尋常じゃない。

 間に何人も座っているのに、その頭越しに話しかけてくるというのも驚くが、「喋りながら、食事をすま」して、食事がすんで、立ち上がってもしゃべり続け、部屋を出てからもしゃべり続けるなんて、ちょっと考えられない。その話の内容が、三味線はどうもむずかしい、ということで、その先その話題がどう展開していったのか見当も付かないが、そんなに夢中になって話したくなるような内容であるとはとうてい思えない。

 しかしまあ、自分の話に夢中になると、周囲のことがいっさい目にも耳にも入らないという状態になるのだろう。「病気」といってしまえばそれまでだが、「病気」で片付けず、「変わってるなあ」という感想だけで、その人をずっと見ている(あるいは聞いている)多くの客たちも面白いが、増富の「足」が「一階へ上がる階段を踏みながら、まだ止めなかった。」と書き、その数秒後としか思えないのに、ご丁寧に、「一階に上がる階段に上がつて行く彼の足が見えなくなるまで」と書き続ける宇野もそれ以上に面白い。増富も「変わっている」が、宇野もそうとう「変わっている」ことは間違いない。

 宇野の書き方の独特さは、とにかく正確を期すというのか、書かなくていいことまで書くというのか、たとえば、菊富士ホテルへの道順をこんなふうに書く。


 菊富士ホテルは、本郷三丁目から、帝国大学の方にむかつて、家敷でいへば、十軒ほど行った角(前に燕楽軒といふ西洋料理店のあった角)を左にまがつて、だらだら坂になった道を二三町行ったところで、右に曲る、女子美術学校に行く細い坂道をのぼり、その女子美術学校の前を、左に、更に細い道を十間ほど行って、突き当たった所にある。さうして、菊富士ホテルは、この廻りくどい文章のやうに、廻りくどい道を行った横町に、あるところ、さういふ狭い細い町の中にありながら、新館と旧館に分かれ、全体が洋風で、しかも旧館の入り口は古風な洋風の観があり、間敷が四十ちかくある上に、裏から見れば、本郷台の南の端の、崖の角の上に建てられてあるところ、その他、色々、風変りなところがあった。

 


 「この廻りくどい文章のやうに、廻りくどい道を行った横町」には、思わず吹き出してしまう。

 これを「廻りくどくない」文章にすれば、「菊富士ホテルは、本郷三丁目から、坂道をのぼっていった突き当たりにある。全体に洋風で、新館と旧館に分かれていたが、色々風変わりなところがあった。」といったところだろうか。情報量は減るが、すっきり読みやすくなる。しかし、宇野は、わざとゴチャゴチャ「廻りくどく」書いて、その菊富士ホテルの周辺のゴチャゴチャ感を出しているのだろう。それは、菊富士ホテルそのもののゴチャゴチャ感にも通じ、さらには、そこに集まってくる文学者や芸術家、学者たちのゴチャゴチャ感を導き出しているともいえるわけである。

 この菊富士ホテルには、近代文学史を賑わせるさまざまな文学者たちが現れる。そのさまは圧巻で、宇野は名前を列挙してくれている。

 

 私がこの菊富士ホテルにゐたのは、大正十二年から昭和三年まで、六年ほどであるが、その前に、文芸に闊係のある人では、私の知る限りでは、正宗白鳥、谷崎潤一郎、竹久夢二、大杉栄、尾崎士郎、宇野千代、その他、私のゐた間は、三宅周太郎、高田保、増富平蔵、石川淳、田中純、廣津和郎、直木三十五、福本和夫、三木清、その他、私が去つてからは、石割松太郎、前田河廣一郎、中條百合子、その他、この倍以上もあるであらう。

 

 今はもう高校の国語で文学史の授業をまじめにやったりはしないだろうが、ぼくらのころは、こうした名前の半分ぐらいは、授業とはいかないまでも文学史の副教材で知ったものだ。あるいは、家にあった文学全集で目にしただけの名前もある。目にしたことのないのは、上の一覧でいえば、高田保、増富平蔵、田中純、石割松太郎だけだ。だからといって、知ってる人のものを全部読んだわけではないが、知ってるだけでも、たいしたものだと、思う。なにがどう「たいした」ものなのかは知らないが。

 今の日本の文学界がどのような状況にあるのかはよく分からないが、この時代というのは、何だか混沌としていて、メチャクチャで、情熱にあふれていたようにみえる。文学というものも、こういう時代の雰囲気のなかで生まれて来たのだということは忘れたくないものだ。

 ところで、ここに紹介した文章は「文学の三十年」の中の、「七」にあたるが(全集2段組で10ページほどの分量で結構長い)、その末尾は、こんなふうに締めくくられている。

 

 ところで、先きに、誰かが、「あそこ」といったのは、荒川の流れを座敷の縁側から見おろす、風流な料理店であった。そこに著いた時は、誰も彼も、ほつとした。ここで、このだらしない一節を、へとへとになって、読みつづけた人(があつたら)も、ほつとしたであらう。さうして、このだらしない一節を、悪文のために、へとへとになって、書きつづけた私も、ほつとした。そこで、この次ぎは、出来れば、話も、筆法も、少し変へてみるつもりである。


 ぼくも、ほっとした。


 しかし最後に「出来れば、話も、筆法も、少し変へてみるつもりである。」とあるからには、宇野は、どんな話も、筆法も自由自在だったのだろう。やっぱり天才である。

 数年前のことだが、気鋭の芥川龍之介研究者と飲んでいたとき、芥川より宇野浩二のほうがよっぽど天才だったし、生きてる当時は宇野のほうがずっと人気があったんだと教えてくれた。ただ、芥川は「羅生門」や「トロッコ」などが国語の教科書に載り続けたために、こんなに国民的な作家になったけれど、宇野の作品は教科書には載りませんからねえ、と言っていたような気がする。たしかに、宇野浩二の文学は、教科書向きではない。まあ、どんな文学が「教科書向き」なのかは、それはそれでまた別の問題なのだが。

 

 

 

 


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